砂神
いつものように、変わらない夏休みが始まるのだと思っていた。
本当に北斗ちゃんはお父さんそっくりねぇ。
物心ついてから何度となく聞いた台詞。それは冗談でも揶揄でもなんでもなく、真実であった。普通の子供ならそれをいやがるところだが、相模北斗(さがみほくと)は誇りに思っていた。
子供の目から見ても父はかっこよく、女性にもてることがわかっていた。いや、知っていたというほうが正しいのかもしれない。
なぜか北斗には母親がいなかった。おそらく北斗を生んですぐ死んだのだろう。父に問うたことがないわけではないが、いつも悲しい目をするので答えを聞けずにいた。
こぶ付きではあるが独身の父・あずまは育ちがいいのか物腰が柔らかく、それでいて軟弱ではない。バレンタインデーや誕生日には抱えきれないほどのプレゼントを持って帰る。時には北斗の誕生日にまでプレゼントをくれる人もいた。こぶ付きでもいいと思わせるほど魅力的、ということなのだろう。
しかし、思春期を迎え、北斗も「父親に生き写し」といわれることが煩わしくなった。もちろん嫌になったわけではないのだが、それを理由にからかってくる幼馴染がうっとおしかったのだ。
「北斗、プール行かない?」
少女の声が暑さのために机にはりついていた北斗に降ってきた。幼馴染の羽間綾香(はざまあやか)であることは姿を確認しなくてもわかった。1学期の終業式も終わり、後は帰るだけだった。
「他の奴を誘えば?」
「付き合い悪いわねぇ。おじ様にいいつけるわよ」
「なんでそこで親父が出てくるんだよ」
「だっておじ様がくれたんだもの、タダ券」
そう言えば取引先でもらったとかで二日ぐらい前の夜にあずまが北斗に押し付けようとしていたことを思い出した。
身を起こして、脇に立つ綾香を見上げる。バスケ部に所属している彼女は、世間一般のイメージどおり背が高い。北斗を見下ろして、幼馴染はにっこりと微笑んだ。
『北斗、彼女や友達でも誘っていっておいでよ』
父親にそう言われても面倒だからと受け取らなかったために、プールのタダ券はいつも世話になっている羽間家に横流しされたようだ。
「あのなぁ、俺がいらないっつったからそれがお前の手元に来たんだってことを忘れてないか」
「えっ? そうだったの?」
「ばーか」
「羽間さん。相模が行かないんだったら俺と行かない?」
北斗と綾香の間に強引に割り込んできたクラスメイト。前から綾香に興味があるようなことをもらしていたことを北斗は知っている。
「え、いや……」
そして綾香が彼のことを苦手に思っていることも。
青春だねぇ。きっとあずまならこう言って目を細めるのだろうけど。
だけど北斗はあずまじゃない。興味が失せ、さっさと席を離れた。
「あ、北斗」
「まあせいぜい楽しんでこいよ」
バッグを掴んで帰ろうとする北斗の耳にクラスメイトの話す声が届いた。
「ねぇ、相模くんって年上の女の人と付き合ってるって噂、ほんとなのかな?」
おそらく本人は小声のつもりだろうが、こんなときだけは北斗は驚くほど地獄耳だった。
じろりと睨んだだけで少女は萎縮する。
別に否定するつもりはない。事実だし。
だからといって興味本位で自分の話をされることは大嫌いだった。
特に何を言うでもなく、そのまま退室した北斗の所為で、綾香はクラスメイトたちに取り囲まれ質問攻めにあった。
「ねえ本当のところ、あんたたちって付き合ってないの?」
「そんなわけないでしょう。ただの幼馴染よ」
「じゃあ、彼女がたくさんいるって噂は?」
「知らないわよぉ。幼馴染ってだけでそんなに詳しく知ってるわけないでしょ〜?」
そして綾香は知らない振りをした。
双子の兄弟みたいに育った北斗の変化に気付かないわけがない。
中学の終わり頃から、彼が何かを埋める様に複数の女性と付き合い始めたことなど。
「あ……んっ、北斗ぉ」
昼間からカーテンを閉めて、互いの体を求め合う。熱に浮かされたような女の顔を見るのが好きだ。
コンドームを取り出そうとする北斗を女─美郷の細い手がとめた。パーマ液であれた指先が触れたところが少し痛い。
「何?」
「今日は、いいよ」
美容師である彼女とは一番の古い馴染みで、今のところ付き合っている唯一の女性である。こうして肌を合わすようになって気付けば1年半が経っていた。
少し迷って、取り出しかけた薄いゴムをベッドの脇へ投げた。美郷が嬉しそうに微笑む。
「素直ねぇ」
「若いから誘惑に負けちゃうんだよ」
セックスは好きだが、だからといって子供がほしいわけじゃない。
今日みたいに誘われたら、嬉々として言葉に甘える。1ミリにも満たない薄いゴムなのにあるとないとではずいぶんと違う。あんまり気持ちいいから安全日以外にも時々心が暴走してそのまま中に出したくなるけど。
「あたしのせい? ……っん」
「そうだよ」
「あっ、……ああっ」
夢中になって背中にしがみついてくる年上の女を、どこか冷めた脳で見下ろす自分がいる。
美郷のことは嫌いじゃないが、自分の相手は彼女ではないような気がしていた。
「髪、染めてあげようか?」
ことを終えた後のベッドの中で、美郷は北斗の髪を撫でながら言った。
「夏休みだし」
「そうだな」
「思い切って金髪にする?」
「まかせる」
気のない返事に、美郷はつんつんと髪の一房を引っ張った。
「心ここにあらずって感じ」
漠然と美郷との別れを考えていた。
玄関の音に、台所から父親が顔をのぞかせた。
「……、どうしたのその頭?」
珍しく定時に仕事を終わらせて、ついでに買い物でもしてから帰ってきていたのだろう。カレーの匂いが北斗の鼻腔をくすぐった。
朝見たときの息子とは明らかに様相が違っていた。金色になった息子の髪。目をまん丸にし、怒るでも誉めるでもなく、本当に驚いたように自分を見つめるあずまの姿に、内心しまったと思いながらもいまさら引き返せない状況に北斗は苦笑いをした。
「ちょっと気分転換」
「あ、こら。ちょっと待ちなさい、北斗!」
そのまま洗面上に向かった息子の後をついてくる。
うちで使っているシャンプーとはまったく異なる香りに戸惑いつつ、あずまは顔を洗う北斗を待った。年頃の息子を持つ父親としては複雑な心境だったのだろう。自分が彼と同じ位の年のころと比べても、理解できることではなかった。
「いいじゃない、夏休みだし。似合ってるでしょ?」
「似合うとか、そう言うことじゃなくって。お父さんが言いたいのは、そうやって自分の本質を曲げるような行為が理解できないだけで」
「誰かの迷惑になるわけじゃない」
顔をふきながら反抗の色を示す息子に、父親はため息をついた。
「そういうところはあいつに似たんだな」
あいつとはおそらく母親のことを指すのだろう。
「父さん?」
珍しくあずまから母親の話題に触れた。困ったような、だけど何もかも許すような表情で、父は息子の頭を撫でた。
「ちゃんと休みが終わる前には元に戻すんだぞ」
どんなわがままも、あずまは最後には聞いてしまう。他では知らないが、北斗に対しては甘すぎる男である。きっと母親にもそうだったのだろう。愛しているからこそすべてを許して、こうして困ったような笑みを浮かべていたのだろう。
「……うん」
「なあ、北斗」
何かを言いかけて、あずまは押し黙った。
「いや、いい。夕飯の準備すぐに出来るから」
さきには見せられないな。そんな呟きが聞こえた気がした。
あずまがまた台所に帰っていったとき、ドアホーンが盛大になった。
「こーんばーんわー」
聞きなれた幼馴染の声に、北斗は俺が出るよといい、玄関に向かった。
「うわ、どうしたの? その頭」
ドアを開くなり、あずまとまったく同じ台詞を放った綾香の手から鍋を受け取った。1週間に2、3度はこうして羽間の家からお裾分けが届く。
「サバの煮付けか。俺これ結構好き」
「似あわなーい」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ綾香。
「あんた、あたしが武田君以下総勢12人のクラスメートを引率してプールいっている間に、そんなコトしてたの?」
北斗が帰った後、なんだかんだでみんなでプールに行こうという話に発展してしまい、はじめにプールの話をしまった手前、嫌とも言えず、無理やり参加してきた綾香はほんのり日に焼けていた。健康的を通り越し、たくましい印象の彼女に、ご愁傷様という言葉しか出てこない。
「しかもずっと武田にまとわりつかれるし。ちょっと聞いてくれるー? あいつあたしの肩とか抱いて写真取ったのよ。最悪ーっ」
「愛されてんじゃん」
「好きでもない相手にそんなことされても気持ち悪いだけよ」
「何をえらそうに、好きな奴もいないくせに。いい機会だし、付き合えば? 結構いい奴だよ」
「他人事だと思って〜」
「所詮俺にとっては他人事だし」
騒ぐ子供たちに何事かとあずまが顔を出す。玄関先での会話などすべて筒抜けだが、綾香の顔を発見してあずまはにっこりと笑った。
「いらっしゃい。いつも悪いね」
「おじさま、こんばんわ」
いつものように、変わらない夏休みが始まるのだと思っていた。
その日、いつもとは逆の立場で仕事に行くあずまを見送った北斗は、することもなく買ったばかりのゲームをしたり、テレビを見たりと、だらだらと過ごしていた。それでも昼頃にはやることもなくなって、退屈で仕方なかった。しかし夏休み初日から宿題を片付けようという気には一切ならない。
「美郷、仕事だよなぁ」
北斗が付き合った女は、今までのところという前提付きではあるが、みんな年上で仕事を持つ人たちであった。さすがに人妻はいなかったが、休みでもないのに平日の昼間から暇だという人物は一人としていなかった。
むろん、美郷は仕事中だし、呼び出せるはずもない。
仰向けに寝転がると金色に染まった前髪が視界に入った。出来ればもう少しおとなしい色に染めてほしかったのだが、色は美郷に任すといった手前文句は言えなかった。
「暇だなーっ」
友達は部活やデートで相手にしてくれる奴はいない。暑すぎて外に遊びに行く気にもならない。
彼がうとうとし始めたのは寝転がってからすぐのことだった。
『きっと……に似て可愛い子だわ』
暗闇の中響いた声はひどく懐かしく、安心できるものだった。本能で母親の声なのだと知る。
『可愛い、可愛い私の赤ちゃん』
ああ、夢を見ているのだと、北斗は思った。
知るはずのない母親の、羊水の記憶。子供の頃よく見ていた夢だ。
体中にまとわり付く水。
景色が変わる。
自分の目の前にいるのは気の強そうな和装の少女。長い髪をポニーテールみたいに結い上げた彼女はなぜかずぶぬれのぼろぼろで、だけどとても愛しかった。
何の癖もない長い髪や強い眼差しが、どこか綾香を彷彿とさせた。
『触らないで』
伸ばそうとした手は拒絶の言葉と共にぴしゃりと払われた。傷ついた色を瞳に宿しながら、決して他の者に屈さない強さを内に秘めている。
そんな彼女が愛しくて、どうしても自分に服従させたかった。
逃げられないように腕を掴み、強引に抱きしめる。逃げようともがく様が一層愛しい。
『愛している』
信じられないことに、自分の口はそう告げていた。その瞬間、さらに増して拒絶の言葉が腕の中から起こった。ほんの少し心の中に悲しみが生まれた。
無理やりに口付けると彼女の瞳からぼろぼろと涙が落ちた。
また景色が変わる。先ほどの少女が自分を覗き込んで来た。同じように伸ばした手の小ささに自分が一番驚いてしまった。まるで、いや赤ん坊の手、そのものである。
『わかるわね、あずま。この子は最後の直系。この子を連れて一刻も早く島から出なさい』
自分とそう変わらない年齢の父の姿に愕然とする。赤ん坊の自分を胸に抱き、あずまが夜の船に乗りこんだ。
ぐらりと揺らぐ。
「……あ」
転寝から目覚めると、時計は6時を少し過ぎたところだった。夢と遠い記憶の間で、信じられないほど汗をかいていた。
干していた洗濯物をとりこもうとベランダに出たところで居間の電話がなった。
5回コールしたところでようやく受話器を取ると、電話の相手は知らない男からだった。
『相模あずまさんのお宅でしょうか?』
「父に何かご用ですか?」
『息子さんですか。警察のものですが、お母さんはいるかな?』
警察と聞いて、思わず身を固くした。
父子家庭であることを告げた北斗に、電話越しにもはっきりと同情されたのがわかった。
「あの、父に何か?」
『落ち着いて聞いてください。お父さんが事故に巻き込まれて、その』
その歯切れの悪い言葉で悟ってしまった。
『ついさっきお亡くなりになりました』