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物思う涼子 |
知らない女に声を掛けられた彼女は、 家に帰るとグレーの外套を脱いでハンガーへ掛けてから、 静かにベッドへと腰掛けた。 そしてベッドの脇に据えてある、 小さな丸いテーブルの上からメモ帳とペンを手に取り、膝へ乗せた。
ヒカル
彼女は、耳から離れない、その響きを青いペンでそっと書き出してみた。 光 晃 ひかる …… 続けて、思い付く漢字をー二つしかないけれどー紙にたどる。 ふと、無意識に「涼子」と自分の名前を書き添えてみたことに気づき、 彼女はハッと顔を赤らめた。 誰かに見られたわけでもないのに、 無性に恥ずかしくなって、慌ててその上に二重線を引いてしまった。 それでも恥ずかしくて、メモ帳を閉じると、立ち上がって窓辺へ逃れた。 外は何時の間にか暗闇に包まれて、窓硝子に隣家の明かりが優しく映っていた。 涼子は窓を開けて、晩秋の冷たい外気を吸い込んだ。 その氷のように冷えた空気は、火照った頬に心地よかった。 そうやって暫く佇んでいると、心は落ち着いてきたが、 却って今日の出来事が鮮明に思い出されてならない。 見知らぬ女を連れ去った、哀しい瞳を持った人……。
「ヒカル、」
そう呟いて、涼子は瞼を伏せた。 こんなにも、一人の人のことを知りたいと思ったのは、初めてのことだった。
ドアをノックする音と共に、背の高い高校生くらいの男の子が入って来る。 「えっ?あ。朗」 涼子はメモ帳の方をチラッと見た。大丈夫。青い文字はちゃんと閉じられている。 「子連れ狼、はじまるよ。」 「あ!そうだ、すぐ行く。」 「窓なんて開けて、寒くないの?」 「うん。大丈夫。」 「そう言って、すぐ風邪ひくんだから、姉さんは危なっかしいよ。」 朗はイスに掛けてあったカーディガンを涼子の肩に掛けると、窓を閉めた。 「朗は心配しすぎだよ。」 「そんな事ないよ。姉さん、最近妙な男に付けられてるだろ。」 涼子は内心ドキッとした。 「妙なんて言ったら失礼よ。よく図書館で見かける人よ。」 何でも話せる姉弟だった。 しかし涼子はなぜかヒカルという名のその人に今日会ったことを朗に言い出せなかった。 「姉さんは自分が思っているよりずっと美人なんだよ。」 「急に、何を言い出すの。」 「姉さんに何かするような奴がいたら、僕はきっと、そいつを殺すよ。」 涼子は朗のあまりの気迫に笑ってかわすことすら出来なかった。 まだまだ子供だとばかり思っていた弟の横顔は、 今し方昇ってきた月光に照らされて恐ろしいほどに鋭く冷たい表情をしていた。 涼子は意志が強くまっすぐな性格の弟をたのもしく思っていたが、 一方で、その烈しい気性が心配でもあった。
その後、一緒にテレビをを見ている間中、その言葉が気になっていた。
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