それは彼にとって一生のうちで最も不幸な出来事であった。
先程の岩場に程近い林の木の上に彼はいた。
五反田智哉(男子12番)、加藤俊作(男子9番)の両名が桐原俊作(男子10番)に殺された現場に彼は居合わせた。
そのことは偶然ではなかった。
俊作があちこちに残した暗号文。それを解読してここに辿り着いたのだ。
一人でいるのが心細くなり、暗号を残した者に合流できれば、と彼は考えた。
怯えている彼には鳥が飛び立つ音にも心を驚かし、風に揺れる葉にすら心が揺らめいた。
桐原が空を見上げている時間がやけに長く感じられた。
彼にとって5分は5時間にも思える程であった。
彼は腕時計に目を落としたが、針は止まっているのではないかと疑うほどに遅々として進まなかった。
桐原が急に振り返った。目があった。
とは言っても彼は枝の、葉の影に隠れているわけだからお互いがその姿を確認したわけではなかろうが。
彼は桐原は漠然と自分がいる方向を見たんだろうと思った。
しかし彼の心臓は高鳴った。
秒針が動くたびにどんどん高鳴りが増していくように思えた。
「いつまでそこにいる気だ?」
桐原は言った。
彼の心臓の鼓動は最高潮に達した。
桐原の銃(五反田と加藤の命を奪ったそれ)は彼の方を向いていた。
彼は銃口が赤く光るのを確認できた。
放たれた弾丸は彼の大腿を掠めていった。
「うぎゃぁ」
彼は思わず叫び声を上げて木から転がり落ちた。
桐原はゆっくりと立ち上がった。
『なんでここにいるってわかったんだ?』
混乱する頭で必死に考え、足を引きづりながら林の奥へと逃げていった。
桐原が彼が落ちた木の下へとやってきた。
無表情にさっきまで彼がいた木の上を見上げ、また地面へと視線を移す。
彼が走り去った方向は容易に分かった。
草が薙ぎ倒され、血が点々と落ちていた。
ゆっくりと桐原はその血の跡を辿った。
彼は左足を引き摺りながら必死で逃げていた。
血がどんどん流れ出している。
そのまま倒れこんでしまいたかった。
だが、背後でガサッと音がするたびに身は縮み、また走り出す。
ゴールのないマラソンを延々と走っているようだ。
走っていくうちに追い詰められていく。
左手側にあるのは5mくらいの崖、右手は海。
道は緩やかに左に曲がっており、追って来る桐原の姿は見えない。
さらに進んだ所で彼は愕然とした。
目の前の道が途切れた。
崖が崩れていた。
『引き返す?…無理だ。ここまで500mぐらいの一本道で戻れば途中で出会う…』
彼は苦悩した。
ほどなくして、桐原が彼の辿った道をやってきた。
崩れ落ちている崖を見て歩を止めた。
そこに人の姿はなかった。
桐原は崖の方に見て、静かに拳銃を持った右手を持ち上げ天に向って空砲を鳴らした。
「うっ、うわぁぁあぁ!」
空砲の残響が消えないうちに、雄叫びと共に彼は桐原に襲い掛かった。
彼は5m程の崖の中腹ぐらいにある窪みに身を潜めていたのだった。
だが、銃声を聞いたことにより腹を括り、桐原へと襲い掛かった。
右手に持った太い木の枝を崖を下り落ちる勢いも借りて一気に桐原の頭めがけて振り降ろした。
桐原はその全体重をも乗せた一撃を左手一本でいとも容易く受け止めた。
左手で彼を受け止めると同時に、銃を持った右手で彼の右腕を殴った。
その拳は彼の右腕の肘の裏当たりに当たっただろうか。
桐原が掴んでいた彼の右手を離すと彼はその場に崩れ落ちた。
「グぎゃあぁ!」
悲鳴ともうなり声とも分からない声を上げた。
彼の肘の辺りから骨が皮膚を突き破って外に出ていた。
桐原は冷たい瞳で彼を見下ろしていた。
銃口が向けられた。
銃の奥にある桐原の口許には薄らと笑みがこぼれているような気がした。
それは、あるいは彼の死際に見た幻覚だったのかも知れない。
そして、彼が死んだ後、事実は誰の知る所でもない。
彼の不運は暗号文を見つけたことだ。
その暗号文を解いてしまったことだ。
その先にいたのが桐原だったことだ。
彼は死んだ。
彼の名は奥野細道(男子6番)。
文学を愛し、言葉の魅力に惹かれた男。
ついてなかった男…
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