北斗篇(1)
私のために生きる以外、私はお前の存在を許しはしない。
「もう一度さきに会いたかったなぁ」
それがあずまの口癖だった。
子供のころはその「さき」が自分の母親の名前なのだと思っていた。だけど父は笑ってそれを否定した。
生まれ育った小さな島・砂神島(すなかみじま)をとびだし、たった一人で自分を育てた父。いくつになっても、息子の自分から見てもずいぶんと少年っぽい人で、そこが女性に結構もてていた、らしい。焼けつくような炎天下の弔問に訪れた会社の女性社員はみんなぼろぼろと泣いていた。いや、葬式なんだから泣くのが普通なのかもしれないけど。
北斗は自分の膝の上の父親を、正確には父の遺骨の入った小さな箱を見下ろしては、何度となく眠ろうと目を閉じた。彼は今、父の故郷へと向かう船の中にいる。個人経営の連絡船に乗って1時間。海が荒れれば交通は容易に遮断されてしまう。
いくら眠ろうとしても、慣れない船旅に、北斗の神経は妙に高ぶっていて一向に眠れそうにもない。
一度も、父の生まれた家にいったことはない。それどころか、親戚というものにだって会ったこともない。
暇つぶしに北斗はかばんの中から1通の封筒を取り出した。白い封筒に、ボールペンで書かれたキレイな宛名。それは確かに北斗にあたられたもので、差出人の名は相模西子となっていた。
相模北斗様。
拝啓。突然のお便りでごめんなさい。
お父様がおなくなりになられたこと、ご心痛お察し致します。
私は相模西子といいます。あなたの叔母です。
本来であれば……
そんな文章から始まった手紙はこの後3枚に続く。
別に、葬式にもこない薄情な叔母や親戚を恨む気持ちとか、これから厄介になろうという打算とか、あったわけではない。ただ、「あなたが生まれた家に戻っていらっしゃい」とか、そういう言葉に不覚にも涙がにじんだ。一人じゃないんだと思うと、安心できた。それだけで一人でもやっていけそうな気がした。
追伸。咲も、あなたに会いたがっています。
その1行が、北斗を突き動かした。
咲、……さき?
それが誰なのか、どういう人なのか、誰も北斗に教えてはくれなかった。だから、会おうと思ったのだ。
「あれが相模の……」
そう離れていないところから、そんなささやきが聞こえて、北斗は何気なしにそちらに首を動かした。そのさきにいた二人の老婆たちは慌てて視線をそらした。
なんだろう。
そういえば、砂神島に向かうこの小さな船に乗り込んだときから、ずっと見られている気がする。そりゃ、島の住民だけが使うような連絡船だから、見知らぬ自分が乗っていたら不思議がるのも無理はない。だけど、それにしたって、どこか変だ。
がくんという振動とともに、船が島に着いた。北斗は視線から逃げるように一番に船から下りた。
「……北斗?」
見知らぬ土地で、不意に名を呼ばれ、北斗はびくっと体を震わせた。おそるおそるふりかえる。
自分より少し年上の髪の長い美少女と文学青年風の背の高い男が船のすぐ傍に立っていた。少女のほうはどこかで見たことがあるような気がした。
誰? と問いかけようとした北斗の前を、他の乗客が数人、横切っていった。
「……、あれ?」
次の瞬間、二人の姿は消えていた。目の錯覚だったのだろうか。
「北斗くん?」
現実的な声が、再び北斗を呼んだ。今度こそという気持ちで振り返った彼を、なんの予告もなしに、彼女はぎゅっと抱きしめた。
「え、あのっ?」
「よくきてくれたわねぇ。私が西子(せいこ)よ」
潮の香りとはちょっと違う、温かい匂い。北斗よりほんの少し背の高い短めの髪の女性は、彼を抱きしめたまま、少しだけ泣いていたようだ。しばらくの抱擁の後、ようやく解放されて、やっと顔をまともに見ることが出来た。
特別美人とか、そういうわけではないが、北斗が想像していたよりもはるかに若い、30歳ぐらいの優しそうな人だった。そりゃ、父もまだ37だったのだから、その妹がそれより年上であるはずはないのだが。
北斗の抱えた白い箱を見つけると西子は悲しそうな顔をした。
「兄さん」
そして彼女は人目も気にせずにまたぼろぼろと泣き出した。北斗の手から遺骨を奪い取り、頬を摺り寄せた。
「……なんだか変な感じね」
変な感じがするのはこっちのほうだ。16年間自分だけのものだった父を、初めて会ったばかりの人が懐かしそうに語るなんて。想像もしてなかった。あずまに自分以外に家族がいたなんて。あずまの家族は自分一人なんだと思っていた。
「あの」
もう帰ろう。そう思ったとき、西子が涙をぬぐってにっこり笑った。
「まあ、兄さんはこんなになっちゃったけど、北斗くんだけでも母さんに会ってあげてちょうだい。きっと喜ぶから」
そうだ、自分はさきに会いにきたんだった。
「あの、さきって誰ですか?」
「さき? ああ、咲ねぇ」
少しだけ困ったような笑顔で、西子は北斗の背中を押した。
「あの子は人見知りが激しい子だから、……会えるかしら」
寝たきりの南子(みなこ)の枕元で、少女は激しく彼女をののしった。
「どうしてあの子を呼び寄せたのっ」
激情を見せたのはそう珍しいことでもなく、いつものように南子は目を開け、衰えた目で少女を見ようとした。少女の傍らで、青年がなだめようとしているのがなんとなくわかっただけだった。
「……私じゃない」
「まだそんな時期じゃないのに。ああもう、これじゃあなんのためにあずまに北斗を連れ出させたのかわからないじゃない」
「咲(さき)、責めても仕方ない。……西子の気持ちもわからないでもないだろう」
「わからないわよっ」
穏やかな青年の優しい言葉に、少女は余計に腹立たしそうに老婆に言葉を投げつけた。
「また計画の練り直しだわ」
ふと、悲しい表情をした南子の、そんな顔は見たくないとばかりに少女は荒々しく部屋を出ていった。青年もやれやれと呟きながら腰を上げる。
「あなたも私を責めるのか?」
「責めて欲しいなら。……僕はただ、彼女には逆らえないだけですよ」
あの気まぐれで、激しい少女にはそむけない。彼女がどんな性質を持つのか、彼は誰より知っていた。だから言葉の一つ一つに逆らえない。逆らえばどうなるか、それすら知っていたから。
「忘れたんですか?」
言ってから思い出した。目前の老婆はそれを見たわけではない。実際に目にしたのはもはや自分だけなのだ。
「残念です、南子」
その言葉を残し、青年もまた、少女を追って部屋を出た。
嘘みたいにただっぴろい屋敷に、はじめ北斗はぽかんと口を大きく開けたまま、ただただ呆気にとられるばかりだった。
自分と父が住んでいたマンションはせいぜい2DKの、それも6畳の和室と4.5畳の洋室の、狭くはないが広くもない部屋だった。なのに、この相模本家の屋敷ときたら門扉をくぐってでかい玄関にたどり着くまでに歩いて3分かかり、そこから通された部屋につくまでにいくつもの部屋の横を通りすぎていった。これで、住んでいるのは西子とその母親、つまり北斗の祖母である南子の二人だというではないか。
生前の父の育ちのよさそうな振る舞いから、そこそこの良家を想像していたが、……想像以上である。
部屋の窓や掃き出しを一つずつあけていく西子は心なしか楽しそうである。部屋の片隅の小さな文机、それに衣文掛け。どこか古臭いアイテムに、じっと見入っていると、若い叔母はくすくすと笑った。
「この部屋はね、ずっと昔、兄さんが使っていたの。この机に肘をついてよく夜空を見上げていたわ」
懐かしそうに語る叔母の目に、また涙がにじむ。強引に拭い去って、西子は微笑んだ。
「今日からあなたの部屋よ。好きなように使ってちょうだい」
兄さんが使っていたときのままだからと女は押入れから布団一式や、寝巻き用の浴衣を取り出して北斗に見せた。
「あの、……西子さんは結婚とかしないんですか?」
叔母さんと呼ぶにはどうにも気が引けて、北斗は彼女のことを名前で呼んでみた。
目をひくような美人ではないが、よく見ればそれなりにきれいな顔立ちをしている。それに結構面倒見もいい。年も35だといっていたし(年のわりに若く見えるのは童顔の所為だろう)、そういう話がなかったわけでもあるまい。こんな小さな島ならなおさらのことである。
「……いろいろあってね、もう今更そういう面倒くさいこともしたくなくなっちゃったから」
甥っ子の失礼な質問に、西子は少しだけ寂しそうな表情を見せたが、まるで自分に言い聞かせるように、そう答えた。
「すみません」
「やだ、気にしないで。……あなたはいい子ね。兄さんが大事に育ててきたのがよくわかるわ」
「別にいい子ってわけじゃない……です。優等生は髪染めたりしないでしょ?」
「いいじゃない、夏休みだし。よく似合っているわ」
つい先日、北斗があずまに言ったとおりの台詞を西子は口にした。夏休みに入ると同時に髪を染めてみた北斗を叱る父に、自分は「いいじゃない、夏休みだし。似合ってるでしょ?」なんて反抗してみた。別に不満があったわけじゃない。2学期が始まる前には黒く染め直す気でいたし、来年に控えた大学受験の勉強だってまじめにするつもりだった。今は、なんかそんな気にはなれないけど。
「お風呂にはいっていらっしゃい。その間に夕飯の準備をしておくから」
まるで母親のような西子に、北斗はそれまで心の片隅に溜め込んでいたものが、どっとあふれかえるのを感じた。
ぼろぼろと零れ落ち始めた涙。それをいいタイミングで背中を向けた西子に見られまいと、少年は荒っぽく拭った。だけど、それはもはや北斗の意思とは違うところで、勝手に次々と流れ落ちてしまう。
本当は寂しかった。父が死んでから。
正直言うと心細かった。砂神島にくるまで。
甥っ子を風呂場へと案内しようと立ち上がった背中で、北斗の嗚咽を聞いた西子が慌てて振り返ると、彼女の目には必死で泣くまいとする子供の姿が映った。
握り締めた拳は白くなるほどきつく握られ、それ以上涙をこぼれさせまいとかみ締められた唇。わななく肩。
「北斗」
二度目の抱擁は、ずいぶんと優しかった。いや、実際のところはどうしたらいいのかわからないという戸惑いにまみれていたが、それでも温かくて、少年は叔母の肩をずいぶんと湿らせてしまった。
何度か、西子に頭を撫でられ、彼女の柔らかな匂いに慰められた北斗が、真っ赤になって彼女から離れたのはしばらくたってからのことである。
まるで子供みたいだ。
「すみません」
なんのことかわからない西子は、泣き顔の甥っ子を見て、困ったように微笑んだ。
「そうしていると赤ちゃんのころのあなたを思い出すわ」
そしてまた子供扱いされてしまう。だが不思議と心地よさを感じる。
北斗はこの家で生まれたのだと彼女が告げた。産婆の手を借りてこの世に這い出た北斗は、真っ赤でくしゃくしゃで、そのくせ産声は小さな体のどこから出しているのだろうかと思うほど大きくて、彼の全てに驚いたと西子は言った。
では彼女は知っているのだろうか。
北斗は自分を産んだ母親の事をまったく知らない。あずまも何一つ教えてくれはしなかったし、他に自分たちの素性を知る人間も周りにはいなかった。写真一枚だってなかった。もしかしたら自分とあずまは血の関係なんか何もなくて、実は誘拐されてきたんじゃないかとか、疑った時期がないでもない。だけどそれにしては自分と父は似すぎていた。血液型だって一緒だし。
父は、母のことを忘れようとしたのか? それとも忘れてしまったのか。何か、忘れなきゃいけないような事件があったのかもしれない。愛した人を忘れることが容易じゃない事を、北斗はここ数日実感している。忘れずにただ胸にしまいこむだけでは、思い出となって現れるその人を誰の目にも耳にも触れさせないことなんて不可能だ。
あずまが隠そうとした、いや、隠し通したその人はどんな人だったのだろう。
今も生きているんだろうか。
ぼんやりと自分を見つめる甥っ子の手を握って、西子は彼を風呂場へと案内した。さすがに一緒に入ろうなどと申し出はされなかったが、西子が脱衣所の引き戸を閉めるまで、北斗は内心どぎまぎして仕方なかった。
屋敷に見合ったでかい風呂だ。たっぷりに張られた湯は、少し熱めで、だけどしばらく浸かっているとなれてくる心地よさだった。
まるで品のいい旅館のようだ。
ここで父は生まれ育ち、自分が生まれた。
思い出も実感も何もない天井を見上げて、北斗は疲れたようにため息を漏らした。
実際彼は疲れていた。突然の父親の死による心労と、砂神島にくるまでのなれないストレス。そしてさきほどの泣いたことによる疲労。湯船の中でうっつらうっつら始めた少年は、がくんと沈みかけ、目を覚ました。
眠気覚ましに、一旦浴槽から出、蛇口をひねり冷たい水を頭からかぶった。それから昼間の汗を入念に洗い流し、再度湯船に身を浸した。
これからどうしようかと考えながら、何気なく窓のほうに目をやって、彼は硬直してしまった。
どこかでみたことのある、そうだ、港であった背の高い男が、窓の向こうを横切った。みたのは一瞬だが、多分間違いない。
覗かれていたとしたら気持ち悪いことこの上ない。
慌てて窓を閉めると、北斗はそうそうに風呂を出た。
そもそもこの屋敷には自分と、西子と祖母の3人だけではなかったか。北斗の目の前で、西子に手伝ってもらいながら食事をする南子を見ながら、なかなか進まない箸に少年は何度目かのため息をついた。
風呂場でみた男の存在を切り出せずに、北斗は一人、思い悩んでいた。
よく見えない目を細め、南子は「ああ嫌だ」と呟いた。
「なんて辛気臭い子だろうね」
「お母さん」
血縁があるから必ず好かれるというわけではないらしい。初めて会う祖母はちっとも北斗を見ようとはしなかった。最初にチラッと見て開口一番「やっぱり呼ぶんじゃなかった」である。
生い先短い年寄りのたわごとに、いちいち耳を傾けるほど、北斗は寛大ではない。直感的に好きにはなれないと判断した彼は、彼女の言うことにはまったく耳を貸していない。
ろくに見えない目で、ぶつぶつと恨めしげに呟く南子を西子が責める。
「お母さん、いいかげんにしてちょうだい」
娘を敵に回してまで続ける気はないらしく、南子はもういらないとばかりに西子の差し出す箸から顔をそむけ黙った。
北斗は北斗で、それ以上食欲もなく、一応「ご馳走様」とささやくように言って、さっさと自分に与えられた部屋へと引き上げていった。
3人しかいない屋敷のわりには、なんとなく他にも人の気配がある気がして、少年は何度となくあたりを見まわした。静まり返った庭。真っ暗な障子の向こう。幽霊や妖怪とか、そう言う類のものだったらどうしようと考えて、ブルっと身を震わせる。信じているわけでないが、そんなものはいないと言いきってしまえるほど大人でもない。
消したはずの、自分の部屋の明かりが明々とついているのに気づいたときには、つい、歩みが止まってしまった。
さっきの男が部屋にいたらどうしよう。何せ相手は男の入浴を覗くような輩である。もはやさきほどの男について、そう思いこんだ北斗には、変質者という先入観がある。世の中には男に欲情する男もいるし、子供にしか欲情しない大人だっている。内心叫びたかったが、下手に騒いでは西子に迷惑がかかる。
足音をさせないように部屋に近づき、北斗はそっと中の様子に聞き耳を立てた。
確かに、ごそごそと人の気配がする。それも一人じゃない。二人だ。
「もうやめにしませんか」
最初から期待してはいないような提案が、男の声でなされた。
「だめよ、なんだっていいの。あの子を島から追い出す口実を見つけるのよ」
港で自分を呼んだ少女の声だ。
「そうね、恥ずかしい日記とかあったらこの上ないんだけど」
「普通の男はあまり日記はつけないかと思いますけど」
「瑞樹はつけていたじゃない」
「僕のことはこの際放っておいてください」
男の言葉に耳を貸さずに、おそらく荷物をあさっているだろう例の少女に、北斗はふつふつと怒りを覚えた。
一体何の権利があって、自分の部屋に忍び込み、下着とかをしまいこんだ荷物を探られなければならないのだろう。
「咲」
ため息交じりに男が少女の名を呼んだ。
さき?
あの少女は「さき」というのか。あずまがよく言っていた「さき」と同一人物であろうか。
抱いていた怒りは一瞬にして好奇心に変わる。
仮に同一人物だったとして、父が砂神島を出た16年前、自分とそう年が変わらなそうな彼女はおそらく赤ん坊に近い子供だったはずだ。
もしかして、姉、だったりして。
実は自分と彼女は双子か、もしくは年子くらいの姉弟で、なにか理由があって、父は北斗だけを連れて島を出たのかもしれない。それでずっと父親を独占しつづけた北斗を恨んで、そうそうに追い出そうとしている、とか。
なにかで読んだようなシチュエーションを頭に描いて、少年はいやと考えるのをやめた。
もしそうだとしたら、西子がそれを言わない訳がない。
無意識に信頼しつつある叔母が、他の家族がいるとは一言も言わなかった。わざわざこの屋敷にいるのは3人だけだとか嘘をつく必要もないはずだ。
というか、ただのこそ泥じゃないんだろうか?
夢見がちな自分を頭から否定して、北斗は意を決めたように、乱暴に部屋に続く障子を開け放した。
中の人物たちはきっと驚いたように目を見張って振り返ることだろう。そんな予想をしながら、できるだけ強面を作って、少年は部屋へと踏みこんだ。
だがそんな予想を裏切る光景が飛びこんできただけである。
「……え?」
誰もいない部屋。
明かりだけが風にゆらゆらと揺れていた。
確かに人の声がしたし、がさがさという物音だってしていたのだ。だけど肝心の人影がどこにもない。
さっと顔から血の気がひき、少年はその場に腰を抜かした。
北斗が気づいたのは、西子の膝の上だった。
「西子さん……」
団扇の優しい風が少年の金色の髪を揺らす。
夢、だったのだろうか。白昼夢というやつだったのかなと寝ぼけた頭で考えていた北斗に、しかし、西子は困ったように頭を撫でた。
「咲ね? あの子のいたずらにも困ったものだわ」
よくあることだと言いたげに、彼女の細い指がまた北斗の頭を撫でる。さきほどのような戸惑いはない。
「あの、さきって……」
起きあがろうとする甥を、「頭を打っているかもしれないから」と叔母は強引に膝の上に戻した。心なしか楽しそうで、なぜか逆らえない。まるで母猫が生まれたばかりの子猫をなめるように、丁寧に丁寧に北斗の頭を撫でる。
「その様子じゃ咲には会えなかったようね」
会えなかったもなにも、ひとめたりとも姿を見ることはかなわなかった。あの会話が夢ではなかったというのなら、彼女たちは一体どうやってこの部屋から消えたのだろうか。
「座敷わらしって知っているかしら? 子供の姿をした家の守り神なんだけど」
「怪談とかでよく出るあれですか?」
「そうそう。……咲はそんなものよ」
当たり前のことを言うように、さらっと口にした西子。一瞬からかわれたのかと悩む。嘘をついているとは思えない。もしもこれで嘘だったなら、西子はずいぶん涼しい顔で嘘がつけるという特技を持っていることになる。
つまり、さきは人間ではないと。そして人間ではないものがこの屋敷に住みついているのだと、そういうことなのか?
そしてそれが自分を追い出したがっている。
なぜに?
理由を考えようとしても、咲と、それと瑞樹と呼ばれていた背の高い男の顔がちらちらと浮かぶばかりである。それも、記憶はかなりあやふやだ。
自分がいると、彼らには不都合なのだ。ただ単に新入りがうざいとか、そんな単純な理由じゃないと思う。
じっと自分を見詰める西子の視線に気づき、北斗は首をかしげて彼女がなにか言うのを待った。
兄さんにそっくりねと彼女は懐かしそうに言った。それは今まで何度となく他人に言われつづけたことだった。珍しい台詞じゃない。事実「一卵性父子」とか「北斗クローン説」とか、自分たち親子をよく知った幼馴染からはよくからかわれたものだった。悪い気はしないけど。
多分、母親の遺伝子をまったく受け付けなかったのだ。
「……西子さん」
「なぁに?」
彼女なら知っているだろうか。
俺の母さんってどんな人ですか?
だけどなんだか気恥ずかしくて聞けない。16にもなって、母親を恋しがっているだなんて格好の悪い、そんなところ見せたくない。
北斗の台詞を待つ西子は、もう一度、なに?と問い返した。
「えっと……父さんの子供のころってどんなでした?」
「兄さんはとても優しかったわ。私、小さなころからすごく兄さんのことが大好きだったの、いわゆるブラコンってやつ。父が早く死んじゃったから、その分兄さんが守ってくれてたのね」
懐かしそうに語る西子。
「大学進学のためにこの家を出るまで、兄さんは確かに私のものだったのになぁ」
何一つ知らないことなどなかった。
だがそれ以上西子は語ろうとしなかった。ただ、黙って北斗を見下ろしては寂しそうに笑うだけだ。
あずまは砂神島を出て、母と出会い、二人でここに戻ってきて、自分を生んだというわけか。西子の微笑をそんなふうに解釈した。
自分は、妾の子で、この広い屋敷の中で、与えられた部屋は離れの小さな書斎だった。継嗣である兄とは何かにつけて差別された。それでも島のほかの子供たちに比べれば、何不自由ない生活を送っていた。
ある日、めったに顔を合わすことのない父が、一人の少女を連れて離れにやってきた。彼女に対しては父はみたこともないような腰の低さで、なんだか、吐き気すら覚えたものである。
自分より、一つか二つ年上に見えた少女は、まるでなにかを品定めするようにじろじろと自分を見ていた。
「ふうん」
高くもなく、低くもなく、何の感動もない声音だった。
背中にぞくっと走るものを感じて、早くその場から逃げてしまいたかった。
「いいこと? お前は私のものよ。私のために生きる以外、私はお前の存在を許しはしないわ」
居丈高に彼女は宣告した。
そして時が流れ、自分が妻をもらう年齢になっても、彼女は依然少女のままだった。それを疑問に思ったことはなかった。彼女はそういうものなのだと、いつのころだったか知ったから。
結婚しますと挨拶したとき、彼女は背中でそれを聞きながら、「そう」といった。反対されるかと思いきや、むしろ大歓迎とでも言いたそうな口調だった。
「早く子供を作りなさい」
それだけが結婚に際して彼女から要求されたことだった。
程なくして、彼女の要求通り子供が生まれた。妻に似て明るい性格の男の子で、ちょっとしたことでもけらけらと笑う子だった。その時期が人生で一番幸せだったと、はっきり言える。
しばらくして家を継いだ兄に娘が生まれたころから、少しずつ歯車が狂い始めたように思える。
「あなたおかしいわ」
赤ん坊は成長し、寡黙な少年になり、従妹である娘に恋をした。
妻は少しずつ老い、少しずつ精神を病んでいった。
自分だけが変わらぬまま。
叫びを上げながら夢から覚めた瑞樹はとっさに自分の両手をみた。手の平、手の甲。何度も何度も繰り返し見る。
肩で息をつきながら、それまでの光景が夢であったことを確認し終えると、額を両手で押さえた。ばくばくと激しい鼓動が続く。もう何度もみた夢であるというのに、それでも決してそれに慣れるということはない。
しばらく忘れていたのに、なぜ今ごろになって、またあの夢に悩まされなければならないのか。
原因はわかっていた。
北斗が帰ってきたから。
精神的に不安定になっているのだ。決してたくましくない外見と同じくらい、精神がタフでないことを彼自身よく知っていた。繊細といえば聞こえはいいが、それを否定し切れるくらい自分は図々しく出来ているのだ。
隣の部屋で眠る少女が起きた気配はない。
布団を抜け出し文机の上に置いた眼鏡を手探りで見つけると、瑞樹は庭に面した掃き出しの障子を少しだけあけた。わずかだが月光が部屋にさしこむ。
いつからか、咲同様、瑞樹の時間も止まったままだ。相模一族に時折生まれる化け物である。まさか自分がそれとは、夢にも思わなかった。生れ落ちた瞬間は他の子供と何ら変わらない。ただ少し、成長が遅く小柄だったりすることが多い。だがそれだって常識の範囲内でのことだ。成長し、瑞樹のように子孫を残したあと、成長を止めてしまうものすらいる。時間が止まれば子供を残すことは出来なくなる。だって人ではなくなるのだから。
時間が止まっても決して不死になるわけではない。砂時計が、人間であれば3分で落ちきってしまうところを、自分たちはその何倍もの時間をかけて落とすようなそんな感覚である。
どうして相模にそんな化け物が生まれるのか、詳しいことはわかっていない。咲であれば知っているかもしれないが。
なんにせよ、自分が人間ではなかったことを知っても、まだ図太く生きているのだから、ずいぶんと図々しいものである。
北斗はどちらであろう。
あの少年に、相模一族の全てがかかっている。すべては咲の計算通りだったのだ。彼がこの島に戻って来さえしなければ。
とても眠れないような気がして、瑞樹はそのまま月を見上げて夜を越すことに決めた。
朝っぱらからやけにハイテンションな声が勝手口から響いていた。「おはようございまーすっ」と繰り返される野太い挨拶は、家人が顔を見せるまで延々と続けられた。
寝ぼけた頭で、ごそごそと枕元に置いた腕時計を探り、北斗は絶望的にため息を漏らした。
「……まだ6時前だぞぉ」
勘弁してくれとばかりに少年は再び布団の中にもぐりこんだ。ほどなくして西子がパタパタとスリッパを鳴らして勝手口を開けに行くのが聞こえた。彼女とは顔なじみらしく、訪問者はけたたましい勢いでなにやらしゃべっていた。どうやら村の漁師らしい。魚の名前の途中に、ところどころで北斗には理解できない方言が混じる。
延々終わらない講釈に、北斗はたまりかねて、機関銃のようにしゃべる男の顔を拝んでやろうと、水を飲みに行くふりをして台所に向かった。
どうやら漁師はただ魚を売りに来ただけではないようだ。世間話から噂話を喋り倒し、その上で西子をナンパしていた。
綺麗になったねーから始まり、ずっと前から好きだったのだと切々と心情を訴える。
柱に隠れて相手の顔をこっそりと覗き見た。
日焼けした肌、無骨な顔、引き締まった筋肉。悪くはないが、西子にはつりあわない気がする。
男の強引なアプローチに、西子が困った顔をしているのを確認して、北斗は台所に足を踏み入れた。
突然の人の登場に、男ははじめびくっと動きを止めた。そして更に北斗の顔を見て「あっ」と声をあげた。
「……あずま?」
まるで幽霊でも見るように、彼はまじまじと少年の顔を見た。
「じゃないな、あいつは俺と同い年じゃけ」
当たり前のこと過ぎてあえて突っ込まないが。
「伸一さん、この子は兄さんの子供で北斗くん。驚いたでしょう」
「あずまの? へぇ、道理でそっくりじゃ」
伸一と呼ばれた大男は改めてまじまじと北斗を見る。悪い人ではなさそうだが、いささか繊細さにかける。はじめましてと申し訳程度に頭を下げた北斗に、彼はにんまりと笑って見せた。
「俺は山口伸一。よろしくな、北斗」
こりゃ20年前の再来だなと男は言った。
北斗やあずまの、島の男たちにはないような日焼けしにくい白い肌や、繊細そうな整った顔立ちに、若い娘ならば誰でも夢中になるというのだ。
あずまが大学の夏休みに帰省してきたときなど、港に島中の娘が集まったものである。そんな昔話を披露して、男は大げさ過ぎるほど笑った。
「あずまは、元気か?」
どうして一緒に来なかったんだと、なにも知らない男は無邪気に問い掛けた。
また西子の目が潤みだしたのを横目に見て、父は死にましたと真実を告げた。甥の台詞に彼女はこらえきれずに顔を覆い、その場から立ち去った。内心、伸一と二人っきりにされたことを「しまった」と思いながらも、北斗はその場に押しとどまった。
伸一の表情に「まずい」というのと「どうして」というのが交互に見て取れた。
「えっと、……いつ?」
「10日前です。交通事故で」
「そりゃ、悪かったの。つらいこと思い出させて」
「いえ」
「で、いつこっちに来たんかの」
「俺ですか? 昨日ですけど」
「昨日っちゅうことはまだ島のあちこちはまわっとらん?」
男はなにか考え込むふりをしていた。
「俺が案内したるけ、準備してき」
思い立ったら即行動とばかりに、北斗の予定も聞かずに、伸一は「朝飯が済んだら迎えにくる」と言葉を残して去っていった。あまりの手際よさに呆気にとられていると、ようやく戻ってきた西子がのんきに「伸一さんは?」と尋ねてきた。
伸一の提案には、おそらく下心がある。ブラコンだった西子が、あずまそっくりの北斗を可愛がっていないはずがないと踏んだのだろう。おそらくは仲を取り持ってくれだのなんだの言われることだろう。適当に受け流して、変に期待させても悪い。
「ねえ、西子さん。あの人のこと嫌い?」
はっきりと聞いておいたほうが、あしらうにしてもあしらい方が違ってくる。
「やださっきの聞いていたのね」
頬を赤く染め、西子は顔を手で隠した。意外な反応におやとさえ思う。
どうやら心憎くは思ってなさそうだ。ふうんとからかって見せると、彼女は更に頬を赤く染めた。
「違うわよ、本当にそんなんじゃないんだから」
なんだか恋人に必死になって弁解しているみたいで、可愛いとさえ思える。
西子が悪い気がしていないなら、伸一に手を貸してやってもいい。一夏の思い出に、砂神島の思い出として残ることだろう。2学期が始まる前に北斗は家に帰るつもりでいた。いくら父の実家とはいえ、今まで関わりすらなかった相模本家に厄介になるつもりなどはじめからなかった。
だから咲のあの努力も無駄なのだが。追い出されなくたって、出ていくのだから。
一つあくびをして、根元のほうが黒くなり始めた髪をぐしゃぐしゃとかきあげた。
イメージ的に、伸一が乗っているのはてっきり軽トラだとばかり思っていたのだが、北斗の予想に反して、彼を迎えに来た車はニューモデルのワンボックスカーだった。いや、もちろん不自然ではないのだが、意外過ぎて一瞬呆気に取られてしまった。
「じゃあ、夕方には帰ってくるけ」
南子の介護があるため家に残る西子に伸一は言い残し、大事な甥っ子を助手席にエスコートした。北斗が助手席に乗りこむと同時に後部座席から甲高い声が飛んできた。驚いてそちらを見ると、同じくらいの年頃の、化粧っけのまったくない少女たちが北斗を見て騒いでいた。
「あの……?」
「俺の姪の美里とその愉快な友達じゃ。俺が美少年とデートじゃーゆーたらついてきた」
迷惑そうに伸一は後ろを振り返る。少女たちは口々に文句を返す。だが白けた目で見る北斗の視線に気づいて、一瞬にして静かになった。
何もいわずに別れてきた恋人と同じ響きを持つ少女に、北斗は不思議な縁のようなものを感じていた。
元気だろうか。
「おーおー、あずまといい、お前といい、美少年は得じゃのー」
「そうでもないですよ」
「そうなんか? ま、所詮は他人事じゃけー、俺にはわからん」
げらげらと笑う伸一。
別にこの顔で得したことなんてない。だいたいこんなふうにもてはやされたことなんて特になかったし。
照れを隠すように、北斗は窓の外に目を向けた。昨日来たときには気づかなかったが、この島には電線が少ない。人口が少ないのだから当然といえばそれまでかもしれない。人工的に作られた公園なんかと違って、木がうっそうと茂っている。この時期の畑にはキュウリやナスが嘘みたいに垂れ下がっている。スーパーでかごに乗っているのしか見たことのない北斗にはとてもショックだった。
岩肌が剥き出しになった崖も多く見られた。
島を一周してもかかった時間はわずか3時間だ。特に見所があるわけでもなく、ただぶらぶらとドライブしただけだった。それではあまりに役不足とばかりに、伸一は途中で姪たちを下ろし、海の見える丘に向かった。
目的地に着くと、大男はエンジンを止め、さっさと車から降りてしまった。
続いて降りた北斗の頬を潮風が撫でていく。明らかに彼が育った場所とは空気が違う。
切り立った崖だというのに、伸一は臆することなく岸壁に腰を下ろした。同じようにしようとしたが、予想外の高さに足がすくんでしまった。
「なあ、北斗」
彼は海を見たまま、北斗へと問いかけた。
「お前、本当は西ちゃんの子とちゃうんか?」
「……はあ?」
あまりの突拍子のなさに、一瞬だが足がすくんでいたのも忘れ、伸一の隣まで近寄った。だがすぐに現実を目の当たりにして、北斗はしゃがみこんだ。
少しだけ少年を見て、男はふっと笑った。
「そんなわけないか」
「そうですよ。どういうことですか?」
あまりに突拍子なさ過ぎるが、何かそういう疑惑があって口にしたことだろう。北斗は再度伸一を問いただした。
「俺が西子さんの子供かもしれないって、どういうことですか?」
「……俺が話したっちゅうのは内緒やぞ」
伸一はためらいがちに、自分の疑問を打ち消すようにぽつりぽつりと話し始めた。
17年前のちょうど今ごろ、まだ18歳だった西子が子供を産んだというのだ。だがその子は死産で、その悲しみで彼女は一時錯乱状態に陥っていたそうだ。
かつてはこの島一の権力者一族であった相模家のこと、島中が興味をもってその出産のときを待っていた。父親が誰かは誰も知らない。だがそんなことは関係ないのだ。年々減りつづける直系、相模の血が絶えることはこの島にとって脅威であった。西子やあずまの子は島中で望まれていた。
「脅威?」
「なんでもな、相模家には砂鬼ちゅう化けもんがおるとか。それが悲しんでこの島を消してしまうんだと。ま、あくまで伝説じゃけど」
砂鬼……さき?
彼女のことをいっているのだろうか。確かに、西子も咲のことを人間ではないようにいっていた。
だけど、それじゃあ、矛盾が出てくるじゃないか。
砂鬼は相模の直系が絶たれることを恐れている。
しかし咲は、あずまの息子であるから当然直系であるはずの自分を追い出そうとしている。
「俺、見たんじゃ」
「何を、ですか?」
伸一は深いため息をつき、初めて北斗の顔をまっすぐみた。
「西ちゃんの出産の日、あずまが赤ん坊抱いて船に乗るのを」
島民以外の客が船に乗っているのは、非常に珍しいことだった。昨日の相模の御曹司は、西子から聞かされていたから別段驚いたりはしなかった。
船頭を努める老人は、見慣れぬ少女の姿に何度も我が目を疑った。半世紀近くこの船に乗っている。すべての島民はこの船に乗って島に出入りする。彼が知らない島民などいない。
「お嬢ちゃん、本当にこの船に乗るんかの?」
何かの間違いではないだろうか。乗るべき船を間違えているのではないかと親切にいってやった。
帽子をかぶった少女は目をきょとんとさせた。
「これ、砂神島に行く船ですよね?」
やだ、間違えたのかしらと慌てふためく少女。船頭のほうが返って慌ててしまった。
「いや、確かにおうとる。おうとるよ、お嬢ちゃん」
この少女は間違っていない。では一体どういう身上の娘であろうか。島民の親戚筋のものであったとしても、おおよそは把握しているのだが。
彼の疑問はすぐに解けた。
「そうだ。ねえ、おじさん。昨日金髪の男の子がこの船に乗らなかった?」
「ああ、あんた相模の坊ちゃんのお知り合いかね。ああ、道理で」
わしが知らないのも無理はないという言葉を船頭は合えて口にはしなかった。
少女は御曹司を追って来たのだろうか? どういう間柄であろうか。
いろいろ詮索したかったが出港の時間が来た。少女は客室へと引っ込んでしまった。