
10/10/02〜
| 10月10日 | 今日は、旧体育の日。この日は一年のうちで晴れることが多いということで、今日もまあ、いい天気だった。体育の日は、「ハッピーマンデー」だかなんだかで、今年は14日になったらしい。この制度が適用されるたび、まえのほうがよかった、と思ってしまう。途切れ途切れでも、すごく平日な日(水曜日なんか)に祝日があたるととても特別なムードが盛り上がった。休みの日をまとめるのはいいことなのかもしれないし、そのうちに慣れていくことなのだろうけれども、なんだかまだ馴染めていないから、そう思うのだろう。 お天気は全体的にはそこそこ良かったと思うのだが、(お昼に少し雨が降った。)なぜか気分は悪い日だった。何をやっても楽しくないし、頭にきた。いい日だったのに、残念だ。なぜかいらいらして、わけもなく落ち込んでいたので、周りの人たちはさぞ迷惑だっただろう。たまにこういうことがある。そういう時は、非常に自分は感じが悪くなる。 明日は気分が良いだろうか。今は、とてもよくなっているとは思えない。何に関しても悲観的で、やる気がおきない。どんどん下に下りていくような気分だ。こういうときは、鏡を見ないほうがいい。ひどい顔をしているから、なおさら落ち込む。 こんな風に落ち込んだときは、とことん落ち込むことにしているが、その期間を含めて「まし」な状態に復帰するのに、結構時間がかかるときは、困る。一見回復したかのように見えていても、内心ではもっと落ち込んでいたりするのがわかる。 どんなアドバイスも、あまり有効ではない。時が多い。ただ、有効なときも、ある。一番有効なのは、良いニュースかもしれない。少し良いことがあると、一段階回復に向かう。でも、そんな一歩も、すぐにくじくような憂鬱がすぐに襲ってくる。 堂堂巡りだが、今落ち込んでいる真っ最中なので、こういう思考パターンなのは仕方がない。 明日は晴れるそうだ。雨は私を憂鬱にする。少し、明日に希望が涌いた。ありがたい。 |
| 10月11日 | 憂鬱な日二日目。ここ一ヶ月くらいは、結構楽しく暮らしていたと思うが、またしてもダウナーな日々が再来した。友達に葉書を出す。落ち込むと手紙なんかを書いたりすることが多い。これって一種の自助行動だろうか。特に中身のない手紙を、思いつきで出すというのは、自分の存在を単に誇示したいからとる行動のように感じる。哀れなことなり。 おととい、村上春樹の新刊を買った。昨日から読んでいる。今日、下巻を買ってきた。次が気になって、どんどん読んでしまうので、もったいない。でも読みたい。もしかして、この気分は本のせいだろうか。すべてがそうではないかもしれないけれど、本がこの気分の落ち込みの一部分に荷担していることは確かだと思う。自分はすごくのめりこみやすい性質だからだ。 おとといくらいから、新しく買ったCDをウォークマンで訊いている。そうすると、寝るときも、朝起きたときも、その曲で眠り、目覚める。自分の頭はどうかしているのではないかと思うときがある。本当に、その曲で目覚めるのだ。きっと寝ている最中でもその曲がかかっているのだろう。そう思うくらい、はっきりとその曲で起きた。おそろしい。今日はそのCDを聴いていない。当分聴かないかもしれない。 同じ理由で、ゲームもだめである。ゲームをすると、ゲームの画面がしばらく脳裏にちらついている。いや、ちらつくなんて生易しいものではない。私の思考にはっきりと影響を与える。 他人によって作られた世界は、すごく、私に影響を与える。過剰なのではないかと思うくらいだ。ほかの人の頭に浮かぶことはわからないけれど、はるかに私よりもそういった情報を取り込んでいるようだから、それによって煩わされることが少ないに違いない。きっとタフなのだ。別にうらやましくもないけど。 |
| 10月12日 | すごくいい天気だ。どこかに遠出したくなる。でもしない。村上春樹の新刊を読んでいるが、やはり本を読むのは楽しい。本が好きなだけ読める、今の時代に生まれてよかった。 今日、夢について父と話す。私は大抵嫌な夢か、別にどうでもいい夢しかみない。いい夢というのは、ほとんどみない。この、いい夢というのは、誰が聞いてもいい夢、というよりか、自分の「夢後感」ともいうべきものがいい夢、ということである。気持ちよく目覚められる夢、というか。 そういう夢はめったになく、夢をみたら大抵は目覚めが悪く、記憶にはっきり残るような夢は、あまりいい夢ではない。 あっっ!今地震がきた。ゆれた。 地震は緊張するなあ。特にパソコンをやっているときは。 なんだか、夢と現実は、私の中では確実につながっているようだ。物理的には違っても、心理状態においてはそうだ。夢の中の出来事から生じた感情を、夢から覚めても引きずって生きている。夢をみないほうが、日々平穏に暮らせる。夢の中の自分の恐怖や、動揺が身体に影響しているかもしれないので、物理的にも、夢の中の出来事はうそだと切り捨てることはできない。そしてそれがもし(私においては大抵は)マイナスな影響だったとしても、誰にも文句は言えない。責任転嫁できない。すべて自分のせいだ。 ふと、今、目の見えない人も夢をみるのだろうか、と思った。生まれつき全盲の人が見る夢は、どんな夢なのだろうか。犬は夢を見るだろうか。鳥は、魚は、虫は、草花は、夢を見るのだろうか。 |
| 10月15日 | 良い天気である。朝、朝市に行き、懇意にしている芋やさんから焼き芋を買う。ここんちの芋はおいしい。「いつも買ってくれるから」といって、二本で200円にしてくれた。(一本200円なのに)ありがたい。 食べ物に旬がなくなったといわれて久しいけど、やはり食べ物で季節を感じることは多い。昨日行った洋食屋さんで、「三陸産牡蠣入荷しました」と書いてあったので、牡蠣のマカロニグラタンを食べた。もう牡蠣の季節である。そして、グラタンも食べたくなる。季節は移り変わっている。スーパーにはいろいろのきのこが並ぶ。栗やアケビが姿を見せる。りんごの赤、柿の橙色も鮮やかで、スーパーマーケットも紅葉しているようだ。 白菜などの鍋物野菜も安くなる。白菜は、夏は、「高いなあ!」と思う野菜のひとつだ。まあ、夏に白菜なんてあるほうが変なのかもしれないが。スーパーマーケットに並ぶ野菜は、野性味の薄れた、垢抜けたものが多いとはいえ、日本で採れた、季節の野菜は生き生きとして見える。野菜売り場の常連の、トマトやレタス、輸入ブロッコリーがかすんで見える。そして冬になるにつれ、トマトはあまり食べたくなくなっていく。 夏野菜が冬向きでないとは断言できない。(あ、誰もそんなこといってないか?)かぼちゃは夏野菜だが、冬にもおいしいのだ。冬においしい夏野菜。ただ、この類型が一番しっくりくるのはかぼちゃだけかもしれない。もしかしたら。かぼちゃは不思議な野菜だ。夏野菜のくせに、夏っぽい食感でない。これは偏見だろうか。しかし、あのほっくりというか、しっとりしていたり、ねっとりしていたり、そんな食感、そしてあの素朴な甘味は、芋に通ずる、冬っぽい、感じ。冬至にかぼちゃ、というあの習慣も、ますます「かぼちゃは冬野菜なのでは」という感じ。なぞだ。 |
| 10月21日 | なんてこった。このまえ日記を更新してから一週間近く経っちまったよぉ。 …ということで、もう日記を毎日更新しようとするのは止めた。というか、もうやめてるなあ。小さいノートに手書きで簡単な日記は一応毎日つけているので、別にこっちも毎日書くことはない(と思う)。 今日は雨。最近の良い天気がうそのようだ。昨日からいきなり冷え込んできて、困ったもんだ。明日も雨だろうか。…今天気予報で、昼前までは一時雨、といっている。気温は上がるらしい。今日は本当に寒く、帰ってから熱いコーヒーを飲まなくてはならなかった。コーヒーを飲むのは、ファイヤーキングのグリーンのマグカップで、誕生日に友達が送ってくれたものだ。コーヒーは、インスタント。入れ物だけ上等だ。豆を挽いて淹れるのが面倒で、ついついいつもインスタントを飲んでしまう。しかし、コーヒーを淹れるのは楽しいし、そのほうがもちろんおいしいので、今度は絶対豆を挽いて飲もう。 コーヒー豆は、挽きたてでないと、ドリップしたときにもこっと膨らまない。他の人はどうなのかはわからないが、私に関して言うと、そうだ。最近とみに思うことだけれど、手間は大切だ。断言してしまうのには憚られるが、手間のないものに感動はない。そのものにかけられた本当の手間を知るのは難しい。手間を惜しまないことで、少しの苦労から大きな満足を得ることができる。しかし、その満足を受け取るばかりだと、かけられている手間に鈍感になっていくだろう。 手間、とディティールは、少し似ていると思う。ディティールを解する人、すなわち好事家なのだと思うが、手間をも解する人が本当に教養のある人なのだと思う。 |