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李夫人の寝室 |
ママが何故マダム・リーと呼ばれているか、光は知らなかった。 マダム・リー。李夫人? ママの本名は李というのだろうか。 あるいは、オーナーの本名が李であるのか。 確かに、ママのきめの細かい肌は「大陸」を思わせる。 微細な真珠の粉で磨いたような、高貴な肌だった。
「ママ……。今日はやっぱり、駄目です。」 「なによ。飲みすぎたっての?」 「いいえ……」 ママは不機嫌そうに半身を起こし、華奢な紙巻煙草をくわえた。 光は反射的にライターを取ったが、火を点けてやることはしなかった。 「ふふん。光ちゃん。あんた随分と偉くなったもんだねぇ」 光は曖昧に笑って、無造作に脱ぎ捨てられたシャツを拾い、身につけた。
ママの部屋を出て、木枯らしの吹きすさぶ街を、光は歩いた。 少し早すぎる粉雪のように見えたのは、どこかの店の窓から降ってきた紙ふぶきだった。 混沌とした不夜城のネオンの海。祭のような人込み。 買う男、買われる女。買われる男、買う女。 自分もまた、ああやって「身一つ」で稼ぐ人間だった。
しかし、今はもう違う。いや、もう違うと思いたかった。
あのひとの純粋さ、気高さに恥じない男になりたい。 触れることなどは、できないにしても。
光は、ぼんやりとかすむ歓楽街の星空を見上げ、たわむれに
かぷかぷわらったよ……
その音をママは酷く無表情に、ネオン光の差し込む小さな窓辺で煙草をくわえて聞いていた。 やがて、ふと思い出したように、彼女は口元の煙草にけだるそうに火をつけ、長い長い息と共に、白い煙を吐き出した。 そしてしばらく、彼女は狭い路地裏に面した小さな窓をただ無表情に眺めていたのだった。
「あら、いたの」 突然、ママがふとそう言った。 何時の間にか、扉にもたれ掛るように、オーナーが佇んでいたのだ。 彼もまた酷く無表情のまま、薄暗い部屋のどこを見るとも無しに、眺めているようだった。 「光は、もう帰ったのか?」 「ええ、さっさとね」 「どうした、ご機嫌斜めだな。若いホストに相手にされないのがそんなに不満か?」 「ふ、そんなことはないわよ」 外は風が強いのだろう。ガダガタと揺れる窓ガラスの音が、不快を生じさせない程度に耳についた。 「あの子、いったいどうしたって言うの?あの光が、たかだか素人の娘に引っ掛かるなんて、信じられないわ」 「ああ、女の扱い方はこれまで存分に教え込んできたからな。俺としても信じられんよ。だが、光の最近の様子は……」 彼はその言葉の先を、敢えて口にしようとはしなかった。そしてそのまま沈黙だけが、しばらくその場を占めていた。 「……リョーコ、とか言ったかしら?」 長い沈黙を破って、ふとママがぽつりと言った。 窓から零れ入る青紫色のネオンに、彼女の瞳は濁った光を燈していた。 「何がだ?」 「リョーコ。光をあんなにした女よ」 「ああ、確かそんな名前だったな。どうした、気になるか?」 「ええ、興味あるわね。あの光を落とした女。いいわ、どんな女なのか調べてみようじゃないの」 「ただの素人娘かもしれないがな」 「ふふ、それでも光を落とした女よ。何よ、アンタは興味無いの?」 僅かにふりかえる彼女の顔は、逆行のためか奇妙に歪んでいるようだった。 「リョーコ。……この目で見てみたいわね」
外の風がいっそう強さを増したのか、薄いガラスはガタガタと先にも増して音を立てた。 どこからか雪を思わせる白く小さな紙切れが、細い路地を舞い散り、吹き抜けていった。 おもむろにママは空を仰いだ。 しかし、ネオンの光の揺らめく空には、星も雲も何も見えはしなかった。 ただ青紫色のネオンの光が目障りなほどに翻っているばかりだった。
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ママ、貫禄です。オーナー、ママに気づかれることなく、ずっと部屋に居たんですか? story by YUKIO + 仁々 |