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白い印象のエントランスは、高い天井のガラス窓から差し込む陽光で眩しいほどだった。
都立病院や大学付属の病院には劣るが、
「十條病院」といえばこの近辺では知らないものはいないほどの大型の総合病院である。
当然、光もこの病院のことは知っている。
ただ、知識として名前だけを知っているわけではない彼は、思わず顔をしかめてしまっていた。
涼子は、見知った顔を見つけたのか、何人かの看護師たちに軽い挨拶を交わしながら、
わずかに急ぎ足で病院の奥へ、奥へとその足を進めていた。
「ここの先なんです」
そういって涼子が振り返った。その笑顔は、いつも以上に優しい笑顔だった。
「そう、じゃあ、俺はここまでだね」
「え?」
「だって急に知らない人を連れていったら、お母さん驚くだろう?」
「そう、そうですよね」
少しだけ、涼子がその大きな瞳を伏せた。
「・・・待っててもいいかな?」
「え?」
涼子が驚いたように顔を上げた。今度はその瞳は大きく見開かれた。
「ここを戻って、左手に曲がったら中庭へのでぐちがあるから、その辺にいるよ」
「あっ・・・でも、時間がかかるかもしれませんし」
「いいよ、俺はまだ時間あるし、ゆっくりお母さんと話をしておいで」
「いいんですか?」
「うん、いいよ。俺がそうしたいだけだから、気にしないで」
一人になって内心ほっとしていた。
彼女に心配をかけたくない・・・・。
穏やかな日差しが中庭を包んでいた。
白いベンチに腰掛け、空を仰ぐ。
ここへ来るのは久々だ。
十条病院・・・・ずっと避けていた場所。
ジャケットに手を入れ、あの写真を取り出す。
古びた写真に木漏れ日が映る。
コレは、、、、確かに、俺。そして、
「・・・・姉さん。」
ウエディングドレスで微笑んでいる。
ジリジリと胸が焦げ付くように痛い。
その胸の痛みをごまかすように、ふと、光は自嘲的な笑みをこぼした。
「なんだ、このときの俺、緊張してんのな。ガチガチじゃん。
にしても、姉さんこんなに笑って、幸せだったんだな」
そう呟いて、光は悲しくなった。
自分の姿が写りこんでいる写真を手にしながら、
自分の中にその記憶がないことが悲しさを招いていた。
「なんで、俺、姉さんを・・・。ゴメン、ゴメン・・・。
だから、俺を憎んだりしないで。姉さんっ!」
呟きながら、光は自分の視界がどんどんと暗く狭まるような感覚に陥っていた。
その感覚に、覚えがないわけではない。
次第に指先から力のなくなるような、薄闇に飲まれるようなその感覚には、過去にも何度か見舞われていた。
ぐらりぐらり、と次第にその体が前のめりになっていく。
――あ、やばい・・・――
そう感じた時だった。
「光!」
そう呼びかけ、肩を支えた声の主は、とても意外な人物だった。
「松浦先生・・・?!!」
肩にかけられた手の温かみに、ほっと息をついた。
「どうしてここに?」
「どうしてって、私昔ここにいたのよ?知ってるでしょ。
今でも時々オペを頼まれるの。」
「そっか、先生優秀だもんね、」
「あら、お褒めの言葉ありがと。で、どうして君が?
マユちゃんにでも会いに?
さっきマユちゃんのお父様、険しい顔で歩いていたわよ。」
「そりゃ、早く帰らなきゃだな〜。」
「・・・・先生おぼえてるだろ?足怪我した娘・・・」
「ええ、たしか涼子さん、よね?」
「そ。」
「その子が?まさかまた怪我したの?」
「いや、彼女じゃなくて。
悪いのは、彼女のおふくろさん。入院してるんだ。」
「そう・・・・。
でも、よくここに来る気になったわね・・・。」
「・・・そうだな。もう二度とここに来ることはないと思っていた・・・。」
ここは・・・一番幸せだったときの場所で、一番悲しかった場所だから・・・
再び光の体がぐらりと揺れた。
やはりここは精神衛生上、よくない場所らしい、と彼は思う。
その揺れた体を支えると、松浦女医はやれやれとため息を吐いた。
「それで、その涼子さんにくっついてきて、気分悪くなってたの?」
「・・・くっついてじゃなくて、送ってきたんだよ。女性の一人歩きはお勧めできない」
「まだ昼間よ。その台詞は夜使うべきじゃない?ホストさん?」
「うっさいなぁ。女性は常に魅力的なんだから、守ってあげなきゃだめなんだって」
「はいはい、そんな青い顔で言われても説得力に欠けるわよ。
涼子さんだって心配するでしょう?」
「・・・だから、あそこから先はいけなかったよ・・・」
あそこ、と呼ばれた場所は先ほど光が涼子と別れて引き返した場所だった。
そこはこの十条病院の中でももっとも古い建物の一つであり、
その先の地下には霊安室があることも松浦女医は知っている。
そのため、光が未だにとらわれている過去の出来事というものが、
彼女には容易に想像できていた。
だが、あえてそのことは言葉に上らせず、彼女は別の話題を持ち出した。
「それで、涼子さんとはどこまでの仲になれたの?もう恋人かしら?」
「どこまでって、」
「あら?百戦錬磨の君がな〜にうろたえてんの?」
「からかうなよ〜、」
「・・・・彼女は特別ってわけね。大切になさい。放しちゃだめよ、」
「・・・・ああ。」
「あら?自信ないの?」
「俺でいいのかな、って。」
俺は弱音を口にしていた。
昔からそうだ。
この人の前だとつい本音が出る。
また、大切な人を失うのが・・・怖い。
「十年前とは、何もかも違う。時は確実に過ぎている。・・・・あなたが立ち止まってどうするの?」
「あら?写真?」
手にしていた写真に先生の視線が落ちる。
「・・・・これは。」
「俺、・・・だよな。で、これは姉さん。綺麗だろ?
幸せそうに笑ってる・・・・。」
「そうね」
「・・・覚えてないんだ。姉さんがこんなに幸せそうに笑っているのにさ。
俺の中の姉さんはさ、優しくて、可愛くて、でも思い返すと凄く悲しい存在なんだ。
いつしか、幸せそうな姉さんを俺は忘れている。俺・・・どうしてっ!」
「光っ!」
「俺は、大事な人の幸せな瞬間さえ覚えていられないんだ。
大事な人であればあるほど。俺が不幸にしてしまうんだ。だから・・・」
感情に任せて、光は次々と言葉を吐き出していた。
その言葉を吐いてから、なんでこんなことを、と更に自己嫌悪に陥りつつ、
それでも言葉はとまらなかった。その様子をじっと見詰めながら、松浦女医はやれやれとため息を吐いた。
「馬鹿ね。本当に馬鹿。・・・そんなに過去が大切なの?」
本当はわかっている。
過去にこだわることの愚かさ・・・・。
今一番失いたくない人は誰か、さえも。
過去に囚われているとその大切な唯一の人も
失ってしまうことになるであろうことも・・。
「・・・悪ぃ。俺何言ってんだろうな、
ふっきれたつもりだったんだ。・・・けどさ。この写真見て、
ここに来て・・・・。あーあっ!!ヤダヤダ、忘れてくれ。」
頭をかいてバツが悪そうにする俺に、ふっと笑ってこう言った。
「変わんないね、そういうところ。・・・じゃ、そろそろ行くわ。
あ、またうちにも顔見せなさいね。二人で、ね。可愛い患者さんの様子、気になるもの。
アフターケアも大切にしてるから。」
「はいはい、わかったよ、」
じゃあね、そういって松浦女医は席をたった。
ひらひらと手を振りながら、白衣を翻して去る彼女の後姿に、光は小さく「ありがと」と呟いていた。
カツンカツンと、病院内には不釣合いなほどの派手なヒール音が響いていた。
「お嬢様!お待ちください!!まだ本日のご予定がっ!!!」
「うるさいわよ。もう今日は飽きたから帰るのっ!」
「お嬢様っ!」
おろおろと走り回るスーツ姿の男性をよそに、摩夕子は人気のない病院内を足早に歩いていた。
「五月蝿い秘書ね。あの男も、お父様に解雇にしてもらわなくちゃ・・・」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、摩夕子は歩く。
白い廊下に、彼女の纏う黒いコートのすそがひらひらと揺れていた。
「相変わらず人気のない。やっぱり嫌だわ、ここの棟」
いらいらを募らせながら、ますます足早に摩夕子は廊下を歩き続けた。
「じゃ、お母さん。また来るね」
そういいながら、涼子は白い扉のノブに手をかける。
わずかに西に傾きかけた日差しが、ベッドの向こうのガラス窓から零れ入っていた。
「次は、その光さんもつれてくるから・・・」
はにかみつつ、彼女はそのまま、「じゃあ、また」と部屋を抜け出ていく。
そしてそのまま、パタンと白い扉が閉じ、その室内は静寂に包まれた。
「ふう・・・」
白い扉が閉まってしまうと、涼子は意図せずため息をこぼしていた。
母を見舞ったあとはいつもそうだ、そう彼女は思う。
この10年間変わらぬ習慣。
そしてこれからも変わらなかったらどうしよう・・・、
一瞬頭をよぎった不安を振り払うように、彼女はゆるゆると頭を振った。
そのときだった。
「あなた・・・」
聞き覚えのある女の声が涼子の耳に届き、彼女は伏せていた顔をその声の主へと向けたのだった。
立ち止まった弾みでゆらりと揺れた黒いコートが、その声の主が知り合いの看護師など出ないことを物語っている。
そしてその人物の顔を見たとき、思わず「あ」と涼子は小さく声を上げていた。
昼を過ぎた午後の太陽はまだ天に高く、長く伸びた薄暗い病院の廊下の奥までは到底届いてはいなかった。
その薄闇の中で、涼子は見覚えのある女の振り上げた右手をじっと見つめていた。
「何でっ!何で逃げないのよ!!」
振り上げたままの手のひらをグッと握りながら、摩夕子は苦々しく言葉を吐いた。
そのまま、再度彼女は手を振り下ろそうと、震える腕に力を込める。
しかし、やはりその腕は振り下ろされることなく、空中で止まってしまっていた。
その強張った腕をようやく下ろさせたのは、涼子の薄い掌だった。
「以前お会いしたときも、やっぱり貴女は泣きそうな顔で立っていた。それは、貴女が光さんを・・・」
「五月蝿いわよ!!」
瞬間的に、腕を引っ張るように振りほどくと、摩夕子は2・3歩後ろへと身を引いた。
「何で!何でいつもアンタがあたしの前にあわられるのよ。何であたしの邪魔をするの」
振りほどいた腕をきつく握り締めながら、摩夕子は憎悪を込めた瞳で戸惑う涼子を見つめていた。
「そんな、邪魔だなんて・・・」
「邪魔しているじゃない!アンタが現れるまでは、光はずっと私だけを特別扱いしてくれていたのに。
アンタが現れてから、光はすっかり変わってしまったのよ。
ずっとずっと、私たちは一緒に生きてきたのに」
唐突に自分へと向けられた憎悪に、涼子はびくりと肩を震わせた。
摩夕子の憎悪の瞳は、益々険しさを増していく。
「こんな、ウチの病院にまで来て、何の用よ!早く出て行きなさいよ」
わんわんと不愉快に反響する甲高い声に、摩夕子のイライラは更に募る。
流石に、その剣幕に押されてか、涼子はずるずると壁に擦り寄るように目の前の女との距離をとっていた。
「わ・・・私は、ただ・・・お母さんの・・・」
「うるさい!うるさい、うるさいっ!目障りなのよっ!アンタのせいで、光も苦しんでるのにっ!」
「こんなところで何を騒いでいるんだい」
摩夕子の背後から穏やかな、それでいて有無を言わせない響きをもった声が掛かった。
摩夕子はびっくっとはじけるように振り返った。
「お父様…!」
十條院長は娘を宥める様に軽く頷いてみせると、涼子の傍へ進み出た。
「…白河さんですね? お母さんの調子はどうですか」
白衣に身を包んでいても、いつも往診に来てくれる先生とは明らかに違うその存在感。
重圧すら感じて、涼子はいつになく硬くなった。
「あ、はい。このころは落ち着いているようです」
光さんが待ってる。早く行かなきゃ。
…涼子はちらっと摩夕子を見て、後ろめたいような苦い気持ちになった。
父親の登場で威勢を削がれた摩夕子は、口は噤んでいたものの、
眼は憎悪に燃えて消えなかった。
「失礼します」
涼子は頭を下げてから、急ぎ足でその場を去った。
胸の中で摩夕子が言った言葉がざわめいている。
…私のせいで光さんが苦しんでいる?なぜ?
華奢な背中が白い廊下を左へ折れる。
廊下の先にその姿が完全に消えるのを待って、白衣の重鎮はそれまでになく低い声で娘の名を呼んだ。
「無用な騒ぎをおこすな。先ほども秘書をずいぶんと困らせたようだな。いいかげんにしないか!」
「だって、お父様・・・」
苦々しげに口元を歪ませつつも、摩夕子は力なく呟いた。
その娘の様子に父親は小さくため息を漏らす。
しかし目元に浮かべた険しさは変わらない。
そして、ほんの一瞬、院長は病室のネームプレートに視線を巡らせる。
「白河の娘か・・・。摩夕子、あの娘には手を出すな。何事も騒ぎを大きくしてはならん」
唐突な父の言葉に、摩夕子は疑いの目を向ける。
「お父様、それはどういう・・・」
「反論は認めんぞ。いいな。どのみち、母親さえこちらにあれば事態は変容しない。それでよい」
父の抑圧的な言い様に、娘であっても口を噤まざるをえない。
結局深くを追求できぬまま、彼女は病院奥へと歩みを進める父の後姿を、数歩遅れで追いかけた。
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