なんたら自我記



私が書く小説には一貫性が無い、などとよく言われる。いや、誰にも見せた事無い小説が批判されるはずが無い。要するに、自分でそう思っているということだ。
もしかしたら、こう書く事によって格好を付けているのかもしれない。
しかし、考えてみたら私は格好を付けるのが嫌いだった。少なくとも自分からは。つまり、無意識に格好を付けている可能性はある。
それならばそれで良いと思う。
一貫性、一体どういった意味なのか、中学生のころに買った国語辞典を開いてみる。それを見ると一貫性という言葉は記されてはいない。一貫という言葉があるだけだ。
一貫:方針などをひとすじに突き通すこと。
と、ある。なるほど、私には一貫性が無いわけだ。
私が書く小説に方針などと言うものは無い。そのひとすじに突き通すための方針が無いから一貫性がある訳も無い。
胸がすっとした。
もしも、私が方針なんと言うものを決めたとして、それの上で作られたお話は面白くなるだろうか? そんなことは分からない。が。
何か目的を持ってしまった私、というものは酷くつまらない生物になってしまうのではないか。
何がどうつまらないのか、といいますと。
「端折る」
と、いう資本主義的には合理的な行動をとるのです。
いま端折ると漢字に変換して見て、意味があってるか激しく疑問に思ったので、辞書を開きます。
あっている模様、簡単に言えば短く略すことですな。
そう、そうなのです。端折るのです。例をあげますと、
『A君が隣町のB君に会いに行きました。』
これ、これです。かなり端折られています。A君が隣町に行くのに唯の1行、これは私の悪い癖だ。目的を持つと端折る。今までの話の中でも大分端折られていると思われる。見直していたらきりが無いので、見直しはしない。
実は端折りを無くして、すべてを書いたらMB単位に入ってしまうのではないかと危惧している。そもそも、それだけ書いている時間が無いだろう。
話は戻るが、A君が隣町に行くというその間には、朝起きて、朝食を取り、行ってきまーす、で、それまでに何かしらのハプニングがあったかも知らんし、それからバスに乗り駅に着いたら・・・と、いろいろあるわけだ。
だけども、限度というものがある。全部書いたからといって面白い話になるわけではない、ましてやすべて端折ったら話にならない。
今だって、端折らないように話の落ちも(いつも考えていないが)何も考えずにこの話を書いている。
私が気を付けるべきことは、端折りすぎのあんたはちょこっと書きすぎるくらい書けば丁度良いっていうありがたいお言葉だと思う。この言葉を少しでも脳の片隅においておけばよいのであろう。

だがさらに、ここで問題となるべき点が一つだけある。
それは、私には記憶力と言うものが欠如しているという点だ。
他人がどうなのかは分からないが、自分が記憶力がよいかと聞かれればNOと答えるだろう。
くだらないことから、重要な事に関してまで(重要というものの価値観は人それぞれです)よく忘れる。
くだらないことと言えば、持ち歩いていた傘がいつの間にか無くなっていたり、さっき使ったばかりの消しゴムやものさし、シャーペンといった物を探し回ったり、あとはテレビのリモコン。
重要な事で言えば、講義の補講の存在をすっかり忘れていたり、お金を両替したものの小銭だけ持って、札を置いていったりする。
しかし、『重要な事』などと書いたが、実は私にとってこんな事は重要でもなんでもなかったりする。
私にとって重要な事。それは、ネタだ。
物語のネタ。超時空的なネタ。要するに作文のネタだ。それらは私の頭から生まれる。記憶も頭で記憶する。

私の脳は一旦『書くべきこと』を考え出したら止まらないという特徴がある。そして、それを文章にするよりも、それが溢れ出てくるほうが早い。その上、私の記憶容量は自慢じゃないが少ない、何が言いたいのかというと思いついた事を片っ端から忘れていくと言う悲しい状態にあるということだ。
『書くべきこと』と書いたが、それはアイディアと言うべきものか発想と言うべきものか、ともかく覚えていられないから『書くべきこと』なのだ。
今日もまたアイディアが無駄に創作されては記憶のかなたへ消えていくのだ。そして今、まさに考えていたこの話の題名を忘れてしまったところだ。
こうなってくると、もう、文章を書き続けなければ不安でしようがなくなる。私の脳は発想豊かでも、それを止め置く力は、無い。脳から言葉が溢れる、のでは無い。私は言葉を人並みには知らない。何が溢れてきているのか、私には説明できない。何なんだろうね。
さて、忘れたこの話の題名、どうすればよいか。私は思う、無理に思い出そうとすれば絶対に思い出せない。思い出したためしがない。新しく考え出すつもりならばよいのではないかと。 思い出した。『なんたら自我記』なんたらの部分は思い出せない。
なんたらでも良しとするか。
なんたらで良い気がしてきた。決定。
それで、話を先に進めるが、その前に重要な事を書かなければならない。
それは、『私の脳は一旦』から始まるこの文章が一番最初に書かれたということだ。まさに、思いついたら即実行ならぬ、即記述、だ。

こうして、先に書かれた後の文と、後に書かれた先の文が見事にくっ付いたわけだ。何も考えずに書いたわりにはしっかり書けている気がする。自己満足。
さて、そろそろ結論に移りたいと思う。
私はこれまでに、自分には一貫性が無い、端折る、記憶力が無い、などといった短所を挙げてきた。などと書くと、どっかの『発表会での結論』と同じ様な論調になってしまって面白くない。
というか、嫌いだ。
大嫌いだ。
そしてまた、もう一つ書きたいことがあったのを忘れてしまった。悲しい限りだ。

思い出した、5分ほど考えて。
結論は
『自分というものは自分にも分からない』
私は世間のこともろくに知らないのに自分の事も知らないのか、と。情けなくなるような結論に達してしまったわけだ。
はて? しかし、なんでこんな結論に達したのかさっぱりだ。
自我記、こんなに書いたのに、それでも自分の事が分からないとは・・・。
でも、自分を理解してしまったら自分を書く事も、小説を書く事も止めてしまうかもしれん。そういうもんだろ。
いい感じの終わり方だ。一見落着。




あとがき

この話にあとがきは要らないでしょう。物語ではないし、この話自体があとがきも含んでいる。
そもそも、あとがきとは何ぞやと問われても私は答えられません。
そうか、あれか、後で書くからあとがきなんだわな。
要するに、本文を書いているテンションのまま書いたら、それは本文であって、あとがきにはならないわけだ。
違う気持ちになって書くからあとがきなんだな、きっと。

あ! 違う気持ちになってといえば!!

自分は多重人格かもしれない、もしくはそれに近いものかもしれない。という話を書くの忘れてた!
それからそれから、見直して文章を直すという行為は、自分を着飾るような、自分を良い格好に見せるような、私が嫌いない行為と同じではないか。とか!


・・・・・・いいか。