ホワイトカンガルー
1
男は埠頭の先にある、船を固定するためのロープをかける出っ張りに腰をおろし、じっと灰色の海を眺めていた。猛烈に冷たい風が吹き上げてくる。
北海道は釧路の東に位置する小さな港町。その上空は、この日も灰色の重い雲に覆われていた。
男はいよいよ寒さに堪えきれなくなって立ち上がると、タバコを踏みにじってジャンパーの中に首をすぼめた。
西崎 将夫は、かつてここから遠く離れた東京の生命保険会社に勤務するサラリーマンだった。下を見れば自分を慕ってくれる部下もいたし、上を見れば信頼できる上司もいた。ただ、特別目立った社員ではなかったことも事実だった。
そんな西崎がリストラにあったのは、まだほんの半年ほど前のことだ。うだるような炎天下のなか、もうろうとした意識のまま家族の待つ郊外のマンションに帰った時のことを、西崎はまだ昨日のことのように覚えている。
それから約1ヶ月ちかく、西崎は1日中都内の会社を回って職を探し歩いたが、当然のことながら中年の働き口など容易に見付かるものではなかった。しかし、西崎には妻の他に小学生と中学生の2人の娘がおり、彼女らの養育費とマンションのローンの事を考えると、どう見積もっても今の蓄えでは充分とは言えなかった。
ある日、土木作業のパートを見つけたものの、肉体労働などしたこともない西崎にとっては、とても体がついていかず、3日と続かないうちに次の働き口を探すこととなった。
西崎は子供の頃から海が好きだった。海のない山梨の小さな村で生まれ、小学校にあがると同時に父親の転勤で横浜に越してきた。そのときに始めて見た太平洋の美しさが、大人になってもずっと心に焼き付いていた。
職探しに疲れた西崎は、ぼんやりと一日中海を眺めて家に帰ることが多くなった。
そんな様子を娘から耳にした西崎の義父が、見兼ねて彼に紹介したのが、漁師をしている彼の弟の手伝いだった。土木作業さえまともに続かなかった中年男に、漁師の仕事が務まるわけがないと西崎の妻は反対したが、好きな海の上で仕事が出来るのなら勝手も違うだろうと西崎は快く引き受けた。
しかし、その場所が、遠く離れた北海道の小さな町であることを知ったとき、愛妻弁当をぶら下げて東京湾に通うつもりでいた西崎はさすがにショックを受けた。しかし、身内のもとで働けるという好条件を逃すわけには行くまいと単身赴任を決意したのだった。
かくして、脱サラ男の第二の人生が幕を開けたのだった。―――と西崎は心の中でつぶやいて胸を弾ませていたのもつかの間、この海をも凍らせんばかりの寒さの中、踊るような小船の上で漁をすることは、土木作業よりも何倍もきびしい仕事だった。それでも義父の弟から渡される毎月の給与封筒が仲間のより少し厚めだったことと、家族のもとを離れてここまできてしまった手前、すぐには帰れないという感情も手伝って、西崎はなんとかこの仕事に落ちつくこととなった。
2
「このクソ寒いってのに酒なしでやってられるかよ。畜生!」
鼻水をすすりながら、西崎は空になったウイスキーの小瓶を海に思いきり放り投げた。瓶は横に回転しながら、荒波に打たれて飛沫をあげた。
西崎はおぼつかない足取りで港の倉庫まで来ると、そこに胡座をかいて倉庫の壁に寄りかかった。アルコールのまわった脳が急速に眠気を帯びてきた。
家族のためにと一心不乱に働いたことが功を奏し、西崎は漁師仲間からの受けもよかったが、それもつかの間、何度かへまを続けるうちに、いつしか「足手まとい」と呼ばれ、邪魔者扱いされるようになってしまった。サラリーマン時代には考えたこともない彼への評価だった。
日に日に自分の居所が狭くなるにつれ、その苦しさと悔しさをアルコールで紛らわすようになった。食費を削って家族に当てていた仕送りも、次第に酒代へと変わっていった。1ヶ月に1度の仕送りは3か月に1度に減り、3ヶ月に1度の仕送りは半年に1度に減り、しまいに西崎の稼ぎは1円足りとも東京の家族のもとに届かなくなった。逆に娘たちが父親に宛てていた励ましの手紙も回数が減り、仕送りが途絶えた後も何通か届いたものの、やがてぴたりと届かなくなった。
家族との連絡が途切れて、もうかれこれ2年がたつ。今では家族のために働いているという気持ちは、西崎の心からすっかり消え失せてしまった。
目が覚めると、目の前を雪が舞っていた。寒気が体を襲い、西崎はぶるるっと体を震わせた。
「ううっ、寒いっ!」うめくように言うと、西崎は立ちあがってジャンパーの上から体を擦った。
港から出ると海岸通りが横に走っている。その通りの一角に喫茶店があった。西洋のおとぎ話に出てくるようなレンガ造りの小洒落た外観で、屋根から突き出た煙突から、もくもくと昇る白い煙が、この雪国にふさわしい建物を演出していた。
西崎はすっかり冷えきった体を温めようと、迷わずこの店のドアを開けた。
ドアが閉まるのに合わせて、カランカランというベルの音が店内に響いた。
店の中は間接照明で温かく彩られ、西崎は心が落ち着くのを感じた。カウンターの前にテーブル席が並んでいる。一番奥の席を残して他はお客が既に座っていた。カウンターにも常連客らしい男が二人腰掛け、なにやら店の主人と話しこんでいる。
西崎の姿を認めると、主人は話をやめて顔を上げた。表情が影になってよく見えない。店の奥のテーブルに向かう西崎を、彼は黙ったまま目で追った。つられてカウンター席の客も振り返って西崎を見た。
西崎はなんだか異様な気分になった。店の外観と同様、繊細に演出されたこの雰囲気に、染みだらけで、おまけに魚臭いジャンパーは確かにふさわしくなかったかもしれない。西崎はなるだけ目立たぬよう大人しくしていることにした。
それにしても、客の表情まで影になってよく見えない。まるで、黒い影が服を着ているみたいだ。西崎が椅子を引いて座ると、ようやく彼らは向き直ってまたそれぞれの会話のなかに戻っていった。時間をおいて女が注文をとりにきた。
「ホットひとつ。熱めのを頼む」
女は黙って注文を書くと、そのまま戻って行った。
やけに静かな店だ。
西崎はひじを立てて、もうもうと湯気をたてるコーヒーを口に運びながら、辺りの様子をうかがった。
客はそれぞれテーブルを囲んで仲間たちと話し合っている。カウンターの二人は相変わらず主人とだ。だが、いくら耳をすましても、ひそひそとかすれた声しか聞こえてこない。まるでつんぼになったような気分だった。
ふいに店のドアが開き、そして閉まった。合わせてカランカランとベルの音が店に響く。すーっと外の冷たい空気が入ってきて、コーヒーの湯気が揺らいだ。
見るとフードを被った客がドアの前に立っていた。顔はフードにすっぽり隠れていて見えない。服がだぶついているから、体が華奢なのだと分かる。おまけに恐ろしく撫肩だ。その客は店の中をさっと見渡し、西崎の席に目が止まると、すすっと向かってきた。誰もその新しい客を振り返って見ようとはしなかった。主人でさえ今度は顔も上げずに客と話し続けている。
「相席させてもらってもいいかね」
正面まで来ると、その客は西崎に声をかけた。落ちついた紳士的な声だったが、胡桃を擦り合わせたような軽快な響きが後に残る。くすぐったいような不思議な声だ。
西崎は頭を軽く縦に振った。
「すまない。失礼させてもらうよ。ふー、体がすっかり冷えてしまった」
ひょっとしてこの男も港で海を眺めていたのか?いや、この凍りつくような寒い日にそんなことする惨めな奴は、俺以外にいるはずがない。西崎はちらっと男に目をやった。
見ている前で、客は深々とかぶったフードを脱いだ。
西崎は口に含んでいたコーヒーをぶーっと吹き出した。
「カ、カンガルー!?」西崎はその哀らしいキュートな動物の顔を見て度肝を抜かれた。しかも、目の前のカンガルーは西崎がよく知っているレッドカンガルーではなく、白熊のように真っ白な毛に覆われたカンガルーだった。
カンガルーは西崎を小馬鹿にするようにクルクル…と喉を鳴らしてみせた。
「いや、驚かせてすまない。安心したまえ。知ってのとおりカンガルーは肉食ではない。だから恐くなんかないだろ?」
カンガルーは、おびえた子供をなだめるように西崎に声をかけたが、カンガルーが言葉を話すその光景は、西崎をよけいに恐がらせた。脳がパニックをおこし、命令が脊髄にうまく伝わらない。腰を抜かして声さえ出なくなってしまったので、西崎は目だけぎょろぎょろ動かして回りに助けを求めた。しかし、誰もこの異様な光景には気付いていない様子だった。
「やれやれ、脅かすつもりはなかったんだが無理もないか」
なおもカンガルーは話し続けた。妙に軽快な響きを残す他は、その声はよく聞くと、可愛らしい容貌とは裏腹にクリント・イーストウッドのように渋かった。「悪いけど、1本もらうよ」カンガルーはテーブルの上にあった西崎の煙草とライターに手を伸ばすと、尖った口先で煙草を1本抜きとって、そのままライターで火をつけた。
ぷーっと音をたてて吐き出した煙が、西崎の顔を撫でていく。
しばらくして、何くわぬ表情でウェイトレスがカンガルーの注文をとりにきた。
カンガルーは灰皿に灰を落としながら、「熱めのコーヒーを頼む。ああ、それと彼にもおかわりを1杯」と言った。
西崎は声を飲みこんだまま、カンガルーとウェイトレスに交互に目をやり、しきりに彼女に合図を送ろうとしたが、ウェイトレスは何事もなかったようにそのまま背中を向けて行ってしまった。
おろおろするばかりの西崎を見て、カンガルーはお手上げというように、煙をふーと天井に向けて吐き出した。
西崎の頭の中では大脳がこの異常事態に対処すべく、迅速な情報処理を行っていた。この真っ白なカンガルーに客は誰も反応しないし、おまけにカンガルーはディズニーの動物キャラクターよろしく人の言葉を流暢に話す。
困惑しすぎてオーバーヒートしないように、大脳は自己防衛本能を働かせはじめた。つまり、言葉を話す白いカンガルーが、ウエイトレスにコーヒーを注文して何がおかしい、と西崎は自分に何度も何度も言い聞かせて、自らを洗脳したのである。
その甲斐あってか、西崎は次第に落ちつきを取り戻し始めた。冷や汗も引いてくる。
「ん、うんっ!」西崎はひとつ咳払いをすると、テーブルの上に置かれた新しいコーヒーに口をつけた。
「コーヒー。すっ、すまなかったな」
西崎はカップをカンガルーの方に向けて見せた。
「なに、気にする事ないさ。1本いただいてるからそのお礼だよ」言いながら、カンガルーは短い指に挟んだ煙草を西崎に見せた。
「私はカルドネ・ドス・アラモンだ。よろしく」
差し出されたカンガルーの小さな手を恐る恐る握って、西崎は自分も名乗った。
「あ、ああ。私はニシザキ・マサオだ。カルドネド…モン。」
「カルドネ・ドス・アラモンだ。カルと呼んでくれ。みんなそう呼ぶ」
カルはいったん窓の外を見て、煙草を灰皿で揉み消しながら言った。
「北海道は予想以上に寒くて驚いたよ。ここに来てまだ日が浅いが、ここの気候には当分慣れそうにない。オーストラリアの温かい太陽がなつかしいよ」
西崎はずっと言葉を話すカンガルー、カルに圧倒されていたが、なんとか話の主導権を掴もうと勇気を奮い起こした。
「言葉を話すカンガルーに出会ったのは、実は生まれて始めてなんだが、…カンガルーたちは、その、みんな人間の言葉を話せるのか?」
言ってみた後、西崎は自分のばかばかしい質問に思わず顔を赤らめた。カルは突き出た口の端を引き上げて、苦笑いした。
「世界中どこを探しても、そんなカンガルーはいないさ。私が特別なんだ。私は子供のころから人の言葉を真似して鳴くのが得意でね。ほら、オウムやキュウカンチョウといっしょさ。人間が話しているのを見ては、おもしろがって彼らの言葉を真似して口に出していたんだ。そんなことをしているうちに、とあるサーカス団の男の目に止まってね。私は言葉を話すカンガルーとして一躍人気者になったのさ。サーカス団の一員としてオーストラリア中を回って公演を続けるうちに、私はさらにたくさんの言葉を習得していった。そのうえに、いつのまにかその意味まで理解できるようになったんだ。私の父親は、私が奇妙な言葉を話すのを見て、アボリジニーの呪いだとか言って、さんざん嘆いたよ。ま、呪いかどうかは別として、この能力がなければ、私はこうして日本に渡り、今、君と話すこともなかったはずだ」
目の前のカンガルーがただの観光目的で日本にやってきたのではないことは、その口調から知ることが出来た。もっと運命的な何かが彼をここまで連れて来たらしい。
「どうしてこんなところまでやって来たんだ?まさかそのサーカス団の巡行じゃないんだろ?」
カンガルーは鼻をひくひくと動かしながら、思いもよらないことを口にした。
「実は、フィアンセを追ってここまでやって来たんだ」
「フィアンセだって!?」
「ああ、もうとっくの大昔の話になるがね。もうかれこれ200年近くたつかな」
200年って…。あんたいったい何歳なんだ、と言いかけて西崎は言葉を飲みこんだ。存在そのものが悪夢みたいなカンガルーの言うことに、いちいち反応するのが馬鹿らしく思えたからだ。
カンガルーの黒曜石のような目は、宙を眺めながら昔を思い出しているように見えた。
「彼女は女ながらに、好奇心旺盛な船乗りだった」
大きなリュックを背負い、唇にちょこんと紅をほどこしたカンガルーが船の甲板に立って、行く手のまだ見ぬ新天地を眺めやる姿が、西崎の脳裏に浮かんだ。しかし、そのイメージは次のカンガルーの言葉であっけなく崩れ去った。
「断っておくが、彼女はカンガルーではない。人間だ」
西崎は、いまさら何を聞いても驚くまいと思った。それに、今度ばかりは、カンガルーの言葉に少しばかり納得できた。言葉を話すことができるのなら、人間と恋に落ちることも、ひょっとしたらあり得る話なのかもしれない。
「君に家族はいるのか?」
カンガルーはふいに質問をしてきた。一瞬、東京に残した妻とふたりの娘の顔が西崎の頭の中に浮かび、フィードバックするように消えていった。
西崎は首を縦に振った後、家族とは別居中であり、もう2年も連絡をとっていないことを簡単に話してきかせた。
カンガルーは静かに頷くと、喉をクルクルと鳴らし、そしてゆっくりと自分の物語を話し始めた。
3
私とキャサリン・ハーグリーブスが出会ったのは、ブリスベンから北西のとある荒地だった。
キャシーは1804年のロンドン生まれ。大学では天文学、測量学を学んだ。当時の女性としては珍しい経歴を歩んでいるが、オーストラリア大陸の探検隊に生涯身をおいた冒険家を父親にもっていたことを考えれば、それも頷ける。
大学を首席で卒業後、キャシーは海軍に志願。入隊後、何度となくアフリカ、インドへ派遣され、敵陣に乗りこんで必要な水路図を完成させるなど、着実に評価を高めていった。そして入隊後8年目にしてようやく彼女は「未知の南方大陸」オーストラリアの探索隊のメンバーに任命されたのだ。
オーストラリアに着いてすぐ、キャシーはそこに生息する珍しい動物たちのとりこになり、調査に夢中になった。
「『何に似ているともつかない動物だ。これまで見たどんなものとも違っている』という言葉を聞いたことあるかい?」
「いや、ないな」西崎は首をかしげた。
「偉大なる探検家キャプテン・クックがはじめて我々を発見したとき、同行していた画家のジョセフ・バンクスが記した言葉だ。その言葉を本で読んで以来、彼女はカンガルーを一度見てみたいと思っていた」
ある日、彼女のかねてからの願いはかなった。一匹のカンガルーに遭遇したのだ。そのカンガルーというのが、まさに私だった。私は今でもこの時の彼女の顔をはっきりと覚えている。カンガルーを求めて荒野を歩き回った彼女の白い顔は泥にまみれて、せっかくの美しいブロンドの髪も埃をかぶって灰色に染まっていた。そして、彼女はメガネザルのように目を大きく見開いて、私をじっと見ていたのだ。びっくりして逃げ出しそうになったのは、むしろ私の方だった。この話はその後、私達ふたりのお決まりの笑い話になって、ふたりでよく笑い合ったものだよ。
彼女は私を凝視したまま、じりじりっと近づいてきた。私の方に気を取られすぎて、彼女は足場が不安定になっていたのも気が付かなかったんだな。私の見ている前で、彼女は大きな悲鳴をあげて岩場から落ちてしまった。動けなくなって助けを求める彼女を見て、私はやれやれと彼女に手を差し伸べた。
「大丈夫かい?」と一言声をかけてみたら、彼女は仰天して気を失ってしまった。それから私は自分の小屋まで彼女を引きずって連れていき、傷の手当てをしてあげたんだ。
彼女が目を覚まして私の姿を見たとき、彼女は再び仰天して卒倒してしまったが、その後、私達が分かり合えるようになるまで、そう時間はかからなかった。
彼女は足を何針も縫うほどの大怪我をしていたうえに、骨折もあって、完治するまでには半年以上もかかりそうだった。それでも動物の研究を続けたいと言う彼女のために、私は草原に小さな小屋を作り、その中で観察を続けられるように準備をしてあげた。そして私も体の不自由な彼女の手足となって研究を手伝うことにした。
彼女の助けになりたいと思ったのは、私をかわいがってくれたサーカス団の人たちに対する恩返しのつもりだったのかもしれない。だけど、それだけではない特別な感情が、自分の心の中に芽生えつつあったことを、私は少しずつ感付きはじめていた。
とある日の夕暮れ時。彼女はいつものように小屋の窓から動物の観察をしていたが、ふいに大きなため息をついて双眼鏡をおろした。
「どうしたんだい、キャシー?この辺の動物には、もう飽きてしまったのかい?」
彼女は首を横に振って答えた。
「違うのよ、カル。ここに住む動物たちは皆すばらしい動物ばかり。一生見ていても飽きることはないと思うわ。でもね、あなたと暮らすようになって、彼らを見る目が変わってしまったの」
「どういうこと?」
「彼らは、けして人に見られて喜んでもらうために生きているんじゃないって、ふと気が付いたの。彼らにも人間と同じように感情があって、彼らなりの人生や価値観があるんだって。そう考えてたら、この窓から毎日彼らの生活を双眼鏡で覗いている私って、すごく嫌らしい人間に思えたのよ。そうでしょ。研究とか言って学会で発表しようなんてカッコつけたことばかり言ってたけど、それって、垣根から隣の家を覗いて、あれこれ噂を近所に言いふらしてるのと変わりないじゃない。私そんな恥ずかしい人間になりたくないわ」
「なにも、そこまで悲観的になることないじゃないか」私は、半分呆れて言った。「マーチンのこと知ってるかい? ほら、いつも昼過ぎになると日なたぼっこにやってくる太っちょのカンガルーのことさ。こないだ、奴が私にこの小屋と君のことを聞いてきたんだ。へんてこな道具を目に当てて彼女はいったい何をしているんだ、ってね。君たちを観察して動物の勉強をしているんだって言ってやったら、あいつ喜んでたよ。次の日から奴の毛並みがとても綺麗に整えられていることに、君は気付いてなかったようだけどね」
それを聞いて、キャシーは少し苦笑いしたが、すぐにまた表情を暗くして、
「でも、やっぱり私、気が惹けるわ。最近、そのことがひっかかって研究にも身が入らないの」
「やめてしまうのかい?」
キャシーはしばらく俯いていたが、すぐに明るい顔をこちらに向けた。
「やめたりなんかしないわよ。これからは、あなただけを観察していくことに決めたの。だって、あなたは奇跡を絵に描いたような、すばらしい才能を秘めたカンガルーなんですもの」
彼女はそう言って、私の額に優しいキスをした。
ちょうど日が傾き、山肌を撫でる美しい夕焼けの光が、窓から射し込んできた。髪を黄金色に輝かせて天使のように微笑む彼女の美しさに、私は思わず吸い込まれそうになり、心臓がどきりと胸を打った。
その晩、私たちは何を祝うというのでもなくシャンパンで乾杯をした。そしていつしか、私とキャシーは、お互いが異なる種族であることを忘れていった。
ちょうど、喫茶店の窓から夕焼けの明かりが射し込んできて、カンガルーの白い毛を黄金色に染め上げた。微笑んでいたカルの口元は、しかし、みるみるうちに険しく結ばれていった。
4
彼女の足の回復。それは同時に、私たちふたりの生活の終わりも意味していた。キャサリン・ハーグリーブスの怪我の回復を知った海軍省は、イギリス本国への帰還命令を彼女に下したのだ。
もちろん彼女がブリスベンに残れるように政府に願い出たが、とうとう聞き入れてはもらえなかった。このときすでに、南方大陸の調査は別の調査隊によってほぼ完了していたのだ。海軍省からその報告を受けた政府は、すぐに調査団に解散を命じていた。しかし、私たちにはひとつだけ、一緒にオーストラリアに残るための選択肢が残されていた。それはキャシーが海軍を離れ、長い航海の経験を生かして捕鯨船の副船長を務めることだった。捕鯨船に乗れば、彼女は長い航海に出なければならなくなる。しかし、一生離れ離れになるよりはと、私達は決意を固めたのだった。
海軍の仲間たちが本国へと帰って行った後、残されたキャシーはロウエナ号という捕鯨船に乗ることになった。
「君はこの船の名前に聞き覚えはないか?」
西崎は首を横に振った。
「ロウエナ号は日本に初めて上陸したオーストラリア船籍の船として知られている。1831年のことだ。ただし、残念な事に、そこで友好的な握手が交わされたわけではなかった。ロウエナ号の船長、バーン・ラッセルは英国サセックス州の生まれで、若いときから捕鯨や交易の仕事に携わっていたため、南太平洋から日本近海周辺も含めて世界中の海の地形によく精通している男だった。キャシーとはここで離れ離れになってしまったので、ここからはバーン・ラッセルが残した航海日誌にもとづいて、話を進めることにする」
ロウエナ号は鯨の群れを追って太平洋を北上、やがて日本近海へと進路を向けていた。
当時の捕鯨船が一回の航海に費やす期間は1〜2年にもなる。だから、新鮮な野菜や果物の補給が困難で、船乗りたちは皆ビタミン不足に悩まされるのが常だった。なかには重い病気にかかり、死亡する船乗りまでいた。
ロウエナ号にも災いは降りかかった。シドニーを出発してから1年と数ヶ月が過ぎた頃、充分栄養には気をつかったつもりだったが、ロウエナ号の乗組員にもいよいよ体調を崩す者が出始めた。
やがて、ラッセル船長はキャシーの体にも異変が起きている事を知った。完治していたかに思えた彼女の足の傷が再び痛みだしたのだ。長く潮風に当てられていたせいだ。栄養不足により傷は悪化する一方だったが、陸から遠く離れた海の上では、なすすべがなかった。
もしこの時、私が彼女の怪我のことを知っていたなら、すぐにでも医者を連れてロウエナ号を追ったに違いない。しかし、何も知らなかった私は、この時ただキャシーがいないことを寂しがって、毎日をただ呆然と過ごしていた。今にしてみると、そのことが悔やまれてならない。
キャシーは部屋の中でベットに横になる時間が多くなり、一方、乗組員の中から、ついに死亡者がでた。その様子に、ラッセル船長は事態を重くみて、緊急に船を停泊させることを決断した。
漁場から一番近い町は釧路だったが、不運にも当時の日本は鎖国政策の真っ只中にあった。それでも人命が最優先と考えた船長は強引に上陸を試みた。警備の厳しい釧路を避けて、ロウエナ号が着いたのは松前藩の小さな港町だった。
沖合いに現れた異国船を見て、小さな港町は大騒ぎになった。
船長はなんとか理解を得ようと、乗組員に病人がいること、けっして日本人に危害をくわえるようなことはしないと説得を試みたが、荒々しい物腰の海の男たちを見た彼らはそれを容易に受け入れようとしなかった。
港にロウエナ号を停泊させたまま船員は一歩も外に出られない状況が何日も続いた。これでは海の上にいるのも同然だった。
そんなある日、堪えかねた乗組員が数人、船長の目を盗んで町に忍び込み、強盗まがいの行為に出たのだ。かけつけた日本人達は彼らが持つ銃を見て興奮し、ついに互いの血を流す結果にまで発展してしまった。
救援を装って外国の船が攻めて来たと勘違いした町の男達は、怒りを露わにロウエナ号に押しかけてきた。武装した彼らを見て、すっかり落ちつきを失ったロウエナ号の乗組員も武器を手にとって、いよいよ交戦となった。
事件の知らせに、松前藩から多数守備兵が駆けつけ、周辺は大騒ぎとなった。ロウエナ号はすっかり藩の船に包囲され、乗組員は船での篭城を余儀なくされてしまった。
冷静さを失った松前藩では話にならないと、船長は江戸の将軍に書状を宛て、何度も停戦を呼びかけ続けたが、ついに将軍からの回答が届くことはなかった。
そんなある日、キャシーは動かなくなった足を引きずって船長室に現れた。
船長はキャサリンの姿を見るや、彼女を含め、乗組員を最悪の事態に巻き込んでしまったのは自分に責任だ、と肩を落とした。
「自分を責めるのはよしてください。船長。誰もあなたを責めてはおりません。それよりも、船が航行不能となる前にここから脱出する手段を考えましょう」
頼れる副船長の力強い言葉に、ラッセルは勇気付けられたが、それでも彼は不安を拭いきることはできなかった。
「今、この状況で脱出を試みるのは危険だ。既に周囲を藩船に囲まれている。ロウエナ号はただの漁船なのだ。自衛用の簡単な重火器は装備されているが、あれだけの敵を相手にはとうてい勝ち目が無い。それに我々には重病人がいる。キャシー、君も含めてだ。たとえ脱出に成功したとしても、それからの航海に君たちの体がもつとは思えん」
「私を含め、病人と負傷者は日本に残り、あなたたちだけシドニーに帰還するんです」キャシーはすばやく切り出した。「あなたが帰還し、軍を連れて救援に戻ってくるのを、私たちは日本で待ちます」
「日本に残るだって?投降するつもりなのか。我々が戻って来る前に処刑にでもされてしまったらどうする?」
「投降するのではありません。どこか身を隠すところを見つけて隠れているつもりです」
なおも当惑の表情を浮かべるラッセルに、キャシーは海軍時代に養った作戦を聞かせた。
「私たちはまず、装備されている火薬を海上で爆破させて煙幕をつくります。そして脱出すると見せかけて、近づいてきた一隻の船を集中攻撃し、その船を奪います。乗り込むのは私たち病人や負傷者、つまり日本に残る者です。私はその船の日本人から服を奪って彼らに成りすまし、全滅した船と思わせてゆっくりと戦場から離れていくのです。煙幕で視界が利かないため、その船に乗っているのが変装した私たちだとは気付かれないはず。船長たち帰還組は煙幕が晴れないうちに全速で包囲網を脱出してください。機動力なら、漁船とはいえ、辺境の小さな町の船に比べれば、ロウエナ号の方が勝っていると思われます。私たちは人気のないところに船を止めて、何処かに身を隠しています」
船長は顎を擦りながら、黙ってキャシーの計画を聞いていた。
「うむ、状況を考えれば、それが賢明かもしれんな」
キャシーの表情が明るくなった。
「しかし、本当に君はここに残ってもいいのか?フィアンセが君の帰りを待っているんだろ?」
5
言葉を切って、カルは懐の辺りに手を入れてごそごそとやった。カンガルーのお腹のポケットに、なにか入っているのだろうかと、西崎は興味深げにじっと見ていた。
やがて、カルは懐から鉄製の平べったい容器を取り出した。蓋をあけると葉巻が綺麗に並べられていた。映画でよく見るような、マフィアの首領が咥えているものよりいくぶん細く見えた。
「健康に気をつかって滅多に吸わないことにしているんだが、君もどうだね」
カルは自分でも1本口に咥えると、ケースからもう1本取り出して西崎に勧めた。西崎はそれを受け取って、口に咥えてみた。カルがライターで火を付けてくれた瞬間、西崎は大きな声を上げてむせ返った。西崎は急いで葉巻の先を灰皿に擦りつけた。
「ごほっ、ごほ。私には合わないようだ」
「慣れればきっと気に入るよ。これは私がユーカリとナンヨウスギの葉を使って作った葉巻なんだ。そこいらで売られている葉巻なんかよりずっと濃厚で良い香りがする。まだ吸えるだろうから、それは記念にとっておいてくれ」
ああ、そうするよと答えて西崎は火が消えた葉巻をジャンパーのポケットにしまった。
カルは青い煙をふーと吐き出すと、話の続きを語った。
キャシーは綺麗な瞳を輝かせて言った。
「カルには必ずまた会えるわ。彼自身、奇跡みたいな人なの。もし、私の身に何かが起きたとしても、彼は奇跡を起こしてきっと会いに来てくれるわ」
船長は、笑みを浮かべた。「奇跡みたいな人か…。私もカルという男に会ってみたくなったよ。彼は何処に住んでいるんだ?シドニーに着いたらまっ先に彼のところへ行って、今の君の言葉を伝えるよ」
「いいのよ。私たちの命は船長にかかっているんですから、帰還したらすぐに救援を呼んできてください。わたしが無事帰ることができたら、カルを紹介してあげるわ。3人でピクニックに出かけるのなんてどう?」
「そいつは楽しみだ」
船長は大声で笑った後、戸棚からブランデーを持ってきてふたつのグラスに注ぎ、片方をキャシーに渡すと、ふたりはお互いの成功を祈ってグラスを合わせた。
「それでどうなった? 作戦は成功したのか?」
西崎は身を乗り出した。
「ああ。キャシーたちは無事、敵の船に乗りこんで戦場を離れることに成功した。ロウエナ号も脱出に成功した」
「よかったじゃないか」西崎は歓声をあげた。しかし、カンガルーの表情は冴えなかった。
「ハッピーエンドにはならなかったのか?」
カルは頷いた。「ロウエナ号は確かに戦闘による危機からの脱出に成功した。しかし、航海というものは常に自然という危険と背中合わせなのだ。ましてやロウエナ号はこのとき、戦闘による損傷がひどく、平穏な海を渡るのでさえ困難な状態になっていた。ロウエナ号はちょうどマリアナ諸島付近を航行中に嵐に合い、そのまま二度とシドニーに帰還することはなかった。船が瓦礫となって発見されたのは、それから数年後のこと。マリアナ諸島の砂浜に打ち上げられていた。生存者は不明のままだ。ラッセルの日記だけが回収され、そこでようやく政府は日本に残されたキャシーたちのことを知ることになるのだが、鎖国政策中の国に干渉するのは得策ではないと政府は考えたらしい。表面上は、時期を見計らって外交官を派遣する素振りを見せていたが、ついに実行されることはなかった」
「くそっ、政府はキャシーたちを見捨てたんだな」西崎はテーブルを叩いた。
西崎とカルの間で、しばらく静かな時間が続いた。
カンガルーはやがて口を開いた。
私は何年もの間、彼女の帰りを待って毎日海に出かけた。いつか彼女が金色の髪を揺らして帰ってくるような気がしたんだ。そして彼女が帰ってきた時、最初に彼女を迎えてやるのは、他の誰でもなく私でありたかった。だから、毎日日が沈むまで砂の上に座って彼女を待った。
彼女を待っている間、私はカモメたちを眺めながら、キャシーと小屋で一緒にすごした短い日々を思い出していた。カモメたちは私をなぐさめてくれるように毎日私のところに飛んできた。彼らを見ていると寂しい気持ちもいくらか和らいだ。
しかし、月日が流れたある日、カモメたちは急に姿を見せなくなった。まるで何かを暗示しているみたいだった。殺風景になった空を見上げたとき、私は突然胸が絞めつけられるような孤独感を感じ、目から涙がこぼれてきた。
その時、確信したんだ。キャシーはもう戻ってこられなくなったのだと…。
カンガルーは煙をふうっと吐いて、葉巻を灰皿に押しつけた。
「彼女を諦めたのか?」
「ああ。―――その後には、腹立たしいような悔しいような、嫌な感情だけがずっとつきまとっていた」
何かに責任をぶつけたかったのだと思う。日本に残る道を選んだキャシーに苛立ちすら感じることも、彼女を助けられなかった自分に対して怒りを覚えることもあった。自分がカンガルーだということを恨んだりもした。自分さえいなければキャシーは捕鯨船なんかに乗ることはなかったのだ。きっとイギリスで学会に貢献するような立派な女性になっていたに違いない。私は素敵な女性の人生を台無しにしてしまった。
私はやがて酒に溺れ、この哀れなカンガルーを人前にさらしてやろうと、うらぶれたサーカス小屋で「人間対カンガルー」という演目で八百長のボクシング試合をして金を稼いだこともあった。自暴自棄になっていたんだな。
いっそのこと、死んでしまいたい。―――そうすれば、あの世でまたキャシーに会えるかも。
サーカスからの帰り道、毎晩、夜空に向かってそう祈り続けた。こんな生活を続けているうちに、自分はその辺の道端で醜くのたれ死ぬにちがいないと思っていた。それを望んでいたんだ。
だが、いつになってもその時が来ない。何年、何十年たとうとも私の体は衰えることなく、むしろまわりの仲間たちの方が皆、私を残して先にあの世へ行ってしまった。私の魂は肉体だけを残してすでに死んでいたのかもしれない。私は死神にとり憑かれた抜け殻となり、そのまま周囲の時間だけが流れて行った。
そしてある日、気が付くと私は荒野のただ中に独りで立っていた。そこは私とキャサリン・ハーグリーブスが最初に出会った場所だった。
ずっと来ることを避けていた場所に、私はいつのまにか足を運んでいたんだ。
ふたりで住んだ小屋が朽ち果てて私のそばにたたずんでいた。
キャシーとふたりで毎日眺めた風景が、あの時と変わりなく目の前に広がっていた。そこに眩しいばかりの太陽の光が降り注いでいた。射し込む光を辿って私は空を仰いだ。
一瞬なにかが瞬き、目の前が真っ白になった。
もう何年も流したことがなかった涙が頬をこぼれてきた。その涙の熱さは胸の奥まで届くような生命の息吹を一瞬感じさせ、そしてガラスのように弾けた。瞬間、私は悟った。
ようやく神は、私に救いの手を差し延べてくださったんだ。
――次に気が付いた時、私は小さな港町に立っていた。ふわりと風が吹いたとき、キャシーの髪の香りがしたように思えた。すごく懐かしかった。すぐに気が付いたよ。ここは、キャシーが暮らしていた町なんだって。
私は目を閉じて、両手を翼のように大きく広げてみた。肌に、いや、全身に、心の奥にまで温かいぬくもりが懐かしさといっしょに流れ込んできた。
世界と一体になり、安らぎに包まれ、私はすぐそばにキャシーを感じていた。
6
店の中はいつの間にかしんっと静まり返っていた。もう、ひそひそという話し声も聞こえてこない。グラスや煙草を持つ客たちの手がみんな止まっていた。時間が止まったように、全てが止まっていた。教会の中にいるような静けさだ。
いったい、いつからそうしていたのだろう。西崎は自分が涙をこぼしていることに気付いて慌てて涙をぬぐった。顔を上げると、ちょうど、カルが立ちあがったところだった。西崎はおどろいて立ち上がった。
「行ってしまうのか?」
カルは口の端をつり上げて、にやっと笑って見せた。
「長い話に付き合わせて悪かったな。君と話せてよかったよ」
カルは西崎の肩に手を置き、そのままテーブルを後にした。
肩に残ったカルの手の感触を感じながら呆然としていると、カルはちょうどカウンターに二人分の勘定を払って出口へ向かうところだった。
西崎は、はっと我に返ってカルの後を追った。
「ま、待ってくれ。おいっ」
途中、ジャンパーを忘れた事に気付いて引き返し、ジャンパーをつかんで振り返ると、すでにカルの姿はドアの向こうに消えていた。
ドアが閉まるのに合わせて、カランカランというベルの音が店に響いた。
店を出るとまぶしい日の光が差し込んできた。西崎は思わず目をしばたたかせた。さっきまで雪を降らせていたあの雲はすっかりと消え、青空が広がっていた。西崎は慌ててあたりを見回したが、カンガルーの姿はもう無かった。
西崎は途方に暮れて店の前に立ち尽くしていた。
白いため息を吐いて振り返った瞬間、西崎は目を見張った。
店の様子が一変していることに気付いた。
彼の目の前にあるのは、もうずいぶん昔に空家になった洋風造りの小さな建物だった。人が住んでいた頃は綺麗で可愛らしく、愛情にあふれた建物であったに違いない。
そんな馬鹿なことがあるか。俺は今までこの店にいたんだぞ。西崎はドアノブを掴んで回してみたが、ガチャガチャと乾いた音をたてるだけで、扉は開かなかった。
見ると、ノブに鎖が巻きつけられていて、ドアが開かないように固定されている。鎖はかなり古いものらしく、錆だらけだった。ドアには「CLOSED」と書かれた小さな札が、ぶら下がったまま残されていた。
夢見ごこちのまま、西崎は再び港まで来ていた。埠頭の先端に立って、遠い水平線の彼方にまで目をやった。この広い海のずっと向こうに、妻とふたりの娘が住んでいる。
ふと西崎の胸に熱いものがこみ上げてきた。忘れていたはずの彼女たちのぬくもりが、まだ自分の心の中に残っていたことがうれしかった。
ジャンパーのポケットに感触があったので、西崎はそっと、中の物を取り出してみた。カルにもらったユーカリとナンヨウスギの葉巻だった。
あの白いカンガルーが喉をクルクルと鳴らして、葉巻を咥えている姿が脳裏に浮かんだ。
西崎はゆっくりと目を閉じ、両手を翼のように大きく広げ、背中をのけぞらせて大きく息を吸った。温かいぬくもりが心の中に入ってくる代わりに、凍てつくような冷たい空気が肺に飛び込んできて、思わずむせ返りそうになった。
西崎は、顔を赤くして咳を堪えているうちに、なんだか笑いたい気分になった。
口元がほころぶのを堪えながら、西崎は両手を広げたまま、子供のようにくるくると回った。
―――宙を見上げると、カモメたちが青い空の中をゆるやかに舞っていた。
了