生者のたわごと
| 「で、一体どこへ行っていたんですか」 空也が見下ろす先。いつもと同じ白い帽子から、氷よりも冷たい一言が吐き出された。 駅の構内にある喫茶店で落ち合ってから、十分ほど歩いて目的の場所に着くこのときまで、樹里は一言も口をきいてくれなかった。内心ビクビクしながらひたすら平身低頭で謝り続けた道中の後。ようやく口を開いてくれたと思えば、飛び出したのは今の一言だった。 思わず背中に冷たい汗が流れる。これなら無言でいてくれた方がマシだと思いながらも、空也は唾を飲み込んで再度謝った。 「あ、いや、ほんとごめん。ちょっと本屋でさ、面白い本があってさ、つい時間を忘れて読みふけっちゃって」 「時計を見忘れるほどに?」 「う、うん」 「……。良かったですね、空也さん。滅刀として生まれることができて」 「え?」 「時間厳守は最低限のマナーです。特にここ、日本という国ではね。もし仮に空也さんが社会人として働いていたとしても、周囲の人間からの信用度は完膚なきまでにゼロでしょう」 相当怒っている。 そりゃそうだろうな、と思う。待ち合わせの時間は四時半。本来なら珠樹と会った時点で時間に余裕などなかったのに、それから彼女をとある場所へ案内していたのだ。今はもう五時を少し過ぎている。 樹里の携帯電話に連絡の一つも入れておけばまた違った態度だっただろうが、あいにく公衆電話が見つからなかった。 「……ごめんなさい。いやほんと、申し訳ないです」 「もういいです。それより、入りますよ」 半ば諦め口調のお許しの言葉に、安堵しながら顔を上げる。 目的の場所――『立ち入り禁止』の札とロープを空気のように無視して樹里が入っていくのは、焼け焦げて黒ずんだ元デパートの建物だ。一週間ほど前に火事が起きて、逃げ遅れた客や従業員数十人が焼死した、この周辺では悪い意味で有名な場所である。 その彼らが、幽霊となってこのビルの中を彷徨っている。 霊は見えるが滅刀を持たない霊能力者から受けたその報告で、樹里と空也はここに出張って来ているのだった。もちろん無償だ。紡ぎ手は除霊屋の真似事で金を貰うようなことはしないし、そもそもどこかの団体や組織から正式に鎮魂の依頼をされたわけでもない。 あそこに霊がいる。そうかならば行ってみようか。鎮魂の紡ぎ手とは、それだけの存在でしかないのだ。あくまで無償、ボランティア。数多いる紡ぎ手たちが、唯一共通して持つスタイルである。 ごく稀に、紡ぎ手として活動することに報酬を要求する者もいるが、そんな連中も一ヶ月も経たないうちにその看板を下ろさざるをえなくなる。客が来ないからだ。無償で鎮魂を行う紡ぎ手は他を探せばいくらでもいるし、そもそもわざわざ金を払って霊を鎮めてもらわなければならないという状況自体が珍しい。よほどの恨みを買っていない限り、霊能力者が霊に襲われることはまずない。 樹里とて、例外ではない。 ここにいる霊たちから恨みを買っているわけでもなければ、ここに来ることによって誰かから感謝されるわけでもないし、ましてや報酬など一銭も貰えるわけがない。 今回の“報告”とて、実際は単に知り合いの霊能力者との雑談の中で出てきた話題というだけなのだ。実際にいるなら鎮めるし、いないならそのまま帰ればいい。と空也は思っているし、樹里もおそらく同じことを思っている。 人に見咎められる危険がある入り口は突破した。空也は樹里の後について、暗い店内に入っていく。一ヶ月も経っているはずなのに、色濃く残る悲劇の跡。停止したままのエスカレーターを、階段のように上がっていく。 「……。誰もいませんね」 三階まで上がったところで、周囲をきょろきょろと見回しながら樹里がそう呟いた。 「どこかに皆一緒にいるんじゃない?」 同じように周囲を見回しながら、空也は言う。 幽霊というのは基本的にどこへでも好きな場所へ行けるのだが、死んでから間もない場合、自分が死んだ場所から離れられなくなっていることがある。何しろ死に方が死に方なので、死んだ直後には自分がどうなったのか、どんな状況なのか、全く理解できないのだ。自分の思いが最も強くこびりついた場所からは、なかなか離れられないのである。 時間が経てば自分が死んだということを受け入れて、それぞれ家族や親類の元へと彷徨って行くことになるが。 しかし、一週間やそこらでは、まだまだ死者たちは悲嘆に暮れているはず。いるのならばこの建物の中に絶対にいる。 「一応最上階まで上がって、それでもいなかったら……?」 首を忙しなく動かしていた樹里が、不意に言葉を切って左を向いた。空也もつられてそちらを見る。 元々は白かったのであろうコンクリートの柱。各フロアの説明をするプレート。備えつけられているゴミ箱。 その陰に隠れるようにして、小柄な誰かがこちらを覗いていた。 樹里は一瞬だけ空也と目を合わせてきた。空也は黙って頷く。声をかけましょうか。そうしよう。そのやり取りが一瞬の目配せで行われた後、樹里はゴミ箱の方を向いて口を開いた。 「どうしたんです? そんなところに隠れて」 空也を相手にしているときとは全く違う優しい口調。柱の陰にいる人物がビクリと反応して、驚いたように顔を出す。 女の子だった。 樹里よりも更に幼い、十歳かそこらの少女だった。 「お姉ちゃん、あたしが見えるの?」 それが第一声。樹里は即座に頷いた。 「ええ、よく見えますよ。わたしは瀬良山樹里。こっちは下僕の空也さん」 「……下僕?」 「少し黙っていてください。あなたのお名前は?」 「……神代、カスミ」 「良い名前ですね。じゃあ、カスミちゃんって呼びます。カスミちゃん、ここには他に誰かいるんですか? 今まで誰にも会わなかったですけど」 「うん、いるよ。お父さんもお母さんもいる」 お父さんとお母さん。その言葉が意味する事実を悟れないほど、樹里も空也もバカではない。家族で買い物にでも来ていたのだろう。死者の中には数組の家族連れもいたと、テレビでニュースキャスターがそう言っていたのを思い出した。 樹里は、 「お父さんとお母さんの他にも、誰かいますか?」 全く何の動揺も見せることなく、そう尋ねた。 「うん」 「……。ふむ」 一つ頷いて思案する。怪訝そうにカスミが見つめる前で、樹里は振り返らずに尋ねてきた。 「空也さん。このデパートの構造、覚えてますか?」 「何を考えてるかはあえて聞かないけど、七階のエレベーターを上がったところはイベントとかのためのスペースだから、割と広いと思うよ」 樹里がこの答えを求めていることなど、分かっていた。 カスミに会う前から。このデパートに向かうと、そう決めた時点で。 「カスミちゃん」 少女の肩に手を置いて、樹里はゆっくりと告げる。 「このデパートの中にいる人を、全員集めてくれませんか? 七階の、エレベーターを上がったところに」 「? どうして?」 首を傾げるカスミに、樹里はあくまで変わらぬ声で。 「苦しいでしょう?」 「……え?」 優しげな、包み込むような声音で。 「悲しいでしょう? つらいでしょう? わたしはね、その苦しみから助けてあげるために来たんですよ」 驚いたように目を見開くカスミの前で、樹里はゆっくりと立ち上がった。目深にかぶった帽子のために目は見えない。表情を判別できる唯一の部位は、口元。 照明の途切れたデパートの暗がりの中で、 「皆に伝えてください。もうすぐ楽になれるよって」 樹里は声に似合う、優しげな微笑みを浮かべていた。 従業員の格好をした若い男が五人、若い女が八人。客と思しき普段着姿がざっと見積もって十人ほど。 二十人強。目の前にいる彼らが、死んだ後も幽霊となって現世に留まってしまった人々だ。彼らを見やりながら樹里が何を考えているのかは、空也には分からない。分かろうとも思わない。樹里が何を考えていようと何を思っていようと自分には関係ないし、関係するべきではないとも思うからだ。 七階に集合した死者たちを一通り眺めてから樹里が口を開いたとき、空也は彼女の後ろで黙って控えていた。 「これで全員ですか?」 「……ああ」 代表して頷くのは、従業員姿の若い男。恐ろしく疲れた顔をしている。霊になってからは身体的な疲労など感じるはずがないから、精神的な疲労でこうなったのだろう。心なしかやつれて見えた。 彼は樹里と対峙している間も、ちらちらと背後を見やる。その先にいるのは客と思しき集団。その目に浮かぶ安堵と嫌悪を見るに、従業員という立場のせいで彼らから散々責め立てられたようだった。見れば、従業員は皆彼と同じような表情をしている。 この一ヶ月、溢れる不満や悲しみ、恨みの矢面に立たされ続けてきたのだ。 自分が死んだというだけでも、絶望するには十分なのに。 彼らとて、死にたくはなかったのに。 もうすぐその苦痛も終わる。自分たちが終わらせる。 「なあ、本当にあんたが俺たちを救ってくれるのか?」 樹里を見つめる死者たちの目には、どれも不審と疑惑がある。たかが十三歳の小娘に助けてやると言われても信用などできないに違いない。ここに集まったのも、半ば藁に縋るような心境だろう。命を失った以上、もう惜しまれるものは何もない。希望があるならとりあえず縋ってみようという、ヤケクソ気味の思いを抱いて。 不審そうな彼らに向かって、樹里は頷いた。 「ええ」 「あんたみたいな子供がか?」 「子供なのは確かですが、少なくともわたしは皆さんを見て、言葉を交わすことができます。ここを訪れた、皆さんに気づくことすらなかった大人よりは幾らか頼りになると思いますが」 「……」 それは確かにその通りなので、一堂は互いに目を合わせて頷いたり小声で話したりしていた。小さなざわめきが起こり、それが静まったのを見計らって、従業員の男が再度口を開いた。 「それなら早く救ってくれよ。本当にもう嫌なんだ、苦しいんだよ……」 「分かっています。空也さん」 ご主人様からのお声がかかる。空也は一つ頷いて、頭の奥にある『箱』を開いた。 身体の周囲に、白い風が巻き起こる。 箱を開くとは単なるイメージだ。人間の状態から刀、あるいは動物の姿に変化するとき、滅刀は頭の奥にあるイメージを展開する。空也は箱だし、他の滅刀――例えば遊刃なら、木の芽が成長する様を描くらしい。 身体の奥底に生まれる小さな熱源。それが物凄い速さで全身に広がっていく。熱は手足から指先へ伝わり、やがて内側から身体を焦がすかのような灼熱となる。五感が急速に薄れていく。視界が徐々に暗くなり、空也は薄く開けていた目を閉じた。 手が、足が、内側から溶かされていく。 全身が溶けて一つになる。 五体の感覚が完全に失われ、身体は一つの“形状”となる。明言しがたい不思議な感覚。そういえばこの状態で身体がかゆくなったりするんだろうかと、変化するたびに空也はどうでもいいことを考える。 身体の感覚が完全になくなったのとほぼ同時に、“柄”の部分に樹里の手が触れた。 そして空也は、目を開いた。 「……な、なんだ、今の!?」 二、三歩後ずさりながらそう問うてくる従業員の男を、空也は樹里の視界から見上げる。不思議なもので、刀となって主の手にある間、滅刀は主と視界を共用するのだ。だから空也は、滅刀となった自分を見ることがある。自分以外の誰かの視点から自分を見るというのは、生まれたときから備わっている能力なのに何とも不思議な気分だった。 「心配要りません。これは皆さんを傷つける武器ではありません」 「け、けどよ、それって剣――」 「剣だから何ですか。斬りつけられたところで別に怪我などしないでしょうに」 樹里の言葉は正しい。正しいが、だからといって簡単に納得できるものであるはずもなかった。不安そうなざわめきが起こる中、従業員の男が勇気を振り絞ったように問うてくる。 「つーか、さっきの奴は……い、いや、ところでよ。あんたそれでどうするつもりだよ? まさか俺たちを――」 「皆さんを二度も殺す気などありませんので、ご安心ください。そもそもこれは先ほど言ったように、皆さんを傷つけるための道具ではないのです」 その言葉にわずかに安堵したように、従業員の男は小さく息を吐いた。 そして樹里は、その隙を突いて、彼に向かって空也――剣を突き出した。 「……え?」 服を突き破り、白い刀身が身体へと突き立つ。 従業員の男が、呆けたように自分の胸と樹里の顔を交互に見る。血が全く流れない身体。粘土の人形に突き刺さっているのは紛れもない剣の刃。冗談のようなその光景。みるみるうちに男の顔に広がっていく、絶望と理解と困惑。 「……なんで、だよ?」 掠れた声。 「貴方は言ったはずです」 剣を引き抜き、彼の横をすり抜けて、樹里は淡々とした声で告げた。 「早く救ってくれと。わたしはその要望に応えたまでです」 男の身体が樹里の後ろで崩れ落ちる。軽く振り返った樹里の視界の中、男は泣きそうな、悔しそうな、そしてどこか楽になったような表情で、こちらに手を伸ばしてきて、 その手が、身体もろとも光の欠片となって砕け散った。 ――息ができない。 真っ暗な闇の中、珠樹の身体は凍りついたように動かない。 何が起こったの? その思いばかりが、延々と頭の中を飛び交っている。 暗い店内。どこかにある小さな窓から入ってくるわずかな光のみの世界。光の破片が舞い散りながら、ゆっくりと天へと昇っていく。 誰もが動かなかった。誰もが呆然としながら、その様子を眺めていた。 樹里と空也だけが、動いていた。 「……え?」 立ち尽くし、ただ一言そう呟く死者たちに向かって、何の躊躇いもなく剣を振り回していく。抵抗などほとんどない。それこそ粘土を斬るような手ごたえしかない。四人、五人をいっぺんに斬りつけていく。そのたびに、大量の光の破片が暗闇を舞う。 最初に声を上げたのは、女の従業員の一人だった。 「……っ! やぁぁぁぁああああああああああああああ……っ――――――――――」 叫び声。その途中で樹里が彼女を斬りつけて、彼女もまた砕け散っていく。 だが、その一言が彼らの目を覚まさせた。顔に恐怖とも怒りともつかない表情を浮かべて、残り数名となった死者たちが一斉に行動を開始する。一番手前にいた一人に剣を入れながら、樹里は首を巡らせて残りの数を一目で把握した。向かってくる従業員の男と客の男が二人。あらぬ方向へ逃げていく男が一人。腰を抜かして座り込む女が一人。彼女の胸に顔をうずめて、怯えたように震えている少女が一人。 従業員の腕をかわして、彼のわき腹を斬りつける。 真正面に迫ってくる客の男。剣を振っていたのでは間に合わない。咄嗟にそう判断して、樹里は床を蹴って横に跳んだ。勢いそのままに突っ込んできた男が、勢い余って倒れこむ。が、すぐに起き上がってこちらを睨んできた。 牽制するような目をしながら、叫ぶ。 「アケミ! カスミを連れて逃げろ!」 その声は勘違いでなければ、腰を抜かしてへたりこんでいる親子に向けられたように思えた。 カスミ。 神代、カスミ。 樹里は横目で親子を見る。母親に抱きつきながら樹里と男を見てくる少女は、確かに見覚えがあった。 目の前の男は、彼女の父親なのだ。 「……」 ――だからどうした、というほどのことでもないが。 動きを止めたのはほんの一瞬。父親が二人の姿を確認した隙をついて、樹里は一気に距離を詰める。慌てて手を伸ばして牽制してくるが、遅い。難なく避けて剣を振る。男の胴体に、白い軌跡が斜めに走り、 ――彼が砕け散ったそのときには、樹里はエレベーターから逃げようとしていたもう一人の男に剣を突き立てていた。残りは二人。腰を抜かしたままの母親と、彼女にしがみついて離れないカスミ。 視界と意識を共有しながら、空也は樹里の意識に問いかける。 迷ってる? あの子を、鎮めること。 返事はすぐにきた。いえ、別に。それに対して頷く。ならいいけど。 ――今更迷ったって、もう遅いしね。 既に父親を鎮めてしまった。もうあの二人の恨みを買ってしまった。ここで二人を見逃せば、今後復讐しに来る可能性もある。 今のうちに。 自分が霊であるという自覚がまだない彼女らは、その気になれば壁を通り抜けて逃げられることを思いつかない。今のうちに鎮めておくのが最良だった。 それに彼女たちにしても、ここで鎮められるのが一番良い。 たとえ今ここで樹里の手を逃れたとしても、その先に彼女たちを匿ったり、助けたりしてくれる場所はない。待っているのは誰にも助けを請うことができない、どこへ向かえばいいのかも分からない永遠の旅路。 そのうちに気づくのは、自分たちにはもう、未来も希望もないのだということ。 それを知らないうちに鎮められるのが、ここで終わるのが彼女たちのためなのだ。 樹里が床を蹴る。剣を水平に構えて、狙いをつけるのはカスミの身体。一緒に貫けば恐怖は一瞬で終わる。 永遠の日々に、終幕を。 終わらない苦痛に、終止符を。 英雄になるつもりはない。彼女たちを何が何でも助けるのだという正義の志を持っているわけでもない。 ただ、現世を彷徨う霊が目の前にいて、その霊を斬ることができる滅刀が手の中にあって、そして彼らを斬ることを厭わない自分がここにいる。 そんな状況なら、自分は自分にできることを、やりたいようにやるだけのこと。 力でもって霊を鎮める。子供だろうが老人だろうが、男だろうが女だろうが、分け隔てなく差別することなく、ただの一度の例外もなく、問答無用に、彼らがこの世に残した未練と一緒にあの世に叩き送る。 それが、樹里のやり方なのだ。 目を細める。狙いを定める。 剣を、 突き刺して―― 動かなきゃ。そう思う。 これは夢じゃない。風を切る音、床を蹴る音。何より自分の息遣いが、これは現実だとはっきりと告げてきている。 動かなきゃ。怖くても動かなきゃ。震えそうになる歯を食いしばり、動こうとしない身体に力を入れて、珠樹は強く強く強く己に念じる。 動いて、動いてよ、お願いだから、ねえ―― 「逃げて、カスミ!」 突然、腰を抜かしていた母親が娘をエレベーターに向かって放り投げた。 樹里も空也も予想外だったその行動。勢いは止まらず、純白の剣は狙い過たず深々と突き刺さる。 母親の身体だけに。 放り出されたカスミは床にべちゃりと倒れて、だがすぐに起き上がってこちらを向いた。逃げるのよ。そう母親が叫んでいる。声が続く限り。意識が存在し続ける限り。 カスミがじっと見ているのは、消え行く母親か、剣を突き刺した状態で動かない樹里か。 逃げるの! 一際高いその叫びを最後に、母親の身体が砕け散る。 美しい親子の愛情。 それを無情にも引き裂く、血も涙もない悪魔のような自分たち。 ……そう。 それでいいのだと、空也と樹里は同時に思う。 顔を上げてカスミを見る。泣くこともできず、ただ現実を受け入れられずに呆然としている。いきなり死んでしまって。親を謎の女に消し去られて。今、彼女の心の中でどんな思いが渦巻いているのか、空也にも樹里にも想像することすらできない。 足を踏み出す。 歩み寄って、剣を振り上げる。そのときようやく、カスミが我に返ったように顔を上げた。目尻に涙がみるみるうちにたまっていく。口を開く。嗚咽交じりの涙声。 「どうして……?」 答えはない。 力を振るうと決めた以上、言い訳することは許されない。 剣を振り下―― ――お願いだから……動けよ! ボクの身体! 震える足に、ほんの少しだけ力が宿る。 ピクリとも動けなかった柱の陰から、珠樹は樹里目がけて無我夢中で飛び出していく。 ――剣を振り下ろそうとした瞬間、横からいきなり何かが飛び出してきた。完全に予想外の出来事。樹里はまともに体当たりを食らい、何の抵抗もできずに床に押し倒される。 「っ!?」 まだ誰か残っていた――!? 空也の頭が白くなる。敵意を持った霊は、触れただけで霊能力者を殺すことができる。ここまで密着した体勢ではとてもそれを防ぎきれない。 樹里が、死ぬ。 だが、そう思った瞬間響いた音に、ふと空也は我に返った。 「……っ!」 樹里の頬に落ちる熱い雫。声にならない言葉。唇を噛み締めながら睨んでくる視線は、動きを封じようとしてくる身体の重さは、確かに生きた人間のものだった。 「……珠樹さん?」 さすがに呆然としながら、樹里が自分を押し倒した人物の名を呼んだ。 空也も思い出す。鎮魂の紡ぎ手というのがどういうものなのか直に見てもらうために、珠樹をあらかじめここに連れてきておいたことを。七階のこの広場を舞台にしたのは、全てを彼女に見せるためだった。 しかし。 こんな展開は、全く予想していなかった。 ――樹里っ! 叫ぶ。カスミが我に返ってエスカレーターに向かって駆け出そうとしている。まずい。外に出られたらもう追いかけることはできない。全身を使って押さえ込もうとしてくる珠樹を押しのけて、樹里は必死に剣を伸ばす。 後一歩足りない。逃げられる―― そう思ったとき、珠樹の身体がわずかに浮いた。 「っ!」 樹里が咄嗟に床を蹴った。一歩分の距離が詰まる。白刃の切っ先が、少女の身体に突き刺さる。 少女の足が崩れた。 倒れる間際、カスミがわずかに振り返る。 泣きそうなその表情を、樹里は真っ直ぐに受け止めて―― そして、少女は砕け散った。 大人のそれよりも小規模な光の破片が、暗闇の虚空を舞った。 しばしの沈黙。樹里と珠樹の荒い息だけが響く中、乱れた服を整えながら、樹里は押し倒されたままの状態で口を開いた。 「……で、珠樹さん。貴方はどうしてここにいるんです?」 柄を握る手が、若干力を込めてくる。 今は身体がないはずなのに、空也は背筋に冷や汗をかいたような錯覚を覚えた。 「説明してもらいましょうか、空也さん」 帰ったら地獄が待っているだろうな、と思う。 外に出れば既に夕闇の世界だった。わたしは駅の喫茶店で待ってますから、珠樹さんを送ってあげなさい。静かに怒るご主人様の命に従って、空也は珠樹に道を聞きながら先に立って歩く。 すれ違う人々の視線がとても痛い。 というのも、あのデパートを出てから今までずっと、珠樹が泣き止んでくれないのだ。さすがにショックが大きかったかと反省する。遊刃が新たな主として珠樹を選ぶつもりだと連絡してきたのは、考えてみれば昨日の夕方のこと。あの屋上のあの一件があるまで、珠樹は普通に生活する普通の少女だったのである。 今日の出来事は珠樹から見れば、大量虐殺とそう大差ない光景だったはずなのだ。 「……あの、うまく言えないんだけど……ごめんね。怖かった?」 「……」 珠樹は無言でコクコク頷く。言葉も出せないらしい。 滅刀とはいえ空也も男である。女の子を声も出せないほど怖い目に遭わせたと思うと、さすがに良心が痛んだ。ずっしりとのしかかる罪悪感。帰ったらとりあえず樹里に烈火のごとく怒られ、そして珠樹の口から事情を聞いた遊刃からもおそらく猛攻を受けるだろう。二人だけではなく、屋上に珠樹を助けにきたあの少年。場合によっては彼からも一発強烈なのをもらう可能性がある。 死ぬかもしれないなと、ぼんやり考えた。 「……あの」 だから珠樹のその言葉を、空也は最初聞き逃した。 「あの……空也、さん」 「……? ん? あ、なに?」 慌てて振り返る。珠樹は鞄を胸に抱いて片手で涙を拭いながら、囁くような小声で尋ねてきた。 「どうして、ボクにあんなのを見せたの……?」 涙混じりの声は、聞いているだけで痛々しかった。 「いやあの、ほんとにごめんね……」 「もうそれはいいから。どうして?」 咎めるような口調ではない。純粋に疑問に思っているような調子に、空也は小さく息を吐いた。今の彼女にこんな話をしていいものか迷う。心の整理で手一杯だろうに、これ以上追い詰めるような話はすべきではないのではないか。 帰り道の途中でするはずの予定だった話。 口にすべきかどうか迷ったが、結局空也は口を開く。 ただし、ショックを少しでも和らげるよう、前置きを述べておく。 「これから話すこと、あんまり気にしないでほしいんだ。僕には別に君を責めるつもりはないし、今すぐ答えを出せとかそんな急なことを言っているわけでもないし、ましてや避けて通れない試練なんてものじゃ絶対ない。僕が僕の都合で、ちょっと話しておきたいだけだから」 「はぁ」 「今日の樹里を見て……樹里と僕を見て、どう思った?」 「え?」 唐突な問いに戸惑ったように、珠樹が間抜けな声をあげた。空也は構わず続ける。おそらく珠樹が思ったであろうことを、先回りして尋ねる。 「なんて酷いことをする人たちなんだろう、って思った?」 「……えぇと」 「別に隠さないでいいよ。そう思われても仕方ないってことは自覚してるから」 実際、珠樹の目にはさぞかし悪逆非道の行為に映ったに違いない。無抵抗の人間たちに剣を持って斬りかかる。これが善行に見える人間がいるなら空也は是非会ってみたい。 彼らが幽霊だったことは珠樹も分かっているだろうが、幽霊だから斬りつけていいなどという考え方をこの少女はしないだろうと思った。たった数時間の付き合いではあるが、話し方からその程度の人となりは把握できる。 珠樹はしばし逡巡した後、躊躇いがちに頷いた。 「ちょっとだけ……」 「ということは普通に極悪人に見えたわけだね。……あのさ、ちょっと聞くけど、まさか警察に電話したりしてないよね?」 「あ、うん。それは大丈夫」 頷く珠樹。空也は良かった、と胸を撫で下ろした。誰もいないはずの建物の中に人がいて、剣を持った少女が彼らを斬りつけている。そんな通報をしようものなら、そのうち珠樹の家に電話がいく可能性がある。もちろん目撃者の証言を得るためではなく、警察をからかうなという忠告をするために。 そんなことになったら、遠まわしにではあるが自分にも責任がある。本当に良かった。 一通り安堵した後、空也は珠樹の言葉をしみじみ思い返した。 「そうかぁ。そんなに悪い奴らに見えたかぁ」 「えっと、まあ、その……」 「うーん。えーっとね、これは別に言い訳じゃないんだけど……」 ――澪に妹がいることを知っているか? 昨日、突然訪ねてきた遊刃が開口一番に吐き出した言葉。 「あのやり方がね、樹里なりの“救い”なんだよ」 首を傾げる珠樹に、空也はわざと話を変えて尋ねた。 「いきなりだけどさ、紡ぎ手っていうのが何なのか、君は知ってる?」 振り返った先、珠樹は空也の予想通りきょとんとした顔をしている。疑問しか頭にない表情。遊刃からは何の説明も受けていないらしい。 そうだろうとは思っていた。 遊刃自身は、特に霊を救うなどという考えは持っていない。自分が霊を救えるなどとも考えていないだろう。それはそれで謙虚なことだと思うが、せめて紡ぎ手がどういう存在なのか、くらいは教えておくべきじゃないかと思う。 ……面と向かってそう言えば、おそらく彼女は「紡ぎ手には定まった在り方などないよ」とでも答えるのだろうが。しかし、そんな意味があるようで無意味な回答を珠樹は求めていないだろう。 「紡ぎ手っていうのはね、ただ剣を持って霊を斬りつける人間じゃないんだ。やり方も考え方も人によって違うけど、大抵の紡ぎ手は、根っ子の部分に霊を救うっていう共通の目的を持ってる」 「……でも」 物言いたげな珠樹の言葉を先読みして、空也は答える。 「樹里だって同じ。あのやり方が、樹里が考える救い方だっていうだけ。とても救っているようには見えなかっただろうけど、別にあの人たちを斬りつけて喜んでたわけじゃないんだよ」 樹里の考え方。救いの形。その方法は実に単純で、滅刀で片っ端から霊を斬りつけ、力ずくで鎮めていくのだ。 無理やりだろうが何だろうが構いはしないという、強引なやり方だ。 「僕は別に、樹里のことを君に認めてもらおうとは考えてない。君にあれを見せたのは、君に考えてほしいことがあったから」 樹里のやり方が正しいのかどうかなど、空也には分かりはしない。 賛同する人間もいるだろう。批判する人間もいるだろう。 けれど――正しかろうと間違っていようと、それが樹里の定めた紡ぎ手としての在り方だ。彼女が自分で考え、悩んだ末に出した力の使い方だ。 「君は、どんな紡ぎ手になりたいの?」 空也は思う。珠樹には、それがあるのだろうか。 「紡ぎ手としてこうありたいっていう姿が頭の中にある? 遊刃さんを、滅刀を持つ意味を、君は少しでも考えた? いや、無茶だってことは分かってるよ。昨日の今日だもんね。まだ何も考えられなくて当然だと思う。けど――」 ――名前は珠樹という。幸いなことに霊能力もあるようだから、私は彼女を新しい主にしたいと思う。そこで、だ―― 昨日告げられた遊刃の言葉。 美弥香は本来なら、珠樹が鎮めるはずだった。 だが、美弥香が万が一襲ってきたら珠樹ではまだ対処できない。そのときのために一応待機していてほしい。樹里の学校が終わってから向かったので待機することは出来なかったが、結果的にあそこに向かったのは大正解だった。もし自分たちがいなかったら、剣を振ることを躊躇った珠樹では美弥香を鎮めることができなかっただろうから。 見知らぬ高校の校舎を駆け抜けながら、空也はずっと考えていた。 遊刃を、漆黒の滅刀を手に美弥香と対峙する少女を目にして、その思いはより強くなった。 彼女は、姉が紡ぎ手だったからというだけで紡ぎ手になるのだろうか、と。 「ありきたりな言葉だけどさ。力を持つ人は、それなりの考え方っていうか、信念を持ってなきゃいけないと思うんだ」 力。 滅刀という、死者に対してのみ有効な力。それが本当に力と呼べるものなのかは分からない。あるいは、子供が持つ玩具の刀よりも無力な存在なのかもしれない。 だが、意思ある者の存在を消す道具であることは確かなのだ。 「樹里みたいに、霊と見れば片っ端から斬りつけていってもいい。逆に絶対使いたくないっていうならそれでもいいし、君が考えた条件に当てはまる人だけを鎮めるっていうのもそれはそれで構わない。でも、中途半端はやめて欲しいんだ。君の気まぐれで鎮めたり鎮めなかったりっていうのは」 あくまで無償、ボランティア。 数多いる紡ぎ手たちが、唯一共通して持つスタイル。 だがそれは決して、いい加減という意味でも、気分次第という意味でもない。 「やるなら信念を持ってやってほしい。どんなものでいい。自分はこうしようっていう、自分が納得するやり方を持ってほしいんだ。じゃなきゃ、君に鎮められる人が可哀想だよ。その人が鎮められたのは、たまたま君が紡ぎ手として活動する気分だったからだなんてね」 言いたかったこと。 樹里の怒りを買ってでも、珠樹に伝えたかったこと。 最初に言ったとおり、別にこれは珠樹を責めているわけではない。今すぐ答えを出せと言っているわけでもないし、ましてや紡ぎ手となるのに避けては通れない試練などというものでは絶対にない。 ただ、いい加減な気持ちで紡ぎ手になってほしくなかった。 いい加減な、気まぐれな紡ぎ手にもし珠樹がなってしまったら――自分は二度と、彼女に会おうとも、彼女を助けようとも思えなくなってしまうから。 余計なお世話だと思われようとも、空也は珠樹のことを認めたかったのだ。 「……えっと」 「あんまり深く考えないでいいよ」 薄暗がりの中、手元を照らすための白色の光。自動販売機の前で立ち止まって、空也は懐から財布を取り出した。 ただし、中身は労働の対価として得た報酬では決してない。そもそも空也は働いていない。永遠に近い時を生きる滅刀には戸籍も何もないので、まっとうに働くことができないのだ。 その代わり、遊刃が猫に変化できるように、空也は鳥に変化することができる。道端で硬貨を拾うことも多いので、働いていなくてもある程度の収入があるのだった。 ……そんな自分を、情けないと思わないでもない。だが、樹里に小遣いを貰うよりはマシだと、自分にそう言い聞かせる毎日である。 ホットの缶コーヒーを二本買って、一本を珠樹に差し出した。何と言っていいのか分からないような複雑そうな表情で呆けていた珠樹は、目の前の缶コーヒーに我に返ったように口を開く。 「あ、あの、いいよ、そんなの」 「買っちゃってからいいって言われても困るんだけどね……。これは今日のお詫びだと思ってよ。こんなもんでチャラにするつもりかっていう突っ込みはナシの方向でお願いします」 おどけて言ったその言葉に、珠樹はクスリと笑みを漏らした。ペコリと頭を下げて、缶コーヒーを両手で受け取る。仕草の一つ一つが可愛らしいと思う。樹里と違って素直そうだし。 樹里に聞かれたら睨まれそうなことを考えながら、空也は言った。 「まあ、自分で言っておいてアレだけど、本当にあんまり深く考えないでね。ただ僕が言いたかったってだけだから。それに、何も明日から紡ぎ手として活動するわけでもないでしょ? まだ心の整理もできてないだろうし」 その問いに、珠樹は何か言いたげに口を開きかけた。が、一旦閉じる。怪訝に思った空也の前で、珠樹は改めて小さく頷いた。 何か言いたいことがあったんじゃないのか……? そう思いながらも、追求はしないでおく。 「ゆっくりでいいよ。落ち着いたときに、今のことを考えてくれればいい。その結果として気分次第でも別にいいだろうって思うなら、そのときはもう僕は何も言わない。それが君の出した結論ならね」 もしそうなったら、残念ではあるけれど――そんな言葉は胸の内にしまっておく。 生ぬるい缶コーヒーを一気に飲み干して、自販機の横に備え付けてあるクズカゴに放り込んだ。そのまま黙って歩き出す。後ろの珠樹が両手で缶を持ってちびちびと飲む様子に、ひょっとして無糖のコーヒーは苦手だっただろうかという不安が頭をよぎる。 そのまま、少し歩いた。 「あ、もうこの辺で……」 珠樹が不意にそう言ったのは、一軒家の立ち並ぶ住宅街の一角だった。この家々のどれかが自宅なのだろうと勝手に想像して、空也は一人頷く。 「そう。それじゃあ、僕はこれで」 「あ、あの、送ってくれてありがとう」 「こっちこそありがとう。こんな時間までつき合わせちゃってごめんね」 それじゃあ、と、空也は来た道を戻り始め――その前に足を止めて、振り返った。 「そうだ」 「?」 「携帯電話持ってる? 良かったら番号教えてくれないかな」 「えっ……」 と呟いたまま、珠樹が固まった。 待つこと二秒。ピクリとも動かない珠樹。何か妙な勘違いをしているらしいと悟り、空也は言葉を付け加える。 「いや、別に深い意味はなくて。連絡取れるようにしてあった方が便利じゃない? 僕たちとはもう金輪際会いたくないっていうなら別だけど」 「あ、ぇう、うん。そうだよね、連絡取れるようにした方がいいもんね。えっと……」 しどろもどろになりながら、携帯電話を取り出して番号を口にする珠樹。空也はポケットからメモを取り出して書き写す。 「……ん。ありがと。あとこれ、樹里の番号だから」 メモ用紙を一枚破って手渡す。受け取りながら、珠樹が怪訝そうに尋ねてきた。 「こういうのって、勝手に教えちゃまずいんじゃ……?」 「誰彼構わず渡してるわけじゃないし、君の番号も後で樹里に教えておくから。これでおあいこってことで。あ、公衆電話からの電話があったら、それは僕だから」 バイトもできない空也が、携帯電話を持てるはずもない。 空也の連絡手段はいつも公衆電話なのだ。 「僕から連絡が来たら、樹里の方にメールでもしておいて」 「はぁ……」 いいのかなぁと呟く珠樹に、いいんだよと適当に頷いておく。霊能力者にとって横の、とりわけ紡ぎ手との繋がりは貴重なものなのだ。珠樹と連絡を取り合えることを樹里が拒むはずはないのである。 「いいからいいから。それじゃね。気をつけて」 「あ、うん。それじゃあ」 ペコリと頭を下げて去っていく珠樹を見送って、空也は踵を返した。 言いたいことは言った。この後どうなるかは、珠樹次第だ。 首だけ振り返る。珠樹が角を曲がって行くのを確認しながら空也は願う。彼女が、彼女なりの紡ぎ手としての在り方を見つけられますように、と。 さて。心気一転、一気に重くなった足を前へ蹴り出す。時計を見る。午後六時五分前。樹里のところへ着くのはどんなに急いでも――たとえ鳥になって飛んでいったとしても、六時を過ぎてしまうことは確実である。 自分が余計なことをしなければ、今日は六時までに十分帰ることができるはずだった。 浴びせられる怒りの炎……というより吹雪を想像して、空也は寒さと関係なく身を震わせた。明日の朝も早いのに空也さんは余裕ですねぇ。皮肉がばっちり込められたそんな言葉が簡単に想像できる。 そう明日の朝も早い。樹里は学校へ行かなければならないし、自分は―― 「……」 もう一度、珠樹が去っていた方向を見やった。 彼女はまだ、何も知らないのだ。 紡ぎ手になるつもりはない。 遊刃が勝手に言っているだけで、自分には全くそのつもりはない。ただ一言そう言えば済む話だったはずだ。 空也と別れた直後に、張り詰めていた緊張の糸が途切れた。全身が恐ろしく重い。玄関の扉を閉めながら、珠樹は小さく「ただいま」と呟く。おそらく台所にいるであろう母には聞こえるはずがない声。 聞こえなくていい。 誰にも会いたくない。 そう思っていたのに、おそらくは扉が閉まる音を耳にしたのだろう。母が顔を出し、わずかに安心したような顔を見せた。ふと思って時計を見れば、六時を一分ほど過ぎている。いきなり門限を破ってしまっていたらしかった。 「遅くなってごめんなさい」 先手を打ってそう言う。声が疲れきっているのが自分でもよく分かった。 昨日は気絶したまま担ぎ込まれ、今日はこの状態である。さすがに珠樹がまともではないことを察したのか、母は門限のことなど頭にすらないという風に声をかけてきた。 「たま、大丈夫? 具合悪いんじゃない?」 「ん、だいじょーぶ。……ああでも、ごめん。夕飯はいらないや」 「またおにぎり作っておく?」 昨夜のおにぎりは、結局二つとも遊刃の腹の中に入ってしまっていた。おそらく今夜おにぎりをもらっても、また同じ運命を辿ることだろう。 遊刃に食わせるために母の手を煩わせるのも癪である。数秒考えた後、珠樹はゆっくりと首を振った。 「ううん、いい。お腹減ったらパン焼いて食べるよ」 「そう? 大丈夫?」 「うん」 早々と頷いて、母の横を抜けて二階の自室へと向かう。今日はもう遊刃はいるのだろうか。学校が終わってから二時間半。まさか二人して遊んでいるわけでもなし、放課後に鈴人と会っていたとしても、もう帰って来ていてもいい時間だ。 階段を上がって手前の扉は姉の部屋。珠樹の部屋は廊下の奥にある。すたすたと歩いて、扉を勢いよく開け放つ。 「……」 遊刃は、いなかった。 一応電気をつけて部屋の隅々まで探してみるが、女性の姿も黒猫の姿もどこにも見当たらない。本当に帰っていないようだった。わずかに拍子抜けして、珠樹は鞄を机の上に放ってベッドに倒れこむ。 疲れた。 樹里の姿が、強烈に頭に焼きついていた。ゆっくりと振るわれる白い剣。闇の中に残る軌跡。砕け散る人々。ガラスの破片が舞っているような光景。 空也の言葉。 樹里の姿を見たからといって、別に珠樹は紡ぎ手になってみたいとは思わなかった。むしろより一層なりたくないなぁという気持ちを強くさせている。それは空也の言葉を受けて尚強くなったし、だから紡ぎ手としての在り方など、自分には関係ないとさえ思っている。 遊刃に会いたかったのは、彼女の主になることを告げるためではない。 昨日、今日のうちに詰め込まれたものを全て吐き出して、楽になりたかった。 全身がずっしりと重い。言葉にできないほど疲れている。 疲れたよと、そう言いたかった。 疲れた理由が理解できる人に、今は傍にいてほしかった。 疲れた。今の状態を表現するのにはその一言だけで十分だが、より厳密に表すなら現在進行形で疲れている。こいつと関わったのが運の尽きだと、隣を上機嫌で歩く遊刃を見ながら鈴人は半ば悟ったような思いで考える。 最初はなぜかカラオケに連れて行かされた。そこで一時間ほど歌った後、次に行ったのは映画館。ちょうど時間が合った題名もロクに聞いたことのない二時間半の映画を観て、ひょっとして遊びたかっただけなのかだったらそろそろお開きだなと安心していたらそうは問屋が卸さなかった。 夕飯を食わせろと言う。 さすがにキレそうになったが、なっただけで本当にキレられないところが自分の弱点であると思う。適当に入ったファミレスで夕飯を食べ、そこでようやく本題であるところの珠樹の話を切り出され、特にこれといった進展のないまま家路に着いた今、時計は既に九時を回っている。 友達と遊んでるから夕飯は要らない。連絡だけは義務付けられているので、母の携帯電話にそういう旨のメールは送ってある。連絡さえしておけば、後は何時に帰ろうが基本的には自由だ。さすがに深夜の一時、二時だと小言の一つも言われるが、九時程度なら特に何か言われることはない。 それより問題なのは、今日だけで五千円以上の金が財布から消えていったという事実だ。新譜のアルバムを帰りに買っていこう。そう思って用意していた金は、全く思ってもみなかった用途によって霧散してしまった。 百二十円の飲み物一つ買う金のない遊刃であるから、もちろんカラオケでも映画館でもファミレスでも金など払っていない。今日の支払いは全て鈴人の奢りである。 学校の外でこいつと二人きりになるのは絶対に避けよう。固く固く固く、そう心に誓う鈴人だった。 「今日は楽しかったよ、鈴人」 「そりゃ何よりだ」 心にもないことを言いながら、鈴人は家に着くその瞬間を待ち望んでいた。家に着けば遊刃は自分に興味をなくす。彼女の興味は新たな主として狙っている珠樹へと向けられる。幼馴染の平穏な時間をぶち壊すことに、鈴人は全く何の罪悪感も覚えていない。せいぜい遊刃をひきつけておいてくれ。できれば首輪となって鎖となって、一生繋いでおいてくれとさえ思っていた。 その幼馴染が今日どんな体験をしてきたのか、もちろん鈴人は知る由もない。 「その楽しかった時間も、もうすぐ終わるな」 「そりゃ何よりだ」 「今のは聞かなかったことにして、しかしどうすれば珠樹は紡ぎ手になりたがるのだろう。このままでは私は君に主となってもらうしかないではないか」 「そりゃ何より……じゃねぇよ! 何だ今の爆弾発言!」 早く着け、着け。そればかり願っていた鈴人は、思わぬ罠に嵌りそうになった。目を剥いて怒鳴りつけるが、しかし遊刃は飄々と返してくる。 「珠樹が主になってくれないなら、君に主になってもらうしかないだろう」 「何だその理不尽な二者択一は。あのな、言っとくが俺だってお断りだからな。他を当たれ」 「そう言われても、私は君と珠樹以外に霊能力者の知り合いがいない」 「だから俺たち以外の誰かを探せっての」 「面倒じゃないか。ただでさえ数の少ない霊能力者の中から、更に私と気が合いそうな奴を見つけるなど」 いけしゃあしゃあと言ってのける遊刃に、鈴人は苦虫を噛み潰すような思いで言う。澪の滅刀として出会ってから早や五年。彼女のあくまで自分中心というペースには未だに慣れず、その言動には振り回されてばかりいる。 苦々しい思い出に嘆息していると、不意に遊刃が尋ねてきた。 「私を恨んでいるか? 鈴人」 「恨んでるとも。お前のせいでアルバムは来月まで延期だ」 「そういうことじゃない。澪を死なせたことを怒っているか?」 アルバムのことは十分本気だぞ。頭のどこかでそう思いながらも、鈴人は逆に問い返した。 「なんだよ、いきなり」 「いやひょっとして、私がみすみす澪を死なせたものだから、君も珠樹も私の主になるのを拒んでいるのではないかと思ってな」 「安心しろ。珠樹はどうだか知らんが、少なくとも俺はそのことでお前を恨んだりしてない。主になりたくないのは別の理由だ」 そこで一旦言葉を切り、鈴人は少し考えた後、こう続けた。 「俺がお前に対して持ってるのは、恨みじゃなくて疑問だ」 「?」 「澪姉さんが死んでから珠樹の前に現れるまで、お前一週間もなにしてた? 俺にも連絡寄越さないでどこにいたんだよ。あの樹里って奴のところにいたのか?」 問いかけに、遊刃は小さく首を振った。 「いや。食事や寝床に困ったときに樹里君を頼ったりはしたが、一人でいる時間の方が多かった。ちょっと人を探していたんだ」 「誰だよ。新しい主か?」 おどけてそう尋ねるが、しかし遊刃は意外に真剣な表情でそれを否定する。ただ遊び呆けていたわけではないらしい。それを察して、鈴人もまた眉をひそめた。 「どこへ行ってたんだよ?」 「大したことじゃない。ちょっと、澪を殺した霊を探していたのだよ」 十分大したことである事実を、遊刃はさらりと口にした。 鈴人はしばらく、彼女が何を言ったのか分からなかった。こいつは今何といった? そんな思いが頭に渦巻き、言葉の意味を理解して思わず声を上げる。 「はぁ!?」 「いや、実は最初は君を主にするつもりでな。そのためには澪の仇である霊を探しておいた方が色々と都合がいいだろうと思っていたのだよ。美弥香君とはその途中に出会って、まああの子なら大人しそうだし、いきなり人を殺すような霊にぶつけるよりも紡ぎ手としての経験を積み易いだろうと思ったのだ。もっとも、君の場合は霊の攻撃など心配する必要はないのだが――」 「ちょっと待て。めちゃくちゃな爆弾発言されたような気がしたがそれは置いといて、澪姉さんを殺した霊だと? まだ鎮められてないのか、そいつは?」 「紡ぎ手が殺されたのにどうして霊が鎮められるのだ? 私が剣の状態で動けるとでも思うのか?」 あっさりと返される言葉。しばし呆然としていた鈴人は、次の瞬間我に返って遊刃の胸倉を掴み上げた。 「お前っ……お前はっ! 今の今までどうして黙ってた!?」 「隠すつもりはなかったさ。頃合を見て話すつもりでいた」 「頃合ってお前――」 尚も怒鳴りつけようとするが、しかしそれを遮るように遊刃が言ってくる。 「私にも罪悪感くらいはあるのだよ、鈴人。澪の仇は何としてでも私の手で見つけ出したかった。みすみす死なせてしまった罪を少しでも拭いたいというこの気持ち、理解してはくれないか?」 「……」 手を離しながら、馬鹿野郎と思った。罪悪感なら自分の方がずっと強い。拭いたい罪は自分の方が遥かに重い。 なにせ、澪が死んだそのとき、彼女を守るべき盾であった自分はその場にいなかったのだから。 深夜一時。澪がその霊を見つけたとき、鈴人は呼ばれなかった。遊刃が言うには「夜も遅いから、こんな時間に呼び出しちゃ迷惑だよ」と澪が言ったためらしい。 深夜だから。そんな理由で呼ばれなかった自分のことが情けなく、恨めしい。 澪の仇を討ちたい気持ちは遊刃以上に強い。そのためなら、遊刃の主となって彼女を振るうことも躊躇わない。 ……と、 「……ふむ」 「あ?」 「ああ、いやなに。こっちのことだ」 小さく笑みを浮かべて一人頷く遊刃。横目を使って見上げる先は、明かりが漏れている珠樹の家。 気がつけば、既に家の前だった。向かって右手に鈴人の自宅、左手には珠樹の家がある。 二階の珠樹の部屋からは、カーテンごしの光が漏れていた。 「さて。子供はそろそろ帰る時間だ。私も主の説得に勤しむとするよ」 早々とそう言いながら猫になって飛び上がろうとしている遊刃に、鈴人は慌てて声をかける。 「おい、ちょっと待て! 澪姉さんを殺した奴、そいつの特徴だけでも教えろ」 「教えてもいいが、条件がある」 「あ?」 遊刃は振り向いて、鈴人を試すような目で言ってきた。 「珠樹に知られるな。悟られるな。姉の仇がまだこの世界にいることを、絶対に彼女に知られるな」 「……。何だよそりゃ」 なんでそんなことを。そう思う鈴人に対して、遊刃は冷たく言ってくる。 「嫌ならいい。君には教えないことにするまでだ」 「いや、つーかそうしなきゃいけない理由が分からな――」 「君が持つ選択肢はそう多くない。私の条件を飲んで情報を得るか、私の条件を拒んで情報を逃すか。どちらにする?」 意地の悪い声。本気らしいことは分かるが、なぜ彼女がそうするのかが理解できなかった。むしろ珠樹には教えてやるべきではないのか。大切な肉親を殺した相手がまだこの世界にいると知れば、普通は自らの手で裁きを下したいと思うのではないか。 珠樹の性格からしてそこまでは考えないにしても、肉親の仇の存在を知る権利は当然あると思う。 しかし、情報を得るにはこいつの言う通りにしなければならない。鈴人は数秒迷い、挙句に渋々と頷いた。 「分かったよ。珠樹には知られない。これでいいんだろ」 「けっこうだ。君は駆け引きというものがよく分かっている」 完全にふざけている口調でそう言う遊刃。カチンとくるが我慢する。 情報を得られればこっちのものだ。 「では教えよう。澪を殺した霊は――」 鈴人の葛藤など知る由もなく、遊刃はもったいぶりながら口を開き、 「……なに?」 その続きを耳にした鈴人の頭の中に、見覚えのある姿が浮かんだ。 呆けている鈴人を路上に残し、遊刃は猫に変化して家の中へと入りこんだ。澪が生前用意した遊刃用の扉。玄関の隅に取り付けられたその小さな出入り口は、澪がいなくなった今も閉じられることなく風にパタパタ揺れている。 早いところ珠樹に主になってもらわないと、この扉が閉じられてしまうかもしれないな。そんなことを思いながら、忍び足で二階の珠樹の部屋へと向かった。リビングでは珠樹の両親が何やら深刻そうな話をしているが、とりあえず今は関係ない。 階段を駆け上がり、珠樹の部屋の前で人の姿へと変化する。申し訳程度の強さでノックをしてから、ドアノブを捻ってそっと扉を開け―― 「……珠樹?」 電気はついている。それなのに何の返答もない。無視されるほど嫌われているわけでもなし、何らかの反応くらいはあるはずなのに。怪訝に思ってベッドの方を見て……一瞬だけ、我を忘れた。 毛布も何も被らず、制服姿のままで珠樹が寝息を立てていた。 何だってまたそんな格好で。学校から帰ってからずっとこの状態だったのだろうか。制服姿を見るにそうとしか考えられないが、だとするともう五時間近く寝ている計算になる。夕飯はどうしたのだろう。というか、普段はまず寝ていない時間にこれだけ深く寝入っているとは、彼女の体内時計はちゃんと正常に動作しているのだろうか。 ――……何かあったのか? たかが寝ているだけで大袈裟に考えすぎかもしれないが、何事もなく普通に真っ直ぐ帰ってきただけではこんな状態にはならないと思う。 起こして聞いてみようか。一瞬そう考えて……やめた。ベッドに歩み寄り、足を少し持ち上げて丁寧にたたまれている毛布を広げる。姉よりも几帳面な性格らしいと思いながら、横になっている珠樹の体に被せてやる。 彼女を主とするつもりなのだ。風邪をひかれては困る。 着替えさせるのはさすがに面倒なのでやらないが。そんなことを考えながら、遊刃は部屋の電気を消す。視界が真っ暗に染まる。少しずつ見えてくるのは、ベッドの枕元に置いてある時計の、ぼんやりと光る文字盤。 ベッドの脇に座り込み、遊刃は手を伸ばして珠樹の頬にそっと触れる。 珠樹に、姉の仇のことを知られてはならない。そう思っていた。だから最初は鈴人にも黙っているつもりだった。珠樹に最も近い彼の口から、珠樹があの霊のことを知ってしまう可能性があったから。 澪を殺した霊は、まだこの周辺のどこかにいる。 一週間、なけなしの人脈と情報網を駆使してたどり着いた結論。主に樹里に調べてもらったことではあるが、この周辺の町で特徴と一致する霊を何人かが目撃しているらしい。霊としては珍しい姿だから、人違いということはないだろう。 絶対に、このことを珠樹に知られてはならない。悟られてもいけない。 このことを知れば、珠樹は自分で裁きたいと思ってしまうかもしれないから。 姉の仇を討つために、遊刃を、滅刀を取ろうとしてしまうかもしれない。可能性がないとはいえない。珠樹が紡ぎ手になりたがらないのは、死者とはいえ人として意思を持つ者相手に剣を向けることを躊躇っているからだ。 だがそれが、肉親の仇なら。 道徳に勝る大儀があるなら、ひょっとしたら。 珠樹の髪を撫でながら、遊刃はわずかに目を伏せる。そんなことになるのを自分は望まない。 こんな形で珠樹が紡ぎ手になることを、遊刃は決して望んではいない。 躊躇うからこそ意味がある。今まで出会ってきた霊能力者とは違うからこそ、遊刃は彼女を主にと望むのだ。感情に任せて力を振るう珠樹など……正直に言ってしまえば、価値はない。 利己的なものだと自分で思う。 けれど、そんなことはとっくの昔に分かっている。自分が自分勝手であることなど、誰に言われるまでもなく理解している。 ――珠樹。 寝息を立てる少女の髪を撫でながら、遊刃は心の中で問いかける。 君は今、何を思う? 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