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崩壊の足音1 |
「涼子っ!!」
温かい赤茶色のレンガも、夜の帳の降りた現在はとっぷりと闇の中に沈んでいる。 その闇を、奇妙に点滅を繰り返す街灯が不気味に照らしていた。 人影などは一つとして見えない。 しかし、光は肩で息をしながら、なおも薄暗い周囲に眼を凝らし、 ぐるりと辺りを見まわした。 彼の傍らには、夜気に熱を奪われてすっかり冷たくなったベンチがひっそりと鎮座している。
ベンチの冷たさは、彼女が立ち去って久しいことを物語っていた。
呼吸のたびに軋むような肺から声を絞り出して彼女の名を呼んでいた。 そうすることで、押し寄せてくる不安を振り払ってしまいたかったのだ。
けれど、答えるものの無い呼び声が闇の中に木霊するたび、 それは光の思いとは裏腹に、彼の中に不安を募らせるばかりだった。 「どうか…、どうか無事でいてくれっ!」 再び光は走り出した。 ただ彼女の無事な姿が見たかった。 そのためには、何を失っても構わないとさえ思えた。 軋む胸の痛みなど、気にもなりはしなかった。
ただ、彼女が幸せであれば…
そのとき、不意にすぐ背後で小さく華奢な音がたった。 思わず振り返った光の瞳に、涼子のくれたガラスのお守りの小さな煌きが映った。 その小さな煌きを大切に救い上げながら、光の鼓動は益々大きさを増していた。 落ちた衝撃のせいだろう。 小さなお守りの青いガラスには、今にも割れそうに亀裂が入っていたのだった。
「涼子…」
思わず、そう光が言葉をもらしたときだった。 レンガの通りを抜けた先にある大通りの方から、 辺りをひきさくような車のブレーキ音に続いて激しいクラッシュ音が響いてきたのだ。
はっとして、光は走り出した。
光の鼓動は、呼吸も苦しいほどに早く、大きくなっていく。 そしてそのまま、彼は街灯のまぶしい大通りに飛び出した。
大通りの交差点、 その傍の電柱に正面から激突したらしい車から、 黒煙がもうもうと立ち上っていた。 無残にも、衝突車のボンネットは大きく口を開けながら歪み、 またフロントライトは粉々に粉砕し、そのガラス片は周囲に飛散していた。 ただ幸いなことに、運転手はすでに車外に脱出したらしく、 その事故に巻き込まれた歩行者も無いとのことで、光は僅かにほっと息をついた。
涼子が巻き込まれたのでなくて、よかった…
つくづく、利己的であるとは思いつつも、光は心底そう考えていた。
そしてそのまま、彼は未だ不安の拭い去れぬ思いで、 涼子の家のほうへと足を向け、歩き出していた。 ところが事故現場から十数メートルと離れていない僅かに細い路地のすぐ傍に、 彼は見覚えのある後姿を見つけたのだった。 思わず駆け寄ると、その人影は微かにこちらを振返ったので、 街灯に照らされて、その人物の白い横顔が覗いた。 それは、紛れも無く涼子その人だった。 「よかった!!」 光は幸福感にも似た安堵が、心の奥から湧き上がってくるのを感じながら、 彼女の名を呼び、その傍へと駆け寄った。 しかし、彼のその呼びかけに、涼子が振返る様子はなかった。 彼女は事故とは反対方向の車道を眺めたまま、 無言で立ち尽しているようだった。 その様子に、光はもう一度彼女の名前を呼んでみた。 すると今度は、彼女はビクリと驚いたように肩を振るわせ、 ゆっくりとこちらを振返ったのだった。
その反応はまるで何かに脅えているようだった。
「俺です。光です。どうかしたの??」
「あ…、光…さん?」 「こんな所でどうしたんだい?…涼子??」 突然、涼子はその大きな瞳から大粒の涙をポロポロと零し始めた。
「ごめんなさい、わたし…」
そう言いながら、彼女は俯き、2度3度と両手でぬれた瞳を拭ってみたが、 後から後から溢れ出す涙は一向に止まる様子を見せなかった。 そんな彼女を、光は黙って見つめていたが、 いつしかそっと彼の腕は彼女を抱き寄せていた。 光の胸に顔を埋めながら、涼子はしばらく肩を振るわせて泣いていた。 「怖い思いをしたの?どこも怪我はない?」 涼子の動揺が少しばかり和らいだ頃、 光はできるだけ優しく、 そう彼女に問いかけた。
すると途切れ途切れながらも、 涼子は自分の身に起きたことをぽつりぽつりと語り出したのだった。
「誰かが……後ろから私の背中を押したんです。 私…バランスを崩して、そこの路地に倒れちゃって、 そうしたら…車がきて!私あわてて逃げたんです。 でも、車が歩道の方にまで向かってきて…。 そうしたら…そうしたら…他の車が巻き添えで事故に…!!」
そこまで語ると、涼子は再び、大粒の涙を零したのだった。
「私……私のせいでこんな事故に」
自分を責める彼女に、光はさきほどの自分の利己的な考えを恥じながら、 それでもできるだけ優しく、彼女にこうささやいていた。
「それでも、君が無事で、本当に良かった」
そのとき、ふと光は背後に強烈な視線を感じて、思わず軽く振り返った。 だが、振返った先には、事故の野次馬が現場を見ようと人垣をつくっており、 結局視線の主を特定することは出来ぬまま、視線は感じられなくなってしまった。 そして、その視線に反応したことが、 光の他への反応を酷く遅らせる結果を招いたのだった。
はっと気付いたときにはすでに遅かった。 いつのまにか、光の傍らには黒いスーツの体格の良い男性が、 周囲には見えないよう、小さなピストルを光に向けながら佇んでいたのだ。
「お二方とも、ご同行願います」 |
story by 仁々 |