生者のたわごと

 

 目覚まし時計の音が鳴る。小学校卒業の折に贈られた黒色の時計は未だに現役で活躍中で、毎朝六時に強烈なベルの音で珠樹の脳みそを揺さぶろうとする。

「んぅぅ……」

 寝言とも唸り声ともつかない声を上げながら、毛布に包まった珠樹は手だけ伸ばして枕元の目覚まし時計を探った。脳天を一発叩けばベルの音は止む。木彫りの熊、スタンドライト、枕元に置いてある雑多な物を珠樹は端から触っていき、目指す時計に少しずつ近づいていく。

 手がスイッチに触れた。

 カチ、という音とともに、目覚まし時計が機能を停止させた。

 珠樹は手を引っ込め、毛布を引き寄せて更なる眠りに落ちようとする。

 予想されるパターンはこのまま寝過ごし、目覚めたときには家を出るべき時間を大幅に過ぎてしまっていて、その後慌てて食パンをくわえて学校までの道をひた走るというものだ。が、仮にも珠樹は十六歳である。そこまでアホなことは月に数回しかやらかさない。

 目覚まし時計が仕事を終えてからきっかり一分後。机の上に置いてある携帯電話が、突如としてやかましい音を立てた。

 某バンドグループのヒット曲が、部屋中に響き渡る。

「……んぅ」

 手を伸ばしても今度はさすがに届かない。昨夜のうちにセットしておいた携帯電話の目覚まし機能は、立ち上がって歩いて止めに行かない限りやかましい音を止めることは決してない。

 が、今朝の彼女の眠気はかなりしつこいものであるらしかった。音を止めに行こうともせず、珠樹は毛布に顔までうずめて音を少しでも遮蔽しようと試みる。

 一分が過ぎた。

 携帯電話の音が止まる。

 眉をしかめていた珠樹の表情が安らかなものに変わった。良く言えば幸せそうな、悪く言えば間抜けな寝顔。天使というには少々庶民的に過ぎるが、元々それなりに整った顔立ちである。十分に可愛らしいものがあった。このままゆっくり寝かせておいてあげたいと、この寝顔を見た大抵の人間はそう思うだろう。

 が。そうは問屋が、時間が、現代日本に生きる学生としての立場が許してくれない。昨夜の珠樹は今朝の珠樹の心情も状況も考えることなく……というよりむしろ考えたからこそ、ある一つの仕掛けを寝る前に残しておいたのだ。

 音が止まってから一分後。

 役目を終えたはずの携帯電話が再び息を吹き返した。先ほどと同じ音楽が、同じ音量で響き渡る。

 スヌーズ設定一分。

 止めない限り同じ音楽が一分ごとに鳴り続ける、恐怖の無限ループである。

「んんぅ……んー……?」

 さすがに眉をしかめ、手探りで珠樹は枕元を探った。そんなところに携帯電話は置いていない。枕元に置いたりしたら、アラーム機能をオフにしてそれから寝てしまうに違いない。昨夜の珠樹はそう考え、そしてそれは的中したようだった。完全に寝ぼけた今の珠樹は、それくらいやりかねない。

 小柄な身体に相応の小さな手が、先ほど止めた目覚まし時計に触れる。

 何を思ったか、珠樹は一度止めたはずのスイッチを再び押し、

ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリと、目覚まし時計が牙を剥いた。

「……うんうぅ!? うひ、え、はえ?」

 予想しなかった不意打ち。さすがに眠気は吹き飛んだらしく、珠樹は文字通り飛び起きた。真っ先に飛びついたのは枕元にある目覚まし時計。ひっくり返してなぜか電池を外そうとし、しかしネジで留めてあるために蓋が開かない。時計を振ったり揺すったりしながら、挙句には何を思ったか毛布の中に突っ込んだ。ベルの音が小さくなる。

 ほっと一息ついた後、珠樹は思い出したように時計の脳天をそっと押した。

 ベルの音が止まった。

 それと同時に、携帯電話の音楽もまた止まった。

 次に鳴るのは一分後。

 だが、ここで寝直して次の音楽のお世話になるほど、珠樹の頭に眠気は残っていなかった。小さく息を吐く。目覚まし時計を枕元に戻し、机に歩み寄って携帯電話を手に取った。アラーム設定をオフにする。

「今日も寒いなぁ……」

 一人でそんなことを呟きながら、椅子にかけてあった半纏を羽織った。前の紐を縛ってから、小さく微笑んで、

「おはよ、姉ちゃん」

 姉の遺品は全て処分したか、整理して姉の部屋にしまってある。

 この半纏は、去年の誕生日に姉に買ってもらったものだ。年頃の女の子が欲しがる誕生日プレゼントがよりにもよって半纏か。そんなことを姉はぐちぐち言っていたが、何だかんだで実用的なこの品を、珠樹はずっと愛用している。

 今では、姉の形見といってもいい。

 珠樹の姉、夕島澪が十九歳でこの世を去ってから、早や一週間以上が過ぎていた。

 

 時間は常に流れている。肉親の死さえも、過ぎ去ってしまえば過去の出来事だ。

 姉を失った珠樹にしてもその事情は同じで、全てが終わった後で姉の墓の前で夜になるまで呆けていたのは、もう先週の水曜日のことだ。

 家に帰って誰もいない姉の部屋を覗いた途端、目から涙が溢れて止まらなくなった。それを理由に木、金と学校を休んで、土曜と日曜を挟んで今日は月曜日である。

 珠樹自身は一日も休めば大丈夫だと思ったのだが、両親が学校に連絡してもう一日無理やり休ませた。通夜の際に珠樹が妙な言動と行動を見せたため、今や一人となってしまった大事な娘の頭……もとい身体を心配したのだ。

 通夜の出来事。

 それこそ幽霊にでも化かされたかのような、不思議な出来事。皆に夢だ幻だと言い聞かせられているうちに、そうだったのかもと今は珠樹自身も思いかけている。

 だが、夢だと思うにはあまりにも――

「たま。そろそろ時間大丈夫?」

 朝食の席。母親からのそんな言葉で、珠樹の意識は現実に引き戻された。

 猫みたいだからやめてくれと数年前から懇願しているにも関わらず、母は珠樹のことをたまと呼ぶ。あらだって可愛いじゃない猫。抗議のたびに母はそう言ってのらりくらりと身をかわす。可愛いとかそういう問題じゃなくて自分が言っているのは人間としての尊厳というか立場というか。普段は滅多に使わない難しい言葉を駆使して呼び名の変更を迫るものの、未だ改善されていないのは先刻の台詞を聞いての通りだ。

「んー」

 食パンの最後の一切れをもそもそ咀嚼しながら、紅茶をゆっくりとすする。確かにそろそろ出ないとゆっくり学校に向かえない。だが、家の中にいたって寒いのだからおそらく外はもっと寒いのだろう。出来る限りゆっくりしたいというのが本音であり、だから冷めた紅茶をわざとゆっくり口に運んでいる。

 ちなみに父は、とっくに家を出ている。珠樹と同じ時間に出ても十分間に合うにも関わらず、父の出勤時間は早い。この寒い中ご苦労様なことだと思う。

 珠樹の態度をどう勘違いしたのか、母は心配そうに頬に手を当てて首を傾げた。

「ねえ、大丈夫? やっぱりまだ何日か休めば?」

「大丈夫だよ」

 でも、と言葉を続けようとする母を遮るように、紅茶とパンの欠片を一気に喉の奥に流し込んだ。椅子の下に置いてあった鞄を手に取り、背もたれにかけてあったコートとマフラーを装着する。

「行ってくるね」

「……。無理だったら帰ってくるのよ」

 姉がいなくなってから一週間。元々過保護の気はあったが、最近はそれに拍車がかかっているような気がする。門限は七時から六時に変更され、帰宅時間が少しでも遅れる場合は必ず電話を入れるよう義務付けられた。

 心配なのは分かるが、辟易する面がないでもない。

「行ってきまーす」

 玄関口から家の奥に声をかけて、扉を開いた。流れ込んでくる冷たい空気が肌を刺す。思わず眉をしかめて、顔をマフラーに深くうずめる。

 と、

「お」

 聞きなれた声が、門の向こうから聞こえていた。

 見れば、見覚えのある少年が顔だけこちらに向けて、寒そうに身体を縮めていた。珠樹と同じくマフラーに顔を深くうずめて、手袋を履いている手を更にポケットに突っ込んで、元々細く悪い目つきをわずかに見開いている。

 霧崎鈴人。向かいの家に住む、同い年の幼馴染である。

 高校が同じなので、自然に家を出る時間も同じになることが多くなるのだ。

「あ、鈴人くん。おはよ」

「おう。もういいのか?」

 この問いはもちろん、木曜日と金曜日を休んでしまったことに対する気遣いなのだろう。珠樹は小さく頷きながら、敷石を駆けて彼の隣に並んで歩く。

「もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」

「脳みそ腐ったりしてないか?」

 唐突。あまりにも自然な口調で、鈴人はそう問うてきた。

 思わず「うん、平気だよ」と答えそうになる。が、その言葉の意味を理解して口を開いたまま珠樹は固まる。

「……鈴人くん? 今なんて言ったの?」

「腐ってるのかって聞いた。腐ってるか?」

「……。腐ってないよ」

「耳から生温かい液体が出てきたりは?」

「……」

「起きたら窓が勝手に開いてたとかそういうのは?」

「……鈴人くん」

「なんだ」

「何なの」

 言いたいことがあるなら相手になるぞ。そんな思いを視線に込めて見上げれば、鈴人は白い息を吐き出しながらちらりと横目で見下ろしてきた。頭一つ分以上背丈が違うので、まともに並んでいたのでは向き合うことができないのだ。

 だが、そんな身長差に臆することなく、珠樹は言う。

「どっちかっていうと、鈴人くんの頭の方が腐ってるよ」

「心外だな、おい」

 大袈裟に肩をすくめた鈴人に、更に追撃。

「いきなり脳みそ腐ってないかなんて言われたボクの方が、よっぽど心外だよ」

「……。それもそうか。悪い」

「うん」

 意外にも、鈴人は素直に謝ってきた。あっさりとした態度に疑問を感じつつ、しかし幼馴染の意外な一面に珠樹はわずかに感心する。こんな部分もあったんだ、と。

 それが間違いだった。微笑んだ珠樹に向かって、鈴人はこう続けてきた。

「元々腐ってるもんな。これ以上腐りようがないもんな」

 ……。これが彼なりの慰め方だというのは、分かる。

 分かるが、それがありがたいかどうかはまた別の話だった。

「……っ! さっきからなに! ボクをバカにしてそんなに楽しい!?

「それなりに」

 これが笑みを浮かべての台詞ならまだしも、あくまで無表情なところがたまらなく腹が立つ。鈴人の顔面にぐーを入れる。と思ったら、鈴人は上体を逸らしてひょい、と避けた。鞄を振り回して更に追撃するが、鈴人はまるでどこかの格闘漫画の主人公のように軽々と避けていく。

「〜〜〜! バカにするなぁ!」

 彼が空手や剣道の上級者なのかというと、全くそんなことはない。彼の格闘技の経験は体育の授業でやった数時間の柔道のみのはずだ。鈴人は特別武道に精通しているわけではない。ということは、避けられる原因は珠樹の側にある。

 その証拠に、

「危ねーだろ。いつまでも暴れてんな」

 実にあっさりと、鞄を振り回していた腕を掴まれた。呆れたようなため息が頭上から降りてくる。決まり悪く「う〜……」と唸っていると、

「お前が会ったっていう人」

 鈴人は突然、そう尋ねてきた。

「え?」

「澪姉さんの友達っつー意味不明な女。それっきり見てないのか?」

 そう言われても、いきなり話が飛んで何のことだか分からない。

 困惑する珠樹の心中を察したのか、鈴人はため息混じりに助け舟を出してきた。

「通夜の」

「通夜……あ、ああ。う、うん。見てないよ」

「……。ならいい」

 頷いて珠樹の腕を放し、鈴人は一人ですたすたと歩き出す。どこか違和感のあるその態度に首を傾げ、珠樹は慌てて彼の後を追う。

「ね」

「なんだよ」

「でも、ほんとにいたんだよ、女の人」

 ちょっとした笑い話のつもりで、そう言った。

 だが、

「……珠樹」

 鈴人が立ち止まって目を見据えてくる。あ、やばい。墓穴掘ったかも。そんなことを思う。鈴人の目は本気で細められており、かすかな憤りの色すら見えた。

 完全に不機嫌そうな声で、言ってくる。

「……。俺以外の誰にも、そのことは言うなよ。本気で頭を疑われるぞ」

「は、はい……」

 逆らってはいけない。そんな思いに駆られてコクコクと頷いた。鈴人はくるりと背を向けて、「行くぞ」と実にぶっきらぼうにそう言う。

「あ、待ってよ」

 鈴人の背中を追いかけながら、ふと珠樹は思う。

 今のやりとりで、そんな人は夢の中の人間だ、と言われなかった。

 言われたのと同じような意味ではあるが、それでも言われなかった。

 夢でも見たんだろと、最初にそう言ったのは確か鈴人のはずなのに。

 幼馴染の微妙な変化に、珠樹は首を傾げる。

 

 姉に友達がいなかったわけではない。少なくとも大学の人の話ではそうだ。

 同じ年頃の人間が大勢集まる場所に在籍しているのである。家に引きこもって一年中自主勉強でもしていない限りは、友達の一人くらいなら何もしなくてもできるものだ。

 けれど、姉と一番仲が良かったというあの女性のことを知っている人間は、姉の友人には一人もいなかった。

 通夜の行われた日。姉の友達だと言っていた女性と話した後。縁側で死んだように眠る珠樹を最初に見つけたのは鈴人だったらしい。揺さぶっても声をかけても全く目を覚まさず、さりとて苦しんだりしている風でもなく、ただ昏々と眠り続けていたそうだ。

 精神的なショックが大きかった。そんな理由がつけられて、その日はそのまま二階にある自室のベッドに運ばれた。

 翌日の葬式の最中に珠樹はあの女性の姿を探したが、見つけることはできなかった。葬式には参列しなかったのだろうか。そう思って母に尋ねてみた。昨夜の通夜には来ていた、姉の友達の綺麗な女性を知らないか、と。

――たま、何言ってるの?

 それが答えだった。

 そんな女性は、通夜には来てはいなかったという。

 だったら、自分と話した彼女は誰だったのか。親戚や知り合いに片端から尋ねて回った。昨夜来ていた、縁側で自分と話をしていた女性。すごく綺麗な人だったからきっと誰かが覚えているはず。そう思った。

 誰一人として、そんな女性は見ていなかった。

 珠樹と彼女が話している姿さえも、見た者は一人もいなかった。

 近いうちに必ず君の前に現れる。あの女性はそう言ったが、それを待つ気にはとてもなれなかった。告別式が終わり、帰ろうとしていた他の姉の友人を捕まえて問いただした。容姿を出来るだけ詳しく伝えて、どこに行けば彼女に会えるのか尋ねた。

 茶色に染めた髪をセミロングにしたその人は、訝しげにこう言った。

 自分もそれなりに仲が良かったけれど、そんな人は見たこともない。勘違いじゃないの?

 そんなわけあるか、と思った。あの女性は確かに言ったのだ。私は君のお姉さんの友達で、彼女と一番仲が良かった、と。

 しかし、彼女の言葉が正しいのなら、あの女性は友人でも何でもないということになる。

 普通に考えれば、故人の話をしながら寄って来る怪しい人間だ。身元もはっきりしないし、どこの誰だったのか誰も知らない。周りの人間は夢でも見たんだろうと言う。

 だが、珠樹は思うのだ。彼女は怪しい人間でもなければ、夢の中だけの人間でもないと。

 なぜなら、彼女は口にした。

 姉の言っていた言葉を。姉と接し、付き合っていた人間しか知らない言葉を。

 もう一週間近くなる。彼女からの連絡は未だ来ない。

 一体、彼女はどこの誰だったのだろう。

 

 担任からは「大変だったな」と一言。友達は前もって打ち合わせでもしていたのか、全く何も知りませんとでも言うようにいつもと同じように振舞っていた。確かに姉のことを思い出すのは悲しいが、いつまでもそれを引きずって泣き喚くほど子供でもない。変に気を遣わなくてもいいのにと思ったが、友達のせっかくの気遣いである。ありがたく受け取っておいた。

 何も変化のない学校、教室。つくづく思い知る『日常』の強さ。クラスメイトの肉親が死んだくらいでは、『日常』というものは微塵も揺るぎはしないのだ。復帰してみれば、そこにはいつも通り教室の風景があるばかりだった。

 気が紛れるから、むしろその方がありがたい気もした。

 

 休んでいた二日分のノートを見せてもらったりしていたら、あっという間に昼休みである。珠樹の昼食は購買のサンドイッチとコーヒーだ。小さなビニール袋に両者を詰め込んで、寒い廊下を駆け足で教室へ戻る。

 と、

「……?」

 目の端を何かが横切った。

 ここが学校であるからには、周囲が無限の荒野などという状況はありえない。目の端を横切る何かなど無数に存在するだろうし、普段の珠樹なら気にせず無視するだろう。

 だが、今日に限っては足を止めて窓の外を見やった。前を歩いていた友達二人は珠樹に気づくことなく先へ行ってしまうが、それに構うことなく珠樹は窓の外を凝視する。

 何かが見えた。

 向かい側にあるのは国際科の棟である。普通科しかなかったこの学校が数年前に新たに開いた門戸で、実は鈴人が在籍している場所であり、今年の三年生は記念すべき国際科卒業生の第一号だ。真新しいペンキの色が、普通科の棟との年齢差を如実に表している。

 そんなことはどうでもいい。

 国際科の棟の上。解放されているものの、真冬は誰の姿もない屋上。

 手すりの向こうに、あの女性がいた。

 真っ直ぐにこちらを見据えて、小さく手を振ってきていた。

――はい?

 思わず、珠樹の頭が白くなった。

 なぜ? どうして今、ここで、そんなところに貴方がいる?

「おーい、おたまー。どしたのー?」

 友達のその声で、意識が引き戻された。

 家での呼び名が『たま』なら、ここでの呼び名は『おたま』なのだ。

「あ……」

 友達と屋上とを交互に見比べる。どちらを優先すべきか迷っていると、不意に女性が手招きしてきた。

 全てを話そう。その言葉が脳裏に蘇る。

 彼女は、約束を果たしに来たのだ。

 迷いは数秒。決断は一瞬だった。

「ごめん、ちょっと用事できたー!」

 廊下の奥にそう叫んで、珠樹は国際科の棟へ足を向ける。下駄箱を抜け、渡り廊下を駆けて壁の白さが真新しい隣の棟へと飛び込む。入り口近くの階段を駆け上がろうとして、ふと重大なことに気づいて足を止めた。

 どうやって屋上に上がるのか分からない。

 日差しが嫌いな珠樹は、夏場でも屋上に上がることなどなかった。さっきまで一緒にいた二人なら知っているに違いないだろうが、今から引き返して聞きに行くのはいかにも間抜けである。

 というわけで、屋上の前に目指すのは国際科一年B組。鈴人がいるクラスである。

 一年の教室なら一階にあるだろう。そう思っていたら案の定だった。ほどなく見つけた教室の後ろの扉に手をかけて、力を込めて一気に開け放つ。

 新しいだけあって、扉は非常に軽かった。

 叩きつけた衝撃で、物凄い音が廊下に響いた。一斉に静まりかえる一階。周囲から冷たい視線が突き刺さる。

 ただでさえ余所者のここでこの状況は、非常に心臓に悪かった。

「……えと、あの」

 教室の中を一通り見てみるが、鈴人の姿はどこにもない。そんなバカな。教室を間違えたりはしていないはず。トイレ? 何と間の悪い。

「あの、す、鈴人くんは……」

「何か用か?」

 背後から聞こえた即答の言葉に、心臓が喉から飛び出した。

 慌てて振り返れば、鈴人が友達らしい少年と一緒にそこに立っていた。

「す、す、鈴人くん!?

「なんだよ」

「え、えと、あの、いい天気だね!?

「曇りだけどな。で、何だ?」

「なに? この子お前の彼女?」という横からの冷やかしの声をきっぱりと無視して、鈴人は淡々と聞いてくる。あまりにも落ち着き払ったその態度に、珠樹の心臓と頭も少しずつ冷静になってきた。

「あのね、鈴人くん」

「ああ」

「屋上ってどうやって上がるの?」

 鈴人は一瞬呆けたように珠樹を見つめ、やがて眉をひそめながら、

「なあ、珠樹」

「ん?」

「今は何月だ?」

「二月」

「屋上は?」

「二月」

「じゃなくて、暖かいか?」

「寒いと思うけど、暖かいの?」

「寒いとも。めちゃくちゃ寒いだろうさ。そのめちゃくちゃ寒い屋上にわざわざ上がろうっていうお前は本当に正気なのか心配で仕方ないんだが、どうだ?」

 たかが屋上に上がるくらいで、どうして正気を疑われなければいけないのか。眉をひそめながら頷く。

「正気だよ。ちょっと用事があるから行くだけだよ。どうやって上がるの?」

「……。どうやっても何も、階段をずっと上がって行けば屋上だ」

 ありがと、と早口に告げて、珠樹は鈴人の横をすり抜けて駆け出した。後ろで鈴人が何か言ったような気がしたが、振り返って聞き直す気にはなれなかった。

 国際科の棟は四階まである。

 二階までは全力で駆け上がるが、三階に上がる頃には足がだるくなっていた。歩くよりはマシといった程度の速さで階段を上がっていく。四階に着く。膝に手をついて、珠樹は更に上の屋上を目指す。

 屋上の扉に手をかける頃には息が上がり、鼓動はまた早くなっていた。

 ドアノブを回し、重たい鉄の扉を開けて――

「……」

 屋上は、寒かった。

 扉を開けた状態から一歩も前へ出られない。出ようという気すらしない。こんな寒い場所に好んで出たがる人間が目の前にいたら、まず正気を疑う。それほどの寒さだった。

 階段を駆け上がった程度では身体が温まるはずもない。吹きすさぶ冷たい風に、マフラーとコートを持って来なかったことを本気で後悔した。

 だが、今は寒さに震えている場合ではない。そう思って顔を上げる。先ほど女性がいた場所には既に人の姿はない。

 それどころか、周囲のどこを見回しても、屋上のどこにも人の姿など見当たらなかった。

「……?」

 震えながら首を傾げる。まさかもう帰ってしまったのだろうか。いやしかし手招きしてきたのはあの女性の方であり、自分はそれに応えただけのことであり、ここで帰ってしまうのはあまりにも無責任というか酷い行為なのではあるまいか。

 それとも、部外者がこんなところで何をやっているのだと、先生に見つかってつまみ出されてしまったのか。

 この数分の間に? 疑問には思うが、しかし現実に女性の姿はここにはないのだ。

 どうしよう。職員室へ行けば会えるだろうか。いつまでもこんな寒いところにいる気にはとてもなれない。せめて階段の踊り場にいたい。

 どうするべきか。

 思案しながら珠樹は、ふと購買で買ったパンとコーヒーの入ったビニール袋を未だに持っていることを思い出した。お腹も空いたし昼休みも残り少ないし、できれば早くこれを食べたい。そう思いながら、屋上を尚も見回す。諦めが悪いと自分で思う。身を隠す場所などないこの屋上、女性がいないのは分かりきっているのに、なかなか戻る決心がつかない。

 と、

 不意に、ビニール袋が引っ張られる感触。

 ハっとして振り返る。が、そこにはやはり誰もいない。気のせいだろうか。そう思って前を向こうとして、

「むぅ……。すっかり冷めてしまっているが、それでも温かいな。生き返るよ」

 頭上からそんな声がした。

 今度こそ、珠樹は弾かれたように顔を上に向けた。

 見上げる先、屋上の扉の上に腰掛けるようにして、あの女性が珠樹のコーヒーをぐびぐび飲みながらニッと笑いかけてきた。

「久しぶりだね、珠樹君」

 そう言う女性の隣には、誰だろう。見知らぬ少女が同じように腰掛けている。制服からしてこの学校の生徒ではない。

 明るい感じがするのに会釈する仕草はどうにも控えめで、それが妙に印象的だった。まるで、何か悲しいことがあってひどく落ち込んでいるかのような表情。少女は寂しげな笑みを浮かべて、なぜか羨ましそうに珠樹のことを見つめてくる。

 気のせいだろうか。きっと気のせいだろう。

 あの可愛らしい少女が羨む要素など、寒さに青くなって震えている今の自分には何一つとしてあるはずがない。

 珠樹と少女が言葉もなく見つめ合っていることに気づいたのか、女性が口を出してきた。

「美弥香君。彼女が今話した夕島珠樹君だよ。珠樹君。彼女は安藤美弥香君。見て分かる通りこの学校の生徒ではないんだが……私のこともあるし、ここは一つ見て見ぬ振りをするのが君と私と美弥香君のためになる」

「はぁ……」

 首を傾げて生返事をする。と、女性は少女、美弥香の方を向いて、

「君のことは今話した通りだ。夕方四時ごろ、この場所に。もう行って構わないよ」

 美弥香はコクリと小さく頷いて、腰掛けていた場所から軽々と飛び降りた。スカートの中が見えそうになって珠樹は思わず目を逸らす。美弥香は小さく微笑んで、ペコリと一礼してから屋上を降りて行った。

 感じのいい子だ、と思った。

 可愛いのに。

「って、あの子あの制服じゃ……」

「その辺は本人がどうにかするだろう。さて、珠樹君」

 そう言いながら女性がコーヒーの缶を投げてきた。慌てて両手で受け取る。温かかった缶は風に晒されてすっかり冷たくなっていて、中身が残っているとは到底期待できないほど軽かった。

 美弥香と同じように飛び降りてきた女性は、通夜のときと同じ、真っ黒な服を着ていた。

「約束通り、全てを話してあげよう」

 ただし、と付け加える。

「寒いから、ここからはもう退散しようじゃないか」

 見れば、女性もわずかに肩を縮めていた。余裕のある話し方はただのやせ我慢だったらしい。コクコクコクコクと珠樹は何回も頷く。女性も同じくらい頷いて、震えながら珠樹が開けている扉をくぐった。珠樹も続いて飛び込むように中に入り、重い扉を全力で閉める。

 扉を開けていたせいで踊り場は冷え切っていたが、風がないだけでもだいぶマシだった。二人して冷たいコンクリートにもたれかかり、女性は天井を見上げ珠樹は袋からカレーパンを取り出す。

 取り出してから、物足りなさに気づいた。飲み物が女性に奪われてしまったのだ。

「……」

 パンだけの昼食というのはいかにも侘しい。温かい飲み物を買ってこようか。そう思った瞬間、女性が口を開いた。

「君は」

 慌てて見上げる珠樹に、女性は至極真面目な顔で問いかけてきた。

「君は、幽霊や魂といった類のものを信じているかな?」

「……」

 突然の問い。

「えぇーっと」

「君の言いたいことはよく分かるがとりあえず黙って答えて欲しい。信じているかな?」

 静かだが有無を言わさぬ口調。首を傾げながら少し考え、一口かじったカレーパンを飲み込んでから、珠樹は答えた。

 飲み物は諦める。

「多少は」

「どうして?」

「んー……えっと、特に根拠はないけど、いないっていう証拠もないし、それに何だかんだいってそういう話は昔から山ほどあるから。絶対にそんなものはない、なんてことは言えないんじゃないかなぁって」

「なるほど。もし完全にデタラメな話なら、かつてはともかく現代の社会において幽霊話など流行るはずがないということだね」

「まあ、大体そんな感じ」

「ふむ」

 女性は腕組みしながら一つ頷いて、こう続けた。

「では、それを踏まえて君のお姉さんの話をしよう。約束通り私が知っている全てのことを君に教える。一気に言うからよく聞いているように」

「はぁ」

 カレーパンをかじりつつ、珠樹はぼんやりとそう返事し――次の瞬間、言葉の嵐に見舞われた。

「君のお姉さんは真面目に大学に通っていた。大学に行っている振りをして怪しい商売に手を出したりしていたわけではないから、その点は安心したまえ。ただし、ではただの大学生かというとそれは真っ赤な嘘だ。彼女は俗に言う霊能力者だった。それもただの霊能力者ではない。現世を彷徨う霊を時に誘い、時に力を以ってねじ伏せる鎮魂の紡ぎ手だ。お姉さんは十四歳のときに滅刀つまり私と出会い、それからずっと紡ぎ手として生きてきた。紡ぎ手は仕事として成り立つようなものではないので進学もしたし就職もするつもりだと言っていたが、しかしわたしは正直惜しいと思っていたよ。お姉さんは紡ぎ手として素晴らしい逸材だった。あれは生まれ持った才能だったのだろうね。天才的な才能を備えていた君のお姉さんだが、しかし紡ぎ手としての活動には常に危険がつきまとう。天才だからとてそれから逃れられるわけでもない。お姉さんもそのことはよく知っていたし、十分注意もしてきたが――」

 女性はここで少し言いよどみ、わずかに目を細めながらこう締めくくった。

「先週、わずかな油断を突かれて殺された。理解できない部分があったら言ってくれ」

「……全部」

「だろうね」

 あっさりと頷く女性に、珠樹は首を傾げる。本来なら憤りを感じる場面なのかもしれないが、この女性がふざけて物を言うようには見えなかったし、何より話が突拍子過ぎて怒りを感じる余裕がなかった。

「あの……」

「ミイラ取りがミイラ」

「は?」

「ハンターが獣に襲われたという方が近いかな。霊だの何だのという単語は怪しいだろうが、こう言えばどんなことが起こったのか想像はできるだろう? もちろんハンターは君のお姉さん、獣は霊だ」

 一番理解できないのは、正にその部分なのだが。霊云々は置いておくとして、何ゆえ姉がそんな狩人めいたことをしていたのか。確かに姉は才能豊かな人だったから、何をやらせても大抵のことは人並み以上にこなしただろう。

 だがだからといって、怪しい狩人の真似事をしていた理由にはなるまい。

「放課後は空いているかな?」

 頭がこんがらがる珠樹に、女性はそう言ってきた。

「へ? あ、まあ……」

「なら、授業が終わってからもう一度ここに来るといい。四時ごろに。話ばかりではとても信じられないだろう。実物を見せてあげるよ」

 実物って……? まさか――

 精神的に後ずさる珠樹に、女性はニコリと笑いかけてきた。

「そう。霊を鎮めるんだ、実際に」

 

 午後の授業など全く耳に入らなかった。

 放課後、あの屋上に行く。自分の役目はそれだけだ。それだけなのだがどうにも不安が拭えない。何かとんでもないことになるんじゃないかという、嫌な予感がした。

 女性の話の半分どころか一割すら理解できない。

 その理解できない話を証明するから、来いという。

 夕島珠樹。十六年という決して長くない人生ではあるが、これほど不安な話には未だかつて直面したことがなかった。何かとんでもないことになるんじゃないかという気がする。本気で嫌な予感がする。

 鈴人に一緒に来てもらおうか。あの男はああ見えて、珠樹と同じ帰宅部だ。放課後の時間など有り余っている。なんだかんだで毎日一緒に帰っている間柄。ちょっと屋上に寄り道するくらい、付き合ってくれるかも……。

 と、そこまで考えて珠樹は首を振った。屋上は寒い。容赦なく寒い。昼休みに会いにいったとき言っていたではないか。寒い屋上にわざわざ行く奴の気が知れないと。珠樹が行くだけでさえそう言うのに、一緒に行こうなんて言おうものなら一体どんな目に遭わされることか。

 頬を捻り上げられたりするかもしれない。

 こめかみをぐりぐりやられるかもしれない。

 殴ったり蹴ったりはして来ないが、そういうお仕置きめいた所業は彼の得意技だったりする。本格的な暴力でない分手加減しないところがまた憎い。本人は手加減しているつもりなのかもしれないが、やられる方が存分に痛いようでは手加減の意味がないと珠樹は思う。

 思考が逸れた。

 痛い目に遭うのは嫌だし、それに話してもまた頭を疑われるのがオチだろう。やはり鈴人には先に帰ってもらう。後でメールしておこう。一人であそこに行くのは思いっきり心細いが、まさか学校の屋上で拉致されることはあるまい。それに、最初に女性と一緒にいた少女。安藤美弥香。午後四時ごろと言えば正に放課後である。おそらく彼女も、あの場所にもう一度来るのだろう。

 同い年の少女が来るのなら、少しは安心できる。

 それに、ひょっとしたら彼女こそが女性の言う霊能力者なのかもしれない。そう、午後四時ごろにあの場所には幽霊が出るから、鎮魂のなんとやらである彼女が退治しに来るのではないか。あの女性は、それを見せてやろうと言っているのではないか。

 霊云々の話が本当なのか、単に彼女たちの頭が本格的にヤバいのかは分からない。だが、美弥香が何をやるのかは少しだけ興味があった。

 どんなことをやるのだろう。念仏を唱えながら十字架を突きつけて踊るのだろうか。それとも武器を持って派手に暴れまわるだろうか。

……戦っているときの音で先生たちが駆けつけてきたりしたら、女性や美弥香は自分を置いて逃げたりしないだろうか。

 ……。逃げる算段も立てておいた方がいいかもしれない。派手に戦うようだったらすぐに逃げよう。

 一つ頷いてから、珠樹はようやく今が授業中であることを思い出した。数学の時間である。教科書を見ただけで全てを理解できるほど頭はよろしくない珠樹であるから、公式をちゃんとノートにメモしておかなければ試験の際に泣くことになる。

 数学の成績は中学からあまり良くない。せめてしっかりノートをとっておかないと、試験の一週間前に友達に泣きつかなければならないことに――

「あ」

 顔を上げた先、黒板では今まさに数式が消去されたところだった。

 お約束というやつである。

 

 午後四時を十分過ぎた。

 校庭からは今日も元気な運動部の掛け声が聞こえる。かすかに響くのは、吹奏楽部のラッパの音だ。

 日の光がない分、屋上に吹く風の冷たさが増しているように思えた。今回はマフラーにコートを装備しているが、それでも珠樹は首をすくめる。隣では女性が、壁にもたれかかりながら羨ましそうにこちらを見ている。

「珠樹君」

「うん?」

「マフラーを貸してはくれないだろうか」

「ヤだ」

「そうか……」

 残念そうにうなだれる女性は、相変わらず通夜のときと同じ格好である。よくよく見れば妙な服だ。妙にひらひらしている。喪服とは違う。絶対に普段着ではない。さりとて着物やドレスかといえば、それも違う気がする。

 ただ一つ言えるのは、決して厚着ではないということだ。むしろ布地はひどく薄そうだった。イコール、寒い。

「美弥香君は遅いな……」

 震える声でそう呟く。そんなに寒いなら昼休みから今までのうちにコートの一つでも調達すれば良かったのに。そう思いながら、珠樹はマフラーごしのくぐもった声で同意した。自分の手袋かマフラーを貸す気は全くない。

「四時……か。そろそろ来てもいい時間なんだけど……」

 覗きこんだ携帯電話の時計は、今が午後四時十三分を二秒過ぎた時間であることを教えてくる。美弥香はどうしたのだろう。彼女が来ないことには霊とやらを退治できないのに。嘆息しながらそう思――

 ちょっと待て。自分で自分にそう言った。

 それはつまり、自分と女性の二人だけでここにいるのは非常に危険なことなのではないか?

「嫌な予感がする……」

 ぽつりと、女性がそう呟く。ひそめられた眉は険しく、それを目にした珠樹は尚更不安になる。今すぐ回れ右して逃げた方がいいのではないかという気がすごくする。

「あ、あの、ちょっと聞きたいんだけど」

 寒さとはまた別の理由で青ざめながら、珠樹は思い当たった危機について尋ねようとし、

 

「――遊刃さん」

 

 その声はいきなり聞こえた。

 女性と珠樹は同時に声のした方、自分たちの真正面を向く。

 安藤美弥香がそこにいた。彼女の顔に浮かんだ表情を見て、珠樹はわずかに違和感を覚える。昼間のそれとはどこか違う。寂しげで、儚げ。それなのに変にいい笑顔をしている。どこか吹っ切れたような印象を受ける。

 どうしてか、哀れみめいた視線を自分に向けてくる。

「ああ、美弥香君。待っていたよ」

 笑みを形作ってそう応対する女性の声には、しかし険しいものがあった。それを耳にしながら、今になってようやく珠樹は思う。

 彼女は一体、どこからどうやって現れた? 屋上の扉は自分と女性の間にあるのに。ここに上がって来る道は、壁をよじ登りでもしない限りこの扉しかありえないのに。

「遊刃さん」

 唐突に姿を現した美弥香は、珠樹ではなく女性にそう呼びかけた。

 変わらない笑みのまま発せられたそれは、今にも泣き出しそうな声だった。

「わたし、やっぱりダメです。やっぱり諦められません」

 その言葉を聞いて、女性の笑みが凍りついた。

「美弥香君、それは――」

「だって、わたしまだ十六歳ですよ? それに死んだわけじゃない。わたしはまだここにこうやっているのに、どうして消えなきゃならないんですか?」

「今の君は俗にいう幽霊という存在だよ。分かっているはずだ。迫り来るトラックを見たはずだ。血まみれの地面に横たわる自分の姿を見たはず――」

「それでもわたしはここにいる!」

 嗚咽混じりのその叫びに、女性が思わず押し黙った。

 一方の珠樹は、一体何の話をしているのか全く見当もつかない。美弥香は何をいきなり叫んでいるのだろう。消えるって何? 迫るトラック? 血まみれの地面?

 彼女は霊能力者で。

 女性はそのパートナーかもしくは師匠で。

 自分は、彼女たちが繰り広げる除霊劇を見物しに来たのではなかったのか?

 それなのに――

「部活だって楽しかったし、将来は小説家にだってなりたかった! 投稿する話だってまだ書きあがってないし、わたしがいなくなったらアルバイト先にも迷惑がかかるし、友達に借りたCDだってまだ返してない! 好きな人だっていたの! まだ何も言ってないのに、話だってちゃんとしてないのに、それなのに――!」

 そこまで一気に叫んで、ふと糸の切れた人形のように美弥香はがっくりとうなだれた。顔だけを上げて、珠樹の方を暗い瞳で見据えてくる。

 怖い。

 なんでだか、そんな気がした。

「夕島、珠樹さん」

「……は、はい」

「あなたはまだ何も知らないのよね。何も知らないし、もちろん何も悪くない。だけど、あなたを放っておいたらわたしが危なくなるから」

 そして美弥香は、にっこりと笑った。

 全てを捨てたようなその笑みはたまらなく恐ろしく、同時にたまらなく美しかった。冷たい風が吹く。その風に全く流されることがない髪を片手で払いながら、安藤美弥香は優しげにこう告げてきた。

 

「死んで」

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