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喧騒のこだまする黄昏時の歓楽街を、すり抜けていく黒い影は、
まだ明かりを燈していないほの暗い階段を急ぎ足で降りていく。
地下へ地下へと歩を進めるにつれ、彼の心拍数は上昇していた。
無茶な願いだという事は、始めからわかっているんだ。
自分自身にそう言い聞かせつつ、彼は階段を降りきった先にある扉の前にたたずんでいた。
「club star-voice」そうかかれたネオン文字が、扉の上で微かな光を放っていた。
その光に照らされて、扉に貼られた幾枚もの写真がうっすらと目に映るのだった。
それらの写真の最も上に飾られた顔を、彼は無表情に眺めていた。
別段驚く事の無い、良く見知った顔がそこにはあった。
「当店NO.1指名 光」そんな文字が写真の側には踊っていた。
これが自分の現実だ。そんなことは判っている。けれど・・・。
自分の中の迷いや躊躇を、一切降りきってしまうように、彼は思いきりその扉を開いた。
まだ開店前の店内にスタッフの影は無かったが、ただ一所、
明かりの燈った店の奥では、「starーvoice」のオーナーとママが、会話を交わさず、無言で煙草を煽っていた。
すると彼は、その二入に向かっていくやいなや、声をあげてこう言ったのだった。
「オーナー、お話があります」
「どうした光!開店までにはまだ時間があるぞ。今日は随分と早いお出ましだな」
「オーナー、俺、実は。・・・俺、この店を辞めようと思うんです。リョーコを、彼女を愛してしまったんです!!」
リョーコほど女性らしい女性を、光は知らなかった。そして、彼女ほど繊細で純粋で優しい女性を…光は知らなかった。
ふわふわと漂う蛍のように儚げで美しく、この手に捕まえれば死んでしまうと、そう感じながらも
…そう。
必然のように愛してしまった。
それがどんなに危険なことか、知っていながら。
初めてリョーコに出会ったときの光の顔は、蒼白などというものをはるかに通り越していた。
覚醒に霞む一夜の夢の中にいるかのような焦燥感と、
あたかも現実が音を立てて崩壊していく絶望感。
出会ってしまった――。
そんな予感に襲われたものだった。
覚めてしまう。待ってくれ。行かないでくれ。俺の手の中にいてくれ。お願いだから、消えていかないで…!
気づけば、握り締めた手のひらに血がにじんでいた。こんな体験は初めてだった。
無意識に目が追う。引力を感じてしまうほど、自分でさえどうにもならないこの感情。
そしてリョーコのひととなりを知っていくうち、光は彼女を愛していく自分の心をはっきりと見つめられるようになっていた。
だがどれだけ愛していても―NO.1ホストという肩書きも、今まで数多の女に貢がせた装飾品も、
クラブで磨いた甘い愛の囁きも―リョーコは微笑んで背を向けた。
今の自分が一気に否定された。俺は彼女にふさわしくない。彼女は俺を愛さない…!
こんな状態で、仕事も何もあるものか。全て捨てよう。彼女さえいればそれでいい。
ひどいときにはそう思った。
そんな光を救ったのはリョーコの微笑だった。
こんな俺を、リョーコはどう思うだろうか?
そう考えるだけで光は底なし沼から這い出ることができた。
確かにマスターやママには恩がある。だがその罪悪感を覆ってあまりあるこの感情を、光は嘘にしたくはなかった。
だからこそ――。
「リョーコを、愛してしまったんです」
そう言い切るのに…ためらいはなかった。
「光・・・・。」
オーナーは、じっと光の瞳を覗いた。真実を知る為に。
瞳は、人の真実の心を映し出す。職業柄、相手の嘘偽りを見抜くことは、簡単なことだった。
数々の女性を魅了するダークブラウンの瞳。数々の苦難を乗り越えてきた人生を物語る、深い瞳があった。
そこに映る、一瞬でも揺るがない自分の姿に、オーナーは光の決意を感じ取った。
しかし。
オーナーには、「わかった」と言ってやることはできなかった。
彼に辞められることが、店にとってどれだけのダメージになるか。
収入のことだけではない。
他のホスト達にとって、光は一種の神的存在だということを、オーナーは知っていた。
彼がいなくなることで、ホスト達の志気がどれだけ下がるのか。
想像することはたやすかった。
・・・そしてさらに最大の理由は、オーナー自らが、光をとてもかわいがっていたからだった。
一人のホストを特別扱いしてはならないことはよく分かっていた。
しかし光だけは、・・・どうしても他のホストと同じ扱いはできないのだった。
オーナーの脳裏に、10年前の出来事が甦る。
(また、俺は一人・・・・置いていかれるのか・・・・?)
雅之の、・・・弟の姿が光とだぶる。
あの時のような思いだけは、もう繰り返したくなかった。
「それだけは・・・・・許可できない。」
オーナーは、今まで見たことのない冷たい目で光を見下ろした。
「オーナー・・・・」
この回答は予測していた。
しかし、ほんの1%、期待する答えが返ってくるのではないかとも思っていた。
その期待は、見事に漆黒の冷たい瞳に打ち砕かれた。
「話・・・話だけでも・・・・。オーナー!!!!!」
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