じ〜んせ〜い〜 楽ありゃ 苦もあ〜るーさ〜♪ in 2001年
ってな訳で、人生についてちちっと考えてみます。今年こそは充実させたいものでありますが・・・
【バックナンバー】
2000年版 マジネタ多し。ご一読下され
2001年版 このページじゃ
2002年版 まだじゃ
【 お品書き 】
★★04/13 「恋愛ということば」
★★04/17 「罪と裁きと神の愛」について ---我が「神とキリスト教」観---
★★04/21 「死ねない運命(さだめ)、死すべき運命」
★★04/12 「発散すること」 (ちと馬鹿)
★★06/05 「ごんじぃはクリスチャン?」 (駄文)
★★06/11 「恋愛とHの勲章・異性自慢について」
★★04/13 人生について 「恋愛ということば」
よく、恋愛ドラマなんかで「君を愛してる」
な〜んてセリフが出たりすると「をいをい、ソレは違うだろ〜(笑)」なんて突っ込みたくなる私。恋愛ものの話に出て来る「愛」って、大概は「恋」の方ですよ・・・ね?
そう、「愛と恋」って、良く混同されるけど、その性格は正反対で全く別のもの。
だって、愛は与えるもので、恋は求めるものなのだから。
たとえば、親が子に対し無条件で抱くようなものが愛であって、見返りを求めるものでは無い。強いて言うなら、その人の成長と幸せを願うこと、それが愛なのだと思う。
その一方で、恋情は相手と共にいることを望み、求める。相手の幸福ではなく、自分自身の気持ちを満たすことが主目的の、ある意味「不純な感情」と評することすらできるでしょう。
そう、愛は相手の幸せを、恋は自分の幸せを願う感情なのです。
ただ、恋愛の中に相手を守りたいという「愛情」と、一緒に居たいという「恋情」が同居しているからこそ「恋愛」と呼ぶのでしょうね。
先人達はそのことをしっかりと理解して、この単語を完成させていたのです。
それを使う我々現代人も、その言葉に託されたメッセージをきちっと受け取り、使いたいものであります。
★★04/17 人生について 「罪と裁きと神の愛」について ---我が「神とキリスト教」観---
善行には御利益が有り、悪行には罰が当たる。
例えば、お賽銭をふんぱつすれば御利益も多くなりそうな気がするし、逆にけちったり盗んだりすると後でばちが当たりそうな気もする。
それは、世界でも一般的な考え方だと思う。
日本の神道はまさにそのまんまだし、仏教にも因果応報の考え方が有る。
さらにもってキリスト教もそんな感じ。善人は救われる(ことになっており)、悪いことするとすぐ雷が落ちてくる(ことになっている)。
そして実際、旧約聖書なんかでは人が本当に沢山死ぬ。
神は気まぐれか、と思える程に人が死んで行く。
否、全て「神の意志」によって罪人達は殺されて行くのだ。
罪人は生きる価値すら無いのだろうか。
否定され、地獄に堕ちるしかないのだろうか。
これは、長いあいだ、私が疑問に思っていたことでした。
結論から言って・・・ 「それは違う」と、私は断言します。
神の愛とは、例えるなら、親の子に対するものと全く同じものなのです。
もし、我が子が罪を犯したとき、親はどう思うでしょうか。
叱りつける時に、どんな気持ちでしょうか。子を憎んだりするでしょうか。
否、きっと苦しみ、悲しんでいることでしょう。
親は犯した罪に対し、時に怒り、時に罰を与えますが、その内面には愛があります。
それは神も同じことなのだと私は思います。
罪に対して罰があるのは、それが悪いことであることを知らせんがためのであって、怒りや憎しみからのものでは決してありません。
全ての人類の父たる神は、あらゆる人を愛しているのです。
では、死後の裁きによって地獄に堕とされるというのは一体なぜなんでしょう。
何だかんだといって「来世」では、徳行には最後に天国が待っており、悪行には裁きが有るという。やはり神は「選民的」ではないか、という根強い天国・地獄観がありますが、そこにも大きな誤解が有ると私は思っています。
考えてみて下さい。例えば、本当に貴方のことを純粋に愛してくれた人がいて、その人を悲しませるようなことをしたり、自分がその人に顔向けできるような人間ではないと感じたとき、心がとても痛むはず。その人が偉大であればあるほど、愛が深ければ深いほど、その痛みは大きいはずです。
死後に待つものは裁きではなく、溢れんばかりの神の愛だったとすると、それに対する良心の痛みもまた大きなものとなるはず。溢れる愛に対して、顔向けできぬ息苦しさと後悔、これこそが地獄と呼ばれる苦しみなのです。
繰り返し申し上げますが、全ての人類の父たる神は、あらゆる人を愛しているのです。
「愛してるのは分かったけど、どうして助けてくれないんだ。世の中には苦しみや悲しみで満ちあふれているじゃないか」そんな疑問も当然沸いて来るでしょうが、簡単に言えば「親という字は、立った木の上で見ていると書くものだ」ということです。
苦しくなればホイホイと手を貸すようでは良い親とは言えません。良き親としての神は見えないところで見守っているのでしょう。
一体、何のために?
それは、1つ1つの人生が悲しみや苦しみ、幸福感や喜びといったことを感じ、文字通り人としての成長をして行くことを望んでいるのだと思います。「全能の神」といっても、無垢なる人間に苦楽といった「人生の味」を理解してもらうためには、いちど人生を全うしてもらう以外に方法が無いのでしょうね。
実際、色々な「痛み」を感じたことの無い人間は、人の苦痛をなかなか理解することができず、いたわりの心が備わりません。そして、幸福感を知らない人も、優しさや愛情を育むことができません。不幸も幸福も、人間にとっては大切な経験なのです。
こんな感じで、キリスト教ってのはやったら「深い」ものではなく、単純で分かりやすいモンだと私は思ってますです。
「良くわかんないぞ」「神の哲学とわ、こんな浅いモンでわ
ぬわ〜い!」等々のご意見がお有りでしたら、掲示板にでもどうぞ。
★★04/21 人生について 「死ねない運命(さだめ)、死すべき運命」
そして、あの人はこんなことを口にした。
「生きてても、意味、ないじゃない」
私は突き放して言った。
「じゃあ死ねば?」
すると、少し間を置いてから返してきた。
「生きることは・・・ 惰性なんだよ・・・」
そう、生まれてしまったからには、どんなに苦しくても生きねばならない。
死という恐怖に追い立てられ、死なないために生き続ける長い道。
死に飲み込まれるその日まで。
★★04/12 ひとりごと
ほんと、ハンパ無いほどすっげ〜〜凄まじくショック受けました。
どれくらい凄まじかったかというと・・・ 実弾による爆撃演習(いわゆる脱糞)を2時間で4回もしてしまう程。
ストレスがこういう形で現れるとは思いもよりませんでしたよ、ええ(笑)
理由はともかく、ストレスを感じたら発散させることが大事。
昔はストレスをムリヤリ整理整頓し、消化し尽くすという哲学者or苦行者みたいなコトをしていたものですが、やっぱり問題から一歩距離を置いた方が冷静に見れるというものです。
で、その発散方法ですが、色々考えられます。まず一般的なのが・・・
1、喰う 2、寝る 3、飲む 4、アレ
原始的な欲求を満たすことによる発散ですね(笑)
ワシは酒を飲まないので、1−2コンボの後、とっとと寝るのフツーのやり方であります。
その他ですと・・・
4、風呂 5、歌う(叫ぶ) 6、聴く(音楽) 7、観る(映画)
ってな感じになりますかね。
風呂は熱〜くして、脳味噌が働く余地を与えないのがポインツ(笑)
さらに別タイプとしては・・・
8、話す(要友人)
コレです、究極奥義。やっぱ辛い時には持つべきものは友でしょう。
もちろん、愚痴り過ぎは厳禁。
究極番外編としては・・・
9、虐める(苦行)
虐めるってのは他人に当たるって意味じゃなくて(そういう手も有るかなw)、自分自身の体を虐めるってことです。
以前えらく落ち込んでた時に、全身日焼けで夜も眠れないくらい苦しかったんですけど、その時はもう落ち込むどころじゃなかったっす(笑)
さてさて、他にはどんな発散が有るかな〜?
★★06/05 人生について
以前、私の書いた「罪と裁きと神の愛」ってヤツを読んだ中に「ごんじぃってクリスチャン?」と思った人も居たようですが・・・ 結論から言うと、実は「ワシにも良くワカラン」のであります。実際のところ、どうなんでしょ? 教会に行く訳でもなし、祈る訳でもなし。神の御恵みを期待する訳でもなし。
しかし、自分がそういう「ノンポリ的な状態」で居られるのは、「死の恐怖が身近でない」からに過ぎない、とも感じているだけに、完全否定することもできません。人間とは本当に弱い存在で、極限の世界に近づけば、非科学的なジンクスやら宗教的なものやらに縛られずには居られないものだ、と私は考えております。そして残念ながら、私もその例外ではない訳でして。
ってな訳で、こんな弱いワシが人生をどう考えているのか、再度文章化してみようと思っておる次第でして、こういったネタにもお付き合いしてくれると嬉しいっす。
なお、歴史ネタはまとめ中であります。
★★06/11 人生について 恋愛とHの勲章・異性自慢について
今まで「初Hは何歳の時だった」だとか「○人の異性と付き合ったことが有る」とか、自慢げに語る人が少なからず居るけど、私的には「げんなり」という感じであります。
確かに、初Hが遅すぎるのは格好悪いって感覚は私も良く分かるけど、だからといって、早けりゃ良いってのも違うんでないかな、と。余りに早い人って、興味本位でそういう行為に走るっていう「軽薄な怖さ」を感じるのであります。
そして、付き合った人数を誇るってのはもっと分からない。多数の異性と付き合ったってことは、よっぽどお気軽に「お付き合い」とやらを、とっかえひっかえしてるってこと・・・? これってそんなに自慢になるのかな??
さらに有ろうことか、えっちっち〜した人数を勲章のように自慢するってのは、ワシ的には完全に理解不能の世界。
少なくともワシだったらお付き合いするからには好きな相手としたいし、好きなからには大切にしたいと思うし、大切にしたいからその人には誠実でありたいと思う。その一方で、相手にも自分に対して誠実であって欲しいと思う訳で、下半身に節操の無い人ってのは、そいう点からするとちょっと怖い・・・ ってな発想でして。
まあ、数をこなしていれば、それだけ異性に対する魅力があるって証明にはなるのかもしれんですけど、ワシ的にはそういうのは余り魅力に感じません。相手をしっかり観る目があって、1人の異性をしっかり惹き付け続け、なおかつ愛し続けることのできる人が、尊敬できるし、羨ましいし、凄いなって思うのであります。
ワシ自身も、そんな人間でありたいと願い続けて80年ですが、この先どうなることやら。
なお、「その前に相手を見つけたら?」という突っ込みは禁止っす!(笑)
つづく・・・ おそらく。
★★06/19 人生について
さて、前回の「恋愛とHの勲章・異性自慢について」話でしたかったのは、「お付き合い」の時期やら数やらを自慢するってのは、人としての魅力にプラスにはならないのでは・・・ という「私個人の価値観」を投げかけてみた訳でありまして、決して「人格の善し悪し」を定義しようとしたのでは無い点をご承知おき下さい。
ま、人それぞれの考え方が有るわけで、それについてどうこう言うつもりは有りませんから。
その人が幸せであるなら、それはそれでOKだと思います。
*修正情報 「したのでは無い」の茶字部分が欠落してました。かなり後で補正。誤解されてないだろうなあ・・・ ( ̄(エ) ̄;
★★12/23 ごんじぃの恋愛失敗談
ずっと後になって、はじめて分かることが有る。
もし、私の経験が誰かの役にたてば、と思い、筆を取りました。
大分昔の話になりますが、こんな私でも1人の女性とお付き合いする機会が有りました。当時の私たちは、お互いに心から「愛している」と言える恋人であり、苦楽を分かち合う親友でもありました。しかし、物理的に距離が離れてしまったことに加え、自分自身すら支えることが出来なかった私の至らなさもあり、彼女は、4年近く続いたその関係を絶つ決断をしました。
今回は、そのことについて、順を追って語ろうと思います。
1.当時の私と彼女
当時、私は「誠実とは何か」「永遠の愛なんて有るのだろうか」と自問自答を繰り返しておりました。
私にとっての誠実さとは、いたわり愛することであり、嘘をつかないこと、欺かないことであり、何よりも傷付けないことだと考えておりました。
そして自身へ対し「誠実であれ」「常に良き人たれ」と常に強いており、その生き方はさながら苦行僧のごとし。しかしながら、完璧を目指しても完璧になれる訳も無く、逆に己の「業」に落胆することしばしばでした。
そして、ふと目をあげてこの世を見渡せば、愛し合ったはずの夫婦が分かれることも多々有ります。そんな世の中、永遠の愛など有るのか、自分自身も彼女を永遠に愛し続けることが出来るのか、もし愛せなくなってしまったとしたら・・・
彼女に夢中で、熱烈に恋していたと同時に「彼女を『絶対に』幸せにしなくてはならない・・・!」といった義務感を抱えていた私は、そんな不安から、彼女に対して「一生君を愛し続けるよ」と、永遠の誓いを語ることは出来なかったのです。
その一方で、彼女はいつも「誠実さとは何か」「結婚とは何か」を問い続けていたようです。
彼女は、親戚等の家柄が複雑なこともあって、愛情が希薄なのに己を殺しつつ結婚生活を続ける「冷えた家庭」を知っていてたので、結婚には否定的で、常々「結婚なんてしたくない」と語っておりました。
彼女は、結婚生活を守るための『配偶者への表向きな誠実さ』に対し欺瞞を感じ、その反動から、自分に嘘をついてまで結婚を続けるべきではないばかりか、己を抑えるよりも自分の欲望に素直であるべきだと考えていたのです。そして、冷えた家庭で傷付く子供を知っていたためか「子供なんて欲しくない」とも語っておりました。
それを聞くたび、私は悲しく思っておりました。結婚なんてしたくない、という彼女の言葉は、私との結婚の拒絶とも取れたし、子供に云々についても私の結婚観と大分違ったからです。
「僕とは結婚したくないのかい? 子供、本当に欲しく無いのかい?」言葉にならない問いを、何度も語りかけていたように記憶しています。しかし、ついにそれを口に出すことは有りませんでした。
私は彼女と共にずっと生きて行きたいとも、彼女を絶対幸せにしたいとも思っていました。意志も、そして心もそう意識していました。ですから別れる=結婚しない、などとは考えも付かなかったのです。ずっと一緒であることが自分の中では当然で、それはきっと彼女にも伝わっているはずだ、と思っていたことも深く語らぬ理由の1つでした。
それに、そんな問いを吹き飛ばしてしまう程、共に過ごした日々は実に楽しかったので、そういった「結論」までの語らいをすることはほとんど無かったのです。