北斗篇(4)
君は僕のもの。ねぇ、そうでしょう?
やめて、父上。やめて。
小さな子供の声だった。舌足らずの愛らしい声は、ひどく怯えていた。すぐさま泣き声が混じる。
直垂姿の男が見を小さくしてかがみこんでいる女の胸倉を掴もうとしていた。幼児が男の足にしがみつく。さっきの声はこの子のものか。
「邪魔だ、どけ!」
男は幼子を簡単に振り払い、女の顔をこぶしで殴った。
「さあ、言え。あれは誰の子だ? お前は神聖な儀式の最中に誰と寝たんだ?」
「信じてください、だんな様。私は……正真正銘、あの子は玄武の娘でございます」
「まだ言うか」
彼らの視線の先には生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。
「本当です。信じてください」
男の怒りは、そのまま赤ん坊をくびり殺すのではないかと思うほど激しいものであった。
幼子の火のついたような泣き声に家人が集まらなければ、あるいは現実のものとなっていたかもしれない。
「だんな様」
妻のすがるような目さえ、男は眉を寄せた。
「汚らわしい」
その夜、妻は嫁入りの際に持参した守り刀で胸を突き死んだ。
まるで自分は潔白であるとでもいいたげなその行為に男はなお怒り狂った。酒におぼれる日が続く。
生まれた赤子が三つの年を数えるまで、男は名前すら与えなかった。普通より少し成長の遅いその子に、あるいは妻の言葉が真実であったのかとさえ思うようになっていた。
玄武。それは男が祭主を務める、この島の守り神である地神のことを指している。
豊穣を祈る儀式に、男は自分の妻を寄依(よりしろ)に選んだ。神を祭る祠に一晩寄依を置き、神託を受ける。その後1年間、寄依となったものは神の言葉を伝える役目を担うため、極力外部との接触を禁じられる。たとえ家族であっても、祭主である夫であっても。
儀式終了から数ヶ月後、寄依は娘を産み落とした。
自分と妻の間に出来た子ではなかった。神の子だと言い張る妻の言葉は決して信じられなかった。
妻によく似た娘は、子供ながらに美しく成長していた。
男は酒の席で戯れに娘に名をつけた。
「砂鬼」
地神の子であるというのなら、自分が今まであがめていた神はとんでもない悪魔だ。愛する妻を奪い、こんな美しい子供を残した。
その暗くよどんだ瞳に、同席した者はそろって寒気を覚えた。
男はなるべく娘を見ないようにした。
そんな娘に惜しみない愛情を注いだのは、ただ一人血を分けた兄であった。父の呪いのこもった妹の名を「咲」に改め、慈しんだ。
咲は昏睡しつづける北斗の傍らで、いつのまにか転寝していたらしい。彼がこうなってしまった責任は貴方にあるのだからと瑞樹に言われ、仕方なく看病を始めて早1週間になる。
その間に状況は少々変化していた。
まず、北斗の幼馴染で、なぜか血族でもないのに砂鬼の姿を見ることの出来る少女・羽間綾香が自分の家に帰っていった。正確には迎えに来た両親に引きずられるように、であるが。北斗一人を砂神島に残していくことを不安がっていたが、北斗の唯一の肉親である西子を前に、無理やりつれて帰ることも出来ず、不承不承帰っていった。
そして二つ目。兄・あずま以外などまるで眼中になかった西子が伸一と付き合い始めた。毎夜のように伸一を家に招き入れては肌を重ねている。伸一も毎朝相模家から直接漁に行くのが当然のようになっている。
懐かしい夢を見た余韻か、咲は大きなあくびをした。久々に夢など見た。
ちょうど北斗と同じ位の年頃、時が止まった。それまでは、いやそれからもであるが、兄やその家族に確かに愛されていた。兄の孫にあたる相模家当主が死んだ頃から瑞樹が現れるまでずっと孤独だった。何人の生から死を見てきたことだろう。
それもこの北斗の代で終わりを迎えるかもしれない。
ふと見下ろした少年の姿に、びくりと体が震えた。
金色の髪と、白い肌。
かつて唯一、咲に恐怖を与えた男がいた。どうして今まで忘れていたのだろう。
北斗は、あの男にそっくりだ。
「なあ、西ちゃん。北斗、大丈夫なんか?」
若い娘のようなはちきれる弾力はないが、しっとりとした西子の肌にキスマークを残しながら、伸一は彼女の甥の安否を気遣った。
「あの子の話は止めて」
余計なことなど口に出来ないように、西子は執拗に伸一にキスをした。
時間と体力の許す限り、彼女は一晩に何度でも伸一を求める。まるで何かから逃げるように、他の事を考えることすら拒否するように。
初めて体を重ねた夜から、一度だって避妊していない。貴方の子供がほしいのと甘い声で言われれば、それだけでイッてしまいそうになる。何せ片思いしつづけて20年近く。この1週間はまるで竜宮城の浦島太郎のような気分だ。夢見心地で何度でも西子の華奢な体を抱く。このときをずっと待っていた。
西子を抱くようになって初めて迎える休みが明日である。今夜は次の日の漁のことなど考えずに彼女が望むまま抱きつづけるつもりだ。伸一自身、彼女におぼれていた。少なくとも17年は誰にも触れられたことのなかった西子の体は、何度味わっても飽きることがない。まるで処女のように伸一を締め付ける。
外が白み始めた頃、ようやく眠りについた。一糸まとわぬ姿で、ずっと思いつづけてきた人が腕の中で眠る光景は素晴らしいものだった。
伸一が満足感のうちに眠りに入ったのを確認して、西子は抱きしめる彼の腕を自分からはがしながら布団から抜け出る。自分の内股を伝って流れる白い体液を傍らにおいてあったティッシュで拭い取る。
脱ぎ散らかした服を拾ってひとつずつ身に着けていく。体のあちこちにつけられたキスマークを見て彼女はぼろぼろと泣き出した。
「いやぁ……、もう嫌。助けて、兄さん」
この1週間、何度口にしそうになったかわからない。伸一を誘ったのも、何度も抱いてといったのもすべて自分だ。だけどずっと心では嫌だと叫んでいた。
ここ数日はいわゆる排卵日で、かなりの確率で伸一の子を妊娠したはずだ。そうでなければ来月もまた同じことを繰り返さなければならない。
すべては北斗のため。
北斗が倒れる直前、咲が彼に言った言葉を知っている。
『俺は子供を作るための道具じゃねぇ』
『そういうものだと割り切ってもらわないといけないのよ。あんたしかいないんだから』
北斗と自分以外に相模家の直系はもういない。自分があずま以外の男の子を産む気がないといいつづけた結果がこれだ。北斗が子供を作らなければ相模家は絶える。砂鬼たちは行き場を失い、この島を沈めてしまうだろう。
そんな重荷をあの子に背負わせるわけには行かない。
なら自分が新しい「直系」を生むしかないのだ。
伸一を愛しているわけではないが、せっかく長年思いつづけてくれたのだから、せめて彼の子を産んであげれば、何かの慰めになることだろう。
愛する人は今も昔もただ一人。
確かに、瑞樹の姿は自分以外には見えないようだ。
両親に無理やり家に連れ戻された綾香に、瑞樹がこっそりついてきていた。砂神島を出る船の中で彼が教えてくれたことがある。黙っていて悪かったけれども、という前置きから始まったそれは、なんと彼が人間ではなく「砂鬼」という存在だということ。綾香だけが、相模の直系でなければ見れないはずの自分をちゃんと見ることの出来ること。それから。
『笑わないで聞いてほしい。僕は君が妻の生まれ変わりだと信じているんだ』
そして初めて男の人にキスされた。
それから彼はずっと綾香のそばにいる。見えないのをいいことに、部活にもついてきた。他の人に見えなくても綾香には見えるのだから、気になって仕方ない。余所見をしていたらパスされたボールに気付かずに受け取れなくて先輩に怒られてしまった。
「もー、あちこち付いてこないでったら」
汗でずれた眼鏡を押し上げながら、瑞樹が小さくごめんといった。
ぷんぷんと怒りながら歩く綾香に遅れないように男が付いて歩く。親鳥の後を付いて歩く雛鳥のようで、やはりどこか憎めない。
「……ほら、迷子になっちゃうよ」
手を差し伸べると、驚いたように目を丸くさせ、柔らかく微笑んだ。壊れ物でも扱うように触れてきた瑞樹の手が思ってたよりも温かくて、逆に綾香はほんの少し悲しくなった。
人間じゃないなんて、信じられない。
「あれ?」
瑞樹が急に立ち止まったため、手をつないでいた綾香も立ち止まらざるを得なかった。
「なに?」
「いや……。気のせいかな」
言葉で説明しにくい何かを探ろうとしているのか、目を閉じ眉間にしわを寄せた。
「……どうしたの?」
「北斗以外に、あずまに子供はいなかったよね」
「おじさま? それは考えられないわね。他に女作る時間があったら北斗と一緒にいたいって言うくらい親ばかだったし」
息子同様、もててはいたようだったが。何せ大人の世界のことなので綾香の知るところではないのだが。
「だよねぇ。……けどほんのわずかになんだけど、直系の気配? そう言うのを感じたんだけど」
僕たち砂鬼は直系の存在には敏感に出来ているんだ。
もう一度目を開けて、今度は実際目で辺りを見回した。駅から学校へ向かう一本道で、本屋やカフェ、美容室や呉服屋などありふれた町並みが続くばかりである。
砂神島から出た相模の直系は後にも先にもあずまと北斗親子だけである。例外で西子の数日あずまのところに一度だけ遊びにきたことはあったが、それはカウントするに値しない。ならば彼ら二人にかかわるものとしか考えられないのだが。
美容室から、若い女性がバケツをもって出てきた。従業員らしいその女性は打ち水をし、一緒に持ってきた雑巾で店の窓をふき始めた。
「あの人、ここで働いていたんだ」
「あの子だ」
台詞はほぼ同時だった。
綾香と瑞樹、お互いに顔を見合わせ「え?」と相手の台詞を確認しようとした。
「あの子からほんの少しだけど感じるんだけど。知り合い?」
「知り合いって言うか、あの人、確か北斗の彼女だよ」
「ええっ?」
瑞樹の思考回路がすごいスピードで働いているのが傍目にもわかった。
「もしかして北斗の子をはらんでるのかなぁ?」
思いついたのはそれしかなかった。
店の前で呆然と立ち尽くす高校生に、彼女─美郷が気付いて声をかけた。
「こんにちわ」
「……こ、こんにちわ」
いきなり「貴方妊娠してますか?」なんて聞くわけにもいかず、気がついたら綾香はシャンプー台に座っていた。
「どれくらいカットします?」
財布の中身を思い出しながら、外で待っているといった瑞樹の姿を探した。店のすぐ外のガードレールに腰掛けているのを発見した。
「お任せします」
「はぁい。……ところで、そこの高校生?」
一体何を話せばいいのだろう。
「あ、はい。そうです」
「私の知り合いにもね、あそこの高校に通っている子がいるの。お客さんにも結構多いかな」
艶のある髪、ばっちりメイク。大人っぽい服が似合う。だけど気さくな性質らしくニコニコと笑って手早くカットしていく。
綺麗に肩のラインで切ってもらいサイドはシャギーをいれて軽くしてもらった。腕がいいらしく、指名の電話予約が何軒か入っていた。
「あの、相模北斗、知ってます、よね?」
勘定を済ませる頃、初めてそれだけ口に出来た。
「貴方、彼を知っているの?」
多分無意識に、絶対無意識に。
美郷は手で自分の下腹部を軽く押さえた。
「ああ、同じ学校だものね」
困ったように微笑んだ。
「あの、……じゃ、私これで」
料金を支払うと、綾香は逃げるように店を出た。ずっと店の外で待っていた瑞樹も事の真相を察したのか立ちあがり綾香に駆け寄った。
間違いない。彼女は妊娠している。二人ともそう確信した。
湿った風が金色の髪を揺らしていた。海風は絶え間なく自分を撫でていく。傍らにうつろな目をした少女を抱き、少し離れたところに浮かぶ島を見ていた。
少女の兄が昨夜死んだのだ。彼女の落ち込みようは尋常ではなかった。
ほんの気まぐれが彼を少年の瞳に戻した。
「ほら、咲。隣の島が見えるだろう」
玄武と呼ばれる主の娘は彼が指示す方向をつられてみた。彼女にしてみれば見なれた光景だった。
「よく見てて」
ドゥン
突然、鈍い地響きと共に島の周りに水飛沫が上がりその姿を隠した。
いや。
水位が上がったのではなく、島が姿を消したのだ。
「な……?」
驚きに少女の瞳が生気を取り戻した。
「やり方は簡単だ。ただ念じればいい。沈めと」
男はさも造作もないように彼女に「島の沈め方」を伝授した。少し離れているにもかかわらず、突然沈められた島の人々の阿鼻叫喚が耳に届く。
島の周りで漁をしていた船が助けを求める島人たちの救助に向かう。
「なんてことを」
咲の手が男の頬をはった。
「今すぐ元に戻して!」
怒りで頬が紅潮している。
主筋の娘とはいえ、自分に命令していい存在ではない。彼女は自分に与えられたものなのだから。男は臍を曲げ少女から顔をそむけた。
「嫌だ」
自分は落ち込んでいる彼女を励まそうと、良かれと思ってやったのに。
「地王!」
「元に戻したけりゃ、自分でやればいい」
「できるわけないでしょ。私はただの人間よ」
「出来るさ。なんといっても玄武の娘なんだから」
咲が唇をかんだ。地王の手を振り払い、一目散に丘を駆け下りていった。島から救助に向かおうとする船に飛び乗るのが見えた。
馬鹿な娘だ。いつまでも自分のことを人間だと信じて、現実を見ようとしない。血族以外にその姿を見られることさえかなわない身でありながら、一体何人の人間を助けることが出来るというのだ。
地王は立ちあがり、腕組みをしながら海上の騒ぎを静観した。
右往左往することしか出来ない少女は、自らの身に潜む能力の使い方を知らない。
船の上で重心を失い海に落ちても、誰も気付いてはくれない。
馬鹿な娘。
だが誰より愛しい娘。
「さ、き……」
自分の寝言で、北斗は長い眠りから覚めた。
障子越しに月明かりが見えた。白い、静かな光。
傍らに人の気配を感じて視線を移す。
「咲」
横たわる髪の一房でさえ、彼女のものだと感じる。
整った寝息。柱に背を預け、座ったまま眠る咲の姿がわずかな月明かりを受けて闇に浮かび上がって見える。
ゆっくりと上体を起こす。しばらく使われていなかった筋肉が鉛のように重い。
「……痛っ」
二日酔いのように頭が響く。
交差する二つの記憶がある。一つは北斗自身の17年のもの。
もう一つは埃くさいような古い記憶。誰かのそれが脳内で北斗のものを包んでいく。
「北斗? 気付いたの?」
寝ぼけたような咲の声。それだけでぞくぞくするほど気持ちいい。
無防備に近づく彼女は、北斗の変化にまだ気付いていない。
「北……っ?」
傍らにやってきた咲を、何も言わずに抱きしめた。突然の出来事に咲が逃げようともがいた。
「そう、君と初めて出会ったときもこんなふうに薄暗い月明かりを受けていたね」
びくりと咲の体が震えた。そして一層力を振り絞って解放を望むが、北斗の腕はちっとも緩む気配がない。忘れかけていた感情が体の隅々によみがえる。
「いやっ」
「君は寄依で僕は呼び出された地神の使いだった。僕は一目見て君を気に入った。君は僕のもの。ねぇ、そうでしょう?」
耳元でささやく声は甘い。
北斗であり、彼ではないその人の名前を咲はよく知っていた。
「地王……」
「愛しているよ、咲」
今まで「北斗」が眠っていた布団に、男は咲を押し倒した。
玄武の娘といわれる少女が15になった年は、砂神島にとって災難続きの年であった、旱魃(かんばつ)、不漁、頻発する地震。
父親の死亡により、当主になったばかりだった彼女の兄は、母親の死後、絶えて久しかった神事を行うことを決めた。神頼みしかなかったのだ。
「咲。みんなのために寄依の役目を受けてくれないか?」
この家の不幸の始まりであったとしても、何より大好きな兄の頼み、断るわけにはいかなかった。また贖罪になるようにも思われた。それに……。
「喜んで。兄様」
花嫁衣裳のような真っ白な着物を着、化粧を施されて祠に向かう。
寄依に、特にすることはない。ただ祭主の願いが神に通じるよう祈るばかりだ。祠の中は外の世界が嘘のようにひんやりとして気持ちよかった。1年ここに居ればいい。
「頼んだぞ、咲」
世話人と呼ばれる兄の部下が日に2度、食事と着替え、体を清めるための湯を持ってくる以外、外界との接触は一切断ち切られた。
夜になれば、月明かりがわずかに祠に差し込んでいた。妙に高ぶっていてなかなか眠りに付けずにいた咲は差し込む光に手を差し出し、生まれた影を見つめていた。
そして漠然と不安が生まれた。
寄依とは名ばかりの、まるで囚人のような生活。もしかしてあの兄はこうして自分が苦しむのを望んでいたのだろうか。
そんな初日の夜、彼は現れた。
「これはこれは、ずいぶんと愛らしい姫だ」
不意に聞こえた男の声に咲は十分に驚いた。声のしたほうを振り返ると、どこから入ったのか、見知らぬ男が立っていた。
その人の姿は見たこともない金色の髪と島の男たちにはみたことのないような白い肌をしていた。彼のその白い肌は咲のそれとよく似ていた。
自分と同じ「人」だとは思えないほど神々しく見えた。となると他に思い浮かぶ名はそれしかなく、咲はじっくりとその姿に見入ってしまった。
「玄武……?」
ならば彼が咲の本当の「父親」であろうか。彼女とそう変わらぬ年恰好ではあるが、人であらぬ身であればそういうこともあるのかもしれないと思われた。
だが現れた青年はふっと鼻で笑うと咲の元に歩み寄った。
近くで見るとその美しさがはっきりとわかった。
「僕の名は地王。君の父親の使いとしてここにやってきた」
君の父親という単語に心のどこかで安堵した。
やはり自分はあの男の子供ではなかった。母の夫でありながら、言葉の刃で母を殺したあの男を咲はどうしても父だとは思いたくなかった。それでも形ばかりはあの男の娘として育てられてきたため、今までは無理やりにでも父親なのだからと言い聞かせて憎しみを押さえてきた。
自らの出自がはっきりした以上、相模の家にとどまる理由はなくなった。ただあの兄と縁を切るのはやはり悲しかった。
いや、あの兄とて心の中まではわからない。彼にとっては自分こそ母親を殺した張本人かもしれない。
「……私をここから連れ出して」
「それは無理だ。君は寄依なのだから。僕は僕をここに呼んだものの願いを聞き入れなければならない」
「貴方は玄武の部下なのでしょう? ならば私の願いを聞いてくれてもいいじゃない」
「君は確かに彼の娘だが、それ以前に僕に捧げられたモノ。君は自分の服に都合を聞いたりするのかい?」
地王の微笑みはなぜだか背筋がぞくりとした。
「僕らは捧げられたモノに対する満足の度合いに対して願いを聞き入れる。今度の祭主は実に着眼点がいいといえるな」
男との距離がどんどん狭まっていく。
一方で咲はあとずさることしか出来なかった。
「玄武の姫を手に入れることが出来た」
「や……っ」
そんな、もの扱いされるいわれはない。背中に壁を感じた時点で、咲は地王を睨みあげ、懐の守り刀に手を伸ばした。が、手が震えて抜くことが出来ない。
「それ以上来ないで」
拒絶の言葉も空しく、咲はあっさりと地王に捕らえられた。両の手に互いの指をからませ、きつく握る。
寄依を引き受けたのにはもう一つ理由がある。かつて地神は咲の母親をはらませた事実がある。だが娘である自分にはそんなことはしないだろうというという思い込みがあった。それに祭主に呼ばれて来るのは地神以外には居ないという思い込みもあった。だから自分が引き受けるのが一番害がないと思っていたからだ。
だが実際はどうだ。来たのは父親ではないではないか。今更ながらに自分の身に降りかからんとする危険に咲は更に睨みつけた。
地王が驚いた表情になる。
「普通、こういう状況になったら泣くと思うけど」
「泣いて逃げられるんだったら泣いてあげるわ。嘘泣きは得意よ」
子供の頃から身につけた特技だ。あの「父親」に殴られようがけられようが、泣けば誰かが助けてくれた。浅ましい「特技」。
だが泣いたところで助けてくれる人はここには居ない。
「綺麗な顔して怖いなぁ」
絡められた指が痛い。
「放して」
怖くないといえば嘘になる。
だが負けてなるものか。更に目に力をこめた。
「……つまらないなぁ、もう」
諦めたのか、単に興がそがれたのか、地王はあっさりと咲を開放した。
「まあ、時間はたっぷりあるしね」
「うるさいわね。あんたの思い通りになんて絶対ならないんだから!」
「それはどうだろうね」
にやりと笑い、男は現れたときと同じように唐突に姿を消した。
わずかに乱れた白い着物の胸元を押さえ、深く安堵のため息をついた。
それからというもの、彼はことあるごとに気まぐれに姿を表せては咲をからかって消えていった。おかげで寂しい思いはしたことがなかった。
案外いい奴なのかもしれない。
最初の出会いこそよいものではなかったが、あれ以来襲ってくる気配はないし、退屈だろうと季節の花を手折ってきてくれたりする。時々手や頭にべたべたと触れてくることはあるが、我慢できないほどではなかった。
あと、おそらくわざとだと思うが、人が体を清めて着物を着込んだ直後によく姿を表す。隠れてみられているようで、というか見られているのだろう、大変気分が悪い。
ごとり、と祠のかんぬきが開く音がした。一日に二度運ばれてくる食事の時間ではなかった。中に入ってくる人の気配にそちらをみると、そこに居たのは兄であった。
「兄様」
久々に見たその人は少しだけ微笑んで、すぐに真剣な表情に戻った。
「久しいな、咲」
少しやつれた? 頬の辺りがこけ、疲労の色が顔に出ている。
見なれない神官姿の所為だろうか、兄の存在が遠くに感じる。
「どうかなさいましたか? 家のものに何か?」
「……。咲、いや寄依殿。神託を聞かせてくれ」
久々の再会だというのに、兄と妹ではなく、神託を授けるものと受けるものとしての立場を兄は優先した。
「神事を執り行って、すぐに雨が降り出したし、漁も以前のようにうまく行き始めたんだ。だが」
地震だけが収まらない。それどころか以前に増して規模が大きくなっていると兄は告げた。地神がそれだけ忘れたかのようだと。
「お前も感じただろう。今朝方また大きな地震があった。その地震で妻が危うく建物の下敷きになるところだった」
「義姉様が?」
正直、この祠に入ってから、一度たりとも大地の揺れなど感じたことはなかった。だからこちらの願いは聞き届けられたものだとばかり思っていた。
ぎゅっと袂を握り締め、咲は唇をかんだ。
僕らは捧げられたモノに対する満足の度合いに対して願いを聞き入れる。
初めに地王はそう言っていた。
彼が何を求めているかは知っている。おそらくそれが満たされないためにあえて自らがもっとも得意とする分野を後回しにしたのだろう。
そしてそのことを咲に告げずに、ある日突然こんなふうに外部から知らされるのを待っていたのだろう。蛇が獲物をしとめるようにゆっくりゆっくりと締め上げてきたのだ。
ほんの一瞬でも相手に好意を抱いたことを咲はすぐに後悔した。
「咲」
祠の内側の事情を知らない兄は、すがるように彼女を見ていた。
「……」
卑怯だと思わずには居られなかった。
「大丈夫よ、兄様」
必死の思いで絞り出した声は自分でも驚くほど落ち着いたものだった。
「地震はすぐに収まるわ。……義姉様にお大事にとお伝えくださいね」
どうすればいいか、知っている。
地王のものになればいい。彼が欲しいのは玄武の娘。
「大丈夫よ。大丈夫」
いつものように咲が夕食を摂り、体を清めた直後に彼は現れた。髪を高い位置で結んだ姿はまるで若武者のようでもあった。
「卑怯者」
地王が何か言う前に、吐き捨てるように少女は呟いた。
「僕は最初にいった筈だよ。それを勝手に忘れたのは君じゃないか」
「だったら最初に無理やり自分のものにしちゃえばよかったでしょう?」
中途半端に優しくされるくらいなら、結局自分の意思などどうでもいいのなら。
「そうだね」
目の前に座った地王の顔を見たとたん、咲は手近にあった水の入った桶を彼に投げつけた。勢いあまり、水は咲自身にもかかった。
「あんたなんかっ」
ずぶぬれになりながらももう一度振り上げた手は難なく捕まえられた。
「嫌いでいいよ。別に」
地王の手が咲の顔に向かって伸びる。
「触らないで」
払いのけて、必死に抵抗する。
強く抱きしめられ、反射的に身をよじろうとした。だが一瞬早く、地王の指が咲のあごを捕らえていた。
「愛している」
「そんな言葉信じたくない」
固く閉じられた咲の唇に地王のそれが重ねられた。予想していたより、いや予想通りというべきか、優しい口付けだった。
「お願いだから優しくしないで」
泣くものか。
だが涙は彼女の意思に反して頬を伝い落ちていた。
「ああ、やっぱり綺麗だ」
あれから数百年の時が流れた。それでもやはり自分は地王のものに過ぎないらしい。
組み敷かれたまま微動だにできないのは、あの時身にしみてしまった諦めの所為だろうか。布団の上に広がった長い髪を片手で梳く男を見上げることしか出来ずに居る。
あの祠の中で咲の時間は止まったままだ。そのことに気付いたのは祠を出てからしばらくしてからだった。
神の血を引く咲は自ら命をたつことも出来ず、長すぎる生を生きてきた。途中何人かの砂鬼の誕生と死を見た。だが誰も皆彼女を置いて先に行ってしまうのだ。
神の使いであった地王もまた、その途中で姿を消した。相模の最も濃い血筋を得てようやく復活したのだ。
あずまと西子の赤ん坊を見た瞬間、地王が彼の中に眠っていることには勘付いていた。このまま砂神島に居たのでは数年のうちに地王がよみがえるのは明白だった。
正直に言えば、怖かった。また彼に囚われる自分が。
だから血が絶えてしまうことを理由に、あずまに北斗を島から連れ出させた。二度と戻ってきてはいけないと言い聞かせて。
だが事体は急変した。あずまの死、北斗の帰館。
やはり運命からは逃れられないらしい。
ならば瑞樹のため、いずれ「地王」になり長い時間を生きるだろう北斗のため、相模の血を絶やすわけにはいかなかった。
だがもうそれすら遅い。
感触を楽しむように、地王が口付けを降らす。北斗だった頃の、自分に対するどこか怯えたような色はもうどこにもない。
「ねえ、咲。僕がどうしてまた君の元に現れたかわかる?」
耳に息を吹きかけられ、脳髄が痺れるような甘い声に、ようやく顔をそむけることに成功した。
心を殺して、その人を見ない。
「僕はまだ君のすべてを手に入れてない」
「これ以上私の何を望むというの?」
咲のブラウスのボタンを一つずつはずしていく地王。
「やめて」
無防備にさらされた首筋に湿った感触。ざらりとした舌に寒気が走る。
「やだったら」
男の体を押しのけて、布団から脱出を図る。
「僕が欲しいのは君の心だよ。……君は僕に従うそぶりを見せながら、一度だって心を許しはしなかった」
「そうさせたのは自分でしょう?」
はだけた胸元を片手で押さえ、壁際まで逃げる。地王は追いかけてはこなかった。
「君に出会えたことだけに満足するなんて、できるわけないだろう」
「しなさいよ!」
「そんな無茶な!」
「心なんて……」
ずっともの扱いしたくせに。「君は僕のもの」「捧げられたもの」。そんな言葉で逃げ道を奪いつづけてきたくせに。ものにたいする愛情しか与えられなかったのに、それ以上の心を返すことを求められるなんて。
どこまで自分の心を踏みにじれば気がすむのだろう。
「僕は心から君を愛しているよ」
地王の言葉に心臓の辺りからぞわりと震えた。
ああ、また。
「君がいればそれでいい」
囚われてしまった。
地王が手を伸ばす。抱きしめられても振り払う力さえ沸いてこない。口付けに目がくらむ。頼りない体を彼に任せ、唇の感触に酔う。
「心も体も君のすべて僕にちょうだい」
「ちお……」
心も体も溶かされていくようだ。どろどろになって、彼の手で新しい自分を作られる。それもいいかもしれない。秘めてきた思いを見つけて。
かたんと音がした。
キスに囚われていた咲の感覚が一気に冷める。
「北斗……?」
誰かが廊下から部屋の障子を開けているのがわかった。
「西子」
地王に抱きしめられた肩越しに、呆然とする西子の姿を見つけた。地王、いや、愛する息子の抱いているのが咲である事を認識した彼女は手にしていた水の入ったコップを落とした。
透明な鋭い音が薄暗い屋敷に響く。
「咲、貴方……」
それだけ呟き、西子は一瞬姿を消し、再び北斗の部屋に戻ってきたときには包丁を手にしていた。
「許さないわ。私から兄さんや北斗を引き離しただけじゃなく……北斗を誘惑するなんて」
刃の切っ先はまっすぐ咲に向けられていた。
「許さない、貴方なんか殺してやる」
このままでは彼を巻き込んでしまう。
とっさに地王の体を押しのけ、咲は西子の刃の前にその体をさらした。
「咲っ」
鞭で打たれたように瑞樹の体が震えた。
まだ夜も開けきらないのに、はねるように飛び起きた人の気配に、綾香も目を覚ます。隣で震えを押さえようとする瑞樹の姿に驚いた。
「どうしたの?」
「わからない。でもすごく嫌な感じがするんだ」
何か、あってはならないことが起きたに違いない。
「砂神島に帰るよ」
収まらない寒気に、瑞樹は恋人にそれだけ告げるのが精一杯だった。