享楽、悲劇、死刑

 

「悲劇はどこから発生せざるをえなかったのか? ひょっとしたら、悲劇は快感から生まれたのではないか?」

ニーチェ 『悲劇の誕生』

 


 

2003.7.11(金)

 

 

 なるほど12歳という年齢は、誘拐殺人を犯すにはあまりに若すぎる。しかし、性急にそう結論付けてしまうことに何かしら残る違和感。

 12サイノショウネンガハンザイヲオカシマシタ────アンナオトナシソウナコガ────シンジラレナイ────オヤコノコミュニケーションニモンダイガアル────

 その原因は、こうした半ば儀礼的といいたくなるような、お決まりのコメントに対する期待外れだけではないだろう。もちろんけずし君の言うように、悪の問題にも立ち入らねばならないだろうが、それと同時に我々の享楽の問題についても考えなければならないと思われる。

 その事件はあまりにショッキングで、瞬く間に全国に伝えられる。報道番組が特集を組み、小中高校で学級会が開かれる。町中でマイクを向けられ、あたかも自分が評論家であるかのように答える人。飲み屋で一杯やりながら、少年犯罪についてコメントを並べ立てる人。どこもかしこもこの事件でもちきりだ。

 何故? 重大な犯罪だから? 少年が犯人だから? 被害者が幼児だから?

 これらの決まり文句は、ある重大な点を考えるのにとても良い材料になる。それが我々の享楽、それも集合的な享楽だ。我々はこの事件を、ある意味楽しんでいるのではないか? 容疑者や警察や官僚に文句を言う人、さらには事件そのものを批判する人間も含めて、我々はある意味、この事件を必要としているのではないか?

 この事件が起こらなかったら、我々はこの事件について語ることや、行く末を見守ることなどできはしない。しかも、語ることや放送を見守ることは、そうしたいからするのであって、自分でもどうしようも出来ないようなやむを得ない理由からそうするのではない。したがって、我々はこの事件で楽しんでいると言っても過言ではないだろう。ここで重要なのは、享楽の対象がけずし君風の「悪」ではなく、犯罪という現象そのものであるということだ。エポケーしてしまっては、悲劇性を生きる人間は見えてこない。むしろ積極的に同じ悲劇を体験しなければならない。この「悲劇を生きること」が、ルジャンドルの言う「仮借ない構造」の反証になる。

 話は変わるが、この事件に対して某大臣は「市中引き回しの上打ち首にすれば良い」という過激な発現をしたそうだ。その対象が親であれ事件を起こした子供であれ、罰の意味を見失っている発言であるように思える。そもそも、殺人を含む重犯罪者に対する罰は、犯罪者本人を法の下へ再配置することであったはずだ。殺人者は、取り返しのつかない禁止を破り、法を超えた全能者に向かうような文字通りの無法者となったが故に人間的でもなくなってしまう。罰とは、そうした非−人間を法において裁くことで再び法の刻印を施し、殺人者自身に「自分の罪は担うに重すぎる」ということを知らしめる作業であったはずだ。したがって、死刑の乱用は合法的殺人という形で取り返しのつかない所作ということになる。それは法が自分で自分の腹を喰い破るようなものであり、そうすることで法は自壊する・・・。

 ともあれ、この事件に限ったことではないが、犯罪がカウチポテト風に消費されることは避けがたい運命にあるのかもしれない。第2次産業から第3次産業へ移行するかのように、物への従属がひとしきり備給されたあとは、現象への従属が備給される。我々は自分たちの欲望を病的なほど直に満たしてくれるようなショッキングな事件を探し続けるだろう。これからもずっと────。

 

 


 

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