金星の輝くとき

 

夕方、バイトを終えてコンビニの袋から缶詰とミルクを取り出していると、

赤いコートのポケットに入れっぱなしだった携帯電話が鳴り出した。

「はい」

私の携帯電話の番号は、たとえ携帯とはいえ、同じ番号が続いているせいか、間違いがたまにあるので、

こちらの名前を言わず簡単に答える癖がついている。

「よお、元気か。俺だけど」

 

聞き間違いなどあろうはずはない。やさしくて深い、あいつの声だ。

その向こうに街のざわめきは聞こえず、耳元には懐かしい声だけが響く。

 

きっと一人でどこか静かなところにいながら私を思い出してかけたのだろう。

以前なら家からかけてくるような時間帯ではないから、もしかしたら駐車場の車の中から

かけているのかもしれない。

でも、なんということだろう。

あいつから「さよなら」の次の言葉を聞かないまま、急いで数えたら、もう2年以上経っている。

突然電話をかけてくるなんて、一体どんな用事が私との間にあるというのか。

 

別れを切り出された、あの時の夕暮れの景色が、一人のリビングの中に再現される。

あの時の悔しくて悲しくて、死にたくなるような気持ちが、こんなに時間が経っているのにもかかわらず、

「よお」「元気か」「俺だけど」の、たった3つの言葉で蘇ってきたのだ。

「あの、私に『俺』という言葉でかけてくる相手なんておりませんが」

これくらい意地悪な言葉で切り返してやりたい衝動にかられる。或いは、

「ああ、雅史? 嬉しい、声が聞けて」

と、知らない男の名前を思いついて言ってみようか。

 

「元気か」

私が黙っているところへ、畳み掛けるようにして声が聞こえてきて、頭の中をあいつの声が勝手に占領し始める。

「ええ」

あまりに簡単に返事した自分が滑稽で、一人で笑いそうになる。

これであいつであることを私は認めたことになるじゃない。

「元気よ」

私の心を持ち去っていった男。

なにかあったから私のところに電話をかけてきたのは明らかだが、あいつは私の元に帰ってくるつもりなのか。

「いいえ、元気じゃないわ」

そう答えたらどうなるのか。少しは心配して飛んできてくれるだろうか。

 

「あなたは元気そうね」

「おう」

「どうしたの」

「いえね、近々、君の家の近くまで行く用事があってさ。どうしているかと思ってね」

「そうなの」

「それにしても寒くなったよな」

「ええ」

「風邪ひいてないか」

「いいえ、なぜ?」

「うん?いや、声が少しかすれているような気がしてさ」

 

ずっと聞きたかったこの声。今ならはっきりと自分の心に残っていた声を聞いていられる。

この声を聞きつづけられるのなら、たとえ他愛も無い会話でも延々と続けたい。逢えなくてもいい、せめて。

自分からは願うことのできなかった、この優しくて深い声を、いつまでも、いつまでも。

「少し、のどが、ね」

「そうか。体冷やすなよ。君は寒がりだからな」

「ええ、気をつけるわ」

 

意を決して聞いてみようと決意する。

「ねえ、かけてきてもらって悪いんだけど、聞きたいことがあったの」

「うん、何?・・・あ、ごめん、美佐子が帰ってきた。いつかそれ聞かせてくれよ、じゃあな」

 

そして、携帯の声が聞こえなくなった。

 

夕暮れの、暗くなりかけた部屋に引き戻されて、私も携帯に赤い電話のマークのボタンを押した。

あいつは自宅からかけてきていたのだ。しかも妻の出かけている時間に。

 

キッチンの、ぼうっとした蛍光灯に私の現実が照らされ出す。

足元に白いコンビニの袋が口を開けたままになっている。

残りの買い物を冷蔵庫にしまい、冷え切った洗濯物を入れにベランダに出ると、綺麗な夕焼けが一番星を

灯して燃え尽きる直前だった。

受信可能にしたままの携帯。私はいつかまた、あいつからの電話がかかってくると思っているのか?

 

ガラス戸を閉め、リビングの中央にある電気カーペットのスイッチを入れようと部屋の中を振り返る。

この部屋に残っているあいつのタバコの匂いをかすかに感じ取ろうとするが、最近始めたアロマテラピーの香油で

だいぶ消えてしまっているようだ。

 

別れてからずっと私から電話をしないのは、自分のプライドを守るためだ。

最後まで情けないくらい泣いていた自分を少しでも元気づけたくて、

自分で決めたことだった。 だから。

このまま、あいつはもうかけてこないかもしれない。

ひとりぼっちの部屋。仕事が終われば滅多に鳴らない携帯。

少し無理してでも、もっと友達作ったほうがいいのかな。

 

そうだ。あいつの選択の自由は私が守ってやることにしよう。

そしてその自由を行使してあいつがまた電話をかけてきたら聞いてみようかな。

でも・・・。

あいつに聞きたかった質問は、もっと自分を情けなくするに決まっている。

きっと一生言わないままのほうが、他愛もない会話をまたさっきのようにすることができるかもしれないか。

声が聞けるだけでも、いい、か。

情けない気持ちが容赦なく私を追い詰めていきそうだ。

 

冷たくなった洗濯物をゆっくりたたみながら、私はひざの上の白いTシャツに向かって聞いてみた。

「私がどんな言葉をいったら、あなた、私のもとに戻ってくる?」

大事にしまう決意をした、どうしようもないその質問は、口に出したところで涙で詰まってかすれてしまった。

それでも答えを聞く気で顔を上げると、窓の向こうがいつしかすっかり暗くなっているのに気づいた。

 

立ち上がってカーテンを閉めながら空を見やると、ガラス窓に映る自分が見えて、もう、

どれが金星だったのかなんてどうでもよくなっていた。

 

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