生者のたわごと

 

 安藤美弥香。

 ○○県立××高校二年。成績は優秀、テニス部のレギュラーとしても活躍。

 漠然とではあるが将来は作家を目指していて、年に数回新人賞へ投稿していた。一度だけだが最終選考まで残ったこともある。

 一月二十三日。自転車で学校に向かう途中、トラックに撥ねられ死亡。

 未練など有り余るほど残っているであろう、十七年の短すぎる生涯だった。

 

 美弥香が手を伸ばして、珠樹の頭にそっと触れてきた。

「……っ!?

 ただそれだけで、頭の中身を直接わし掴みにされたような強烈な眩暈が襲ってきた。視界が一気に暗転する。気持ち悪い。胃の中身が物凄い勢いで逆流してくる。反射的に飲み下そうとするが、止まらない。止めようがない。

「……っっ!」

 不快な流れが喉をせり上がってくる。珠樹は耐えられず、背を丸めて胃の中の全てを吐き出した。

 嘔吐感は止まらない。咳き込むたびに新たな胃液が口から漏れ出て、足ががくがく震え出す。立っていられない。膝が崩れ折れて、冷たいコンクリートに手が触れた。自分が吐き出したものの臭いが鼻をつく。

 息ができない。苦しい。

 薄ぼんやりとした視界の中で、目の前に足が見えた。どこかの学校の校章が入ったソックス。女性ではない、美弥香の足だ。

 顔を上げた。

 美弥香はつらそうに眉をひそめながら、そっと珠樹の頬を撫でてきた。

 人間の手とはとても思えない、凍てつくように冷たく、ほのかに温かく、膜ごしに触れられているような奇妙な感覚。

「……顔、汚くなっちゃったね。酷いことしてるのは分かってる。ごめんね、ごめんね」

 両手を伸ばして頭を抱きしめようとしてくる。そんなことをしたら服が汚れる。そう言いたいが、苦しくて何も喋れない。

 手を伸ばして拒もうとするが、しかし、美弥香の身体には触れることができなかった。伸ばした手はそのまま美弥香の身体を突き抜けて、向こう側に飛び出してしまう。

「……?」

 何なのだ、これは?

 わけが分からない。何一つ理解できない。どうして自分はこんなにも苦しい思いをしていて、どうしてこんなところでこんな事が起こっているのだろう。

 そう考える珠樹の視界の中、美弥香がまた眉をひそめた。

「苦しいよね。ごめんね。すぐに楽にしてあげるからね」

 美弥香の手に抱え――られる前に、横からいきなり何かに攫われた。視界が一瞬真横に流れて、次に目にしたときには屋上の風景が微妙に変わっていた。さっきまで目の前にいた美弥香の姿もない。

 ふと気がつけば、珠樹は女性の手に抱えられていた。

「大丈夫か、珠樹?」

 なんでこの人はボクを呼び捨てにするんだろう。そんなことを考えながら軽く頷く。が、実際は全然大丈夫ではなかった。口の中が汚くて気持ち悪い。頭がガンガン痛みを訴えてくる。ただでさえ冷えきった身体、このままでは立って歩くこともままならない。

 だが、女性はそんな珠樹のことなど見ておらず、ひたすら前を見据えていた。

 その先にいるのは当然美弥香だ。彼女はさっきまで珠樹がいた場所で立ち尽くしながら、空虚な目でこちらを見てきていた。

 寂しそうな笑みを浮かべて、美弥香は女性に向かって問う。

「わたしを消しますか?」

「……。君がどうしても諦められないというのなら、それも仕方ない」

 険しい声で返されたその言葉を受けて、美弥香は静かに首を振った。わずかに視線を逸らして珠樹を見据えてくる。心が痛んだように眉をひそめながら、しかし全く揺らいでいない声音で、

「貴方はともかく、夕島さんがその状態じゃあ無理でしょう」

「珠樹の手を借りるまでもない」

「貴方一人でわたしを消すんですか? 滅刀が自分で死者を鎮めることはできないと、そう言ったのは貴方のはずですけど」

 女性が言葉に詰まっている。ということは、美弥香の言っていることが本当なのだろう。滅刀。それが女性を指している言葉だということは分かる。どんな意味なのかは知らないが、消すだの何だのいう単語が飛び交っていることから考えて、あまり穏便な意味ではなさそうだった。

 嫌だなぁ、と珠樹はぼんやり思う。

 消すとか、手を出すとか、そんな物騒な言葉は嫌いだ。

「……珠樹」

 囁くような小声で、女性が言ってきた。小さく顔を上げる。

「こんなことになってしまってすまない。だが、今はこの状況をどう脱するかが先決だ。君は剣道の経験はあるか? 剣道でなくても格闘技や、何か身体を動かしているだけでもいい。まず運動は得意か?」

 嫌いではないが得意というわけでもない。それに、美弥香も言った通り今は歩くことさえままならない。小さく首を振る。

 珠樹の返答に口をつぐんだ女性の仕草を見て察したのか、美弥香が首を傾げた。

「夕島さんにやらせる気ですか? 無理ですよ。その状態では、しばらくは立ち上がることさえ出来ないでしょう」

 その通りだ。

 その通りなのに、女性は尚も囁いてくる。

「私の合図と同時に、君の目の前に剣が現れる」

 意味がわからなかった。剣? そんなものがどこにある。

 それに、剣が現れたから何だというのか。

「何も考えなくていい。立ち上がれなくてもいい。とにかくその剣を持って、思いっきり前に振れ。一振りでいい」

「夕島さん。変な真似はしないでください。わたしもあなたをこれ以上苦しめたくはないんです」

「このままでは君は死ぬ。嫌だろう? やり残したことがあるはずだ。別れたくない人間がいるはずだ」

「苦しいでしょう? 今、楽にしてあげますからね」

「君ならできる。君ならここから生き延びられる」

「身体を楽にして、目を閉じていてください。一瞬で済みます。いいですか?」

「……。予定とはだいぶ違った状況になってしまったが――」

 わずかに柔らかくなった女性の声に、珠樹の意識が少しだけ覚めた。

 美弥香と女性が交互に言ってくる言葉など、半分も頭に入ってはいなかった。

 ただ一つ、女性の最後の言葉だけが鮮明に頭に残り、珠樹は小さく頷いて――目を閉じた。

 自分を抱いている手の温もりが心地良い。頬を撫でる風の冷たさが遠のいていく。眠ってしまいそうになる意識を懸命に繋ぎとめる。まだだ。まだ眠っちゃいけない。

「――珠樹っ!」

 その言葉と同時に、女性が珠樹を放り出した。

 不意に、風が吹いた。

 屋上に吹いている冷たい風ではない。人肌のような生温かさ。氷のような鋭さ。全てを包み込むような柔らかさ。全てを弾き飛ばすような激しさ。回転している。小さな竜巻のような風がすぐ傍で吹き荒れている。

 そして珠樹は、目を開けた。

 女性の最後の言葉を頭の中に強く思い描いて、残る力を振り絞って身体を起こした。

――予定とはだいぶ違った状況になってしまったが、

――これが、君の姉が生きてきた世界だよ。

 姉ちゃん。

 姉ちゃんはずっと、こんなところで生きてきたらしい。

 どうして?

 どうしてこんな生き方を、姉ちゃんは選んだの?

 それが知りたい。

 知るまで、死ねない。

――だから、ボクは、目を開ける。

 

 そして目を開けた瞬間、頭痛も、気持ち悪さも、全てが珠樹の頭から消し飛んだ。

 これは何だと、そう思う余裕すらなかった。

 目の前では真っ黒な竜巻が吹き荒れていて、今まさに消え去ろうとしていたところだった。黒い風。あるはずのない光景に、珠樹は数秒目を奪われる。

 その竜巻の中に、一本の剣の柄が見えた。

 剣を取れ。前に振れ。そんな女性の言葉が頭に響き、珠樹は半ば無意識に手を伸ばす。柄に手を触れる。空中に浮いていた剣はさしたる抵抗もなく、珠樹の両手に納まる。

 闇のような色の風が止み、剣が完全に姿を現した。漆黒に彩られた柄と刃以外は何もない、実に簡素な一本の剣。

 これを振ればいいのだろうか。そう思って前を向いた瞬間、珠樹の目に美弥香が映った。

 止んだ竜巻の向こう側から、美弥香が駆け足になって目の前に迫ってくる様子。手を伸ばしてくる。白い手がどんどん近づいてくる。さっきはあの手に掴まれたせいで気持ち悪くなったのかと、何となく思う。

 自分の手には、剣がある。

 理解した。

 女性は、これで美弥香を斬れと言っていたのだ。

「……っ」

――剣を、珠樹は振れなかった。

 人に向かって剣を振るう。そんな真似ができるはずもなかった。

 躊躇ったその一瞬に、美弥香の手に顔を掴まれた。三つの声が頭の中に直接響いてくる。何をやっているという女性の声が剣から伝わってきた。ごめんねという美弥香の意識が伝わってきた。

 そして――

 

 気がつけば、美弥香が動きを止めていた。

「あ……」

 美弥香は呆けたような顔をして、こちらに手を伸ばしてきていた。しかし届いていない。伸ばされた細い腕は、横から割り込んできている腕にがっしりと掴まれていた。

 その手を辿って、割り込んできた主の顔を拝む。と、

「……鈴人くん?」

「危ない真似してんな、アホ」

 軽く安堵したようにそう言いながら、鈴人は呆れたように睨んできた。なんでここに鈴人くんが。そんなことを尋ねる間もなく、頭上から降ってくる新たな声。

「……遅くなりました」

 安堵したような第一声。

 ふと見れば、美弥香の隣に誰かが立っていた。珠樹の着ている制服とは似ても似つかない真っ白な服。白い服に白い肌、そしてこれまた真っ白な帽子を目深にかぶっていて、下から見上げても目を見ることができない。ここだけは黒い髪が、更に覆うようにして目を隠していた。

 珠樹よりも年下らしき、小柄な少女。寒そうな格好なのに全く寒くなさそうなのが、気になるといえば気になった。

 少女は左手で帽子が風に飛ばされそうになるのを押さえ、右手は剣の柄を握っている。

 その剣は、美弥香の後頭部と喉を、情けも容赦もなく貫いていた。

「……え?」

 あまりに非現実的な光景。人が刺されている。剣で貫かれている。その事実を頭が受け入れるのに時間がかかった。ようやく目の前の光景が夢でも幻でもないと理解してからも、混乱した意識はなかなか元には戻らない。

 かろうじて口から出た言葉は、自分でも情けないほど的を射ていなかった。

「そ、それ、剣、剣が――」

「……? ああ、これなら心配要りませんよ。別に傷つけているわけではありませんから」

 微笑すら浮かべてそう言いながら、少女はさっと剣を引き抜いた。

 刃物を引き抜く生々しい音など全くなく、ただ剣が空気を切る音だけが聞こえた。支えを失った美弥香の身体が前のめり倒れこむ。鈴人が同時に手を離し、美弥香はコンクリートに倒れ伏した。

 だが、それでも尚、美弥香は何事か言いたげにこちらに手を伸ばそうとしてくる。

 鈴人が庇うように珠樹の前に出る。

 少女がぴくりと眉をひそめて、再び剣を振り上げる。

「ま、待って!」

 珠樹は慌てて鈴人を押しのけ、美弥香に覆いかぶさり、少女の剣から庇った。美弥香が自分に何をしようとしていたのかは分かっている。それでも、目の前で剣を突き刺されようとしているのを黙って見ていることなどできなかった。

 美弥香の手が、顔に伸びてくる。

 細い手が珠樹の頬を撫で、顔を上げた美弥香は寂しそうな微笑みを見せた。

「……顔、汚れちゃったね」

 泣き笑いのようなそれは、何かを諦めたような笑みだった。

「……ひどいことして、ごめんね」

 それが、珠樹が聞いた美弥香の最後の言葉だ。

 次の瞬間、美弥香の身体がガラスのように砕け散った。花びらが風に吹かれて舞うように、無数の光の破片が薄闇の屋上に舞い散っていく。実際に吹いている風とは無関係に、光の破片は空に昇りながら、次々と砕けて小さくなっていく。

 その様を、珠樹はただ呆然と眺めていた。

 人の身体が砕けて散った。それが理解できなかった。

「……。大丈夫ですか?」

 珠樹と同じように空を見上げていた少女が、不意にこちらを向いてそう言った。

「い、今のって、死――」

「死んだわけではありません。というか、彼女は元々死んでいます。成仏したようなものですよ」

「じょう、ぶつ?」

「そう、成仏」

 頷いてから、不意に少女は珠樹の後ろに目を向けた。

「一度目の前で実演させるのが一番手っ取り早い。その意見には同意しますが、しかし何の予備知識もなくこんな目に遭わすのには正直感心しませんね。一体何を考えているのですか?」

 後ろで誰かが動く気配。

 振り向けば、いつの間にか姿を現していた女性が気まずそうに目を逸らしていた。

「それはその通りだが、君たちがもう少し早く来てくれればこんなことにはならなかったぞ」

「わたしたちにも都合というものがあります。これでも学校が終わってから大急ぎでやって来たんです。感謝こそすれ、責める理由も権利も貴方にはないはず」

「……」

「不測の事態を想定もしていなかったのですか? もしわたしたちが……この場合そこにいる彼も含めますが、わたしたちが間に合わなかったら貴方は彼女を死なせるところでしたよ?」

「分かった、分かった分かったよ。私が全て悪かった」

 分が悪いと察したのか、女性は両手を挙げて降参の姿勢をとる。ため息をつきながら、少女は剣を手にくるりと踵を返した。

 行ってしまう。そう思った珠樹は咄嗟に声をかける。聞きたいことはまだ山ほどあるのだ。

「あ、ま、待って。今のは――」

「貴方に全てを説明する暇もつもりもわたしたちにはありません。何か知りたければ遊刃さんに聞いてください。大抵のことには答えてくれるでしょう」

 一息にそれだけ告げて、少女はくるりと背を向けた。屋上の扉に向けて歩き出す。

 と、不意に立ち止まり、首だけ振り向いてこう言ってきた。

「あなた、さっき彼女を庇いましたよね。なぜです?」

「え?」

「わたしが空也さんを振り上げたとき、安藤美弥香さんを庇ったでしょう。なぜあんなバカな真似をしたんです?」

 剣を示しながら空也という言葉を口にする。つまりは剣を振り上げたとき、なぜ美弥香を庇ったのかと聞かれているのだ。あまりに当たり前なことを問うてくる少女をわずかに怪訝に思いながら、珠樹は答えた。

「なぜって……当たり前だよ」

「あなたが当たり前だと感じる理由が分からないから問うているのです」

「……」

 腕組みしつつ嘆息して、少女はそう言い直して来た。なんか冷たい感じの子だなぁと思いながら、珠樹は答える。

「誰かが危ないときに、黙って見てる人はいないよ」

「……。つまりは、安藤美弥香さんが斬られそうになったから庇ったと?」

「うん」

「それが、ついさっきまで貴方を殺そうとしていた人でも?」

「うん」

 少女は帽子を押さえ、聞こえよがしにため息をついた。心の底から呆れたように、罵声の如き言葉を吐いてくる。

「甘いです。激甘です。自分が何されたか一秒後には忘れるほどオトボケたお方なんでしょうか。あえて聞きますがバカですか?」

 言いすぎだこのヤロウと思ったが、その点についてはあえて言及はせず。

「……。だって」

「だって?」

「二度も剣をその、刺すなんて。やり過ぎだよ」

「……。そうですか」

 小さく嘆息して、少女は今度こそ前を向いた。一歩を踏み出し、しかしまた立ち止まる。今度は何を言ってくるのかと思っていると、

「……そう、それが普通の反応ですね」

「……?」

「でもね」

 少女はわずかに振り返る。

 目が見えないから表情は分からない。かろうじて見えるのは口元だけだ。

 少女の口は、珠樹の勘違いでなければ、哀れんでいるような笑みを浮かべていた。

「そのうちに、そんなことは言っていられなくなりますよ」

「――え?」

 それは一体どういう意味なのか。珠樹がそう問おうとする間もなく、少女は今度こそ屋上の扉から出て行った。鉄の扉が閉まる重い音が、声を張り上げて少女を引き止めることを拒否した。

 後に残されたのは、珠樹と鈴人と――

「……珠樹」

 背後に座り込んでいる女性が、呆れたように言ってきた。

「本当に君は一体何を考えているんだ。助けが入ったからいいものの、目の前に死が迫っているのに相手を気遣って躊躇するなど。樹里君も言っていたがバカか君は?」

 咎めるようなその言葉に、待ったをかける横からの声。

「ちょっと待て。珠樹がバカなのは今に始まったことじゃないから別にいいんだよ。それより、どうしてお前がここにいる?」

「おや、鈴人じゃないか。久しいな。君こそなぜここに?」

「帰ろうとしたら屋上にお前が見えたんだよ。慌てて駆けつけてみたら、ホントに一体何やって――」

 鈴人の声が遠くなる。頭がふらふらしてきた。ただでさえ体力を消耗していたのに美弥香を庇ったりしたからだろうか。しかし、それだけでまさか倒れたりは――

「――ちょっと待て。珠樹、どうした?」

「珠樹? 具合でも悪いのか? ……ああ、そうか。美弥香君の攻撃をもろに受けたからそれで――」

 女性の声が、だんだんかすれて聞こえなくなり、

『――珠樹っ!?

 それは鈴人の声だったのか、それとも女性の声だったのか。

 

 濡れタオルでぐいぐい顔を拭かれたときに、一度だけ目を覚ました。

 

 次に目覚めたときは真夜中で、時計を見れば午前二時を指していた。身体のあちこちがだるい。起き上がると頭の奥がずきりと痛む。風邪でもひいたのかと思うが、すぐに原因に思い当たった。夕方。美弥香。樹里という名の少女。

 あの女性。鈴人。

 様々な事柄が頭の中を通り過ぎていく。小さくため息をついてから、ここはどこだろうと辺りを見回した。妙に見覚えがある。時計や机の位置、漫画や小説が並んでいる本棚なんかも実に――

 自分の部屋だった。

 見覚えがあるはずだと、数秒間ながら全く気づかなかった自分に苦笑する。

 と、

「やあ。起きたか」

 あの女性の声が聞こえた。

 慌てて声のした方を見やる。が、そこには人の姿はなく、代わりに――

「……ユハ?」

 姉が飼っていた黒猫の名を、珠樹は呼んだ。

 姉が中学一年のときに拾ってきた、夜闇に溶け込むような黒い毛の猫である。姉以外の人間にはあまり懐かず、先週姉が死んだと同時に姿を消した。元々愛想のない猫だったので、主人がいなくなったから野良に戻ったのだろうと、珠樹も両親も適当にそう思っていたのだが。

 そのユハはどういうわけか珠樹の部屋の中央に鎮座し、ベッドの上の珠樹を見据えておもむろに口を開いた。

「この姿で君の前に出るのは久しぶりだね。この家も久しぶりだが、さすがに一週間ではほとんど変わっていないな。澪の部屋だけは、部屋の主がいた頃よりずっときれいになっていたが」

 珠樹の耳がイカレていなければ、四足で歩く黒猫は人間の言葉を喋っていた。

 イカレているのは現実か、あるいは自分の耳と頭か。前者であることを信じたい。

 呆然と見つめる珠樹の視界の中、黒猫は実に不気味にウインクを一つ。

「さて。幽霊だの魂だのは置いておくとして、この世界には君が知らなかった領域が存在するというのは夕方の出来事で理解できたはずだ。かなり荒っぽい体験になってしまったが、あまり気にしないでくれ。結果的には何事もなかったわけだし、それに美弥香君などは大人しい方だ。危険な奴は力の使い方にも慣れているから、夕方のようにまともに食らったら間違いなく即死……と、その前にまず、私が何なのか説明しておこうか」

 最後の方は何かを誤魔化すような調子で、黒猫は軽く跳び上がり、

 ほんの一瞬巻き起こる、あの黒い竜巻。

「あ――!」

「猫の姿は便利ではあるが、なかなかに屈辱的でもある。小学生に追い回されるときなどは特にそう思うかな」

 わけの分からない愚痴めいた台詞を口にしながら、風が止んだ場所にあの女性が出現していた。

 珠樹の頭が一気に混乱する。

「あ、え? だってあの、ユハは?」

「私だが」

「えぅ? だ、だって貴方は――」

 遊刃。

 ユハ。

 天啓のように、珠樹の頭の中で一本の線が繋がった。

 ユハ。どこかで聞いたような名前だとはぼんやり思っていたが、今までは話の展開についていくのに精一杯で珠樹の頭はそれどころではなかった。だが今は違う。珠樹の頭はしっかり話についてきている。既知の情報と新しい情報を照らし合わせるくらいの事はこなせる。

 猫。主。姉の秘密。

 幽霊。

 剣。

「えっと、めっ……とう?」

「覚えているなら話は早い」

 女性――遊刃はニヤリと不気味な笑みを浮かべて、何の断りもなく机の椅子に腰掛けた。座るなと言うつもりはないがせめて一言なにか断って欲しい。そんなことを何となく思う。

 と、

「正式に自己紹介しておこう。私の名は遊刃。君の姉の元パートナーだった滅刀だ」

「はぁ……」

 姉の知り合いだったにも関わらず、姉の知人の誰も彼女のことを知らなかったのはそういう理由か。今更ながらに理解した珠樹の生返事を、遊刃はどう解釈したのか、

「私を信用するしないは君に任せよう。……あ、一言断っておくが、夕方の件に関しては悪いのは君だぞ。君がちゃんと私を使っていれば、美弥香君は君の手で眠らせることができたのだ」

「その前に襲われたのは……」

「過去は気にしないでいこう。鎮魂の紡ぎ手に関しては……さすがにもう説明は要らないだろうが一応言っておくと、除霊屋だ。が、除霊というものが仕事として確立されていないこの国においては、紡ぎ手はボランティアのような形でやっている者がほとんどだ。君のお姉さんも、今日会った樹里君もそのうちの一人。学生のうちはともかく、就職したら二足の草鞋というのは少しつらいかもしれないが、それでもわたしはあえてボランティアのまま紡ぎ手を続けることをオススメする。除霊屋の看板を掲げても別にわたしは構わないが、それで食べていこうというのは正直無謀だし、何よりその際には家族や親類に縁を切られることを覚悟することだ」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」

 今日会った樹里君もそのうちの一人。だったら鈴人はどういう立場にいるのだろうと思わないでもなかったが、それより先に聞いておかなければならないことがある。最後の方で妙なことを口走りつつある遊刃に、珠樹は慌てて制止を加えた。大金持ちと結婚して働かなくてもいい立場になれればあるいは……とか言っていた遊刃は「ん?」と顔を上げる。

「どうした? トイレなら廊下の奥。腹が減ったならここにおにぎりがある。わざわざ作ってくれたらしい。優しい母に感謝するといい」

「違うよ。お腹は減ったけどそうじゃなくて、ボクに何の用なの?」

 遊刃の顔がニタリと笑った、ような気がした。

 聞かなきゃ良かった。一瞬そう思ったが時既に遅く、

「非常に遺憾なことながら、澪は死んでしまった」

「……」

 最初に会ったときと微妙に口調と性格が違う。どちらが素の彼女なのだろうと思う。

「刀は持ち主がいなければ錆びゆくばかりだ。滅刀とて例外ではない。滅刀の中では最年長な私だが、まだ錆びつきたくはない。澪がいなくなった今、早急に新たな主が必要なのだよ」

「……。それって、つまり」

「そう。私は君に新しい主になってもらいたい」

「……ヤだ」

 沈黙は決して悩んでいたわけではなく、遊刃の言葉を理解するのに数秒を要したからだった。珠樹は何の躊躇もなく断る。そんなわけの分からないものになってたまるか。

 遊刃は何を言われたのか一瞬理解できない様子だった。笑みのまま目をパチクリと開閉させ、なぜか机の上に置いてあったおにぎりの皿に手を伸ばす。ラップを外して、二個あるおにぎりの一個を取ってむしゃむしゃと食い始めた。

「って、それボクの……」

「理由を聞かせてもらえるかな?」

 声がわずかに固いが、それでも淡々としているのは珠樹が主になることにそれほど執着していないからだろうか。だといいのだけれど。机に頬杖をつき、おにぎりを口に運びながら目で問うてくる遊刃に珠樹は答える。

「……だって、さ。その、鎮魂の紡ぎ手? それって要するに、今日みたいなことするんでしょ?」

「今日みたいなこととは?」

「その……剣で刺したり、斬ったり」

「身体を持たない幽霊は、いくら刺されようと斬られようと痛みなど感じないが。だがまあ、紡ぎ手の行動を言葉で表すならその表現が一番適切だろうな」

 回りくどい肯定の仕方をする遊刃。珠樹は彼女を軽く睨む。

「だったらヤだよ。ボクはそんなことやりたくない」

「……ふむ」

 一個目のおにぎりを早くも食べ終わり、何の躊躇もなく二個目に手を伸ばしながら遊刃は言う。

「君の言うことは非常によく分かるが、しかし忘れてはいないかな?」

「何を?」

「今日君は、美弥香君に襲われて死にかけた」

 おにぎりを掴んだまま手を止めて、遊刃は珠樹を真っ向から見据えて、

「死者が幽霊になる条件を知っているか?」

 唐突に、そう問うてきた。

「え? あの、未練とか、心残りとか、そういうものがあったりすると……」

「それも確かに必要だ。未練がなければ現世に留まる理由がない。ただ、それ以上に強く、絶対必要な条件が一つある」

 ニヤリと遊刃は笑い、一拍の間を置いてからこう言った。

「意識があるまま、もがき苦しみながら死んでいること」

「……え?」

「例えば交通事故であったり、猟奇殺人の犠牲者であったり。現世への未練、死にたくないという思いを殊更強く念じた者。それが幽霊となる死者だ。即死の場合は大抵そのまま成仏、あの世へ向かうな。未練を感じる暇すらなく死に至っているから」

 即座に思い浮かんだのは、美弥香の顔だった。

 儚げな、寂しげな笑みを終始浮かべていたあの少女は、それほどまでに悲しい死に方をしていたのだろうか。

「幽霊となった者たちに残るのは苦痛と絶望、そして憎悪と羨望だ」

 なぜだろう。

 遊刃は静かな口調だが、しかし言葉のどこかに芝居めいた響きがある。

「苦痛は死ぬ際に体験した地獄に対して。絶望は望みを叶えたくても叶えられない幽霊という己が身に対して。憎悪は自分を死に追いやった原因に対して。そして羨望は、今生きている人間に対して」

 どこか楽しげにさえ聞こえる声。

 暗い部屋の中、遊刃の表情を確認することはできない。それなのに珠樹はなぜか、彼女の口元に浮かぶ笑みがはっきりと見えたような気がした。

「生きている人間のことが彼らには何より眩しく、そして妬ましいのだ。自分が死んだのにどうしてあいつが生きている。そんな思いにかられる者も少なくない」

 そこで遊刃は立ち上がり、珠樹の方へと歩み寄ってきた。思わず身を引くが遊刃は構わずベッドの上に身を乗り出して、珠樹を見下ろすような形で目を合わせてくる。

「そんなときに、自分たちの姿が見えて、声が聞こえる人間が現れたら、彼らはどう思うだろう?」

 今度こそ、しっかりと見えた。

 遊刃は笑っていた。

「夕方に美弥香君が実証したように、幽霊には人を害する力がある。人といっても、相手は君のような霊能力者に限定されるがね。だが彼らにはそれだけで十分だ。妬ましい相手が、すぐ目の前で無防備な細い首を晒しているのだから」

 遊刃が手を伸ばして、珠樹の首筋に触れた。両手で掴んでまるで首を絞めているような真似をする。少し息苦しい。そしてそれ以上に、目の前の遊刃が怖い。

「対幽霊用の防具など、世界のどこを探してもありはしない」

 囁くような声。誘うような声音。

「君はどうやって君を守る? どうやって襲ってくる霊から身を守る?」

 首に回されていた手はいつの間にか頬を撫で、もう片方の手で珠樹の左手が持ち上げられる。

「答えは、ここにある」

 左手が、遊刃の胸に触れる。

「滅刀とは霊を鎮める道具であり、そして霊から身を守るための唯一の武器なのだ。君は運がいいよ。滅刀を持ち、鎮魂の紡ぎ手となれる霊能力者は世界にほんの一握り。特殊な技能が必要なわけでもなければ、身体のどこかに印がなければいけないわけでもない。必要なのは運命と偶然に選ばれるための強運。人生の途中で霊能力に目覚めたにも関わらず、最初から私と接点を持っているとは……君は本当に、運がいい」

 遊刃はそう言って身体を離し、右手を珠樹に向かって差し出してきた。

「この手を取ればそれだけで契約は成立。私は君の武器となり、君の生涯が終わるまで共にいることを誓おう」

 差し出された右手を眺めながら、珠樹は唇を噛み締める。

 当たり前だが、死ぬのは怖い。

 目の前に遊刃が立っているのは、彼女の言う通り本当に運がいいのだろう。あの手を取れば自分の身を自分で守ることができる。殺されてしまうのではないかと、自分の無力さのせいで怯えることもない。

……。

……けれど――――――――。

 

 寒いので外には出ない。昨日美弥香を鎮めた屋上へ続く扉に内側からもたれかかり、遊刃はくつくつと声を立てずに笑う。

「何を言っても聞く耳持たなかったよ、彼女は」

 結局、珠樹にはきっぱりと断られた。

 しかし遊刃は、込み上がる笑いを抑えることができない。

 自分の身を守る手段をあえて捨てる。愚かともいえるその行動の理由が『それでもやっぱり、ボクには人を剣で斬りつけたりすることはできないから』というのでは、笑うしかないというものだ。

「それはいいが、俺に何の用だ?」

 不機嫌そうにそう言うのは鈴人である。薄汚れたコンクリートに躊躇なく腰を下ろし、菓子パンをかじりつつ缶紅茶に手を伸ばしている。遊刃は昼休みに入ると同時に猫の姿で鈴人に会い、この屋上へと続く踊り場に呼び出したのだ。

 もちろん、珠樹はこの会談を知らない。

「ところで私の分の飲み物は?」

「あるわけねぇだろ、ボケ」

 冷たい一言に肩をすくめる。珠樹は知る由もないが、鈴人と遊刃は、実は澪が紡ぎ手として活動し始めたそのときからの付き合いなのである。

 鈴人は霊が見えるだけではなく、霊に触れることができ、逆に触れられても平気という特異な能力を持っている。能力というより体質といった方が正しいだろうか。彼が昨日珠樹を助けるために美弥香の腕を掴むことができて、尚且つ平気でいることができたのも、ひとえにその体質のおかげである。

 彼がその能力で助けたのは珠樹だけではない。五年前から今まで、彼は紡ぎ手のパートナーとして常に澪や遊刃と共にいた。

 五年という歳月は決して短くない。それなりに長い付き合いなのである。にも関わらずこんな邪険な対応をされては、さすがに少し寂しいものがあった。

「前々から思っていたが、冷たい奴だな、君は」

「欲しけりゃ自分で買ってこい」

「私は無一文だ」

「珠樹の財布から盗んでこいよ」

 一瞬本気でそうしようかと考えて、話がどんどん横道に逸れて行っていることに気がついた。慌てて首を振り、

「違う。こんなことを言うために君を呼び出したのではない」

「だろうな。こんな話をするために呼び出されたんなら、俺は今後一生お前とは口をきかないって決心するところだったよ」

「……。どうでもいいが鈴人。何か嫌なことでもあったのか? 口調が少しばかりキツいようだが」

「口調はこれで普通。嫌なことは現在進行形で体験中だ」

「……」

 毒を含んだ言葉に閉口していると、鈴人は早くも一つ目の菓子パンを平らげ、二つ目に手を伸ばしていた。とっとと食べ終わってさっさと帰りたいとでも言わんばかりの雰囲気。まさか、食べ終わったからといって本当に帰りはしないだろうが……と考えて、わずかに首を振った。

 鈴人なら本気で帰りかねない。

「本題に入ろう」

「そうしろ」

「早速聞くが、鈴人」

「あん?」

「どうすれば珠樹は言うことを聞く?」

 メロンパンにかぶりつこうと口を開けた状態で、鈴人は固まった。よく見るようでなかなか見られない表情である。間抜けとも言える顔をしばし観察していると、鈴人はメロンパンから口を離して咳払いを一つ。

「遊刃」

「うん?」

「珠樹にはきっぱり断られたって言ってなかったか?」

「言った」

「ならどうして言うことを聞かせようとする? 珠樹を無理やり紡ぎ手にするつもりか? もしそうなら、いくらお前でも承知しないぞ」

「無理やりとは人聞きの悪い。違うよ、どうしたら珠樹が私の主になりたがるか、うまい方法がないものかと聞いているんだ」

 疑わしそうに眉をひそめてくる鈴人に、遊刃はとっておきの笑顔で応じる。なぜかより一層険しい顔をされたが気にしない。

 満面の笑みでもって迎え撃つ遊刃に鈴人の方が音を上げた。目を逸らし、ボソリと尋ねてくる。

「うまい方法も何も、なりたくないって言ってるんだろ? なら何を言ったところで無意味だろ」

「人の心などきっかけ次第でいくらでも変わる。たとえば君が珠樹を諭してくれれば、彼女も改心してくれるんじゃないか?」

「なんでそこに俺が出てくる。俺は別にあいつを紡ぎ手にしたいわけじゃないぞ」

「しかし、珠樹は君にとって大切な女の子だろう? 心配ではないのか? 何しろ相手は幽霊、誰にも止められない暴漢だ。もしそんな奴に珠樹が襲われでもしたら……」

 と、そこまで言ってはたと思いついた。

「……ああ、そうか。そこに自分が助けに入って、泣いて縋りついてくる珠樹にもう安心だ心配ない、俺がついてるとか言って慰める、そんな状況を期待して――」

「――るわけねぇだろ! 殴るぞ!」

 真っ赤になって否定してくる少年を見下ろしながら、遊刃は顔にニヤケ笑いが浮かぶのが抑えられない。

「ムキになるところが怪しいな。いけないぞ、鈴人。危ない目に遭う前に何とかしてやるのが、本当に優しい男というものだ」

「……っ! もういい、帰る」

 ビニール袋を引っ掴んで階段を降りようとする鈴人を、遊刃は手を伸ばして引き止めた。顔に浮かぶ笑いが収まらないが何とか我慢して謝る。

「まあ待て。悪かったよ、鈴人」

「……全っ然反省してねぇだろ、お前」

 半眼で睨みつけてくるが、適当に言ってみた言葉はあながち見当外れでもなかったらしい。顔が真っ赤になっている。全然迫力がない。そんな顔で睨まれても、また笑えてくるだけだった。

 しかし、いつまでも笑っているわけにはいかない。

「ま、助けに入る云々はともかくとして、君とて珠樹が危ない目に遭うのは避けたいだろう? 仮にも幼馴染、死ぬよりは元気な姿でいてほしいはずだ。私が一緒にいれば、彼女が危険な目に遭う可能性はずっと低くなる。少なくとも自衛の手段は手に入れられることになる。良い話だと思わないのか?」

「……確かにそれも一理あるけどよ。でもお前、大事なこと言ってないだろ、あいつに」

 振り返って、呆れたように鈴人は言った。

「大事なこととは?」

「霊能力者と見れば見境なく襲うほど、霊は自我を失っちゃいない。未練のために現世に残ってるくらいだから意識だってはっきりしてる。よっぽどキレた奴ならともかく、普通に暮らしてた奴が死んだくらいで殺人鬼になるわけがないってことだよ」

「ふむ。確かにそれを言い忘れていたな」

 そう。

 世の中にいる霊のうち、霊能力者に問答無用で襲いかかる霊などはごく少数。数えるほどしか存在しない。鈴人の言う通り、元々普通に暮らしていた人間が、死んだくらいで人を殺せるわけがないのだ。

 最初から殺人に抵抗がない人間などいない。仮に、道連れに誰か殺してやろうと決心していたとしても、本当に人を前にすれば身体がそれを拒否してしまう。

 珠樹に語ったことは事実ではあるが、かなり大袈裟に脚色したものでもあるのだ。

「何が言い忘れていた、だ。わざとだろ」

「……。分かるか?」

「分かるさ。こんな基本的なこと、お前が言い忘れるわけがない。何を企んでるんだ?」

 鈴人の問いに、遊刃は口元で小さく笑みを作る。

「……私が今まで会った紡ぎ手は、多かれ少なかれ、全員が霊に対して恐怖を抱いていた」

「? 何の話だ?」

「まあ聞け。私と共にいた紡ぎ手は今や十人以上にもなるが、霊に対しては誰もが距離を置いていた。当たり前だな。何せ相手は、触れるだけで自分を殺せてしまうのだから。滅刀――私を持つことにも最初は抵抗があったようだが、己の身を守るためにはそれも耐えられたようだった」

 怪訝そうな顔をする鈴人。遊刃は笑みが零れるのを抑えられない。

「珠樹が初めてだ」

「……は?」

「自分の身の安全よりも、霊を剣で斬りつけるという行為の方を重視したのは、珠樹が初めてだった」

 おそらくそれは、彼女の生い立ちも関係しているのだろう。

 霊能力者の姉がいたせいで、ずっと眠っていた珠樹の霊能力。彼女にとって霊とは自分を傷つけようとする敵ではなく、傷つける力を持つ脅威ですらなく、ただただ悲惨な死に方をした気の毒な人々なのだ。

「私はね、鈴人。楽しみで仕方ないんだよ」

 身を折って笑い声をこらえながら、遊刃は言う。

「相手は命なき死者。珠樹はそのことを理解していない。それは愚かとも言えるが、ひっくり返せば非凡であるという見方もできる」

 相手が死んだ人であろうと、たとえ命がなかろうと。

 人に対して剣で斬りかかるような真似は、自分にはできない。

 きっぱりとそう言った昨夜の珠樹の表情を遊刃は思い出す。

「私は見てみたい。もし彼女が紡ぎ手になるとしたら、一体どんなやり方を選ぶのだろう。見たこともない何かを見られそうで、私はそれを物凄く楽しみにしている。最初は澪の妹だからというだけの理由だったが、今ではもう、私の主は彼女以外に考えられないのだよ」

 恍惚とした思いでそう言いながら、遊刃はこっそり逃げようとする鈴人の襟首を掴んだ。

「どこへ行く?」

「ちょっとトイレ」

「食べかけのパンを持ってか?」

「……。もうすぐ昼休みが終わっちまう」

「あと十分はある」

 物凄く嫌そうな鈴人の顔を覗き込み、遊刃はニっと笑いかける。

「君とは知らない仲じゃないし、何よりこれは珠樹の身を守るためでもある。たとえ恨まれようと嫌われようと、大切な幼馴染のため、協力してくれるよな?」

 自分が今浮かべているのが、長い長い滅刀としての生涯の中で最も良い笑顔であることを、もちろん遊刃は自覚していた。

 こんなに心が弾むのは、本当に久しぶりだった。

 

 どうやら、鈴人は遊刃と会うので一緒には帰れないらしい。

 携帯電話に届いたメールの文面を見ながら、珠樹はそう考える。本文には『俺は捕まった。お前は逃げろ』とある。これだけでは意味不明だが、件名が『遊刃』とくれば意味は簡単に読み取れた。

 二人が知り合いであることに今更ながら驚いたが、それ以上に鈴人と一緒に帰れないという事実が痛かった。

 姉について、遊刃について、色々と話を聞こうと思っていたのに。

 本当は朝一緒に行こうと思っていたのだが、夕方に意識を失ってしまったおかげで、珠樹は夜中に全く寝付けなかった。仕方なしにベッドの中で遊刃の話を悶々と考えていたら、いつの間にか目覚ましが鳴る時間を大幅に過ぎていた。

 結局、遅刻した。

 昼休みに会いに行ってもいなかったので、帰り道こそはと密かに決意していたのだ。あの屋上に都合よく助けに現れ、何の躊躇もなく美弥香を睨み、美弥香の腕を掴まえていた鈴人。これで何も知らない部外者というのは詐欺である。遊刃と知り合いという決定的な証拠も、メールという形で届いたのだ。

 しかし、肝心の本人が、問いたかった言葉を向ける相手がいないのでは意味がなかった。

 暇である。学校から家までは普通に歩いて三十分かかるが、学校が三時半に終わるので、門限の六時まで二時間の自由時間があるのだ。

 さっさと帰ってひたすらごろごろしているのもそれはそれで楽しいが、何となくそんな気分にはなれなかった。

 歩き回っている方が、頭は整理しやすい。

 というわけで珠樹は今、駅ビルの中をぶらついている。五階にある大きな本屋を意味もなく歩き回り、雑誌を何冊かパラ読みして、文庫のコーナーに立ち寄ってみる。

 と、

「……あれ?」

 背後から、そんな声がかけられた。

 手に取ろうとした『常夏の雪国』というタイトルの本から目を離し、振り返る。隣で立ち読みしていた誰かさんもまた振り返ったのが、目の端に映った。

 振り返った先。人懐っこい笑みを浮かべる黒瞳と目が合った。

 無造作に切られている黒髪。背丈は鈴人よりも少し小さい。が、珠樹よりは高い。だから珠樹は彼を見上げる格好になる。黒いジャケットを、着ているというより着られているといった方が正しい、そんな少年。

 会ったことも見たこともない、全然知らない人だった。

 が、隣の誰かさんも彼のことは知らないようで、見ればまた立ち読みに戻ってしまっている。ということは声をかけてきた彼の勘違いだろう。珠樹はそう思って、一応小さく頭を下げてから目を逸らし――

「君って昨日、屋上で襲われてた子だよね?」

 小声で囁かれた言葉に、思わず目を見開いた。

 再度振り返る。少年は相変わらず笑みを浮かべて、珠樹の反応を待っている。

 だがしかし、やはり見覚えなどない。首を傾げながら珠樹は問う。

「えっと、誰、ですか?」

 その問いに、少年もまた首を傾げて、

「誰って、僕も昨日あそこに……ああ、そうか。あのときは剣になってたんだっけ」

 一人で頷きながら納得する少年。あの場にいた剣って、遊刃以外に誰かいただろうか。そう疑問に思うことしばし。

 やがて思い出すのは、美弥香を貫いた一本の刃。少女が持っていた純白の剣。

「……あっと、ひょっとしてあの女の子の?」

「瀬良山樹里。あの子の名前。君の方が年上だし、樹里ちゃんでいいと思うよ。そう、僕は樹里の滅刀。名前は空也。よろしくね」

「ど、どうも。夕島珠樹です」

 慌てて振り返り、差し出された手を握り返した。握り返してから、鈴人以外の男とまともに手を繋いだのはこれが初めてであることに気づいて、意味もなく顔が熱くなる。

「ねえ。今、時間ある?」

「え? あ……えっと」

 腕時計に目をやる。四時半になる数分前。まだ時間がないわけではない。

 と、そう思ってからひょっとしてこれはナンパされていたりするのではないかという可能性に思い当たった。駅ビルの本屋の中という妙な場所ではあるが、しかしいざナンパされるのに場所も何もないという気もしないでもないし――

「うぇ、えぇと、えっと」

「……別に時間ないならいいんだけど。ちょっとさ、見せたいものがあったから」

「ふぇ?」

 上目遣いに見れば、空也はにこりと微笑んで。

「時間、大丈夫?」

前へ戻る 次を読む


よろしければ感想をお願いします。

お名前:

メールアドレス:

評価などありましたら(必須じゃないです):最高 まあまあ 普通 ちょっと…… つまらん

コメント:
   

トップへ戻る