生者のたわごと
| 姉ちゃんが死んだ。 夕島珠樹とって、それは人並みに悲しいことではあり、人並みに衝撃的なことではあり、 ――そして、人並み以上に、日常に変化をもたらす出来事だった。 夕島澪――それが、姉ちゃんの名前。 ボクと違って頭が良くて、地元で一番レベルが高い高校を好成績で卒業して、地元で一番有名な大学へ進学した姉ちゃん。 誰にだって好かれてた。誰にだって頼られてた。強くて、優しくて、笑った顔が何より綺麗だった。 だけど。 その姉ちゃんは、今はもういない。 享年十九歳。 美人で頭も良くて運動だってできて、その上誰にでも優しかった姉ちゃんは、通り魔か何かに襲われてたった十九歳で死んでしまった。 真夜中の一時。どうして姉ちゃんがそんな時間に外にいたのか。お父さんもお母さんも、ボクにだって心当たりはなかった。 今日は姉ちゃんのお通夜だ。 どんより曇った空から、細かい雨がぽつぽつと降ってきている。 空の上で誰かが泣いているみたいだった。 「君」 背後からそう呼びかけられたとき、珠樹は縁側に座って庭を眺めていた。思い出すのは、ここで姉と二人遊んでいたこと。小さい頃、冬に大雪が降って一面真っ白になったことがある。当時の珠樹は六歳。だから三つ違いだった姉の澪は九歳。二人で作った雪だるまが、ぶつけあった雪玉が、脳裏に鮮明に蘇ってくる。 二人だけで雪合戦やって、結局一個も姉ちゃんには当てられなかったっけ――そんなことを思いながら振り返る。 「……はい?」 最初に目に入ったのは、艶やかな長い黒髪だった。 思わず、心の中で「うわぁ」と声をあげた。 どこか艶のある切れ長の瞳。悪戯っぽい笑みを浮かべている口元。肌は雪のように白く、細い指は握れば折れてしまいそうなほどに繊細だった。それなのに、華奢という雰囲気はない。背が高くすらっとしていて、どちらかというと鋭い感じがする。 現実離れしているほどの美人が、隣に腰を下ろしてきていた。 「君の話は澪に何度も聞かされていたよ。一度会ってみたいと思っていたんだ」 親しげにそう言ってくる女性だが、珠樹の方には彼女の顔に全く覚えがなかった。 こんな綺麗な人が親戚にいただろうか。珠樹は考えを巡らせるが、しかし思い浮かぶのは正月に会う従兄弟たちの顔ばかり。叔父さん叔母さんでさえまともに思い出せないのに、口振りから察するにおそらくは正月にすら会ったことがないであろうこの女の人を思い出すことなど不可能だった。 「えっと、あの……」 「ああ、すまない。君は私のことを知らないのだったね。私は澪の……お姉さんの友人だ。彼女には大変世話になっていて、それで一言お別れを――と、その前に君は珠樹君だよね? 澪の妹の」 「はい、そうです……けど」 男の人みたいな喋り方をする。 だが、普通に考えれば違和感を覚えるはずのその喋り方も、彼女にかかると実に自然に聞こえるから不思議なものだった。綺麗な人は何をやっても映えるらしい。その点、自分などは一人称が『ボク』なのでよく友人からからかわれ、ことあるごとに両親から直せ直せと叱られる。 不公平なものだと、僻みを込めてそう思う。 「珠樹君?」 自分のことをボクと呼ぶ女の子など滅多にいないから、むしろ直さないでそのまま通してはどうか。肯定的なその意見を出してくれたのは姉だけだった。 姉はいつも自分を守り、庇ってくれた。まるでそれが義務だとでも言わんばかりに。 「……っ」 いけない。 思い出したらまた涙が溢れてきそうになってきた。胸の奥が締め付けられるように苦しくなり、目頭が段々熱くなってくる。どうしようもなく視界が潤む。 珠樹は思わず顔を伏せた。 泣いている姿を、人に見られたくなかった。 だが、結果的にその仕草が、珠樹の状態を姉の友人と名乗る女性に伝えてしまったようだった。慌てたように肩を抱いて、申し訳なさそうに言ってきた。 「ああ、ごめんよ。そんなつもりじゃなかったんだ。そうだね、君だって辛いのだもの。謝るよ、無神経だった」 謝らなくていい。あなたが悪いわけじゃない。 そう言おうとしたが、嗚咽が漏れそうで声が出せなかった。 肩に置かれた女性の手。その手つきはあまりに優しく、そのせいで涙が更にこみ上げてくる。恥ずかしくて申し訳ない。「ありがとう」や「ごめんなさい」を言いたいのに、口から漏れるのは言葉にならない呻き声ばかりだ。 「泣きたいときには泣くといい」 寄り添うようにして肩を抱きながら、女性がそう囁いてきた。 「君はまだ生きている。それはつまり、涙を拭って歩き出さなければならないときがいずれ来るということだ。そのときのために、今は思いっきり泣いておきなさい。いつか歩き出すときに、涙で前が見えないなんてことがないように」 灼熱のような頭に入ってきたその言葉は、どこかで聞き覚えのあるものだった。 ひょっとして前に会ったことがあっただろうか。そう思って女性の顔を見ると、彼女は小さく微笑んで、 「お姉さんからの受け売りだ。普通は恥ずかしくてとても言えたものではないこういう台詞も、彼女は思うままにすらすらと口にしていたよ」 そうだ。思い出した。 一年前。飼っていたハムスターが死んでしまったときだった。珠樹が部屋で泣いていたときに、やって来た姉が同じことを言ったのだ。 たかがペットが死んだくらいで。そんなことは一言も言わず、今の女性のように肩を抱いて、耳元で小さく囁いて。 思い出せばキリがなかった。 自分の中の大切な何かが欠け落ちてしまったような、そんな途方もない消失感だけがあった。 「……君に少し話しておきたいことがあったんだが」 わずかに息を吐いて、女性がそう言った。 「……?」 「今の君にはおそらく耐えられないだろう。お姉さんの話なのだけれどね。私は彼女と一番仲が良かったから、その……彼女のしてきたことは大体見てきた。そのことについて、君に話しておきたいことがあったんだよ」 ――姉のしてきたこと。その言葉に、珠樹はわずかに頭をもたげる。 ごく普通の大学生だと誰もが思っていた姉は、けれど何度か、珠樹にこう漏らしたことがあったのだ。 ――学生と兼業だと、けっこうつらいんだよねぇ。 ――こんなんで就職したときやってけるのかね、わたしは。 ――ひょっとしたら、アンタに後を継いでもらうかも……ね。 まさか人手が少ないらしいアルバイト先のコンビニの話をしていたわけではなかっただろう。他の何か、珠樹も両親も誰も知らないようなことを、姉は密かにやっていたのだ。一体何をやっているのか。そう問いただしてみても、姉はへらへら笑って流すばかりで決して口を割らなかった。 何をやっていたのか、それを知る人が目の前にいる。 気にならないわけがなかった。 「……て」 「うん?」 「聞かせて……ください。姉は……姉ちゃんは、一体何を――」 珠樹の言葉に、女性は首を振る。 「また今度にしよう。今の君には少々重い話だ」 肩から手が離れていく。寄り添っていた女性が立ち上がろうとする。その服の裾を掴んで、珠樹は懇願した。空いている手で涙を拭う。 今を逃せば、次はない。 何の根拠もなく、ただそう感じた。 「姉ちゃんは、なにをやってたの?」 より強い口調で、そう問う。 立ち上がりかけた体勢のまま、女性はしばし珠樹をじっと見下ろしてきた。先ほどのような微笑みではなく、しかし、無理を押して亡き姉のことを知ろうとする妹を哀れむような視線でもない。 観察。 なぜか、そんな言葉が頭に思い浮かんだ。 「教えてください。姉ちゃんはなにをやってたんですか?」 「……珠樹」 女性は再び珠樹の傍に膝をつき、今度は両手でしっかりと抱きしめてきた。 柔らかい。それにいい匂いがする。思わず目を閉じた。 頭がなんだか朦朧とする。 「そんなに慌てなくとも、近いうちに教えに来る」 背中を優しく撫でられ、そのたびに珠樹の意識が急速に薄れていく。なんだろう。さっきまでとは喋り方が少し違う気がする。今この人、ボクのことを呼び捨てにしなかったっけ? 「今は休みなさい」 女性の声は硬く、強く、しかし包み込むように温かい。 「今の君に必要なのは、真実ではなく休養だ」 途方もなく、眠い。 |
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