ロジカルタイプ覚書

 


 

2003.3.27(木)up

 

 「ラッセルのパラドクス」を発見したB・ラッセルがA・N・ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』において階型理論として示したことは、(集合論的に言えば)事物を或る一定の性質を持ったものの集合とそれ以外のものの集合に分ける場合、それらの集合の全体を一つの集合とするには、その全体としての集合(噛み砕いて言えば、集合の集合)は、その要素となるべき集合とは階型が違うということである。このことは命題関数に関しても言える。命題関数の場合、変項xは、その量化を許す命題関数φxとは階型が違い、φxが量化する場合における変項φ1も同様に、それに関する命題関数Fφ1とは階型が違うということになる。つまり集合の要素と集合の全体、またはある関数とその関数が代入項となるような関数は階型が違うため、それらを同列に扱うことはできない。言い換えれば、この階型理論は、或る命題関数φxの、変項xに代入した時にφ(x)を有意味な命題とするような代入項の範囲を制限するということである。

 ウィトゲンシュタインは「一般的妥当性は論理的命題の目印ではない。一般的である、とは、実はただ偶然にも全てのものについて妥当する、ということにすぎない・・・・・・ラッセルの「還元公理」のような命題は論理の命題ではない。そしてこのことが、その種の命題がたとえ真であるにせよそれが真でありうるのは専ら好都合な偶然によるのではないか、という我々の感情を説明するのである。・・・・・・還元公理が妥当しない世界を考えることは可能である。しかし我々の世界が現実にそのような世界であるか否かという問に対して、論理学は明らかに何の関係も持たないのである」として階型理論に必要な還元公理を批判した。要するに、階型理論は余計な理論である、あるいはそれが成り立つのは幸運による、ということである。したがって、階型理論で排除されるべき事柄が存在すること、つまりそのような事柄が排除されないこともされることも、ひたすら幸運によるものである。

 しかし、同時に彼は「明らかに、論理法則はそれ自身を再度論理法則に従わせるものであってはならない。(ラッセルが考えたように、各々の「タイプ」に対してそれぞれ固有な矛盾法則が存在する、という訳ではない。矛盾法則は自分自身に適用されないから、一つで十分なのである)」とも言っている。以上のようなウィトゲンシュタインの指摘を要約するなら、論理法則の極単純な特性を説明するために(命題関数等に)階型なるものを導入することで、土台のおぼつかない還元公理が要請される、ということとなるだろう。ラッセルとウィトゲンシュタインの両者は、一方ではある矛盾を解決するために、その矛盾の原因を階型に細分した上でその各階型に固有の法則を措定し、もう一方は全ての論理法則(ラッセルの提起した言葉を使って言うなら全ての階型)に共通に適用される、単純な特徴を述べている。つまり、両者の違いとは一言で表現するなら、帰納的であるか演繹的であるかの違いと言えるであろう。しかし、両者に違いがあるとはいえ、ある状況に対する同一の操作を述べているという点と、用語の便を考慮して、これ以降も階型理論という語を統一的に使用するものとする。

 最初に「MG大学の魅力」を「MG大学の要素の要素としての魅力」あるいは「個体としてのMG大学の魅力」とした。階型理論から、この二つの解釈は別々に検討されるべきであるということが導かれる。

 MG大学とは何か直接的に与えられた具体的な個ではない。というのも我々はMG大学をこれと指差して示すことはできないものとしてMG大学はあるからである。しかし、このことが即、MG大学が存在しないということを導くとは思われないし、事実、MG大学は存在する。したがって、MG大学とは、それを構成する要素(建物、歴史、授業、雰囲気、学風、教育方針、学生、卒業生等々…)によって作られた、それ自体では形のない総体、いわば一つの集合と見做すことができる。また、MG大学の要素自体もそれを構成する、さらに階型の低い要素の集合であることが、MG大学自体に適用された方法と同じ仕方でいえる場合がしばしばある、ということは正しいだろう。つまり例えばMG大学の本館はMG大学の要素であり、本館の教室割りや綺麗さなどは本館の要素であることは明白である。命題関数φxを「xは魅力がある」とするとき、φ(MG大学)は「MG大学は魅力がある」をあらわすが、この命題が真であるか偽であるかはさしあたり問題とはならない。「MG大学の魅力」といったとき、「xは魅力がある」のxに「MG大学」を代入することができることを意味し、さらに還元公理を承認するのならば、あるいは承認しないとしても、「MG大学」は事実、空集合ではないという極めて正当な思考の結果、MG大学という言葉が語られる場合は常に『「xはMG大学の要素である」を充足するようなxが存在する』という命題を前提することが分かる。つまり、MG大学という言葉が有意味に用いられる場合は常に『「xはMG大学の要素である」を充足するxが存在する』が真でなければならない。

 しかし、階型理論によると、MG大学とその要素、さらにはその要素の要素は同列に扱うことはできない。つまり、これは「xはMG大学の魅力である」に対するxが有意味であるならば、そのようなxに対して『「xはMG大学の要素である」を充足するxが存在する』が前提的に真でなければならないことをあらわすが、そのようなxは階型理論によって、その存在を否定されなければならないということである。というのも、『「xはMG大学の要素である」を充足し、かつMG大学の魅力であるようなxが存在する』が真でなければならないからである(そのようなxが無意味であることは後述する)。すると、どんな美辞麗句を弄して「MG大学の魅力」に関して述べたとしても、それが「MG大学の魅力」と「MG大学の要素の要素としての魅力」を混同してしまっては、論理的にはナンセンスとなってしまう。

 「個体としてのMG大学の魅力」といったとき、私は具体的にこれがMG大学だと指し示すことのできる何らかの対象を想定しているわけではなく、抽象的な総体としてのMG大学をあらわしている。そしてそのようなMG大学に魅力を感じる人がいないとは言いきれない。

 とは言っても、この場合も先に見てきたように「MG大学の要素の要素としての魅力」と「MG大学の魅力」を混同することはできない。したがって、「xはMG大学の魅力である」を満たすxが存在したとしても、それは『「xはMG大学の要素であり、かつ魅力を持っている」を充足するx』を同時に満たす同一のxとは成り得ない。つまり、MG大学の魅力となり、かつ自分自身の魅力ともなるようなxは存在しない。これは言い換えるなら「MG大学の要素でないと同時にMG大学の魅力でありうるような何らかのx」は存在しないことを意味するが、さらにここから「或るxがMG大学の魅力となるためには、xはMG大学の要素でなければならない」という命題が導かれる。しかし、階型理論によると、MG大学自体はMG大学の要素となることはできないため、MG大学はMG大学の魅力となることはできない。したがって、「MG大学の魅力」というテーマ立てをすること自体が、論理的に非常に危ういものであることが言える。

 以上述べてきたことをまとめると、「MG大学の要素の要素としての魅力」は「MG大学の魅力」になることはできないし、「MG大学」自体が「MG大学の魅力」となることもできない、ということになる。

 


 

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