再会の小景
この白くて新しい街に越してきてから、Cを2回見かけた。
夏が始まったばかりの木曜の午後、マンションの近くの公園で彼を見かけたのが最初だった。
3歳くらいの男の子にサッカーボールをそっと投げる、一人のお父さんらしき人がまさかCだとは、最初気づかなかったが、「いくよー」という声でパッとわかってしまったのだった。
Cはいつからこの公園に来るようになっていたのか。
春先まで、私も息子をここで遊ばせていたが、幼稚園に入れてからは来ることが減り、たまたま郵便局の帰りに久しぶりだなと思い、缶コーヒーを持って立ち寄ったのだった。
茶色い壁のマンションに越してきたのは2年前のことだった。
マジメで毎日きちんと時間通りに帰ってくる、優しい夫に巡り会って結婚する直前まで、私は3年もの間Cのワガママに振りまわされ、何度も別れを考えながらも、ついつい彼の甘い瞳を見ると許してしまうという、苦い時代があった。
でも結婚して5年、それなりに幸せだったから、Cとの日々はとっくに心の奥底の思い出のひとこまにしていたはずだった。
彼の目をそのまま受け継いだその小さな男の子は、ボールを追いかけて、トコトコと私の近くまでやってきた。私は足元に来たボールを拾い上げ、その子に渡してやった。
「はい、どうぞ」
「どうも、ありがとう」
男の子は懐かしい、あの照れくさそうなCの目で私にそう言うと、くるっときびすを返し、走っていった。
駆けて行く男の子の行く先を目で追うと、Cが私のことを見ていた。
ヘアスタイルなどあまり変えていない私が立っていることに少し驚いているような様子だったが、「あ、どうもすいません」と、ちょっと会釈しながら、どこにでもいそうなお父さんの口調でCはさりげなく挨拶をした。
「いいえ」と、私は笑顔で会釈を返した。
私は左手を顔の近くまで上げてみせた。すると、Cの笑顔から私の心の中へと彼の別の声が聞こえ、それに目で答えたことが向こうにも伝わった気がした。
―
久しぶりだね。あれ、結婚指輪は同じプラチナなんだ。
― ホントね。あなたもシアワセそう。
― ああ、ようやく落ちついたよ。
―
本当はね、あなたと結婚すればよかったって少し思っていたのよ。
― キミもそう思っていたのか。
一瞬のうちに私達は全てを話したような気がした。
Cは小さくうなづくと、駆け寄ってきた息子の目の高さにしゃがみ、その子の頭をゴシゴシとなでて何か言うと、やがて子供の手を引いて公園から出ていった。
それからひと月ほど経って、私は午後の昼下がりにスーパーへ出かけた。
生鮮食品売り場を幼稚園から帰ったばかりの子を連れてうろうろしていると、棚の向こうから大きなカートが見え、それを押すCが現れた。彼はこの間ボールを投げて遊んでいた男の子を肩車で乗せたまま、隣の可愛い妻らしき人と何やら話していて、私には気づいてなかった。
が、それとほぼ同時に息子の幼稚園バッグのキーホルダーが私の買い物用のカゴに絡んでしまい、「お母さん、取れないよー」と息子が情けない声で助けを求めたので、私はCがこちらに気づく瞬間を捕らえることができなかった。
でも、「ほら、動かさないで。お母さんが取ってあげるから」という私の声で彼はこっちに気づいたはずだ。背後の彼に聞こえるよう、いつもよりもはっきりしていたし。
でも、息子が絡んだキーホルダーをがちゃがちゃ振るのを止めさせなくてはならず、私はとうとう振り向くことができなかった。
すると、「あら、大変そうね」と、鈴の鳴るような声が聞こえた。位置からしてCの妻の声だ。
「ああ、お母さんてのはどこでも大変なんだよなー」と、彼が答えているのも聞こえた。
最近アニメで人気を取っているキャラクターのキーホルダーは、細工が細かくてなかなかカゴからはずれない。
「お母さん、壊さないでよー」
「わかってるから、もう、そんなに引っ張らないで」
いらつく私の背後を、ほうれん草を手にしたCは、それっきり何も言わないまま通り過ぎていく。
ようやくキーホルダーがはずれると、私は急いで彼の後姿を目で追った。肩に乗っている子供が私をじっと見たままだ。そして、私を指差して、小さくつぶやいた。
「あ、ボール取ってくれた人」
一瞬、私はCとCの妻が振り向くと思って身構えた。けれど、彼らは聞こえなかったのか、なんの反応も示さなかった。
でも。後姿だけで私にはわかった。Cはこの街に私がいることを「意識している」と。
なぜなら、彼のジーンズのベルトが、あの頃使っていたものと同じものだったこと、着ていたTシャツがその昔、彼のバイクの後部座席に乗せてもらった時、私がしがみついていたシャツで、長い時間と共に古ぼけて色あせたものだったことが、私にそれを伝えてくれたからだ。
でも、私の声に振り向かず、子供の声にも(わざと)反応しなかったCを、私はどうしよう。
どうにもできないし、どうしたって過ぎた時間は取り戻せないことなのだけれど。
懐かしさだけではない、何かが私の頭の中で渦巻き出していた。
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