金星の輝くとき(裏バージョン)


静かなマンション。玄関からいきなり音が聞こえたので俺はあわてた。

「うん、何?あ、ごめん、美佐子が帰ってきた。いつかそれ聞かせてくれよ、じゃあな」
携帯を切ると同時に俺の部屋のドアが開いた。
「ただいま。見つけたわよ。」
ポケットに携帯を滑り込ませる。
「見つけたって」
「ほら、あなたが言っていたラビオリよ、早速支度するわね」
「おう・・・。茹でるの手伝おうか」
「大丈夫よ。それより、お風呂に水張っておいてくれると助かるわ」
「わかった。お安いご用だ」

バスルームの明かりをつけ、バスタブにザッと洗剤をかけてスポンジでこする。
俺がどこに電話していたのかを、妻の美佐子は絶対に知っているはずだ、と考えた。
「見つけたわよ」なんて言うから、電話中の現場を押さえられたのかと思った。

妻の美佐子は沙織に会ったことがある。
会社内のソフトボール大会に弁当を届けに来てくれた時、沙織が試合中の俺の代わりに弁当を受け取っているのだ。
ただの会社の女の子と妻は思ったはずなのだが、沙織はその時に何気なく鋭い視線を送ってしまったと、後になって笑っていた。

妻のそぶりは何気ないが、俺は美佐子が何も彼女のことについて言わないのがとても気にかかる。
別れてからずいぶん経つので、かなり過去の事ではあるのだが。

沙織と別れたのは夕方だった。昼間の雨の後が残る、濡れた歩道を歩きながら俺は沙織に「さよなら」を告げたのだった。

あの時沙織はしくしくと泣いて、俺は所在無く彼女の顔を覗きこむこともできずにあたりを見まわしていた。
彼女は最後まで涙が止まらず、それを置いていくようにして俺は去っていった。
笑顔で別れた恋にはならなかった。

以前俺の部下だった彼女とは、出版社に転職した後も時々会っていたが、機会を見つけて会ううちにどんどん彼女は綺麗になっていき、やがて一緒に働いていたときよりもずっと自分に自信を持ち、輝きを増していた。
それを確認したからだったのか、なぜかもう会いたい気が失せてきて、いろいろ理由をつけてピリオドを打った。沙織の困ったときの、あの冴えない表情を笑顔に変える、そういうことができなくなったからではないかとも思うのだが。

ふと電話したくなったのは、なんとなくテレビで見ていた女優の泣き顔があの時の彼女を思い起こさせたからで、別に会いたいというわけではなかった。
懐かしい気持ちで声が聞きたくなったのは今回が初めてで、電話をかけた理由は近くまで行く用があったからと言ったが、それはまったくの嘘だ。


ツルツルになったバスタブの底に栓をし、蛇口をいっぱいに開放すると、熱湯が湯気を盛大に上げながら飛び出してきた。
湯の温度を調節しながら程よく熱めにしてバスルームを出て、タオルで手を拭いていると、突然頭の中にさっきの沙織のかすれた声が蘇ってきた。
「ねえ、かけてきてもらって悪いんだけど、聞きたいことがあったの」
そういえば、さっき俺が切る直前、沙織は何か聞こうとしていたな。
別れたときにも聞いたような、静かな声。あの調子なら絶対に風邪引いてるな、きっと。
今ごろベッドにもぐりこんで熱でも測っているかなと、ちらっと考えていると、少し時間が止まったような感覚に気づいて「ふっ」と笑ってしまう。
その時だ。

「誰が風邪引いたって?」

突然聞こえた声に俺はびっくりして振り向いた。
そこにはびしょぬれのタオルを数枚抱えた、美佐子が立っていた。
振り向いた俺の目はきっと、大きく凍ったように見開いていたかもしれない。

初めて自分は独り言をいつのまにかつぶやいていた事に気がついた。
ひょっとしたら俺は、独り言をぶつぶつ言う癖があって、これまでも妻が居ることに気づかないまま沙織のことを口に出していたのかもしれない。俺も年をとったのだろうかと思ったら、なんだか妻が恐ろしい存在に思えてきた。

「あ、いや、なんでもない。どうした、そのタオル」
「これ?ふふ、ラビオリを茹でようと思ったら水を床にこぼしちゃって。手拭のタオルであわてて拭いちゃった。あ、ドアは閉めておいてね。湯気が漏れてしまうから」

優しく笑う妻美佐子は、何も気づかなかったような雰囲気で洗濯機の中にタオルを放りこみ、キッチンに戻っていった。

俺はあわててバスルームのドアを閉めた。
ふと気づくと、手を拭いていたタオルを固く固く握り締めていた。


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