北斗篇(2)



その瞬間まで、僕たちは自分がただの人間だと信じているものだ。



 北斗は相模の家に戻るなり、どっと疲れを感じて布団に倒れこんだ。早朝に出かけて、戻ってきたのは夕方である。「明日の漁に備えて」伸一は8時には寝るそうである。北斗には考えられない生活サイクルだ。
「北斗くん、夕飯できてるけど食べる?」
 西子の声がふすまごしに聞こえた。またあとで〜と気のない返事をして、少年は太陽の匂いのする枕に顔をうずめていた。だけど叔母がその場を離れた様子はない。なんだか言いたいことでもあるのか、中の北斗の様子を気にしているようだった。
「……なんですか?」
 昼間妙な話を聞いた所為か、どこか投げやりな口調になってしまう。
「あ、あのね。北斗くんにお客さんがきてるの。……羽間綾香さんていう女の子なんだけど」
 聞き覚えのある、というか聞き飽きた名前だった。
「綾香が?」
 かつて自分と父を「一卵性父子」だの「北斗クローン説」などとからかった幼馴染である。
 重い体を無理やり起して、少年は来客に会うことにした。何せ父が死んでからしばらく、北斗の面倒を見てくれていたのは羽間家の人々である。ろくにお礼を言わないまま砂神島にきてしまったことを今更ながらに思いだしていた。
 甥っ子が姿を見せると、西子はホッとしたように笑顔を見せた。
 綾香が相模本家を訪れたのがいつのことだかは知らないが、北斗あてに来た客をむげに追い返すわけにも行かず、彼女なりに悩んでいたのだろう。夕飯でもてなしているところだと報告し、甥を客間へと通した。
 すらっと言う音とともに客間のふすまが開くと、中に見知った少女が座って夕飯をむさぼっていた。よくまあ遠慮もせずがつがつ食うものであると感心してしまう。肩よりも少し長い、まっすぐに落ちる髪が時々彼女の食事を邪魔する。
 綾香は幼馴染の姿を認めると「よっ」なんて色気のない挨拶をした。
「太るぞ」
 自分も、開口一番この台詞はどうかと思わないでもないが、思いがけない来客に動揺していた。つい、思ってもない言葉が口をつく。
「大丈夫、タテに太るから」
「それ以上でかくなってどうすんだ、お前?」
 なにせ、綾香は北斗より背が高い。まだまだ成長期真っ只中とはいえ、168センチの北斗に対して、綾香は169センチ。バスケ部所属の彼女は、それでもまだ足りないとほざく。頼むから、そろそろ成長を止めてくれと密かに願う。
 綾香とは幼稚園に入る前からの付き合いである。家は隣同士、元看護婦の綾香の母親があずまが仕事で不在のときなどには、北斗を預かって面倒を見てくれていた。彼女とは殴り合いの喧嘩だってしたことがある。中学のころには恋愛の相談にさえ乗ってやった。いい友人である。たとえ、会えば悪態しかつかなくても、いい友人だと思っている。
「綾香一人?」
「うん、お父さんとお母さんには了解もらってるよ」
 西子が気をきかせて、客間に北斗の夕食を運んだ。
「うんて、……あのなぁ、知ってるかどうか知らないが、砂神島には旅館やホテルなんかないぞ。この時間はもう船だってないだろうし」
「えっ、マジで?」
「あの、北斗くん、なんならうちに……」
「西子さん、こいつを甘やかしちゃダメです」
「ひどいわ、北斗。あたしに野宿しろって言うのっ?」
「計画性のないやつが文句いうな」
「いいのよ、綾香さん。どうせ部屋余ってるし。ね、泊まってもらいなさいよ、北斗くん」
 無論それしか方法がない事を北斗は知っていた。いたけれども、あまりの無謀さについ意地悪を言ってみただけである。
 仕方ないなと態度で示すと、綾香は改めて西子に頼み込んでいた。
 突然の客にも、叔母は快く対応してくれた。お布団の用意してくるわねと、二人を部屋に残して出ていった。
「……怒ってる?」
「どうしてここに来たんだ?」
 二つの質問は同時だった。怒ってないよと答えて、北斗は再度問いなおした。
「どうして?」
「え、なんか急に旅行したくなって。ついでに北斗の顔を見とこうかなって」
「そんなとこだろうな」
「嘘。北斗が心配だったからだよ」
 箸を置いて、ご飯をかき込む北斗を見上げるような格好で綾香はそう言った。どこか甘えるような目に、ご飯粒を吹き出しそうになった。ごほごほとむせる幼馴染に、少女はすかさずお茶を差し出した。
 冗談だよ、本気にしないでよ。そんな台詞はいつまでたっても北斗の耳に届かなかった。
「北斗、夏休み入って雰囲気変わっちゃったでしょ? おじさん死んで、親戚の家に行って来るって言い出したときもどっか思いつめた顔してたし。もし北斗がいなくなったらって考えたら、いても立ってもいられなかった」
 どういう立場でくれる心配だろう。幼馴染として、友達として? それとも何か別の感情で?
 なんだか急に綾香が可愛く見えてきて、北斗は慌てて夕飯をかきこんだ。
 驚く早さで食べきった北斗は、自分の茶碗類を手にさっさと客室を出ようとした。
「北斗」
「話はまた明日聞く、俺今日は疲れてんだ」
「あ、うん。おやすみ」
 部屋を出るとき、すれ違いざまに布団を抱えた西子と鉢合わせた。
「あら、北斗くん?」
「はい?」
「顔が真っ赤よ、……日焼けかしら?」
「日焼けです」
 適当に誤魔化して、北斗は台所に向かってどんどんと突き進んだ。
 多少は日焼けもあるだろうが。
 胸がばくばくと高鳴る。ちょっと待て、と何度も自分をなだめようとしたがとても収まりそうにない。ついさっきまでなんとも思っていなかった相手に対して、なんて現金なんだろう。しかし思い起こせば昔から好きになるのは綾香の様なまっすぐな髪の、気の強い女ばかりだった。
 食器を流しに突っ込んだだけではとても落ち着けそうにもなく、北斗はスポンジを片手にざばざばと洗い始めた。あずまが存命のころは食器洗いは北斗の仕事だった。食器を洗うことなら小学生にもできると、最初に許可された手伝いである。最近では食事も週に3日ほど作っていた。手馴れたものである。
 洗剤分を流し、水気を切ってから乾燥機に入れるとそこで仕事は終わった。
 部屋に戻ろうと振り向いたとき、思わずギョッとした。
 髪の長い美少女が黙って腕組みをし、北斗の背後に立っていた。しかも北斗が驚いたのを見てにやりと笑ったのである。
 咲と口の中で呟いて、少年は唇をかみ締めた。
 こんなに近くで、直接対面するのは初めてのことである。会ったのは、船着場で一瞬見た、あのときだけである。二度目は声だけで姿を見たわけじゃなかった。
 咲はノースリーブの膝上までのワンピースに身を包み、壁に背中を預け、わずかに足を組むように立っていた。外見的には自分とそれほど変わらないのに、表情はずっと年上で艶然としていた。
 どこか馬鹿にしたように鼻で笑うと、組んでいた腕を解き、北斗に近寄った。
 咲のゆったりした動きに、しかし北斗は微動だにできない。
 細い指が少年の顔の輪郭をなぞる。頬を、唇を。そしてくすくすと笑う。
「お前にはお前の使命がある。今はそれに従いなさい」
 まるで命令するような口調。逆らうことを許さない響きを含んだ声は、耳元でのささやきは脳に染み込み、痺れさせた。
 この感覚を自分は知っている気がする。
 出会うたびに、態度が変わる咲に北斗は内心迷っていた。
 最初は北斗の存在にひどく驚いていた。
 次は彼を追い出そうとしていた。
 そして今、北斗の存在を認め、何かを示そうとしている。
「それがお前のためでもある」
 まるで謎かけのような言葉。
 微笑だけを北斗の胸に刻んで、咲はくるりを背中を向けた。1歩足を踏み出すと同時に、すうっとその姿が消えた。


 俺の使命ってなんだろう。
 咲の残していった言葉は、まるで呪いのように北斗を眠りの淵から遠ざけていた。
 虫の音がうるさいほどに響き、赤い月がぼんやりと光を放つ。敷かれた布団に入りもせず。北斗は文机に肘をつき、見るともなしに夜空を見上げていた。信じられないほど、星が瞬いている。クーラーや扇風機は特に必要ない。窓を開けていれば夜風が適度に冷やしてくれる。
 こうやって見る世界は、いつもとなんだか違っていて、自分がちっぽけに思えてくる。見出すことのできない答えを求めて延々と悩みつづけるなんて、無駄なように思えてくる。
 この部屋はね、ずっと昔、兄さんが使っていたの。この机に肘をついてよく夜空を見上げていたわ。
 不意に西子の台詞を思い出して、北斗は自分がよりかかっている文机の表面を手で撫でた。
 何を考えていたんだろう。
 父とのいろいろな思い出が脳裏を過る。
 初めての注射で泣き出した北斗を慌ててあやすあずま。綾香と殴り合いの喧嘩をして、こっぴどく叱られたこともあった。数学の問題を一緒になって考えたりした。高校合格をまるで我がことのように喜んでくれた。そして冷たくなった父。
 だけどそれらのすべてはこの島を出てからのこと。
 ここで何を考え、そして何を決めたのだろう。
 どうしてこの島を出たのだろうか?
 俺、見たんじゃ。西ちゃんの出産の日、あずまが赤ん坊抱いて船に乗るのを。
 びくっと心臓が動いたのを北斗は自覚していた。
 たしか、そんな夢を見た。父の亡くなるほんの少し前に。
 伸一はあずまの子供が生まれたことは一切口にしなかった。だけどあずまは自分を連れて島を出た。そしておそらく同じ日、西子は死んだ子を産んだことになっている。
 仮に西子の子が死産でなかったとして、あずまが抱いていたのがその子だとしたら。あずまの子として育った自分は、実は西子の産んだ子ではないのか?
 ばくばくと鼓動がうるさい。
 西子が子供を産んだのはいつだろう。もしも北斗の誕生日と一致したら。
 だけどそんなこと、誰に聞けばいいのだろう。西子には聞けない。伸一だって、日付までは覚えてないかもしれない。咲は、きっとはぐらかすばかりだろう。
「……おばあさん」
 南子なら、覚えているかもしれない。
 もしかしたら話してもらえないかもしれないが、それでも他に心当たりがなかった。
 ちらと時計を見た。もう寝てしまっているかもしれない。だけどひょっとしたら起きているかもしれない。部屋の近くまでいって、様子を見てこよう。もしも眠っていないようだったら、聞いてみたい。
 北斗はこっそりと部屋を抜け出した。
 薄ぐらい月明かりを頼りに、祖母の部屋へと向かう。西子にばれてはいけない。自然と足音をさせないように歩いてしまう。
 南子の部屋から明かりが漏れていた。
「……おばあさん?」
 念のため、声をかけてた。もしも返答がないようなら、このままUターンするつもりだった。
 もぞもぞと動く気配のあと、「北斗?」と老婆の声があった。入るよと一言断ったあと、北斗は静かに障子を開けた。よく考えれば昨日の夕食以来の対面である。
 横たわっている分には、弱々しいただの老婆に見える。昨日のような嫌味っぽさは見て取れない。
「お前に言わなきゃならないことがあるんじゃ」
 北斗が質問を口にする前に、南子が先に口を開いた。
 よく見れば、育ちのよさが漂う上品な顔立ちをしている。確かにあずまと西子の母親である。どことなし似たところがある。
 細いを通り越し、皮と骨だけのような手を北斗にむけて伸ばそうとしていた。頼りなく思え、北斗が祖母の手をつかむと、南子は優しく微笑んだ。昨日とはまるで違う態度に、戸惑う。
「本当にあずまにそっくりじゃ。父親に似るってことは、何よりの親孝行じゃけぇの」
 なんだ、やっぱり俺は父さんの子だったんじゃないか。内心ホッと胸をなでおろし、北斗ははじめて南子とまともな話をする気になった。
「……父さんはおじいさんに似ていたんですか?」
「それなりじゃ」
 何かを思い出して、南子はまた微笑んだ。だがすぐに真剣な表情になり、唇をきゅっとかみ締めた。そういえばあまり顔色がよくない。西子さんを呼んできますと北斗は祖母の手を離そうとした。
「母親が誰か、知りたいと思ったことは?」
「え?」
 その台詞は北斗をひきとめるには十分だった。一旦は浮かしかけた腰を、北斗は下ろしてしまった。
「お前の母親の名を明かす前に、少しばかり私の話を聞いてくれんかの」
 そういって、老婆はぽつりぽつりと話し始めた。
 話は40年ほど前、南子がまだその伴侶と結ばれる前まで遡った。




 18の誕生日を迎える前日、南子は従兄である青年に呼び出され、学校のすぐ裏手にある海岸にいた。寄せては返す波音を聞きながら、少女は青年がくるのを今か今かと待っていた。従兄は、かつて南子の家の離れに住んでいた叔父の子だ。叔父夫婦亡き今、本家である南子の父に面倒を見てもらいながら、島の小学校で教師をしていた。
 昔は一緒になってよく遊んだものだった。同じ年のほかの子供に比べていくらか小柄だった南子はいつもからかいの的になり、そのたびに小さな背中でかばってくれたものだった。
 いつのころからか、南子はその胸に淡い思いを抱きつづけてきた。
 最近では人目をはばかって、なかなか二人で会うこともなくなっていた。小さな島でのこと、噂はすぐに当主である父の耳に入る。もしも万が一、会うことを禁止されてしまったら、もしも彼が住まいとしている離れから追い出されでもしたら、そんなことを考えて臆病になっていた。
 南子と名を呼ばれ、彼女はぱっと振り返った。ずっと待ちつづけた人が駆け寄ってくる光景が目に入った。
「真人さん」
 つい微笑みたくなる。
 南子の傍に駆け寄ると、真人は汗を拭い、手に持っていた花を差し出した。
 どこかに咲いていたのを折ってきたのだろう。たった1輪のそれは、心もとなく風に揺れた。
 驚いたように目を見開いた南子に、強引に押し付けた真人は、照れたようにうつむいた。
「一日早いけど、誕生日プレゼント。こんなものしかあげられなくて悪いんだけど」
「ありがとう」
 はじめてもらう真人からのプレゼントに、胸がじんと熱くなった。
「あの、それとその……」
 もともとそれほどよく喋るほうではない真人が、眼鏡を押し上げながらもごもごと続けた。
 なんと結婚の申し出だった。南子が高校を卒業したら一緒になってくれないか。目一杯照れながら、真人は真剣にそういった。あまりの嬉しさに、南子は真っ赤になった顔を見られたくなくて、手で顔を隠し、うつむいた。そして何度も「うん」と繰り返した。
 なんて自分は幸せなんだろう。
 その夜、二人で父に結婚の意志があることを報告した。反対されるものと思っていたのだが、意外とあっさりと許しがおりたものだった。父は快諾の証しとばかりに真人に酒を振舞った。
「南子の婿には一族の血をひくものがいいと考えていたんじゃ。真人ならどんなにいいかと思っていたわ」
 赤ら顔で、父は上機嫌だった。そして言わなくてもいいことまで口を滑らせてしまった。
「まあ、相模は所詮同族しか愛せん一族じゃけぇ」
 その言葉に衝撃を覚えた。あいにく真人のほうが聞いていなかったようだが、南子ははっきりと聞いてしまったのだ。問いただすことすら恐怖を覚えた。
 自分たちの気持ちはあらかじめプログラミングされたものだったのだろうか? だとしたら一体どこまでがプログラムされたもので、どこからが自分の本当の気持ちなのだろうか。
 翌日、真人にそのことを打ち明けた。一人で考え込んでいては、気がおかしくなりそうだった。確かに、相模一族には従兄妹同士の結婚が少なくない。仮に一族以外の島民と結ばれたとしても、遠く系譜を遡れば、祖先を同じくする。
 いわば砂神島は、すべて島民が先祖を同じくする、相模の島とも言えるのだ。
「俺たちの気持ちが、例え誰かにプログラムされたものだとして、だからどうだというの?」
 南子をなだめるように、真人は彼女の頭を撫でた。
 確かに、悩んでも仕方のないことかもしれない。「不安にならない?」そう問い掛けた婚約者に、真人が自信ありげに答えた。
「俺は、自分の気持ちに誇りを持っているから」
 だけどそれすら誰かの手のうちでのことだったら? 真人の言葉は、決して南子の不安を解消させはしなかった。
 ある夜、父の部屋から話し声がするのを聞いて、南子はこっそりと聞き耳を立っていた。何度かその存在を聞かされてはいたが、初めて聞く砂鬼の声だった。
 少女の声に向かって、父はこう問い掛けた。
 娘が産むだろう孫が砂鬼だったりはしないのか?
「従兄妹同士の結婚ぐらいでは大丈夫よ。もっとも、瑞樹のような突然変異もありうるわけだから、はっきりとは言えないけれど」
 少女の答えに父は明らかにホッとした態度をとった。砂鬼である少女を前に、あからさま過ぎる態度だった。
 怒りはじめるのではないかと南子ははらはらした。砂鬼は島を沈めてしまうほどの何某かの力を持つ化け物だと言い伝えられている。逆鱗に触れ、何かあったらどうするつもりであろう。
 だがそれは杞憂だった。
 少女はくすくすと笑った。
「お前の傲慢で自己愛が強いところはとても私によく似ている。嫌いじゃあないよ。だけど愚かだ。馬鹿は嫌いだ」
 その声に批難する響きはない。だがふっと次の瞬間、明らかに声のトーンが変わった。
「だけど、いいこと? これ以上血が濃くなれば確実に砂鬼が生まれるだろうよ」
 まるで、障子の向こう側で聞き耳を立てている南子に言い聞かせるように、少女は鋭く言い放った。それがどういう意味なのか、そのときにはわかりかねた。
 南子の高校卒業を待って、二人の結婚式が島を挙げて盛大に行われた。それからしばらくは知り合いに会うたびに「お子さんは?」の質問攻めだった。島民も必死だったのであろう。万が一、子供が生まれず、南子の代で相模家が途絶えてしまったら、砂鬼の悲しみが恐ろしい。狭い、小さな島だ。伝説は、まるで宗教である。
 1年半後、あずまが無事生まれたときなど、まるで祭りのような騒ぎであった。それから2年後、西子が生まれたときも同様である。相模家の子供は、多ければ多いほどいい。もしも一人死んだとしても、他の誰かが生きてさえいれば、砂鬼が悲しむことはない。少なくともあと一人、人々の無言のプレッシャーをひしひしと感じていた。
 だが、あずまが5歳にならないうちに真人が肺の病で死んだ。その後、いくら再婚を勧められても南子はがんとして頭を縦に振らなかった。
 真人を思ってのこと、と言いきる自信はない。
 自分は子供を産むために生まれたわけではない。誰にも言ったことはないが、心のどこかでそんなふうに感じていた。
 時が過ぎ、ふたりの子供たちがすくすくと成長する様は、何より島民に安心を与えた。年頃になると、同じくらいの年の子を持つ親たちが南子に近寄ってきた。下心見え見えな態度で我が子自慢をはじめるのである。はじめのうちは愛想よくしていられた南子もしだいに煩わしくなってきた。そんなとき、そのうちに誰からこう言ったのだ。
 うちのほうが相模家に近い血筋である。
 ぞくりとした。
 まるで呪いでもかけられたように、相模の血をひくものが、相模の直系に群がる様は、見ていて吐き気すら覚えた。
 だからこそ、南子はあずまに大学進学のために島を出ることを強く勧めた。島を出て、まったく関係のない家柄の娘と結ばれてくれれば。そう切に願った。あずまにもはっきりとそう言い聞かせた。あの子はなぜか砂鬼・咲のお気に入りだったので、ことの重大さをよく知っていた。18にして、母親の心の負担を軽くする言葉を知っている賢い子であった。
 だけど




 そこまで話して、南子ははじめてためらったように、しばらく黙り込んだ。話し疲れたのだろうか、心配そうに顔を覗きこむ孫に、彼女は心配ないと少しだけ笑った。容姿だけではなく、性格も息子にそっくりな北斗。見えにくくなった目にも、不思議と北斗の姿だけは鮮明に映った。
 つらくあたったのは憎かったからではない。ただ、早めに見限って欲しかったのだ。
 彼に残酷な運命を用意して待っているこんな島なんか。
 もはや、孫の頭を優しく撫でる気力すら南子には残っていない。残りわずかな命を、彼に真実を告げることのみに集中させる。
「あずまから母親について何か聞いたかの?」
「いえ、何も」
 北斗がごくりと唾を飲みこんだのがわかった。
 ああ、とうとうこの時がきてしまった。
 南子は喉の渇きを覚えながら、17年目にして初めて真実を口にした。
「お前の母親は、西子じゃ」
 みるみる、北斗の顔が青ざめていく。「え?」と問い返す声も、心もとないほどだ。
 あずまの大学進学と同時に、西子が気落ちしているのは誰から見ても明らかだった。
 兄が夏休みに帰省してきたときなど、べったりくっついて一時も離れようとはしなかった。他の女を決してあずまに近づけようとしなかった。
 そんな様子を見ていたにもかかわらず、南子は西子の気持ちに気づいてはいなかった。もしも知っていたら、一人であずまのところに遊びに行かせたりなどしなかったのに。
 呪いにも似た「同族しか愛せない」という習性を、誰よりも嫌っていたのに。
 あずまのところからかえって、しばらく経って娘の妊娠が発覚したとき、西子を殺して自分も自殺しようかとすら考えた。だが時を同じくして西子の異変を知った島民たちによって阻まれた。彼らにとっては、父親など問題ではなかった。相模本家の存続、それが大事だったのだから。無論、さすがに父親があずまだとは思ってもなかったようだが。
 娘が臨月を迎える8月。それまで帰ることを許さなかった息子を密かに呼び寄せ、説得した。
 生まれてくる子を連れて、島を捨てるんだ。二度と帰って来ちゃいけない。泣きながら言い聞かせても、あずまはなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。
 そうこうしていると、どこからともなく咲が現れて、何某かあずまと二人で話していた。そしてようやくあずまは島を出ることを決心したのだ。
 17年前のちょうど今ごろを懐古していた南子は、しかし次の瞬間、急に呼吸が苦しくなり、ひゅうひゅうと喉を鳴らした。
「おばあさんっ?」
 祖母の異変に気づき、北斗が大声をあげた。
「西子さんっ……、誰かっ」
 空気を求めて、南子の細い腕が宙をもがく。急激な変化に、北斗は腰を抜かしたようにあとずさった。
 いやだ、見たくない。あえなく障子に背中がぶつかった。
「誰かっ、誰か!」
 誰でもいい、早くきてこの人の最期を看取ってやってくれ。俺は見たくない、怖い。
 気がおかしくなりそうだった。少年の叫び声に、足音が廊下から聞こえた。
 しゅっという軽い音とともに障子が開いたかと思うと、咲が髪を振り乱して部屋に飛び込んだ。
「南子! 南子、死んじゃダメよっ」
 もはや虫の息を繰り返す南子の体を激しく揺さぶり、咲は何度も呼びかけた。北斗はぎゅっと堅く目を閉じた。なぜだろう、見ていられなかった。
「南子! みな……」
 不意に、南子を呼ぶ声がやんだ。恐る恐る目を開けた北斗は祖母が口をパクパクさせているのが見えた。空気を求めているのとは違う、何かを言い残しているのだとわかった。
 ごめんなさい、そんなふうに唇が動いたかと思うと、それっきり目を閉じ、動かなくなった。
「お母さん……?」
 北斗のすぐ後ろで、西子がぺたりと座り込んだ。力が抜けたように、まるで夢でも見ているような表情だった。
 まだ温かい死体を抱きしめ、咲が肩を震わせた。小さく嗚咽が聞こえた。それが引きがねとなって、西子がわっと泣き始めた。北斗の目も涙で潤み始めた。
「何がごめんなさいよ? 結局あんたも他のやつらと同じじゃない。あたしを置いてさっさといかないで」
 叫ぶように、咲は死体を責めた。
 少しだけ大地のゆれを感じ、北斗は伝説を垣間見た。


 わずか半月の間に、二人も親族を失うことになるとは思ってもみなかった。喪主の西子は、案外しっかりとしていて、葬儀は滞りなく行われた。
 生まれてからずっと一緒にいた父、出会ってわずか2日の祖母。大きさに違いはあれ、胸に穴はあくのだ。いなくなれば寂しい。葬儀の客も帰り、人のいなくなった座敷からぼんやりと庭を眺める北斗の隣に、すっと誰かが座った。
「綾香」
 彼女にしてみれば災難である。遊びにきて他人の葬儀に出くわすなど、縁起悪いことこの上あるまい。
「大変だったね、いろいろと」
「うん……」
 同じように庭を眺め、綾香はため息をついた。
「元気出してね?」
「ああ」
 あまりに上の空な返答に、次の台詞を見失ったまま、しばらく沈黙が続いた。
 そういえば、と北斗は父が死んだときもこうして傍にいてくれたのが綾香であった事を思いだし、偶然に驚いた。いや、偶然でもないのかもしれない。昔から自分が落ち込んだときには、常に傍に綾香がいてくれた。彼女はそういう運命にあるのかもしれない。
 ならば調子に乗って少しだけ甘えてみてもいいだろうか。
 こつんと頭を綾香の肩に預けてみた。彼女の匂いが不思議と心地よい。綾香は一瞬驚いたように目を大きく開けたが、別に拒否はしなかった。
 そう言えば、綾香の話途中だったなぁ。明日聞くと言いながらあれから一日半、まともに話などしていないのだ。
「……綾香」
「何?」
「……お前いい奴だな」
「いい奴でしょ」
 綾香の明るい口調に、北斗はくすりと笑った。
 理由はこの際どうだっていい。綾香がここにいてくれてよかった。
 何より驚いたのは咲と瑞樹の落ち込みようの激しさだった。葬儀の間中、一時も遺体の傍から離れようとはしなかった。他の人には見えないのか、誰も彼らを見向きもしなかったし、もちろん話しかけもしなかった。気が抜けたようにうつろな目で南子を見下ろす様子は、見ていて痛々しかった。彼らと南子の間にどんなやり取りがあったかは知らない。しかし、おそらくは祖母が生まれるより以前からの付き合いだろう。いろいろと思い返すことも多いだろう。
 彼らは、一体何度相模に連なるものの死を見てきたのだろう。
「……北斗?」
 不意に、自分の肩にかかる荷がずり落ち、膝に乗りかかってきたので、綾香は幼馴染の名を呼んだ。
「寝ちゃったの?」
 綾香の膝の上で、幼いころのままの寝顔でいつのまにか北斗は眠りに落ちていた。少女は困ったように、北斗を見下ろし、「どうしよう」と呟いた。自分のものではない熱の塊がそこにあるということが、なんだか不思議な感覚で妙に照れる。
 自分たちが離れたいた時間はほんの数日のことなのだが、その間にずいぶんと人相が変わったように思える。最愛の父をなくしたときの北斗は、頼りなくてどこかへ飛んでいってしまいそうな雰囲気があった。綾香も両親から「くれぐれも目を離さないように」といわれたものである。ただの繊細な少年だった。5日後、叔母という人からはじめて手紙が届いた。ようやく元気を取り戻しかけたころで、彼が「砂神島へいってきます」といったとき、誰も反対しなかった。
 だけど、砂神島へと旅立つ後ろ姿を見た瞬間、何かしら嫌な予感がしたのだ。いかせてはいけない。何かが綾香にそうささやきかけていた。だから渋る両親を必死で説得して北斗を追ってここまでやってきたのだ。
 北斗の柔らかそうな髪に触れてみた。茶色を通り越して、いきなり金髪に染めたのを見たときには、おかしくなったのかとさえ思った。それくらい意外なことだったのだ。
 だんだん目がなれてくると、似合っているとさえ思えてくるのはなぜだろう。まあ、所詮日本人でのっぺりした顔つきであるから、欧米人的な自然さはないけれども。それでも端正な顔つきには映えて見えた。
 少し、背が伸びたのかもしれない。
 実際に背比べをしたわけではないからはっきりとはわからないけれど、目線の高さが綾香と同じか、少し高くなっていた気がする。
 まるで何かから脱皮するように、北斗が少しずつ変化している。ちょっとでも目を離せば、違う誰かになってしまいそうで綾香は不安だった。置いていかれるような焦燥感すらあった。
 さらっとした髪が意外と心地よかった。
 がちゃん、と何かを落とすような音がして、綾香はびくっと肩を震わせた。音と振動で北斗も目を覚ます。
「あ……、ご、ごめんなさい」
 振り返れば西子が落とした湯のみ茶碗や急須を慌てて拾い上げていた。その顔色は真っ青で、北斗と綾香は慌てて近づき、手伝おうとした。だが彼女はそれを拒否した。
「触らないで!」
 何か汚いものでも触るように、綾香の手を払いのけた西子。
「いたっ」
 少女の漏らした呟きに、はっと驚いた表情をし、西子は条件反射のように「ごめんなさい」と謝った。おそらくは無意識だったのだろう。怯えたような目で北斗を見る。
 とっさに目を伏せてしまった。南子から真実を聞かされて以来、どうも目があわせられない。西子も、北斗が知ってしまったことを薄々と感じ取っているようで、以前のように進んで近寄って来ようとはしない。
「……西子さん、疲れているようだし、少し休んだら? 俺が後は片付けておくから」
「北斗くん……。……、そうね、お願いするわ」
 もう一度綾香に謝って、西子はふらふらと部屋を出て自室に向かった。
 実の兄妹で愛し合ったことを責める気力は北斗にはない。そうして生まれたのが自分なのだから。それがタブーであっても、否定しては、後は自分は死ぬしかない。だから恨みはしない。感謝したりもしないけれど。
「どうしたの? 北斗」
 ぼうっと叔母の姿を見送る幼馴染の姿が奇異に見えたらしい。はたと顔を見合わせて、さっきまで綾香の膝を枕代わりに眠りこけていたことを思い出し、北斗は頬を赤らめた。それを見て、少女もぽっと赤くなった。
「どうも」
「いえいえ、どちらいか」
「……どちらいかって何だよ?」
「こちらこそって感じかな。言わない?」
「言わないよ」
 お互いくすくすと笑って、湯のみの片付けにとりかかった。畳の上にまいてしまったお茶を早く取り除かなくてはという綾香の言葉に、北斗は立ちあがり台所に向かった。布巾か雑巾があったはずだ。
 なぜだろう、綾香と一緒にいるとなんだか落ち着く。子供のころからずっと一緒にいたからだろうか。
 口にしたことはないが、彼女が追ってきてくれたこと、本当はすごく嬉しいのだ。
 台所の、それらしきところを見当をつけて闇雲に雑巾を探す北斗。
 ふと、ここで咲と出会ったことを思いだし、動きを止めた。彼女は、綾香とは正反対に北斗を不安にさせる。決して嫌いなわけではないが、あい入れないものを感じるのだ。
 いや、違う。予感めいた何かを体の奥から感じる瞬間がある。
 だけど、いいこと? これ以上血が濃くなれば確実に砂鬼が生まれるだろうよ。
 南子が教えてくれた咲の言葉。それが本当であれば、考えて北斗はぞくっとした。立ち止まる。
 従兄妹同士の結婚ぐらいでは砂鬼は生まれない。じゃあ、それ以上に近い婚姻といえば……? 兄弟とか、親子とか?
 自分の出生がそれに当てはまることを自覚した途端、少年は蒼白になった。
「俺が、化け物?」
 呟きに答えるように、視線の先に背の高い男の姿が現れた。瑞樹だ。手にしたコップには何も入っていないが、おそらくは水でも飲みに来たのだろう。……化け物でも喉が乾くのか。
 そしてこれが俺の未来の姿……?
 彼はまるで北斗の考えていたことを読み取ったかのように、こういった。
「そう。その瞬間まで、僕たちは自分がただの人間だと信じているものだ」
「……嘘だ」
「君は、残念ながら僕たちの仲間になる。そう遠くない未来に」
 死刑宣告にも似た厳しさで、瑞樹はそれ以上何も言わなかった。
「信じない、信じないぞ」
 哀れむような視線だけ残し、彼はいつものように消えた。




 喪服を脱ぐ伸一の傍に、美里がスリスリとよってきた。この姪は昔からよく伸一になついていた。これは何か欲しいものがあるときのくせだ。
「なんや?」
「うち、あの子のこと好きになったみたいやわ」
「あの子?」
「ほら、相模さんとこの子。北斗くんっていうたっけ?」
 ああ、と昨日連れまわした少年の顔が脳裏に浮かんだ。やはり父親同様、あの顔はもてるらしい。すっかりやられてしまった美里を見て伸一はくすっと笑った。
 どういうわけか、この島の住民たちはみんな相模家のものが欲しくてたまらないように出来ているのだ。だけど今までは高嶺の花とばかりに手を出そうと考えるものはなかった。だけどあずまたちの代から、彼らの見合う家筋のものが見当たらなくなったため、島のものはみんなそわそわしている。「もしかしたら自分が」なんて淡い期待を胸に抱くようになってきた。伸一もその一人だ。だが結果としてあずまも西子もこの島の人間を選んだりはしていない。どこの誰とも知れない、島以外の人間を選んだ。
 だけどもしかしたら北斗は。
 伸一は、うきうきとはしゃぐ姪の頭をなで、まあ、がんばれやと応援らしい台詞を口にした。
 島の中ではかなり可愛い部類に入る美里を、伸一はかなり可愛がっている。目に入れても痛くないという表現がぴったりと当てはまるほどに。
「やあん、そんな口ばっかりやのうて、ちゃんと協力してやぁ」
 甘ったれた口調も、美里なら許してしまう。
「ま、勝負下着でも用意しときゃあええじゃろう」
 冗談で伸一はそんなことをいって見た。かーっと赤くなった姪を見て彼はげらげらと笑ったのだ。からかわれたことに美里がぷうっと膨れると、更に笑った。
 隣の家の妹夫婦の家から美里を呼ぶ声が響いてきた。
「ほらほら、おかあちゃんが呼んでるで」
 それに着替えの邪魔でもあった姪をタイミングよく追い出して、伸一は一人ベッドの上に寝転がった。
 もしも美里と北斗がくっついたら、あいつらをエサにこっちも西子とくっつけたりしないだろうか。何せ20年越しの愛なのだ。そろそろ何某かの進展がないとおかしくなってしまいそうである。
 もうおかしいのかもしれない。

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