論理ドラえもん学論考
「語り得ないものについては、人は沈黙しなければならない」
L・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
2002.10.14
1 世界は成立していることの全てである。
1.1 事柄は成立しているものである。
1.11 事柄の内には知覚出来るものと出来ないものがある。
1.12 考えることと知覚することは別問題である。
1.13 したがって、事柄には考えることは出来ても知覚することは出来ないものが含まれる。
1.2 考え得る物事は、まさにそのことによって世界の内に含まれる。
2 ドラえもんは世界の内に含まれる。
2.1 というのも、ドラえもんは事柄の内に含まれるからである。
2.2 事柄の内に含まれることは存在することを含意しない。
2.21 というのも、存在することは(カントに従えば)性質ではないし、それゆえライルが言ったように述語でもない。
2.22 したがって「ドラえもんは存在しない」という言明は正しくない。
2.3 ドラえもんについて考えることは可能である。
2.31 考えることが可能であるということからも、世界の内に含まれ得るということが導かれる。
2.4 個人の思考には限界がある。
2.41 したがって、ある個人には考え得ることでも、別の個人には考え得ないことがあり、その逆も成り立つ。
2.5 考え得る全てのもののみを考える、ということは少なからず帰納的である。
2.51 ウィトゲンシュタインによると、帰納という手続きは論理的正当性に欠ける。
2.52 したがって、あるものを考え得ないということが、それに対する絶対的否定を意味することは決してない(このことは人類が未確認な病やウィルスについて思いを巡らすだけで十分理解できよう。我々はそのような病やウィルスについて具体的に先取りして考えることは出来ない、つまり考え得ないのだ)。
2.53 それ故、ドラえもんについて考え得ない人がいたとしても、それはドラえもんの絶対的否定にはつながらない。
2.54 ドラえもんを知覚することが出来るか否かを決定することは可能なのか不可能なのか?
2.6 知覚も思考と同様、帰納的である。
2.61 したがって、知覚できなくともドラえもんを否定することは出来ない。
2.62 というのも、帰納的であるということは論理的には絶対的外部の可能性と表裏だからである。
3 ドラえもんは降臨するかもしれない。
3.1 「降臨しない」あるいは「降臨しなかった」という判断は正しくない。
3.11 というのも、世界の全てを調べ尽くしたとしても、それは今あるものがあることを確認するだけであり、今ないものが認められないという事実自体を確認することではないからである。
3.12 また、降臨するか否かを判断できるのは、それが降臨した後のみである。
3.13 なぜなら、未だ降臨していないものを、降臨し得る時間が完結する前に、降臨しなかったと正しく語ることは不可能だからである。
3.14 したがって「ドラえもんが降臨しない」ことを確認することは不可能である。
3.15 それを確認するためにはドラえもんが降臨する(あるいはすでに降臨している)必要がある。
3.16 というのも、それ以外に降臨し得る時間の完結を確認することは出来ないからである。
3.17 そのときが来た場合に我々が出来ることというのは「ドラえもんが降臨した」という事実を確認することだけである。
3.2 降臨するかもしれないものを待つことは全くの無駄とは言い切れない。
3.21 無駄な行為が可能となるのは、それが成就しないことが論証される場合、あるいはそれを判断する価値基準と適合しない場合である。
3.22 しかし、以上にみてきたように、ドラえもんが降臨しないことは論証できない。
3.23 このことは、ドラえもんの降臨に関する不確定要素を示唆する。
3.24 出来事の生起に関して不確定要素があるということは、その出来事が未だ閉じられていないということを示す。
3.25 出来事に関しての価値を判断するには、その出来事が(事実上であれ、推論上であれ)完結していなければならない。
3.26 ドラえもんの降臨は事実上も推論上も未完の出来事であるがゆえに、その価値判断は出来ない。
3.27 したがって、今ドラえもんの降臨を待つことは無駄な行為ではない。
4 語りきれないものに関しては、人は語り続けることしか出来ない。