生者のたわごと
| 夕島珠樹さん、ですよね? わたし、藤原朔美といいます。 あ、この喋り方ですか? えっと、一応、生きていれば二十歳になるので、喋り方も少しは成長してるんです。 ま、まあ、そんなことはどうでもいいんですけど。 ……あの、今、お時間ありますか? お話したいことがあるんです。 そんな短い会話の後、珠樹は幽霊少女――朔美を自らの部屋に連れ込んだ。 わざわざ家まで戻るのは面倒くさかったが、長い話になりそうな上、誰にも見咎められず幽霊を相手にできる場所といったら自分の部屋しかなかったのだ。 母は買い物に出かけている。遊刃がひょっこり帰って来ない限り、この家にいるのはしばらく朔美と自分の二人だけということになる。 鞄を置き、ベッドに並んで腰掛けながら珠樹は思う。 話って何だろう。 話があると言っておきながら、朔美はここに来る間もここに来てからも一言も言葉を発していない。道中ではまだ、朔美と話すと一人でぶつぶつ呟くような格好になってしまう珠樹のことを慮っていたのかとも思ったが、二人しかいない今この場でそれは通じない。 横目で表情を窺う。伏せられた瞳。引き結んだ唇。話がなくて黙り込んでいるのではなく、話を切り出すのに躊躇しているかのような様子。思いつめたような横顔からは、彼女の気持ちの真剣さが伝わってくる。何を話したいのかは聞いていないが、何か大事なことを話すつもりであることは確かなようだった。 本当に、何だろうと思う。今朝会ったばかりの間柄なのだから、重大な話題などそうそうないだろうに――と、そう思ってからふと気がついた。 朔美は自分の名前を知っていた。ひょっとしたらこっちが知らないだけで、彼女は前々から自分のことを知っていたのかもしれない。 気になった。 一体どうして、この少女は自分のことを知ったのだろう。 「ねえ、朔美ちゃん」 「……え、は、はい!?」 よほど深く考え込んでいたのか、朔美は慌てたように声をあげた。 中身は二十歳前後だと本人は言っていたが、こういう仕草をされると、どうしても年下の可愛らしい少女にしか見えなくなる。 「朔美ちゃんの話の前にさ、ひとつ聞いてもいいかな?」 「あ、はい。何ですか?」 首を傾げる朔美に、珠樹は尋ねる。 「どうして、ボクのことを知ってたの?」 ひょっとしたらかなり核心を突いた質問になるのではないか。そんなことも思わないでもなかった。自分は朔美を知らないが、朔美は自分のことを知っていた。話とやらがそれに関係することだと予想するのは、それほど頭を使うことではない。 しかし結果は、それほど重い質問ではなかったようだった。 朔美はわずかに目を見開きながらも、小さく微笑んで答えてきた。 「それは、ですね……今朝、わたしたちが会った公園。珠樹さん、小さい頃あそこで遊んでませんでした?」 「え? う、うん。遊んでたけど」 「わたしは、それをずっと見てたんです」 にこりと微笑んで、朔美はそう言った。 「わたしが死んでから二年くらい経ったときだったかな、珠樹さんたちが来たのは。よく覚えてますよ。珠樹さんまだわたしよりもちっちゃくて、お姉さんともう一人の男の子に毎日のように泣かされてて、でも次の日になると性懲りもなく二人の後にくっついて遊びに来ていて、また意地悪されてわんわん泣いてて――」 「も、もういいよ。なるほど、それでボクのことを知ってたんだ」 昔の小恥ずかしい過去を掘り起こす朔美を慌てて遮りながら、珠樹はしきりに頷く。 そんな珠樹に笑いながら、朔美も頷き、 「ええ、まあ。印象深い三人組でしたから。特にお姉さんと男の子の方は、わたしに気づいていた様子でしたし」 さりげなくそう言った。 「……え?」 「お姉さんと男の子の方は、幽霊のわたしが見えてたんですよ。珠樹さんは全然気づかなかったみたいですけど」 そう言ってから、小さく首を傾げる。 「そういえば今は珠樹さんも見えてますね。なんででしょう」 「……うん。こないだね、見えるようになったんだよ」 「へぇ」 言いながら思う。どうしても拭えない違和感が、やはりまだある。 いつも一緒にいた三人組。何をするにもどこに行くにも大抵一緒だった三人。 けれど姉は、自分が知らない世界を生きていた。 けれど鈴人は、自分が知らない世界を知っていた。 この世界には、自分が知らない部分があった。 自分以外が自分の知らない世界を見ていたなどというのは、頭で納得していてもなかなか受け入れられなかった。 「……おっきくなったんですねぇ」 疎外感を珠樹が味わっていると、姪を見る親戚のおばさんのような口調で朔美が言った。 「へ?」 怪訝に思って朔美を見れば、外見に似合わないにへらとした表情で、 「だってわたし、珠樹さんのちっちゃい頃を知ってますし。あの何かというと意地悪されて泣いてた子が、今じゃわたしよりもおっきいんですよねぇ……。あ、でも、同い年くらいの女の子と比べるとやっぱりちょっと全体的にちっちゃ――」 「う、うるさいよ、ほっといてよ!」 気にしてるんだから、とはさすがに言わないでおいた。 ちっちゃい方が可愛くていいと思いますよ? にやにやしながらそう言う朔美は、からかっているのがすぐに分かる口調だった。おそらく隠そうともしていない。珠樹の反応を見て面白がっているのだ。 見た目は十歳のくせに……。強く出ることもできずに珠樹が俯いていると、楽しそうな朔美の含み笑いがふと途切れた。 どうした、笑いたければ笑え。半ばヤケクソ気味な思いで、隣に座る少女を見やる。 が―― 「……珠樹さん」 先ほどまで聞こえていた笑い声が嘘だったかのように、朔美の表情には欠片ほどの笑みもなかった。 ベッドから飛び降り、朔美は珠樹の目の前に立つ。いくら珠樹が小柄とはいえ十六歳と十歳の身体であるから、目線が同じになっても見下ろされることはない。真っ直ぐにこちらを見つめてきながら、朔美はぽつりと呟くように言う。 その表情は、たとえようもなく寂しげで。 苦渋の選択を強いられているかのように悲しげで。 しかし、強い意志を感じさせる強固な決意が現れていた。 「笑っちゃったりして、ごめんなさい」 あまりにも唐突な少女の豹変に、珠樹の頭がついていかない。 「あ、そ、そんなこと別に……」 「でも、珠樹さんはちっちゃい方が可愛いですよ。なんて言うか、守ってあげたいって思っちゃうんですよね、見ていると」 「は、はぁ……」 何と返したらいいのか悩む。喜べばいいのか悲しめばいいのか、照れればいいのか怒ればいいのか。そもそもいきなり真剣な表情で何を言い出すのだろう。ひょっとしてこれもからかっているんだろうか。 わずかに疑いの眼差しを向けるが、しかし朔美の表情には笑みの欠片もなかった。 「わたしに、こんなことを言う資格はないけれど」 珠樹の困惑など知る由もないという風に、朔美は言葉を続ける。 「幸せになってください。お姉さんの分まで」 「……えっと」 今度こそ、本当に本気で反応に困った。 が、頑張ります。しどろもどろにそう言う珠樹に、朔美は小さく微笑んで、ゆっくりと息を吸い込んだ。 「珠樹さん。わたしは――」 その言葉が発されるのとほぼ同時に、階下で玄関のチャイムが鳴った。 珠樹も朔美も、同時に身体をビクリと震わせた。 「……えっと」 「……お客さん、ですね」 確かめ合うようにそう呟き、お互い同時にため息を吐いた。 何と心臓に悪い来客か。 居留守を使ってやろうかとも思ったが、何かの配達かもしれない。受け取らないと配達員の人が困ってしまう。仕方ない。珠樹は小さく息を吐いて、朔美に少し待ってもらうよう手で合図しながら部屋を出た。 寒々しい廊下の空気に思わず縮み上がる。早足になりながら、階段を駆け下りていく。 二度目のチャイム。はいはいちょっと待ってと口の中で呟きながら、玄関に駆け寄る。 一応の用心のため、開ける前に覗き穴に目をやった。 扉の外。そこに立っていたのは―― 「……鈴人くん?」 思わず時間を確認する。電話をもらってからまだ一時間も経っていない。そうするとこの幼馴染は、先ほどの電話を終えたすぐ後に帰り支度をして帰ってきたことになる。学校はどうしたのだろう。サボリ? ――まさか、朔美ちゃんを鎮めに来たんじゃ……? ふとそんな考えが頭をよぎるが、しかし首を振る。彼女を鎮めないでほしいと自分は言った。分かった分かったと、かなり適当ではあるが鈴人はそう返事をした。 鈴人は、約束を違えるような人間じゃない。と、思う。 何にしろ、わざわざこうして学校をサボってまで来ているからにはよほど大事な用があるのだろう。自分がここにいるのはバレている。開けないわけにはいかない。 ドアノブを捻り、ほんの少しだけ扉を開けて、 「鈴人く――んっ!?」 ほんの少しだけ開けて、ほんの少しだけ顔を出して、とりあえずそこで用件を聞くつもりでいた。 だが鈴人は、隙間が空いたと見るなり手をかけ、強引に扉を開いてきた。珠樹は当然、その反動を受ける。 「う、うわわっ!」 前のめりに倒れかけ、しかし、倒れこむ前に何かにぶつかった。無我夢中でそれに縋る。 数回たたらを踏んだ後になんとか落ち着き、ほっとしながら両手で掴んでいるものに目をやった。 鈴人の腕だった。 顔が一気に熱くなった。 「あ、ご、ごめん!」 慌てて身を引きながら、しかしその直後に原因を作ったのも彼だということを思い出した。いくら幼馴染とはいえやっていいことと悪いことがある。顔を火照らせたまま、珠樹はわずかに強い口調で鈴人に詰め寄る。 「ちょっと、鈴人くん。一体――」 「まだいるな?」 有無を言わさぬ口調で、鈴人は珠樹の文句を遮ってきた。 あまりにも堂々としたその態度に、珠樹は一瞬怒りを忘れる。 「え? ま、まだって……?」 「お前が連れ込んだ霊だ。まだ部屋にいるな?」 うん、ともいいえ、とも答えられなかった。 珠樹の返事など全く待つことなく、鈴人は勝手知ったる幼馴染の家とばかりにずかずかと上がりこんでいく。お邪魔しますの一言すらなかった。慌てて後を追いながら、珠樹は更に強い口調で言う。 いくら幼馴染でも友達でも、これはやり過ぎだ。 「ちょっと、鈴人くん! なに考えてるの!」 服を掴んで止めようとするが、鈴人は鬱陶しそうに振り払ってくる。普段からそれなりに叩いたり叩かれたりする仲だが、それとは根本的に何かが違った。自分も手加減していなければ、鈴人も手加減していない。 自分の方はまだ理由がある。ここまで勝手に振舞われたのでは、黙っていることなどできない。 けれど、鈴人はなぜこんな真似をするのだろう。 本気になって手を払いのけて、こちらを見向きもせずにずかずか歩く。普段の鈴人からは想像もできない所業に、珠樹の怒りは段々困惑へと変わっていく。 そりゃ意地悪だし、何かというとすぐ手を出すし、ぶっきらぼうだし目つき悪いし性格も悪いけど。 こんなことするなんて、思ってなかったのに。 こんなことする人だなんて、思ってなかったのに。 「ちょ、鈴人くん待っ――っ!」 二階まで慌てて追いかけて、最上段でつまづいた。今度は支えとなる鈴人の腕はなく、珠樹は階段を上がったところで倒れこむ。 するとどういうわけか、前を行っていた鈴人も立ち止まった。 自分が倒れたのを見て止まってくれた。珠樹は一瞬そう期待して顔を上げ、直後に期待は裏切られた。 鈴人は、こちらを見てもいなかった。 廊下の奥を見つめていた。 「珠樹さん……? その人は……」 声を聞きつけたのだろう。朔美が部屋から出てきて、鈴人と珠樹を交互に見比べていた。鈴人の言葉が蘇る。まだいるな? 朔美がまだこの家にいることを、彼はわざわざ確認していた。 鈴人の狙いは、朔美だ。 「朔美ちゃん! 逃げて!」 叫ぶ。だが、間に合わなかった。え? と不思議そうな表情を朔美が浮かべたそのときには、鈴人はもう朔美に向かって手を伸ばしていた。 少女の細い首が掴まれ、床から足が離れる。 「――あっ」 「鈴人くん!」 声を張り上げるが、相変わらず鈴人は聞く耳を持たない。後ろから見る彼の目は、今まで見たことがないほど真剣で、怖くて、氷のように凍てついている。 どうして彼がそんな目をするのか、珠樹は全く理解できない。 鈴人と朔美が幼い頃に会ったことがあるのは聞いた。だが、それだけのはずだ。仮に当時に何かあったのだとしても、あの公園に足を運ばなくなってもう数年が経っている。今更鈴人がこんな真似をする説明にはならない。 なんで、そんなことするの? 泣きたくなるような気持ちでそう問おうとして、しかし別の声に遮られた。 「……霧崎、鈴人さん」 首を持ち上げられた体勢ながら、冷静な目で朔美が鈴人の名を呼んだ。 鈴人もまた、朔美に見覚えがあったのだろう。少女が自分のことを知っていることに特に疑問の声を上げることなく、淡々とした声で応対する。 「久しぶりだな」 「あなたがこんな真似をするなんて……ちょっと意外で、悲しいです」 「俺も意外で悲しいよ。こんな真似をさせられるとはな」 どこまでも冷たい声。 直接向けられているわけでもない珠樹まで震え上がるような声。 「用件は分かってるな?」 「はい。……分かってますけど、一つお願いがあります」 「何だ?」 「時間を、ください」 朔美が鈴人から目を逸らして、珠樹の方を向いてきた。 「一分、いえ、三十秒でも構いません。その後は言う通りにしますから、わたしに、時間をください」 氷のような鈴人の目を、朔美は真っ向から見つめ返している。鈴人は答えない。片手で持ち上げた朔美を睨んだまま、何も言葉を発しない。 永遠に思われた硬直を破ったのは、朔美でも鈴人でもなければもちろん珠樹でもない、新たな声だった。 「三十秒くらい許してやったらどうだ、鈴人」 遊刃だった。 一体どこに隠れていたのか。いないものだと思っていた滅刀の女性は、珠樹の部屋の扉を開けて鈴人に向かってそう言った。 「……遊刃」 「彼女……朔美君を見つけても勝手に手出しはしないようにと、最初に私に連絡しろと、私はそう言ったはずだが?」 「連絡して欲しいなら連絡できる場所にいろ」 「私ならずっとここにいたが?」 「……。知るか」 よく分からない短い問答の後、鈴人は朔美を廊下に下ろした。 「五分だけ待つ。終わったら外に来い」 ありがとうございます、と頭を下げる朔美にさっさと背を向けて、鈴人はこちらに歩いてくる。見上げる先、鈴人の目は先ほどと全く変わっていない。氷のように冷たく、真剣で、怖くて―― だけど―― 「……言い訳は、後でする」 珠樹の隣を通る際に、鈴人は小さくそう言ってきた。 「……。悪かった」 朔美に向けていたような冷たい声ではない。少しだけ落ち込んでいるような、申し訳なさそうな、低い調子で発せられる彼特有の謝罪の声だった。 「あ……」 階段を下りていく鈴人の背中に声をかけようとするが、何と言っていいのか分からず、結局言葉にならなかった。階段から鈴人の姿が消える。玄関の扉を開ける音。閉まる音。 鈴人が外に出て行ったことが分かって、安堵しなかったと言えば嘘になる。 最後の最後で謝ってはくれた。まだ彼のことを許せないわけじゃない。 だが、怖くなかったかといえばそれは全くの別問題で、人が変わったような鈴人の態度はやはり思い出すだけでも怖かった。 何で? どうして鈴人くん、あんなことしたの? 外にいるのであろう幼馴染に問いかける。わけがわからない。謝る前に理由を説明してほしかった。 と、 「時間が、あまりありません」 横からそんな声がかけられた。 見れば、何かが吹っ切れたような表情で朔美がそこに立っていた。 彼女にかける言葉が咄嗟に見つからない。あんなの気にすることないよ。そんな風に言うのは違う気がする。だが、珠樹の知る限り彼女が鈴人を怒らせるようなことは何もなかったはずだ。鈴人が最後に朔美に会ったのは、最後にあの公園に行った中学一年のときのはず。数年が経った今になって鈴人が彼女に怒りをぶつけるのは、どう考えてもおかしい。 久しぶりだなと、鈴人は言っていた。 だから、珠樹が知らないだけで実はつい最近まで会っていたということは、ありえないはずだ。 だとしたら、一体どうして? 困惑する珠樹に、朔美は小さく頭を下げてきた。ふと見れば遊刃の姿はない。部屋の扉が閉まっていることからして、また中に引っ込んだのだろうか。 不思議に思った。 遊刃なら、堂々と聞き耳を立てているはずなのに。どうしてそんなことをするんだろう。 「珠樹さん。……ごめんなさい」 何もかもが理解できない状況の中、朔美のその言葉は余計に不意打ちだった。 「え? な、なんで謝るの?」 謝らないでほしい。一緒になって、鈴人の行動の意味を不思議に思ってほしい。 ここで朔美に謝られたら、また理解できないことが増えてしまう。ただでさえ一杯一杯なのだ。これ以上何か訳の分からないことを言われたら、本当に壊れてしまう。 謝らないで。お願いだから謝らないで。 そう願う珠樹の心は、しかし朔美に届くことなく、 「お姉さんを……澪さんを殺したのは、わたしです」 朔美が何を言っているのか、すぐには分からなかった。 「……え?」 そう答えることしかできず、朔美の顔をまじまじと見つめる。 少女の顔に表れていたのは、決意と、悲しみと、悔恨と、諦観。 四分と十秒と少し。それだけの時間で、朔美は出てきた。 「三十秒でいいんじゃなかったのか?」 「五分は待ってくれたんでしょう?」 問いかけに問いかけで返してくる。一見おどけているが、しかし中身はそうはいかないだろう。これから存在を消される。言うなれば、刑場へ引き出される直前の死刑囚のような気持ちのはずだ。 それなのに、朔美は何も言わない。 満面の笑顔とまではいかないが、悟りを開いたような穏やかな笑みを浮かべている。 「もういいんだな?」 歩き出しながら、鈴人はそう尋ねた。 「はい」 朔美は小さく頷く。 「これ以上は、わたしがつらいだけですから」 思う。 もう、全てを投げ出してベッドで丸くなっていたい。 『どうしても消えたくない理由があったわけじゃないんです』 聞いているときには、だからどうしたとしか思えなかった。 『ただ何となく、漠然とまだ消えたくないって思っただけなんです』 そりゃ明日いきなり死ねとか消えろとか言われたら、自分だって怒れるし嫌だと叫ぶに決まっていると思った。 『おかしいですよね……。もう十年も幽霊やってるのに、漫画やゲームじゃないんだから、生き返れないなんてことは分かってるのに……それでも、まだ存在し続けようとするなんて』 もう何も言わないでくれと、そのとき珠樹はひたすらそう願っていた。 けれど彼女は、続けてこう言った。 『それが、わたしが澪さんを殺した理由です』 その一言で、珠樹の頭に浮かぶ言葉の全てが消え去った。 最後の最後まで残っていた理性の糸が、完全に途切れた瞬間だった。 『謝ってすむ問題じゃないし、許してもらおうとも思っていません。それでも一度、ちゃんと謝っておきたかったんです。でも、こちらのご両親もあなたも、澪さん以外は誰もわたしを見ることができなかったみたいだから……。公園で珠樹さんがわたしのことを見ていたときは、夢かと思いました』 ――わたしに、こんなことを言う資格はないけれど。 最後に朔美が口にした言葉が、珠樹の耳から離れない。 ――幸せになってください。お姉さんの分まで。 階段を上がったところから一歩も動けずにいる。遊刃の手が肩に置かれている。そのわずかではあるが確かな重みがなかったら、きっと自分は何を考えることも何をすることもできなくなっていただろう。 「……ねえ」 「ん? どうした?」 遊刃はこんな優しい声をしていただろうか? 労わるような響きの声に心が折れそうになる。何もかも投げ出して丸くなっていたくなる。美弥香。遊刃。樹里。空也。あのデパート。朔美。そして鈴人。この数日のうちに怒涛のように押し寄せてきたことが、頭の中で暴れ狂っている。 破裂してしまいそうなほどに、苦しい。 「何なの、これ?」 「何なのとは?」 分かっているのか分かっていないのか、遊刃は問いに問いで返してきた。 その試すような口調が気に入らなかった。 元はといえば、お前が全部持ち込んできたものなのに。遊刃に対する恨みが、怒りが、珠樹の心の奥底から喉を通ってせり上がって来る。 もう、本当に、今度こそ限界だった。 「全部だよっ! 幽霊ってなに? 滅刀? 紡ぎ手? そんなのボク知らないよ! 姉ちゃんが死んで、悲しくて、苦しくて、それだけじゃだめなの? なんでそれだけで放っておいてくれないの!? ボクはなにもできないよ! なにもできないし、なにもしたくない! もうヤだ! 何もかも、全部全部もう知らない!」 姉の死から、全てが始まった。 遊刃。屋上。刀。鈴人。霊。紡ぎ手。空也。デパート。砕け散った少女と人々。帰り道での言葉。 たった二日のうちに、物凄い勢いで流れ込んできた『未知』。 とどめとなったのが鈴人の豹変と、いきなり現れた姉の仇だった。朔美の話したいことというのは、先ほどの自首めいた告白なのだろうか。 そんなもの、要らなかった。 今朝会ったばかりの幽霊少女に話があると言われて、何かと思って聞いてみればお姉さんを殺したのは私です? そんなことを教えて、一体どうしろというのだろう。 許せば良かったのか。 どうして殺したのと問い詰めれば良かったのか。 恨んで憎んで、口汚く罵れば良かったのか。 今朝会ったばかりの少女相手に? そんなことができるわけがない。 なにも言わないでいてくれた方が、なにもしないでいてくれた方が、自分にとってはずっとありがたかったのに。 一体、どうしろというのだ。 「……珠樹」 膝を抱えてうずくまっていると、遊刃が静かにそう声をかけてきた。いつかのように肩を抱いてくる。いつかのように温かい、優しく包み込むような感触。 「すまなかった。このことに君を巻き込むつもりはなかったんだ。朔美君のことは、私たちの手で、君には悟られず何とかしようと……」 と、そこまで言ってから不意に調子を変える。 「……こんな言い訳じみた言葉など、君は望んではいないだろうな」 苦笑しているような声。その通りだ。言い訳などされても、それを許す気力も怒る気力も自分には残っていない。 「私から言えることは一つだよ、珠樹。やりたいようにやるといい。朔美君を自分の手で鎮めたいなら、鈴人にそう言うといい。文句を言いたいのなら、私に思う存分言えばいい。疲れたなら、ベッドにもぐりこんで眠るといい」 そして、いつかと同じ優しい声は、いつかと同じ言葉を口にした。 「泣きたいなら、泣くといい」 ここで背中を撫でてくるのは反則だと思う。 「……っ」 振り向いて遊刃の胸に顔をうずめることだけは、どうにか我慢した。階段の一番上に座り込んで、抱えた膝に頭をうずめて、我ながら子供っぽい声をあげて珠樹は思いっきり泣きじゃくった。 落ち着いたか? そう聞いてくる遊刃に一つ頷いて、珠樹はふと尋ねた。 「……鈴人くんは、朔美ちゃんをどうするつもりなの?」 「ふむ。それはまあ、鎮めるつもりなのだろうが。そういえば彼はどうやって鎮める気なのだろうな。滅刀を持たない彼では、霊を鎮めることはできないはずだが」 背後で首を傾げる遊刃の言葉に、珠樹はふと思い出した。 遊刃以外のもう一人の滅刀――空也。二人はもう出会っている。彼と鈴人は、少なくとも赤の他人というわけではなくなっている。 そのことを言うと、遊刃は納得したように頷いた。 「なるほど。鈴人が捕まえて、樹里君が鎮めるというわけか。……そうすると、鈴人だけでなくあの二人まで私を無視して動いているのか。けしからん。もう奴らには何も教えてやらないことにしよう、まったく」 憤慨している遊刃に構わず、珠樹は朔美の言葉を考える。 澪さんを殺したのは、わたしです。 ドラマや小説の中でもなければまずお目にかかれないような、犯人の自白。 訳が分からなかった。 言葉の意味は理解できても、納得などできるはずもなかった。 どういうこと? と、それすら尋ねられなかった自分がもどかしい。 どうして引き止められなかったのだろう。どうして「待って」という一言が言えなかったのだろう。 ぺこりと小さく頭を下げて、階段を下りて行った朔美の後ろ姿。 あまりに小さくか細い肩。 子供の外見に似合わない、全てを諦めたかのような雰囲気。 鮮明に思い出される。それをただ眺めているしかなかった自分に泣きそうになる。動けなかった。何も考えられなかった。 情けない。心の底からそう思う。 「……。あまり深く考えるな、珠樹」 遊刃が頭を抱えてくる。抱き寄せられる格好になるが、珠樹は抵抗せずに遊刃の肩に頭を預けた。 瞼が急に重くなる。 何だろう、どこかで覚えのある感覚。遊刃の声が急速に遠のいていく。 これは、 あの通夜のときに―― 「散々泣いて疲れたろう? 今の君は色々な物を抱えすぎている。部屋まで運んであげるから、今日はゆっくり休むといい」 身体に力が入らない。肩を抱かれ、足を持ち上げられ、お姫様だっこのような格好で遊刃は珠樹を抱え上げようとする。細身の身体のどこにそんな力があるのか不思議だった。肩と足に回されている腕は、華奢な外見からは想像もつかないほど強く、優しい。 ――だけど、 ありったけの力を振り絞って手を伸ばす。遊刃の服を掴んで、珠樹は小さく首を振る。 ――ここで甘えたらいけないという気が、何となくした。 「どうした?」 「……。今のボクに必要なのは、休息じゃ……ない、よ……」 あの通夜の夜は、遊刃の言う通りに眠ってしまった。 だけれど、今回は眠ってしまうわけにはいかない。 あのときと違って、今回は『次』がないのだから。 虚を突かれたような表情を遊刃が浮かべたのは、ほんの一瞬だった。眠気が急速に引いていく。身体に力が戻ってくる。遊刃は珠樹を廊下に下ろし、屈んで視線を合わせた。試すように問いかけてくる。 「ならば尋ねよう。今の君に必要なのは何だ? 今の君は何をしたい?」 「……。やりたいことは分からないけど……」 朔美は、消えたくなかったと言っていた。 彼女自身がそう言っているのだから、珠樹はもちろん、鈴人たちが彼女を鎮めることには反対だ。 だが一方で、朔美は姉を殺した犯人でもあるらしい。 幽霊には法も刑罰もない。だから彼女を裁くには、鈴人たちがやろうとしているように強制的に鎮める他ない。 本来なら彼女が鎮められることを最も強く望むべきなのは、妹である自分だ。 だけど、彼女が鎮められるのは嫌だ。彼女にはまだ消えてほしくない。 だけど、自分がそんなことを言うのはおかしい。仇を討ちたくないのか。実の姉よりも今朝会ったばかりの女の子を優先するのか。そう言われたら、頷けないし否定もできない。 情が移ったわけではない。可哀想だと思っているわけでもない。 だけど、自分は少なくとも、彼女に消えてほしいとも裁かれてほしいとも思っていない。 だけど、だけど、だけど、だけど、だけど――――――――――――― 「……やらなきゃいけないことは、よく分かってると思うから」 頭の中で繰り返される『だけど』の中で、ただ一つだけ確かなこと。 このままではいけない。 このままでは嫌だ。 納得していないし、理解してもいない。自分はまだ部外者の側にいる。良くも悪くも他人が決めた成り行きに従おうとしている。 「一つ、聞いていいかな?」 「ん?」 「もし――」 もし、自分が紡ぎ手になるのなら。 自分は多分、滅刀を用いて霊を鎮めるというやり方は選ばない。選ばないし、選べないだろう。 自分が定める、紡ぎ手としての生き方。やり方。 それは―― 「もちろんだ」 珠樹の問いに遊刃は大きく頷く。珠樹の意図していることには気づいているはずなのに。珠樹が定める紡ぎ手としての在り方を、遊刃は察したはずなのに。 「……協力してくれる?」 それなのに遊刃は、 「もちろんだとも。新たなる我が主よ」 遊刃は満面の笑みで、何の躊躇もなく頷いてくれた。 俗に幽霊屋敷と呼ばれている古ぼけた廃屋だが、実際は幽霊など一人もいない。紡ぎ手が鎮めたのか元々いなかったのかは知らないが、少なくとも鈴人が朔美を連れて忍び込んだときには、家主の姿は生死問わずどこにもなかった。 「遅いですよ」 縁側に堂々と腰掛けている少女が一人いるが、まさか彼女が家主ではあるまい。 「悪かったな」 既に待っていた樹里と空也に向かって、鈴人は小さくそう言った。お前は真っ直ぐここに来て待ってれば良かったんだろうが、俺は違うんだよ。そう言おうかとも思ったが、やめた。そんな体力も気力もない。 何というか、疲れた。 向こうからわざわざ姿を現した。逃がす手はない、今すぐ捕まえに行けば手っ取り早い。それが珠樹の家に押しかけた理由ではある。が、それ以上に珠樹が危害を加えられないという保証がなかった。相手が万が一朔美ではなかったら。霊能力者と見れば無差別に手を出すような悪霊だったら。そう思うといても立ってもいられなかった。午後の授業そっちのけで学校を出て、三十分の道のりを全力で駆けて、玄関のチャイムに珠樹の反応があったときには心底安堵した。 が、その後の行動は、自分でもどうかしていたと思う。 何の危機感も持っていない珠樹の顔に、苛立ちを感じた部分もある。だが、あれはやってはいけなかった。珠樹には非はなかったのに。あんな態度を取ってしまって、さぞ怖がられていることだろう。 自分を見上げてきた珠樹の目が忘れられない。 どうしてこんなことするの? そう問いかけてきた目を、直視することができなかった。 ――……言い訳して、許してもらえればいいけどな。 空を見上げながらため息を一つ。手を引いて連れてきた朔美を突き出して、言う。 「連れてきたぞ」 「ご苦労様です。では――空也さん」 縁側に並んで座っていた二人が立ち上がり、樹里が前に出て空也が白い風をまとう。やがて姿を現す純白の剣。まじまじと見つめる空也の滅刀としての姿は、見慣れた遊刃のそれとはどこまでも対照的な色をしていた。 凶器に対する条件反射か、朔美がわずかに後ずさる。 鈴人は彼女の後ろに立って、その背中を押し止めた。逃がすつもりはないことを態度で表す。 朔美が振り返って、不安そうにこちらを見上げてきた。 その目に恨めしそうな色が少しでもあれば、何の躊躇もしなかったのに。 朔美の目には、鈴人を恨む色も責める色もない。そこにはただ、自分の存在が消えるということに対する不安だけが広がっている。 決意が、萎える。 朔美とは全く知らない仲ではない。小さい頃、珠樹がいないときはあの公園で澪と一緒に朔美に声をかけていた。くだらないことを話した。悩み事を打ち明けた。慰めて、慰められて、やがて成長と共に少しずつ離れていった、あの場所とこの少女。 朔美が澪を殺したと聞いたときは、遊刃の悪質な冗談ではないかとすら思っていた。 朔美のことは、憎い。 だが、精一杯に気力を張っていないと、どこかで許してしまいそうになる。 仇を討つのだと、そう決めた。 朔美を鎮めるのだと、そう決めた。 もう後には引けない。それに今更自分の決意が萎えたところで、樹里が納得するはずもなかった。彼女は自分と違って、朔美とは何の関係もない。朔美のことは澪の仇としてしか見ていない。 逃がさないためだから。そんな名目を頭に思い浮かべて、鈴人は小さな肩に手を置いた。朔美は驚いたようにこちらを見て、やがて微笑んで手を重ねてくる。 細く白く、握ったら潰れてしまいそうな、出会ったときと全く変わらない小さな掌。 ありがとう、と、小さくそんな呟きが聞こえた。 肩に置いた手に、ほんの少しだけ力をこめる。 「……。一つ、聞いていいですか?」 様子を黙って窺っていた樹里が、鈴人ではなく朔美に問いかけた。 「あなたはどうして浴衣姿なんですか?」 朔美の答えを待たずに発される問い。それについては知っている。朔美が浴衣を着ている理由。それは―― 「わたしが死んだのが、近所のお祭りからの帰り道だったからです」 「……。なるほど」 さして感慨もないという風に頷いて、樹里は滅刀を両手で構える。朔美の身体が強張る。鈴人の手にこもる力が更に強くなり、 ――冷たい風が吹き、そして鈴人のポケットから、携帯電話の着信音が鳴り響いた。 鈴人も、朔美も、樹里も。三者が同時に動きを止めた。 微妙に気まずい沈黙。咳払いを一つして、鈴人はポケットから携帯電話を取り出す。 誰かと思えば珠樹だった。こっちが今何をしているのかは分かっているだろうに、なぜ電話などかけてくるのか。怪訝に思いながら通話ボタンを押す。 「もしもし」 『あ、鈴人くん。ごめんね』 「どうかしたのか?」 ――まさか、朔美を鎮めないでくれとか言い出すんじゃないだろうな? ふと、そんな思いが頭をよぎる。 『今、朔美ちゃんを鎮めようとしてるところ? もう遅かった?』 「……。いや、まだだ」 『あのさ……ちょっと待っててくれないかな?』 おいおい、予想通りか? 一瞬そんなことを思うが、しかし珠樹は別のことを口にした。 『ボクも、朔美ちゃんに伝えたいことがあるの』 「伝えたいこと?」 『鈴人くん、悪かったって言ってくれたよね。こんなこと言うの卑怯だけどさ、お詫びだと思って、ちょっとだけ待ってくれないかな?』 それを出されると弱い。何を伝えたいんだと、そう聞きづらくなってしまった。 数秒考え、そして鈴人は――頷いた。 「分かった。幽霊屋敷にいる」 『うん。ごめんね』 珠樹は澪の実の妹だ。ある意味ではこの場に最も相応しい人物だということになる。来ると言われたら、来るなと言うわけにはいかない。 通話を終えた鈴人は、自分に注がれる二対の視線に向かって告げる。 「珠樹がこれからここに来る」 「は?」 「こいつに伝えたいことがあるらしい。だからとりあえず、あいつが来るまで鎮めるのは延期だ」 「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことですか、それは」 食い下がってくる樹里に、鈴人は答える。 「どういうことも何も、澪姉さんの妹がこいつに文句つけてやりたいって言ってるんだ。俺たちが勝手に事を終わらせるわけにはいかないだろ」 「それはまあ、そうですけど、でも――」 「分かったならつべこべ言うな」 一蹴。渋々といった感じで滅刀を下ろす樹里から目を逸らし、鈴人は朔美の顔に目をやる。 「怖いか?」 「――え?」 俯いて複雑そうな表情をしていた朔美は、鈴人の問いに顔を上げた。先ほどとは違った意味での不安で、少女の瞳が揺れている。 「好き勝手に言い残して別れて来た。もう珠樹との関係は終わったと思ったのに、今からあいつが文句を言いに来る。それが怖いのか?」 「……そう、ですね。それもありますけど」 朔美は空を見上げながら、悲しそうに、寂しそうに、不安そうに言う。 「珠樹さん、ひょっとしてわたしを鎮めに来るんじゃないかって……自分の手でわたしを裁こうと思ったんじゃないかって……そう思うと、自業自得だけど、少し悲しいです」 十分ほど待っただろうか。 壊れた塀から忍び込んできた珠樹は、朔美の言葉を裏付けるように、猫となった遊刃を連れていた。 「ごめんね」 「ああ、いや……。それよりお前、まさか――」 本気で朔美を鎮めるつもりなのか? 鈴人がそう尋ねる暇もなく、珠樹は虚空に手を伸ばして、 「遊刃」 一言、そう言った。 巻き起こる黒い風。空也のそれと違って、鈴人が見慣れた漆黒の滅刀。 どういうことだ、と思った。 珠樹は紡ぎ手になどなりたくなかったはずだ。霊を鎮めることに抵抗を覚えていたはずだ。だから遊刃は、自分を巻き込んでまで珠樹がどうすればやる気になるのかなどと考えていたし、樹里や空也が今もこうして出張って来ている。 なのになぜ、珠樹はこうも平然と、遊刃の名を口にする? どうしてああも平然と、現れた滅刀の柄に手をかける? ――……まさか。 まさか、遊刃に何か吹き込まれたのではあるまいな? 自分の手で澪の仇を討ちたくはないか? とか。珠樹はそんな口車に乗るような人間ではない。そうは思うが、しかしそうとでも考えなければ今の状況に説明がつかない。 「珠樹――」 何があった? そう尋ねようとした鈴人の眼前に――漆黒に切っ先が突きつけられた。 ―――――――――――――なに? それが、感想の全てだ。 朔美相手に向けるならまだ分からないでもない。だが、正真正銘生きている人間である鈴人が滅刀を向けられる理由などない。 同じように、何があったのか知らないがどうやら滅刀を持つことにしたらしい珠樹が、朔美を背後に庇っている理由も、何もないはずだ。 「……珠樹、さん」 呆然とした声を何とか振り絞ったように、樹里が言った。 「何を、しているんですか?」 朔美の表情を見るに、どうやらこれは彼女にとっても予想外の事態であるらしい。困惑顔のまま珠樹の背後に庇われ、後ろ手に押されながら出口へと後退して行く。 逃がす気か? 言葉も出ない鈴人の前で、珠樹は樹里に向かって言った。 「ごめんね、樹里ちゃん」 「謝罪の言葉など要りません。伝えたいことがあるのでしょう? さっさと伝えて、さっさとその子を渡してください」 「ヤだよ」 即答した。 さすがの樹里も言葉を失った様子で、口をぽかんと開けている。そんな彼女に向かって珠樹は更に、 「伝えたいことがあるっていうのは嘘じゃないよ。嘘じゃないけど、その後に鎮められちゃったんじゃ意味がないの。だから、ボクは朔美ちゃんを守るよ。鎮めさせない。絶対にね」 その決意の象徴であるかのような漆黒の剣を、ゆっくりと巡らせる。 「朔美ちゃんが姉ちゃんを死なせたっていうのは、自分でそう言ってるんだから、嘘じゃないんだと思う。樹里ちゃんと鈴人くん、それに空也さんも、皆が姉ちゃんの仇を討とうとしてくれたのはすごく嬉しい。けど……ごめんなさい。それでもボクは、朔美ちゃんに消えてほしくない」 「……なぜ、です?」 樹里の問いに、珠樹は困ったように微笑んだ。 そして彼女が口にした答えは、答えになっているようでなっていない、曖昧な言葉だった。 「だから、まだ朔美ちゃんには消えてほしくないから」 「……はい?」 訳が分からない。そんな意味の呟きを漏らす樹里に、珠樹は更に言う。 「とにかく消えてほしくないの。このままじゃダメなんだって、そう思うの。このまま朔美ちゃんに消えられたらボクが困るから。だからボクは、朔美ちゃんを守る」 唖然としている樹里の手から、純白の滅刀が滑り落ちた。地面に落ちる瞬間に白い風が巻き起こり、空也が人間の姿で現れる。 「それで?」 顔を上げながら、空也はそう問うた。 「え?」 「それで結局、君はどうしたいの?」 この場で最も冷静なのは間違いなく空也だろうと、鈴人は思った。樹里は完全に言葉を失っているし、鈴人は鈴人で、目の前の黒い切っ先に声も出なくなっている。 珠樹は空也の問いに、実に簡潔に答えた。 「分からない」 「分からないって」 「何をしたいかは分からないけど、でも、このまま朔美ちゃんが消えちゃうのだけは嫌だから。何をするかはこれから考える。今は、ただ――」 「……ただ?」 しばしの逡巡。 背後の朔美と目の前の空也を交互に見ながら、珠樹は少し小さな声で、しかしはっきりとこう言った。 「――今はただ、ボクがこうしたいから。これが、ボクのやり方だから」 「……。そっか」 珠樹の言葉をじっくり噛み締めるように聞き終えて、空也はゆっくりとそう言った。 「なら仕方ないね。何だかんだ言っても、結局のところ僕たちは付き合いがあっただけの部外者だし。一番仇を討ちたい立場にいる君がそう言うなら、その子を鎮めるのは諦めるしかない。ね? 樹里」 なぜか強引にまとめるようなその言葉に、呆然としていた樹里が「え? あ、そうですね」などと返事をしている。次いで空也は鈴人の方を、意味ありげな目で見つめてきて、 「……君には、それなりに嬉しい展開だったんじゃないの?」 「……。うるさい」 見透かされている。朔美を鎮めることに躊躇いを感じていたこと。珠樹の宣言を聞いたときに、心のどこかで安堵していたこと。 情けなさそうに見えて、実は意外にやり手なのかもしれない。空也の笑みを見ながら、鈴人はそんなことを思った。 数秒後、我に返った樹里が、さっさと退散しようとする珠樹に向かって何事か叫ぼうとした。空也は手を伸ばして彼女の口を塞ぎ、耳元で彼女にだけ聞こえるように囁く。 「気持ちは分かるけどさ。今回は我慢してあげようよ」 「……なぜですか」 不機嫌そうな声の樹里に苦笑。珠樹にとって澪は実の姉だが、樹里にとっても澪は姉のようなものだった。澪を慕う心も、澪の命を奪った朔美に対する憎しみも持ち合わせている。実の妹だからというだけの理由で見逃された珠樹に、見逃した空也に、内心怒り狂っているに違いない。 空也は苦笑しながら、言う。 「見つけたんだよ」 「は?」 「珠樹ちゃんが歩く道。紡ぎ手としての生き方とか、信念とか。多分、見つけたんだよ。樹里が怒るのはよく分かるけどさ、これは珠樹ちゃんにとってはすごく大事なことだし、今回だけは好きにやらせてあげようよ。ね?」 口で言えばいいものを、珠樹はわざわざ滅刀を持って牽制してきた。 あれはおそらく、彼女なりのメッセージだ。 自分は、こういう風に力を使うつもりだ――という。 死者を守る。自分が納得いくまで、死者が己の存在に納得するまで、決して滅刀の力を振るわず、また誰にも振るわせない。 己の存在を死者が自覚する前に鎮めようとする樹里とは対照的なやり方だ。今後も珠樹が紡ぎ手として活動するなら、おそらく対立するのは一度や二度では済まないだろう。 しかしそれでも、空也は笑う。 立場は対極であれ、それは確かに空也が認め尊敬するに足る、信念を持った生き方なのだから。 「……。今回、だけです」 渋々といった感じで、樹里は小さく頷いた。 「ありがとう」 「空也さんにお礼を言われる筋合いはありません」 「うん。でも、ありがとう」 「……どういたしまして」 ふて腐れたようにそう言う樹里の頭を、空也は微笑ましい気持ちで帽子ごしに撫でてやる。 珠樹の姿は、もうなかった。鈴人も彼女を追って出て行ってしまっている。 二人だけ取り残されて、ピエロみたいだね僕たち。 そう言おうかと思ったが、言ったら本気で樹里が怒り出しそうだったので、やめた。 ベッドに倒れこむ。 一応気分が悪くて学校を休んでいる人間としては、ほいほい外に出てしまっていいわけがない。母が帰る前に戻って来られて本当に良かった。安堵する珠樹に、朔美が声をかけてきた。 鈴人と遊刃は二人きりで何かを話すようで、今珠樹の部屋にいるのは、今度こそ珠樹と朔美の二人だけだ。 「あの、珠樹さん……」 「んー?」 「その、あの、わたしは――」 「消えたくないんでしょ?」 問いかけた言葉に、朔美は言葉に詰まったように黙り込んだ。首を動かして朔美の顔を覗き込む。 「消えたかったの?」 「い、いえ! そんなことないです」 「ならいいじゃん」 「そ、それはそうですけど、そうじゃないっていうか!」 声をあげる朔美。珠樹はうつ伏せの状態から仰向けになる。上半身を起こして、横に立っている朔美を真っ直ぐに見つめる。 「あのね」 このままではいけないと、そう思った。 朔美は自分に言いたいことを言ったけれど、自分は朔美に何一つ言いたいことを言えていないから。 「ボクはね、朔美ちゃんが樹里ちゃんに鎮められて、存在を消されても、ざまーみろなんて思えないんだ」 「……?」 「だって朔美ちゃん、いい子だもん」 手を伸ばして、朔美の髪を撫でる。髪を触っている感触はないが、それでも朔美はくすぐったそうに身をよじった。 「本当はボクの方が年下なんだけど、でも朔美ちゃんはいい子っていう雰囲気だなぁ」 「……。でも、わたしは珠樹さんのお姉さんを――」 言いよどむ朔美に、そんなこと分かってるよと心の中で呟いた。 分かっていても、仇を討とうとか、目の前から消えてほしいとか、そんな風には考えられないのだった。元々そんな性格ではないというのも確かにある。けれどそれ以上に、珠樹は朔美の思いがよく分かるのだ。 美弥香が叫んでいた。 元デパートの中で、焼け死んだ人々が叫んでいた。 消えたくない。 消えたくない。 おそらく朔美は同じことを叫んだだけで、相手がたまたま姉だったという、ただそれだけのことなのだ。ただそれだけだと言い切るのは難しいけれど、朔美はたぶん、客観的に見れば何も悪いことはしていない。 「消えたくないなら、無理に消えることないんだよ。自殺と同じだもんね。無理してやることじゃないよ」 「で、でも! 珠樹さん、わたしは、わたしは――」 わたしは、の声が尻すぼみに小さくなっていく。俯いて言葉を失う朔美の頭を、珠樹はゆっくりと撫でながら、 「ボクが守ってあげるから」 弾かれたように、朔美が顔を上げた。 「遊刃から聞いたんだ。ボクが紡ぎ手として朔美ちゃんのそばにいれば、他の紡ぎ手……樹里ちゃんとかが鎮めに来ることはまずないんだって。だからね、これからずっと、ボクは朔美ちゃんのそばにいる。朔美ちゃんがもういいって思うまで、ずっとずっと、守ってあげる」 「……」 朔美の瞳が揺れる。信じられないものでも見るような目をしてくる。無理もない、と思う。自分だって自分の言っていることに呆れているのだ。 「でも……」 「ん?」 「でもそれじゃあ、珠樹さんに申し訳ない……」 心の底から湧きあがって来ているかのような声に、珠樹はわずかに苦笑した。自分がああしたのは別に重大な決意故というわけではない。強い志があったわけでもない。 ただ、そうしたかったから。それだけに過ぎないのだ。 「……。そう思うなら」 朔美が顔を上げる。 笑いかけながら、珠樹は言う。 「そう思うなら、一緒にいて?」 朔美の心情を思えば、本当はこんなことを要求するべきではない。 けれど、一緒にいて打ち解けることができれば、その後に謝ってくれれば、自分は今度こそ朔美のことを許せるかもしれない。 それはどこの誰とも知れない犯人を恨むよりも、この世から消えてしまった少女に問いかけ続けるよりも、ずっと幸せなことだと思う。 それに―― 「ボクと一緒に、困ったり悩んだりしてよ」 遊刃。鈴人。空也。樹里。 自分の周りにいる連中はどいつもこいつも腹に一物持っていて、おたおたしたり困惑したりするのは自分一人の役目になってしまう。 朔美がいれば、一緒になってその役割をこなしてくれるだろう。 「そうしてくれれば、ボクはいくらでも、朔美ちゃんを許してあげられるからさ」 言いながら、何だか眠くなってきた。 疲れた。 朔美の頬に手を伸ばしながら、泣いているような朔美の身体の震えを感じながら、珠樹はそっと目を閉じる。 紡ぎ手は何も、滅刀を振り回して霊を鎮めるだけが能ではない。遊刃からそれを聞いたとき、それなら自分はそう生きようと、実にあっさりと思うことができた。 つまり――紡ぎ手としての立場を利用して、まだ消えたくないと願う霊たちを守ればいいのではないか、と。 除霊屋まがいのことをやるより、そっちの方がずっと自分に合っている。 それが自分の生き方であり、紡ぎ手としての信念なのだと、珠樹はそう思うのだ。 |
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