北斗篇(3)



少しでもあなたの近くにいたい、それだけなのに。



 嫌われたんだろうか。
 どうにも夕方以来、北斗の態度がおかしい。つい綾香はそんなふうに思ってしまったわけだが、嫌われるようなことをした覚えはないし、……おかしいとしか言い様がない。
 呼びかけても、話しかけても上の空。どこか思いつめたようにも見える。あずまが死んだときとどこか似ている。
 やはり、疎遠だったとしても、肉親が死んだということがショックだったのだろうか。だったらいい。時間とともに立ち直ってくれるはずだ。
 砂神島にきて3日目が終わろうとしている。そろそろ家に帰らないと両親が心配し始めるころだ。わざわざ迎えにきてしまうかもしれない。カレンダーをちらちらと見上げては、だけど北斗のことが気にかかって帰り支度をはじめられない。
「……ねぇ、北斗?」
「……。……んー?」
 実は畳の目を数えていただけとか、そんなオチだったら楽しいかなぁ。うつむいたまま、こちらを見ない北斗の横顔を見ていると、どうしてか茶化してしまいたくなる。何をそんなに悩んでいるのだろう。自分にも言えないようなことなのだろうか?
 綾香はため息混じりに帰宅の旨を告げようとした。
「あたし、ぼちぼち帰ろうかなって思ってるんだけど……どうする?」
 北斗が相模本家に居座る気がないことを、綾香は以前聞いていた。一緒に帰る? そう続けて言おうとした彼女を、幼馴染の少年はひどく驚いたように見返した。
「え?」
 あんまり真剣に自分を見るものだから、少女のほうも驚いてしまった。
 夜風が二人の間を流れていく。
 しばらくして、先に目をそらしたのは北斗のほうだった。
「……うん、そうか。仕方ないよな」
 仕方ない?
 言葉の意味をはかりかねて綾香はわずかに首を傾げた。
 帰る気がないのだろうか? だからそんな言葉が?
 自分の記憶の中の北斗像より、ほんの少し大人びて見える。なんだか目が離せなくて、綾香は一人でどぎまぎしていた。
「あ、北斗。ちょっと立って」
 どきどきしたついでに思い出した。この際だから背比べをしておこう。
「なんだよ」
 虫の居所が悪いのか、少年はあまりいい顔をしなかった。だが腕を捕まれ、引っ張られても、それを振り払いはしなかった。ため息混じりに立ちあがった北斗は、やはり、綾香よりほんの少し目線が高かった。彼自身そのことに気づいたのか、「あ」と呟きを漏らした。
「やだ、なんでそんなに伸びてるわけ?」
 あたしなんかここ1年変わらないのにと少女が悔しそうに言う。本当に悔しそうで思わず北斗の顔に笑みが浮かんだ。
「……うん、やっぱりあんたは笑ってるほうが男前だと思うよ」
「え……?」
 突然何を言い出すのだろう。無邪気な綾香の笑顔が、馬鹿に見えるほどだ。冷めた目で見返す北斗に、綾香はしばらく笑みを浮かべたまま凍り付いていた。
「え……っとね、誉めたんだけどね? 一応」
「ああ。そっか」
 鈍い自分を誤魔化すように、北斗は大きなため息をついた。
「何かあったの?」
 心配そうに、ほんの少しだけ見上げるような目線で、綾香が北斗を見ていた。心配をかけたいわけではないのだが、だけど今は周りに気を使う余裕などなかった。
 どう言えばいい? 自分が実は化け物だったなんて。もしかしたら今は違うかもしれないけど、いずれはそうなる。綾香にそんな不安を理解しろと言ったところで無理だろうし、第一まともに聞いてくれるとは思えない。「おかしいんじゃない?」そう言われたら、きっと自分は立ち直れない。どうあがいても不安は付きまとう。
 そうしてまた一人で抱え込むのだ。
 黙ったまま、北斗は座り込んだ。
 綾香には知られたくない。
 とん、と背中に別の温もりが触れてきた。首だけ動かすと背中合わせになるように綾香も北斗と同じように座っているのがわかった。
「綾香……」
「あたしにも言えないようなこと?」
 どこかすねるような口調。
「……話せない」
 信用してないわけじゃない。問題がこんなに現実離れしていなければ、何もかも打ち明けていたはずだ。
 綾香には知られたくないのだ、自分が人間じゃないなんて。
 好きだから。性別とかそう言うのに関係なく、そんなのとは別の次元で綾香そのものが好きだから。失うのが怖い。
 ふっと背中から温もりが消えた。綾香が立ちあがり、腰に手を当てがっくりと肩を落としていた。こちらからは表情は見えない。
「あや……」
 幼馴染が振りかえるのを心のどこかで期待していた。
 だが、
「見そこなったわ、北斗」
 返ってきたのはその台詞だけだった。


 許すまじ、北斗。
 綾香の足音が荒々しく夜の相模屋敷に響く。むかつくむかつくと何度も呟いて、自分の部屋に戻ると腹立たしそうに旅行かばんを手にし、畳にたたきつけた。中身は着替えしか入ってないから、割れ物などの心配はない。
 一体何を悩んでいるのかは知らないが、一言相談してくれてもいいのに。こっちは昔からいろんなことを彼に相談に乗ってもらっている。それは北斗のことを信用しているからだ。つまり自分は彼に信用されていないということではないのか。そう思うと自分の不甲斐なさも腹立たしい。
 一体いつからこんなに離れてしまったのだろう。子供のころは北斗のことならなんだって知っていた。好きなもの、嫌いなもの。何をすれば喜ぶのか、どう言えば傷つくのか。ほんの最近まで、彼のことならまるで自分のことのように知っているつもりだった。だけど本当はいつのころからか、自分たちは別の生き物になり、考え方も趣味も、決して完璧に理解しあえるようにはならなくなっていたのだ。もどかしくて、怒鳴りたくなる。だって、子供のころはちゃんと分かり合えていたのだ。それは決して幼さの傲慢ではない。
 どうしてわかってあげられなくて、どうしてわかってもらえないのだろう。
 ふと、綾香の耳に「ぺたり、ぺたり」と廊下を歩く音が飛びこんできた。素足で歩く音だ。時々立ち止まってはまたゆっくりと歩き始める。何度もそれを繰り返し、それは綾香の部屋に近づいていた。
 ……誰?
 この屋敷には北斗と叔母の西子、それに一昨日なくなった祖母の南子しかいないと聞いている。だから今は綾香を含めて3人しかいないはずなのだ。表向きには。他にも人がいるような気配は感じているのだが、北斗たちがあえていわないことを、探るつもりはなかった。
 誰なんだろう? 西子は夕方からずっと眠ったままだから、北斗だろうか?
 謝りに来たのだろうか。それとも見捨てるように部屋を出てきた綾香を怒りに来たのだろうか。どっちにしても、多分あと味の悪さは残るだろう。
 喧嘩したまま、家に帰りたくはないが、それでもふてくされた顔を笑顔に変えれるほど器用には出来ていないのだ。
 足音が部屋のすぐ傍にまで近づいてきたとき、ふと、違和感に気づいた。
 北斗にしては床のきしむ音が軽い。綾香と同じか、もっと体重の軽い人物の足音である。
 西子かも、そうも思ったが、彼女ならまるで迷うように何度も立ち止まったりなどしないだろう。
 ……じゃあ、誰?
 嫌な汗が吹き出るのがわかった。夏なのにぞくぞくする。そのくせ心臓は器である体を振り動かすほど激しく脈打っている。
 しかもこの家は死人が出たばかりである。
 ぺたり、ぺたり。足音が近づいてくる。綾香は逃げるように部屋の隅っこに寄った。身を小さくかがめて、がくがくと体を震わせた。
 ぺた。
 足音が、とうとう部屋の前まできてしまった。
 誰か、いや何かが障子に手をかけているのがなんとなくわかった。
 すうっっと10センチほどあいた瞬間、濡れたような長い黒髪が見えた。
「きゃあああっ」
 この屋敷の誰のものでもない人影に、綾香はとっさに叫んだ。


 綾香が北斗の部屋を出ていってから5分ほどして、再び彼の部屋のふすまがすっと開いた。
「あや……」
「無様ね」
 咲だった。少し前までの落ち込みようはどこへやら、以前と変わらぬ高飛車な態度で北斗を見下ろしていた。不思議と、彼女はこうして毅然とした態度が似合うのだ。むかつくけど。
 長い髪はポニーテールのように高い位置で結わえられている。ほっそりとした顔のラインが彼女の顔をどこか強気なものに見せている。短い丈のキャミソールにホットパンツ。南子より長く生きているにしては、服装の感覚は若い。
 化け物だとは思えない。
「……」
 だけどそれは自分も同じことなのだ。
「俺は本当にあんたたちと同じモノなのか?」
「いずれはこちら側にくるでしょうね。まあ、運命とでも思ってあきらめることね」
 部屋の備品をいじりながら、咲はさりげなく死刑宣告をつきつけてきた。
「だからこそ、お前にはやらなきゃいけないことがあるというのに。一体何をもたもたしているの?」
「……? 何のことだ?」
「何のことですかでしょう?」
 北斗の言葉尻を捕まえ、咲は彼のほっぺたを軽くつねった。
 むかつく、やっぱり嫌いだ、などと思いながら、北斗は不機嫌な顔で言いなおした。
「何のことですか?」
「よろしい。いいこと? さっさと子供を作りなさい。でなきゃ確実に相模家は断絶。あたしたちは居場所を失うわ」
 こんなんでも相模のたった一人の直系ですものね。
「……はぁ?」
 そんなことのために、もうすぐ17になる自分に子作りを勧める気なのか。あまりの突拍子のなさに北斗はめまいすら覚えた。確かに、想像つかないけれども家が断絶するというのは大変なことなんだろうし、相模とずっと一緒に生きてきた咲たちにとっては死活問題かもしれない。だからといって、まだ高校生の自分に勧めるようなことじゃないだろう。
「まあ……、いずれな」
 照れながらぶっきらぼうに答えた北斗の額を指ではじいて、彼女は「馬鹿?」と呆れた様に呟いた。
「わかってないようね。私や瑞樹を見て疑問に思わないの? いつこちら側にくるかなんて、誰にもわからないのよ。砂鬼になれば、もう人間との間に子孫を残すことなんて不可能になるの。……だって、種族が異なるんだもの」
 だから早いに越したことはない。彼女は涼しげな顔でそう言った。
「誰か試したことあんのか……あるんですか」
 見た目は人間とまったく変わらない。それに少なくとも元は人間だったのだ。果たして不可能だといいきれるのだろうか。
「いい質問ね。あるわよ」
 美少女は行儀悪く文机に腰掛け、にっこり微笑んだ。剥き出しの細い足を優雅に組むと、なんだかどきどきした。挑発されているのだろうか。
「瑞樹にはね、子供がいたの。真人っていって、ああ、お前のおじいさんだわね」
「え、何。じゃあ、あいつって俺のひいじーさんなわけ?」
「まあ、そうなるわね。まともに生まれたのは最初に生まれた真人だけだったの。他に出来なかったわけじゃない。だけど、結婚して真人が生まれてしばらくしたころ、瑞樹本人も気づかないうちに砂鬼になっていたの。外見や考え方に変化が現れるわけでなし、わかるはずないんだけどね。二人目以降の子は母親の生理を2ヶ月くらい止めてただけでみんな形もなさずに流れ出てきたわ」
 話しているうちにいろいろと思い出すことがあったのか、咲はしばらく黙り込んでしまった。
 ふいに屋敷のどこかから悲鳴が上がった。
 考えるよりも早く、北斗は立ちあがり部屋を飛び出すと、一目散に綾香の部屋に向かって走っていた。


「どうしたっ?」
 客室に飛びこんで、真っ先に目に入ったのは部屋の隅でうずくまる幼馴染の姿だった。
「人が……」
 上ずった声が痛々しい。
 綾香の言うとおり、廊下を中心にあたりを見渡したが、それらしい人影はなかった。
「気のせいだったんじゃないか?」
「違うっ、長い髪の女の子だったもんっ」
 長い髪といわれて一瞬咲を思い出したが、彼女はついさっきまで自分と一緒にいたわけだから違う部屋にいる綾香を驚かしたりなどは出来ない。第一見えないだろう。
 何か飲み物を持ってきてやると部屋を出ようとしたとき、綾香が小さな声で北斗を呼んだ。
「ここにいて」
 一人にしないでと、綾香にしては弱々しい台詞だった。なんだか隣に座ってぎゅっと抱きしめてやりたかったが、彼氏でもないのにと思うと出来なかった。その場にあぐらをかいて座ると、くすっと綾香が笑うのがわかった。彼女の方を見るとよほど怖い思いをしたのか目に涙を浮かべて、それでも困ったように笑っていた。
 その姿が今までみたどんな女の子よりも可愛く見えて、しばらく目が離せなかった。
「……いい奴だね、北斗」
「まったくだ」
 はあ、とため息混じりに北斗は頭を抱えた。砂神島に来てからというもの、いろいろなことが起こりすぎている。
 ふと、背中に重みを感じて北斗は頭を抱えていた手を解いた。思っていたよりも細い腕が背中から腹にかけて絡み付いていた。
「綾香」
「さっきはごめん。なんか北斗のこと見捨てるような態度とって。違うの。悩みの相談にも乗ってあげられないくらい信用されてないんだって思ったら悲しくなって」
 北斗の背中に頬を押し付け、綾香がささやくように謝った。
「信用してないんじゃないんだ。相談する勇気がない俺のほうが悪い」
 ぎゅっと締め付ける綾香の腕に自分の手を重ね、北斗は密着した部分の心地よさに酔いしれていた。美郷の成熟した体とは少し違う、子供のころとは違う、柔らかな丸みを帯びた幼馴染の体がこんなに気持ちいいなんて。
「あたしね、北斗が好きだよ。……その、特別って言うわけじゃないんだけど、親友だと思ってる」
「俺もそうだよ。綾香がいてくれてよかったと思ってる」
 綾香はただ、ほんの少しだけ腕に力を込め、離れようとはしなかった。
「……」
 障子の隙間から中の様子をうかがう視線に、彼らは気付かなかった。




 そして、その朝も伸一はいつものように相模家に魚を売りに来ていた。もう15年以上続いた習慣である。島の人々は、そんな彼に半ば同情的であった。どんな縁談も頑なに断りつづけ、西子ただ一人を思いつづける様はこっけいで、だけど哀れでもあった。
 だが本人が、西子に袖にされつづけることをそれほど苦にしていないのが、せめてもの救いだった。
「おっはよーございまーす」
 妙なリズムをつけ、勝手口の戸に向かって叫ぶ。それがだいたい5時45分。目覚まし代わりである。
「……ん?」
 いつもなら2、3回声をかければ西子が姿をあらわすのだが、今日はなかなか出てこない。不思議に思って、いつも鍵のかかっていない勝手口のドアを開けた。
「……おはよーございまーす?」
 朝日が台所に差し込んで、ある程度は中の様子が見て取れた。
 食器だなの中は綺麗に整頓されている。部屋で食事を取る相模家ではあまり役に立たないテーブルの上には小さな花がいけてある。
「……西ちゃん、北斗?」
 いないのか、そう声をかけようとしたとき。
 伸一は発見してしまった。台所の隅で座り込む西子の姿。
 なんだいたのか、とほっと息をついて、彼はいつものように声をかけた。
「おはよぉさん」
「……、おはようございます」
 どこか心もとない返答に、なぜだか胸がきゅんとなる。力の限り抱きしめて守ってやりたくなるのだ。
 うつろな瞳、朝風呂にでも入ったのか濡れた髪。Tシャツの下にかすかに透けて見えるブラジャーの模様。とうとう目のやり場に困ってしまい、伸一は柄にもなく真っ赤になった。
 可愛いと思ってしまう。
 照れ隠しに伸一はよいせっと腰を下ろした。
「今日は西ちゃんの好きな白身系が大漁じゃ」
「伸一さん、私のこと好き?」
「おうよ……え?」
 隅に座ったまま、西子はうつむいていた。伸一の場所からは、今彼女がどんな表情をしているのかはわからない。
「えと、まぁ。……知ってのとおり、俺は昔から西ちゃんのことが好きじゃけ」
「だけど、私は伸一さん以外の人の子供を産んだわ。嫉妬した?」
「そりゃ、まぁ」
 あの頃の荒れ様といったら、今思い返すと恥ずかしくなるばかりだ。村中の、西子に言い寄ったことのある男を絞めて回ったものである。若気の至りというか、なんというか。
「でもつきおうとったわけでなし、俺に西ちゃんを責める権利なしってわけじゃ。どんなに好きでも、西ちゃんは俺のもんやなし。西ちゃんが幸せなら、それはそれでありなんかもなって諦めた」
「子供っぽい理論だけど、大人ね」
「だてに2年も長く生きてないっちゅうことか」
 だけど、正直に言えば、今だって他の男と一緒にいる西子を見るのは心中穏やかなわけじゃない。どこか遠くへ連れ去ってしまいたくなる。
「西ちゃんは今でも、その、子供の父親やった男を?」
「まだ愛してる。もう二度と会えなくても、ずっと好き」
 ずきん。
 伸一も知らない、彼女がそれほどにまで思う男の正体を。
「俺はっ……」
 残酷な西子を黙らせたくて、伸一は彼女のほうへ手を伸ばそうとした。
 あふ……という、あくびが聞こえて、伸ばしかけた手をとっさに引っ込めた。
「ああ、おはようございます」
 北斗が、眼の下にクマを作ってのご登場であった。美少年っぷりが幾分下がって見える。ちらと、西子の表情を盗み見ると、まるでひまわりが咲いたような笑顔を浮かべていた。北斗を溺愛しているのがわかった。
 だが、いくら大好きだった兄の残したたった一人の甥っ子とはいえ、よその女の産んだ子をこんなふうに愛せるものなのだろうか? 西子のブラコンはあまりにも有名だった。
 実はやっぱり西子が産んだ子だったりして。
 それにしてはあんまりにあずまに似すぎているし。
「本当はあずまと西ちゃんの子とか言うなよ」
 つい考えていたことが口をついて出てしまって、伸一は慌てて前言を撤回した。洒落にしても質が悪すぎる。
 だが、北斗は完璧に表情を凍らせていた。おや?と疑問に思った瞬間、
「いやだわ、伸一さん」
 ころころと鈴を転がすような声で西子が笑った。その後には否定の言葉も肯定の言葉も続けなかったが、だがそれは明らかに否定ととれる態度だった。あとで真実が露見しても「否定したことはない」とかなんとかうまく言い逃れできる方法だ。
「そーだよなー」
 釣られるように大笑いする伸一を横目に見て、北斗は複雑な心境だった。
 まだ、一度も西子自身の口から真実を告げられていない。
 別に今更母親の情を期待しているわけではないが、事実は事実として、彼女自身の口から聞かせて欲しいのだ。その点、南子は勇気のある人だった。北斗が事実を拒否したり、傷ついたり、自分が嫌われたり、そういう予想されるマイナス点を、向こう見ずに乗り越えて、真実を口にした。自分の命の長さを知っていたからできたことなのかもしれない。
「そういえば、綾香さんはいつ帰るの?」
「あ……今日か、明日っていってた」
 やはり、いつまでも居座る客は迷惑だったのだろうか。西子の思いがけない台詞に、北斗はあいまいに答えた。
「そう」
 どこかほっとしたような表情の叔母。一抹の寂しさが胸に生まれた。
 伸一にじゃあと挨拶をして、北斗は当初の目的であった水を飲んで、さっさと自室へと戻っていった。
「なあ、ここんとこ泊まってた女の子、やっぱ北斗のこれ?」
 小指を立てて、至極真剣に伸一は西子に尋ねた。何せ可愛い姪の恋愛がかかっている。もしも彼女持ちなら、傷つく前に諦めさせてやったほうがいい。
「違うわ。そんなわけないでしょ」
 にっこり笑いながら、西子はきっぱりと否定した。根拠などない。
 認めるつもりがないだけだ。




 女が一人、縁側に腰掛けている。時々、何もない宙を見上げてはくすくすと声を殺して笑う。
 それは何度となく繰り返し見る夢。かつて愛した女の背中であることを確信して、瑞樹はそれがいつもの夢であることを認識してしまった。彼女と過ごした時間ははるか遠い日々。
 蝉の声が狂ったように耳の中にこだまする。
 いや、狂っていたのは彼女だ。
 笑っていたかと思えば、次の瞬間には蝉の声がうるさいと泣き叫び出す。時々奇声を発しながら家中のものを蹴り飛ばして回ったりもした。
 彼女がそうなった原因は自分にある。
 年老いていく女、変わらないない男。
 何も見えない妻、咲が見える夫。
 そして、年毎に影の薄くなる瑞樹。時折、彼女の目には愛していたはずの男の姿が映らないようになっていた。
 全て人間ではない自分と一緒にいたから。いつまでも自分が人間であるという幻を見ていたいがために、妻から離れていかなかったから。
 心が壊れてから、彼女は時折、瑞樹をはっきりと見ることができるようになった。出会った頃のように、無邪気な笑みを浮かべてキスをせがみ、抱いてと繰り返し呟いた。
 ああ、こんなにも思ってくれているのかと、あのころは誤解していた。
 かしゃんと、軽い音を立てて、夢の場面が変わる。
 瑞樹さん、瑞樹さん。
 彼女は恍惚の笑みを浮かべて、いとしい男の名を呼んでいた。瑞樹の目の前で、違う男の腕の中で。
 彼女には、もう瑞樹は見えなかった。
 彼女には、何もわからなかった。
 なのに自分は妻に覆い被さる男を無理やり引き剥がして、何度も何度も妻の頬を殴りつけていた。砂鬼の姿を見ることのできない男には、何がおきているのかさえわからなかったことだろう。見えない力に不意に吹き飛ばされ、目を丸くしていた。それまで弄んでいた女の体がびしびしという音を立てて左右に大きく揺れる様子を見て、慌てて逃げていった。
 もうやめなさい。
 咲がそういって瑞樹を止めるまで、延々と殴りつづけていた。はじめは右手で、右手が痛み始めたら次は左手で。最後には手の感覚がなくなっていた。
 ぐったりと横たわる半裸の女。どこか哀れむような目で、だけど見下ろす態度を止めない咲。
 もう放っておいてくれ。咲の制止も聞かずに瑞樹は妻だった女を抱きかかえて、海の見える崖へと向かった。
 瑞樹さん。
 さっきまで殴られていたことすら覚えていないのか、彼女は見えない夫の体温を敏感に感じ取って幸せそうに笑っていた。
 顔はあっという間にはれあがり、とても見られたものではなかった。海の匂いをかぎ分けると、妻は少女のように喜び、夫の腕から飛び降りた。
 逃げないように腕をつかみ、死のうと彼女に告げると、わけもわからずに、それでも彼女は笑っていた。
 するりと瑞樹の手を抜けたと思うと、次の瞬間には姿が見えなくなった。
 彼女は瑞樹を置いて一人でいってしまった。
 もちろん、瑞樹もすぐに後を追った。

 だけど死んだのは彼女一人。砂鬼の自分は死ぬことすらできなかった。

『いったでしょう? 私のために生きる以外、私はお前の存在を許しはしないって』


 眠っている自覚はあったものの、激しく揺さぶられて瑞樹は目を開けざるをえなくなった。
「何?」
 砂鬼である自分たちを見ることができるのは相模の血族のみである。それも直系のものに限られてくる。まあ、誰をもって直系と数えるのかは知らないが。
 無作法な起しかたをされて、瑞樹は表情にはださないまでも不機嫌であった。咲にしろ、西子にしろ、北斗にしろ、寝顔を見られていい気はしない。
「ごめんなさい、……あの、ここの家の人?」
 あまり聞き覚えのない少女の声に、瑞樹は慌てて傍らの文机に置いた眼鏡を探した。
「あ、ここのおばあさんのお葬式のときにもいた人ですよね? あたし、北斗……くんの友達の羽間っていいます。なんだかずいぶんとうなされていたから起しちゃいましたけど……」
 ごめんなさいともう1度謝る綾香を、瑞樹はまじまじと見てしまった。
 見える? 自分が?
 それはにわかには信じがたいことだった。血族以外に砂鬼が見えるなんて、聞いたこともない。
「あの……?」
 不思議そうに見つめ返す綾香に瑞樹は我に帰った。
「僕は相模瑞樹。……北斗の親戚なんだ」
 曽祖父ですとはさすがにいえない。言葉を選びながら、決して嘘ではない単語を並べた。
「道理で、なんか北斗と似てるなーって思ってたんですよね〜」
 にこにこ笑う少女。誰かに似ているなと思った瞬間、パズルが全部はまったときのように誰かを思い出してしまった。
「……あや」
 殺した妻の名を呟いた瑞樹に、綾香は驚いたように問い返した。
「なんであたしの名前を? 北斗から聞きました?」
 綾香って言うんですよ、そういって少女は微笑んだ。微笑がまぶしくて、瑞樹は目を細めた。
 この少女は彼女なのだろうか? だから見えるのだろうか?
 自分の元に戻ってきてくれたのだろうか?
 目から滴が落ちた。




 がさがさっという物音を聞いて、北斗はおやとあたりを見まわした。砂神島に来てから、もう大概のことには驚かなくなってしまった。ただ、二度寝中だっただけに反応は少しばかり遅かった。
 気のせいだったのかと、もう一度まどろみの中に身を沈めたとき、傍らに誰かの気配を感じた。
 どこか遠慮がちなその人を、北斗は西子だと思った。朝食の準備ができたわよ、そんなことを告げに来たのだろうか。優しい優しい西子。何をしても怒られない。16年以上離れ離れだった息子に対する戸惑いなのか。
 閉じた瞼の向こう側が、ふっと翳った。
 髪の毛が頬にあたった後、唇に湿った生暖かい感触があった。
「!」
 一瞬不快を感じ、北斗は急速に覚醒した。ばっと目を開け、目の前にとっさに該当した人以外の顔を見つけると、それを押しのけ飛び起きた。
 腰まで伸びた髪の長い、見たことのある少女だった。
「……なっ?」
 何のつもりだ? そう尋ねるつもりが、なかなか口をついて出てこなかった。唇に彼女のその感覚が残っている。
 少女は北斗がなにもいわないのを、肯定と捉えたようだった。頬を赤らめたまま、一旦は突き飛ばされたにもかかわらず、北斗に抱きついた。汗ばんだ他人の肌に触れて、夏だというのに北斗は寒気を覚えた。
「やめ……」
 気持ち悪い。
「好き」
 信じがたい言葉に、少年は我が耳を疑った。だがすぐにえもいわれぬ身の危険を感じ、また強引に相手の体を引き剥がした。
 そうだ、この少女は確か伸一の姪だったはずだ。どうして彼女がここにいて、自分を襲おうとしているのだろう。そう、意外と冷静だが、襲われているんだ。
「好きなの」
 砂神島には前時代的な夜這いの風習でもあるのだろうか?
 ここにくる前はそう好きじゃない女とも平気で体を重ねていたが。
「俺は好きじゃない」
 少しずつ美里との距離を確保しながら、北斗は的確に自分の思いを口にした。一瞬少女の瞳に寂しそうな光が宿ったが、目をそらすわけにはいかなかった。野生動物のように、目をそらせば食われるような気がしたから。
「それでもいいの」
 見る間に美里の顔がぐしゃぐしゃになり、両方の目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 卑怯だと、思った。
 涙を隠すように、少女は両手で顔を覆い、肩や髪の先を小刻みに揺らした。時々小さく嗚咽が漏れる。だけどそれを慰めてやらなければならないいわれは、北斗にはない。怒鳴りたいのを必死で我慢して、少年は立ちあがり、部屋を出ようとした。
「どうして? ……あたし、遊びでもなんでもいいの。少しでもあなたの近くにいたい、それだけなのに」
 少女は泣きながら、少しでも北斗をひきとめようと必死だった。
「じゃあっ、俺の気持ちはどうなる?」
 好きでもない女の子抱いていい気になれと言うのか。世の中にはそういう男もいるかもしれない。ほんの少し前は自分だってそうだった。だけど
「男だって好きな女にしか触れたくないんだ」
 再び部屋を出ていく北斗を、美里は今度は引き止めることができなかった。わあと声を限りに泣き崩れるのを背中で聞いた。
 声に引き寄せられるように、台所のほうから西子がパタパタとスリッパを鳴らしてやってきた。部屋に女の子がいるからというと、彼女は「まあ」と驚き、部屋の中を確認しにいった。
 西子と入れ替わるようなタイミングで、すっと、音もなく目の前に黒髪の美少女が現れた。
 冷めた目で北斗を見上げ、ため息混じりにいった。
「綺麗事いってんじゃないわよ」
「なっ……」
 まるで一部始終を見ていたかのような台詞に、北斗はどうにか押さえていた怒りを爆発せざるをえなかった。
 半袖の白いブラウスと膝丈のスカートという清楚な装いの咲の胸元をつかみ、ふざけんなと低く呟いた。
「俺は子供を作るための道具じゃねぇ」
「そういうものだと割り切ってもらわないといけないのよ。あんたしかいないんだから」
 どうして
 咲の台詞は北斗を脱力させるに値するものであった。胸倉をつかむ手が離れると、咲は2、3回咳払いをした。彼女が必要な酸素をとりこんでいる間に、1回だけ西子が北斗の部屋からこちらの様子をうかがった。目があうと、考えるよりも先に言葉が口をついて出ていた。
「どうしてなんだ」
 なぜ兄妹でひかれあったんだ。どうして自分をこの島に呼び寄せたんだ。どうして
 まるで責めるような口調と視線に、西子は居たたまれないようにまた部屋に引っ込んでしまった。
「どうしてなんだよっ」
 砂神島にきて、北斗ははじめて声を上げて泣いた。
 どんな声も耳に入れなくてすむように、声の限りに意味不明なことを口走った。その姿は異常で、後からかけつけた綾香の目には、狂ってしまったように見えた。
 駆け寄ろうとした綾香を、しかし瑞樹が止めた。北斗の傍らに立っているだけの咲に、低い声で問い掛けた。
「……北斗に何をしたんですか?」
「何も」
 襟元を正す咲を睨みつけ、瑞樹は、うずくまった格好で叫びつづける北斗に近づいた。まるで手負いの獣のような興奮した様子に驚きはしたが、それ以上になんだか痛々しかった。
 北斗の傍に膝を落とし、背中を軽く撫でてやりながら、名前を呼んだ。
「北斗」
 彼は遠い過去の自分。自分は未来の彼。彼がこれからたどるだろう道を、自分は経験上知っている。
 だからせめて今だけは、世界のぬるい優しさに浸らせていてやりたい。
「北斗」
 何度目かの呼びかけの後、北斗の叫びがぴたりとやんだ。
 ゆるゆると顔を上げて、恐る恐る瑞樹を見上げた。
 そしてそのまま、何かを言おうと口を開けたが、言葉になる前にがっくりと倒れ込んでしまった。
「北斗? しっかりして、北斗!」
 綾香が気を失った北斗の体を揺さぶった。だが反応はない。綾香の手のままにぐらぐらと揺れるだけだ。
「今はそっとしておいたほうがいい」
「でも……さっきのはおかしかったもの。……北斗、この島にきてからなんだか変だわ」
 特別な感情があるわけではないが、北斗のことは兄弟と同じくらい大切に思っているのだ。あんな彼ははじめてみたし、心配せずにいられることじゃない。
 やっぱり北斗を連れて家に帰ろうと考えている綾香の背中を怪訝そうに見つめて、咲がポツリと疑問を口にした。
「見えているの、その娘には?」
 男にしては非力な部類に入る瑞樹ではあったが、難なく少年の体を担ぎ上げる。少しだけ足元がふらついてしまったのは見逃して欲しい。
「そうみたいですね」
「……誰と話しているの?」
 誰もいない壁に向かって話す瑞樹を見て、綾香は心底不思議そうに問い掛けた。
 彼女には、瑞樹は見えても咲は見えないらしい。
 咲が唇を噛んだのを見て、ほんの少しだけ、何かに勝った気持ちになった。その瞬間、肩の上の物体がびくっ、びくっと痙攣を起し始めた。
「北斗……っ」




 その夜、伸一は不思議な夢をみた。
 聖母のような穏やかな微笑を浮かべた西子が、彼を手招きするのだ。こちらへきてとささやく声は甘く、夢だというのに伸一はふらふらと彼女に近づいた。彼女に近づくたびに、足元でシャリシャリと何かが音を立てた。不思議に思って視線を落とすと白骨が彼の足にまとわりついていた。なぜだか、それがかつての親友であったあずまであるとわかったのだ。驚きのあまり悲鳴を上げた伸一を、西子は可笑しそうに笑った。

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