勇基とマリアの・・・?
 オレンジ色の髪をしたアイツが微笑んでいる。
 端整な顔立ちでも、華奢じゃない。強い意志と野性味をブレンドした、そんな顔。
 ゲリラにいるような下品な男でもなく、十二企業の連中のように、偽善ぶった優男でもない。
 いつも口うるさく、怒られてばかりのような気がする。
 そんな彼が私に微笑みかけている。
 何を言うわけでもなく、何かをしたいわけでもなく、じっと、私を見つめる。
 彼が口を開かないということは、私も沈黙を守っているということなのだろう。別に怒っているわけじゃない。何をしたいのかと言えば・・そう、ちょっと大声では言えないような・・・。
 にこっと彼が微笑む。それが合図。
 オレンジ色の尻尾が風に揺れる。
 ゆっくり、ゆっくり、彼の上半身だけが、私の方に近づいて来る。私もそれに答えるかのように、ほんの気持ちだけ、身体を傾ける。
 じれったくなるように時間がかかる。ただ、それは実際にはすごく短い時間なのだ。ちょっぴり心が戸惑いながら、しかし、身体が待ち焦がれている。
 彼の顔がどんどん大きくなる。私を全て包込んでくれるような優しい瞳、想像以上に、睫が長く、綺麗だった。通った鼻筋、その下にある、ちょっと乾いた唇・・。
 どんどん、視界が狭まっていく。それは彼が近づいているからではなく、私の瞼が降りているから。限界が近づくこと、それを私は待ち望んでいた。
 ゆっくりと、貪るように、ちょっとだけ顎を上向かせる。そのままあと1秒も待たないうちに、その、・・・・なのだ。
 思考が麻痺する。心臓がドキドキと激しく胸を叩く。だけど、頭の片隅のどこかは、ひどく冷静だった。
 そう、冷静だった。そう考えた瞬間、私はハッと目を覚ました。


 目覚めはいつもいい方だった。少なくとも、同居人に比べれば、信じられないくらいにいい。ただ、それでも、それが夢であったことに気づくには、数秒ほどの時間が必要だった。
“ピピ、ピピピ、ピピピピピ・・・・”
 冷静に、目覚まし時計の電子音止める。朝の目覚めには果てしなく不適切な目覚まし時計の電子音。ただ、アラームをかけておきながら、目覚ましの音で起こされたことはまだ一度もなかった。いつも、目覚ましが鳴る数秒前に起きてしまう身体をどう言い表せばいいのだろう。律儀だろうか、それとも、せっかち・・・。
 髪をかき上げて、ふ〜、と大きく一息を付く。
 もう十分に回転数が上がった脳はしっかりと必要な情報を送ってくるようになった。
 時刻は5時10分前。恐ろしく早い時間だが、理由があって、マリアはこの時間に起床する。
 いい夢・・・だったのだろうか。
 目覚めはすごくいい。いい夢を見た後のような、心地よい感情。ただ、夢の内容そのものには、冷静に考えて、不満がある。どうして、勇基なんかが夢に出てきたのだろう。昨日も、ほとんど破滅的と言ってしまっていいような派手な喧嘩をしてしまったというのに。
こんな夢を見ていると勇基が知ったら、彼はどう思うだろう。軽蔑するだろうか、それとも、嘲笑するだろうか。
 彼が好きなんていうことは、絶対に認めない。そう、絶対に。あんなに嘘つきで、軽薄で、それでいて軟派な男なんて。
 昨日の喧嘩の原因を思い出して、またちょっとムッとする。
 ただ、そう思った瞬間に、また夢の中の情景がフィードバックされる。
 勇基とキス・・・する夢。後少し、目覚めるのが遅ければ、もっといい思いができたのに・・・。
 せめて目覚ましが鳴るまで身体が寝ていてくれれば。
 本来あるはずだった感触を求めて、指が唇をまさぐる。
 顔を合わせたら素直になれない自分を慰めながら・・・。


“ザァァァァァァァァァ”
 朝起きて一番にするのは、まずはシャワーを浴びることだった。眠気を覚ますためというよりは、今日一日の活力を肌に持たせるため。寝ている間の汚れ・・というのは変かもしれないが、できるだけ綺麗にしておきたかった。
 朝5時に起きる理由。それはシャワーを使うためと言ってほとんどいい。なぜこんなに早く起きるのだろうか、この時間ならまだ誰も起きてなんかいないし、戒はもちろんのこと、勇基もそれほど早起きするタイプじゃない。
 この家に厄介になった頃はもう1時間ほど後に入っていたのだが、いつだったか、運悪く勇基が先にバスを使っていて、その・・・、間違って彼が使っているのに入ってしまったのだ。言い訳をさせてもらえば、とりあえず、籠の中が空だったのは確認した。しかし、彼がほとんど裸の状態でバスにやってくるなんて思いもよらなかった。パンツ一枚だけ穿いてここまでやってきて、脱いだものはそのまま洗濯機に。着替えも持ってこないらしく、裸の勇基と鉢合わせ。先客がいることに気が付いたのは、バスの扉を開けて、その、彼の後ろ姿を発見してからだった。
 不幸は重なるもので、私が入った音に気が付いて、彼が不用意に後ろを振り返った。そう、その、彼が振り返ったおかげで・・彼の・・あれ・・・・を見てしまったのだ。それだけじゃない。タオルも何も用意してなかったし、突然のことに驚いて硬直してしまったために、私の裸も彼に見られてしまったのだ。
 すごく恥ずかしかった。瞬間湯沸かし器顔負けの速度で耳の先まで顔を真っ赤にしたのが自分でもよくわかった。ただ、それは不慮の事故と考えてもいい。私の不注意だったのだから。すぐに彼が恥じ入って目を逸らすなり、慌ててバスから逃げるなりしてくれれば私としても犬に噛まれたとでも思って諦め、彼を許したのに。あろうことか、彼はそれらの行為の全てをせず、さらに、その・・彼の大事な部分を隠す素振りさえせず、笑顔でこう言ったのだった。
「なに?背中でも流してくれるの?」
“ばっちーん!”
 光よりも早く彼の頬に平手打ちを決めると、そのままの勢いで踵を返してバスを出た。バタンとドアが壊れるほど激しく閉めて、走って自分の部屋に戻った。もちろん、途中で手早く自分の服は回収したが。
 しかし、その後が大変だった。その日中、勇基の機嫌は最悪だったし、私も一言も口をきくつもりがなかった。それがさらに彼にとって気にくわなかったらしく、「オレは少しも悪くねー」とか、「勝手に間違えた方がわりぃに決まってるだろ」とか、あげくの果てには「あーあー、オレが悪かったよ。そんなに大事な裸なら、今度から服来たまま風呂に入るんだな」などと。まったく、反省の色がなかった。
 というトラブルもあって、まだ誰も起きてないような時間にシャワーを使うようにしたのだった。
 それに、別に覗かれるとか、間違って誰かが入ってくるとか、自分が入ってしまうとかとはまったく別に、その、シャワーを使っているということに恥ずかしさを覚える。別に一人で使っている分にはいいのだが、少しでも外に気配なんかがあった時には。廊下でばったり会ってしまった時も、どうもバツが悪い感じがする。
 キュっと蛇口を閉めて、また一息つく。髪からぽたぽた落ちる水滴。肌を伝って落ちる雫。そのまま濡れたままでバスから出て、脱衣所に用意してあったバスローブに袖を通す。
 おろしたての布が多量の水を含んだ肌に触れる感触。しっとりと余分な水滴をしっとりとまとわりついて吸い取る。
 濡れた髪はそのままにして、タオルだけを被せて、自分の部屋に戻る。バスルームのドアを、音を立てずに開けて、恐る恐る廊下の様子を覗く。当たり前のことだが、誰もいない。
 それをしっかりと確かめて、静かにスリッパを履く。誰にも出会わないことを祈りながら、足早に自分の部屋に戻った。


 5時40分。
 シャワーを浴びて、部屋に戻り、髪をしっかり乾かして、普段着に着替える。イロイロとしていると、朝なんてすぐに時間が経ってしまう。そろそろ朝食の支度をしなければならないのだから、もうちょっと早く起きるべきだろうかと思う。
 篤川家のルールでは、朝食は当番制だった。勇基が極端に帰りが遅いときだけ、手のあいた人が作ることになっている。今日は・・・戒の担当の日だった。
 そこまで考えて、今日の篤川家のちょっとした違いに気づく。
 そうだった、昨日から、明日香と戒がいないのだった。ちょうど1週間くらい前のことだったか、一枚の手紙が明日香宛に届けられた。差出人はジュマ=ダルヴァザルク。いかにも高そうな外装の封筒に入っていたのは一枚の厚紙。書かれていたのは招待状という文字。それに続く文章からすると、すごく解りづらいのだが、どうも何かのパーティの招待状だった。それも、二泊三日というやたら豪勢なパーティ。招待主の本心では明日香だけを招きたいようだったのだが、とりあえず、名目上は勇基と戒へ護衛を伝えていた。
「マイ、スウィートハニー、明日香。ちゃんとこの手紙が君の下に届いているかな。誰とは言わないけど、僕と明日香の恋仲を快く思わないヤツがいるみたいだし。まぁ、いいや。どうせ勇基にも用事があるわけだしね。さっそくだけど、今度、僕のパーティをするんだ。長年、研究していた自立歩行型ロボットのAIシステム。それに使うマイクロ端子に接続するスーパー動力炉、簡単に言えば核融合の技術を応用しているんだけど、それをわずかサイコロキャラメルくらいの大きさで実現するのは大変だったんだよ。肝になるのは限られたスペースと出力で安定してエネルギーを得るための炉に使う素材とその組み合わせなんだけど、それがまたすごく難しいんだ。どれくらい難しいかっていうと、天才の僕じゃないと誰も実現できなかっただろうね。それに、動力炉だけじゃないんだ。そのマイクロ端子も僕の発明なんだよ。こちらは技術としてはスーパー動力炉ほどすごくないんだけど、わずか1ナノミクロの基盤の上に集積された超ナノコンピュータの配列が芸術的に美しいんだ。この設計図はね、明日香、君と初めて出会った時の感動を表現しているんだよ。なんとかかんとか」
 以下、延々とよくわからない言葉が続いている。もしかしたら、愛の語りだったのかもしれないが、専門用語というか、彼の表現の特殊性と言うのだろうか、賞賛されている明日香本人はもちろん、手紙を読み上げる勇基の方も、手紙の中身がよくわかっていないようだった。
「・・・というわけで、僕のパーティの凄さがわかったでしょ。今回のパーティにはね、各界の著名人も数多く集まるんだよ。僕の尊敬する科学者も来てくれるっていっているし。12企業のお偉いさんも来てくれるとか。それでさ、明日香、君にも僕を祝ってほしいんだ。美味しい料理もいっぱいあるし、綺麗なドレスを着ておいでよ。もちろん、勇基も一緒で構わないから。でも、それだけの理由じゃちょっと来にくいかな。そうだ、勇基、また僕の護衛をしてほしいんだ。パーティには要人もいっぱい来るし、その警護だけでもけっこうな人数をかけているんだけど、また最近、どうも僕の周りで不穏な気配というか、まぁ、僕の頭脳を狙おうと考えている奴らがいっぱいいるのはわかるんだけどさ、迷惑なんだよね。というわけで正式に、また僕の警護を依頼したいんだ。これなら、来てくれるでしょ?条件なんかはそっちの言い値でかまわないから。是非来てくれることを願っているよ」
 言い値(?)という言葉に惑わされて、普段ならNGを出す勇基が喜々として二つ返事をする。勇基の目にはお金マークが正直に書かれていたが、まぁ、誰も非難できないのかもしれない。なにせ戒にマリアにと、しゅっちゅう喧嘩をして家屋を破壊しまくっている。もちろん、明日香も大奮闘だ。
「というわけだ。明日香に・・番犬として戒で充分だよな。オレは今回、パスな」
 だが、次の言葉を聞いて、明日香はもちろん、戒も驚く。絶対に明日香を目の届かない場所に連れて行くなんて反対しそうなものだが・・。それに、杞憂だろうが、若干ながらも危険が存在する。戒は戒で思惑がありそうなのだが、必死に勇基に一緒に来ることを説いていた。ただ、その返事は素っ気ないもので、
「別に危険はないだろ?お前がついているんだし。要人が集まるパーティなんて、テロの格好の標的・・なんて甘いんだよ。警備は人一倍厳しいし、敵も味方も一緒に吹っ飛ばす馬鹿はそうはいねぇよ。というわけでだな、お前は飼い主に不用意に近づこうとする馬鹿に吠えて噛みつきゃいいの」
 などと言って、まったく取り合わなかった。
 というわけで、今、この家にいるのは、勇基とマリアだけだった。
 ・・・・・・もしかして。
 戻って、今日は戒が当番の日だった。しかし、その戒は、明日香と一緒にジュマの所に行っている。勇基か私が料理を作らなければならないことは明白だ。恐らく、何もしなければ勇基が作ってくれるのだろうけれど、さてどうしようかと一考する。
 してあげたとしても、いいかもしれない。
 お世話になっているわけだし、昨晩も勇基は帰りが遅かったのだ。戒はいないものの、仕事をしないわけにはいかないらしい。納期が迫っている依頼がいくつもあるそうだ。
 きっと、クタクタになって帰ってきたのではないだろうか。
 ・・・・作ってあげようかしら。
 今日は夢のおかげかか、ちょっと気分がいいし、別にそれをしない理由はないようにも思える。ご飯を作ってあげたら、勇基は喜ぶだろうか。その顔を見るのは、すごく好きな気がする。
 そうと決まれば行動は早かった。いそいそとキッチンへ向かって移動する。エプロンはキッチンのところにそれぞれ専用のものがある。さっと装着して、鼻歌まじりに包丁を手に持った。


「ふわぁ〜ぁ」
 勇基は大きく欠伸をして、キッチンに降りてきた。
 昨晩は深夜まで仕事が長引いてしまった。どうしてかと言えば、今ここで説明する時間も気力もない。とりあえず疲労はほとんど抜けたのだが、それでもまだ肩の辺りがかったるい気がする。
 あー、メシ、メシ・・・・。
 育ち盛り(?)なのでもうお腹がぎゅーぎゅー言っていた。そういえば、昨日の晩から何も食べていないような気がする。
 はふ〜、戒のヤツ、また精進料理みたいなの出すんじゃねーだろうな。
 勇基の見立てでは、戒の料理の腕は中の中といったところだった。ごくごく普通の腕である。美味くはないが、不味くもない。どこにでもあるありふれた味というよりは、料理の教科書通りといったところで、ぜんぜん味気がない。
 そこまでたどり着いて、ようやく勇基も戒が不在だということに気が付いた。
 くぁ〜っ、ジュマの誘いなんかに乗らなきゃよかったかな。まぁ、オレも一緒に行ければよかったんだが・・・。なぁ、そうもいかないわけが今、オレの家にはあるわけで。
 ちらっとマリアを見た時の表情を思い出す。
 明らかに、アレはオレの意味深な視線を感じてない表情だった。
 あ〜あ、もうちょっとしおらしくしていてくれりゃ、いい女なのによ。
 まさか殊勝にもメシなんて作ってくれてないかなと夢にも思わず、勇基はひとりごちた。
 だが、一階の廊下に降りてきたところで、どこからか漂う、味噌の芳しい香りがした。
 みそ汁・・・だなぁ。ああ、旨そうだ。
 夢か幻か、と思いながら、勇基はさらにお腹を鳴らす。だが、幻は匂いばかりでなく、音となって勇基の耳に聞えてきた。
“トントントン・・・・・”
 定期的に何かを刻む音。まな板に包丁が当たる音。素早く、しかし正確に刻む旋律は、料理のプロを自認する勇基をよりいっそう心地よくさせる。
 鼻ばっかりか、耳までおかしくなってきたのか?
 現実では、これから、かったるいメシ作りなんかをしなければならないはずだった。それも、きっとまだぐーすか寝ているマリアの分も。
 どうも、理不尽な気がする。
 そうだ、戒を番犬として明日香に付けるんじゃなくて、オレがいけばよかたんじゃねーか?とりあえずジュマは五月蝿そうだが、んまいメシだけは腹一杯食べられそうだ。
 だが、その考えは、即座に無謀であると気づかされる。マリアと戒を一緒に家に残していたら、きっと帰ってきた時には、もう愛すべき我が家は影も形もなくなっているに違いない。文字通り跡形もなくなった空き地の前で、マリアと戒が二人とも、恥ずかしそうにオレに弁解する。「ごめん・・・」なんて。まったくもって、悪夢でしかない。
 実はマリアも一緒に連れて行けばまったく問題ないのかもしれなかったが、マリアとジュマは面識はないし、それにパーティにはクローフなどの連中も来るのだろう。厄介ごとが起らないとは思うが、クローフとゲリラ、そしてマリアとの関係を考えると、リスクは出来る限り減らした方がいいのは言うまでもない。
 さて、気合いを入れてちゃっちゃと作っちゃいますか。そう思ってドアをガチャッと開けると、部屋に入ってきた勇基に気づいたマリアが振り向いて一言「おはよう」と言った。それはいつもの素っ気ないマリアの挨拶ではあったのだが、エプロンをつけて朝食を作っているマリアは、先ほどの勇基の想像とのギャップもあいまって、すごくドキッとさせてくれた。
「・・・あ、ああ。・・・おはよう・・・・・・」
 生返事になったことはとりあえず置いておいて、勇基は椅子の所にかかっていた朝刊を手に取り、ざっと一面の記事を見ながら、席に着いた。
「勇基、トーストでパンを焼いておいて」
 今度は振り返りもせず、背中を向けたままマリアが言ってくる。勇基はちらっとその後ろ姿を見て、テーブルの上に置いてある食パンに視線を戻し、おもむろに手にとって、包装をパンと開けた。
「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
「コーチャ」
 なんとなく、新婚みたいな感じだな、と、ふと思う。そしてすぐに何寝ぼけたこと言っているんだ、オレ?と、打ち消す。頭の中で理性と本能との葛藤を繰り広げていると、そんな勇基の大忙しぶりを尻目に、マリアがいつもの冷静な表情で勇基のお茶を持ってきた。
「・・サンキュ・・・・・」
 間近に見たマリアは勇基の想像以上に色っぽく見え、不覚にも頬を少し赤くしてしまった。
「もうすぐできるから、もうちょっと待ってて」
 またキッチンに戻っていくマリアの後ろ姿に見とれながら、勇基は紅茶をすすった。
 これくらいしおらしくしてりゃ、いい女なのにな・・・。
 けっして口には出さずに、心の中でだけでつぶやく。
 褐色の肌、銀色の綺麗な髪、はっきりとした大きな瞳。顔立ちは、辛口な勇基が見ても十二分に太鼓判を押せる。それに通った目鼻立ちと、褐色の肌によく似合う薄ピンクの唇、男なら誰でも憧れる(?)豊満なバストにすらっと長い手足。美しさだけでなく、色気の面でもトップレベルだと思われる。そんな女性と一つ屋根の下に暮らしていたのなら、なんら“間違い”が起っても不思議ではない。
 なんだか理性が知ったら怒りそうなことばかりを想像しているのが恥ずかしくなって、急に勇基は新聞の経済欄でも読み始めた。
 それからどれくらい経っただろう。いつの間にか食卓の上にはきっちりと朝食が並び、マリアもたった今、目の前の席に着いたところだった。
 マッシュポテトにベーコンに、あとはトマトとかのサラダに、ジャムとチーズ、野菜のコンソメスープか・・・。
 朝食というものがそれほどバリエーションに富んだものでないことを知っているが、マリアの作る朝食は、よく考えられていると思う。野菜が多いようにも思えるが、しかし、同じ野菜はどこの皿にも乗っていない。生野菜から温野菜、さらには食物繊維にビタミンミネラルカルシウムに、さらにはベーターカロチン、リコピンとしっかりとバランスが取れている。自分なら、こんなに豊富な種類を作らないし、とりあえず腹に溜まればいいとさえ、乱暴だが思わないでもない。(もちろん、作るからには見栄えは重視するのだが)
 とりあえず、「いただきます」と簡単に言って、さっそく口の中に放り込んでみる。
「もぐもぐもぐ・・・・」
 ・・・・・・・。
 やはりというか、想像通りというか、塩が足りない。
 戒の軍隊仕込みの味も素っ気も楽しみもないマニュアル通りの料理に比べて、マリアの料理は美味しいものだった。愛情というのは憚られるかもしれないが、丹念にしっかりと気持ちを込めて作ったものだというのが、一口でわかる。だが、それにしても、もうひと味足りないのは残念だ。じーさんの料理を作っていたせいか知らないが、塩が控えめである。あと少し、本当に微妙なさじ加減なのだが、塩をぱらぱらっと入れれば味がぐっとしまるのに・・。あまりにも口当たりが優しすぎて、こう、食べるものに主張してくるものに欠けるのだ。もちろん、その“愛情”は伝わってくるのだが。
 ちなみに、間違っても明日香が作るものと比べちゃいけない。あれはもはや人間が食べるものじゃない。日頃からうまいものを食わせているのに、どうしてあんな血の池地獄のような料理が作れるのか。間違いなく、“愛情”が空回りしているのだろう。
「ごちそーさん」
 と、妙な料理番組みたいな解説をしているうちに自分の分は食べ尽くしてしまった。マリアの皿にはまだわずかながら料理が残っている。自分の分を食べてもまだ少し空腹感を感じた勇基は食卓に常時置いてある果物・・・バナナを取って、皮をむき、頬張り始める。
「そういえばよ、お前は今日はどうするんだ?明日香もいないし、別にすることないだろ?で、だな。おほん。もしよかったら・・・一緒に映画でも見に行かないか?」


 部屋に戻ってから、マリアは鏡越しに幸せそうな自分を見た。
 あれから、勇基はすぐに部屋に戻り、私は一人で朝食の後かたづけをした。
 鼻歌まじりに食器を洗いながら、勇基の表情を思い出した。
 こちらが断るとは夢にも思わない高圧的な口調なのに、語尾に少しだけ気恥ずかしそうな雰囲気が詰まる。あの、ちょっぴり赤い顔。ちょっと斜め上の方を見て話すのがなんとも可愛らしい。
「映画を見に行かないか?」
 つまり、デートの誘いなのだろう。明日香と戒が楽しんでいるのに、私だけが留守番というのを悪く思ったのか、映画の後にホテルでディナーまで打診してきた。もちろん、私の返事は一つしかなかった。
 ただ、部屋に戻ってみて、ある深刻で急を要する問題を思い出した。ホテルに行きたくても、着の身着のままでゲリラから抜け出してきたため、ドレスなんていうものは持っていなかった。さすがにどうしようかと困り果てていると、ベッドの上に部屋を出るときには無かった、ご丁寧にリボンでラッピングした大きな白い箱が置いてあった。
 なにかしら・・・。と、不審気味に箱の様子を近づいてみると、表面にメッセージカードがついていた。
「もしよかったらこれを着てきてほしい・・。勇基」
 中身は想像に違わず、黒を基調とした落ち着いた赤いドレスが入っていた。
 思わず、あまりにも嬉しくて新品のドレスを抱きしめたくなる。
 こういう繊細な心遣いは、普段の横柄な彼の態度からはちょっと想像もつかないかもしれない。それでも、本当の姿はそうなのだと思うと、ちょっぴり見直したくなる。
今は化粧台の鏡の前で、幸せそうな自分の姿を楽しんでいた。
 あまり嬉しそうにしているのは勇基にどう映るのだろうか。
 ひとつひとつ応答するように、鏡の中の自分を変身させていく。
 頬に、額に、眉に、睫に。
 そこに現れているのは恋する女性そのものだった。
 あまり露骨にお化粧をするのは、勇基が嫌うのではないだろうか。
 ニッと微笑んでみたり、キッと眉宇を引き締めてみたり。
 少し油断するだけで自然と顔がにやけてしまう自分がちょっと恥ずかしい。
 下心がミエミエだろうか。それとも、「綺麗だ」って言ってくれるだろうか。
 納得するまで“自分”を作り上げていく。
 実際に、作っては崩し、崩しては作るを繰り返していた。
 ようやく決まったかと思ったメイクが、ドレスには似合わないと気づかされたり、地味になりすぎたり、逆に派手になりすぎたり。せっかく作った下地が後になってからイメージにそぐわないと気づかされたり。
 ドレスはちょっと胸のあいたデザインになっている。それを隠すためのネックレスも選ぶのに苦労した。結局はシンプルな金のネックレスにしたのだけれど。
 ただ、そうやって“準備”をするのが、何よりも楽しかった。
 結局、全てが決まった後になって、姿見の鏡の前で最後の点検をする。くるっと一回りをして、鏡に向かって可愛く微笑んでみる。ちょっと無理をした笑顔な気もする。明日香のような無邪気な笑顔を見せられたなら・・。
 しかし、こうもサイズがぴったりなドレスというのはいかがなものなのだろう。胸はもちろん、ウエストもヒップもジャストサイズだった。まるで採寸して作ったかのようなフィット感なのだ。勇基は私の詳細なサイズを知らないはずだったのだけれども・・・。
 細かいことは置いておいて、全ての準備をおえたマリアは勇基の待つリビングに歩き出した。

「遅い!遅い、遅い、遅い、遅い・・・・・」
 勇基は時計を睨みつけながら、「遅い」を連発していた。
「ったく、女っていうのはどうしてこう、便所とか近所に出掛けるだけでもクソみたいに時間がかかるんだ?」
 だから嫌いなんだとはさすがに言わないが、もうちっと早くしてくれと思う。なにせドレスのサイズはぴったりなはずだし、化粧といったって下地がいいんだからちょちょいっと済ませたっていいじゃねーか、と。
 ちなみにドレスのサイズがぴったりなのは、陸生の“才能”のおかげだった。それを知ったのは陸生が明日香のスリーサイズをぴったり当てたからだったのだが。ちなみにその陸生に、マリアのサイズを教えてほしいと頼んだ時には、このように言って茶化された。
「なに?ついに聖女様に告白する度胸がついたのか?そうか、そうか、お前がなぁ。しかし、マリアって処女だろ?ちゃんと痛くないように優しくしてやれよー。しかし、処女かぁ。いい響きだよなぁ。オレも処女の子に男女の営みの素晴らしさを教えてやりてー!」
 ふざけたことぬかすな、と勇基が陸生に蹴りを入れる。陸生は蹴られた背中をさすりながら、懲りずにこう言う。
「知り合いにいいやつを手に入れてもらってやるよ。期日は・・・明後日だっけか?まぁ、それくらいにはなんとか・・。そうそ、勇基、ちゃんとコンドーム使うんだぞ。いくらナマが気持ちいいからって、ソトダシは避妊じゃねーんだからよ♪まぁ、いきなり出来ちゃった結婚も悪くないけどさ。赤ちゃんが出来たらちゃんと顔見せに来いよ〜」
「勝手にほざいてろ!」
 悪態だけをついて、バタンと勇基はドアを閉めて陸生の家を後にする。
 今思い出しても、赤くなる。
 映画の後にはホテルでディナー。もちろん、お酒なんかも飲んだりして、その後はそのままホテルで一夜を過ごす?
 やっぱり、ホテルっていうのはちょっと下心が丸見えだろうか?
 って、オレはそんなつもりじゃねー!
 慌てて否定する。
 そう、あくまでも明日香と戒がパーティを楽しんでいるというのに、マリアだけ何もなしっていうのは可哀相だと思ったから。それ以上でもそれ以下でもないのだと断言する。
 まぁ、マリアからそれを望んだらしてやらないでもないけれど。
 そんなことを陸生が聞いたら、「まぁ、無理しちゃって」と言うのだろう。それを完璧に否定できないから、ちょっと癪だ。
 さて、どんなデートになるのだろう・・・・。


 デートは不慮の事故もトラブルもなく、平穏無事に予定をこなしていった。映画は今話題のラブストトーリーものは勇基自身もなかなか満足したものだったし、その後のケーキでお茶というのも、なかなかよかった。今はまださすがにタキシードとドレスで道を歩いてはさすがにない。ディナーの時にだけ必要なわけで、ホテルで着替えるために荷物は先に送っておいた。もちろん、今は普段着なんかじゃなく、ちょっとだけオシャレをした恰好をしている。
 マリアは終始、ご機嫌のようだった。無邪気に笑う一瞬がなんて可愛いのだろう。ずっとこんな顔をしていればいいのに。そう思わないでもない。
 時計の針が5時を指そうとしている頃、勇基はそろそろ頃合いだなと考え、マリアにホテルへ行くことを告げた。
 今日のメインイベントを迎えるという期待、返して、これで楽しい一日の大半が過ぎてしまったことを悟った哀愁、そして小さじ少々ほどの未知なる夜の“お約束”への憧れ。それらが混じった複雑な表情は、その構成要素の全てを勇基が悟り得なかったが、夕日に照らされたそのモニュメントは、これ以上ない美というものを表現していて、わずか刹那ではあるが、マリアに見とれて口をぽかんと開けてしまった。
 実を言えば、勇基が選んだホテルというのは、ガルドではもっとも格調高いホテルとして有名なところだった。もちろん、ガルドレベルでは・・なんていう意見もあるのだろうが、百聞は一見にしかず、そういう偏見を持っているのなら、そのホテルに宿泊することをオススメする。ある意味で非常にガルドらしくない、他の一流ホテルと比べても何の遜色もない、いや、そのホテルが抱えているシェフは本場フランスの三つ星級のホテルのものだった。
 お値段もべらぼうに高いわけではあるが、勇基が選んだのはただのディナーではなかった。主催者がどんな人なのかはわからなかったが、正規のルートで手に入れるとしたら常識を疑うような値段の付くパーティ券を手に入れたのだった。今日はそのパーティでホテルがほぼ貸し切りらしく、周りを見回すといかにも上流階級の紳士淑女の面々と、テレビで見たことがありそうな政治家やら企業のトップやらがちらほら見える。もちろん、金持ちのおっさん、おばさんばかりでなく、勇基くらいの年齢の青年実業家風の男や、妙齢の女性なんかもけっこういる。まだ正装に着替えていない勇基たちは非常に浮いて見えるが、年齢的に場違いというほどでもなかった。
 ホテルの自動ドアから一歩踏み込むと、風のような速さで40代くらいの、そこそこ偉そうなホテルの人が飛んでくる。一瞬、笑顔で追い出されるのではないかとマリアが思ったのだが、さすがに違った。そのホテルの人はホテルの尊厳を失わない程度に腰を低くして「勇基=篤川様ですね?お部屋にお召し物をお運びいたしております。どうぞ、こちらに」と言って、そのまま先導してくれる。
 エレベーターに乗って、5階に案内される。部屋の前で勇基は引換証のようなものを見せ、一緒にチップも渡す。ホテルの人は笑顔で受け取ると、部屋の扉をあけ、キーを勇基に手渡し、いくつかの連絡事項を告げた。勇基はそれに頷いていたが、マリアは内容をよく覚えていなかった。
 勇基に促されて部屋の中に入ると、3LDKのアパートのような広さである。いくつものドアがあり、クロゼットやトイレの分を差し引いてもまだドアが多い気がする。マリアは同じ部屋で着替えるなんて・・・とちょっと心配していたのだが、すぐに勇基から「えっと、オレはこっちの部屋にすっから。お前はそっちな」と教えられた。
 後になって知ったのだが、この部屋はホテルで真ん中くらいのランクの部屋らしい。ではスイートなんてどんな調度なのだろうと見てみたくなる。そこはまるで王侯貴族が暮らしていたかのようなものなのではないだろうか。それは当たらずとも遠からずと言うくらい近似していたが、ここでは別の話だ。
 荷物を持って、個室に入る。その部屋も、十分な広さを持っていた。寝室のようなのだが、マリアが普段使っている部屋よりもそこは広い。テレビにクロゼット、まるで重役が使うような高級感があり、広々とした机、鏡台とは別に姿見の鏡もある。軽い見立てでも10万は下らないのではないかと思う絵画まで飾られていた。元々、ホテルだからそれほど家具があるわけではないのだが、それでも普通に暮らしていく分には申し分がないし、不必要と言えるくらい広々としていた。
 部屋のほぼ中央にあるベッドに荷物を置いて、ふ〜と一息をつく。
 ベッドもご多分に漏れず、ダブルベッドだった。スプリングも柔らかいものだったし、生地も中の羽毛もよいものを使っている。
 ホテル、と聞いてマリアは少し戸惑いがあった、もし、ダブルベッドに枕が二つ・・なんてなっていたりしたら。宿泊の話は聞いていないが、明日香が帰ってくるのは明日の夕方頃の予定だった、その・・・誘うためにディナーを餌に男がしないとはけっして言い切れない。確かに勇基は信頼のおける男性ではあるが、それでも勇基は年頃の男なのだから。
 それでも、こういう状況なら、家とほとんど変わらないのだとほっとする。襲おうと思えば不可能ではないのだろうけれど、しようと思えばいつだってできたはずだ。
 さっとドレスを出して、シャツのボタンをはずしはじめる。


 勇基はきっちりとタキシードに着替え終え、リビングに相当する場所でマリアが出てくるのを待った。
 マリアは、今度は比較的早く現れた。ドアが静かに開け放たれ、中からゆっくりと、ドレスを身にまとったマリアが、ちょっと恥ずかしそうに出てくる。天鵞絨の絨毯の上にひらひらとガーネット色のドレスの裾が舞う。厳かな、しとやかな彼女の姿を見て、聖女というものに初めて出会ったような錯覚に、勇基は陥った。
 だが、正面を見た瞬間に、勇基はその考えを改めさせられる。神聖な聖女様は、なんと言うべきか、エロスの象徴、美の女神のように見える。つまり、その、胸元が大きく開いているドレスだったのだ。マリアの柔らかそうな曲線が否応にも視界に飛び込む。直視していいものやら目を逸らすべきものなのやら、とにかく、真っ赤になって、そっぽを向いた。
「え・・・おほん・・・。き、綺麗・・・だな・・・・」
 それがお世辞でもなんでもないことは、勇基の姿を見れば一目瞭然だった。何かまたイヤミ、たとえば、「馬子にも衣装だな」なんて言われるとか思っていたマリアは、勇基のその恥ずかしがっている様子を見て、嬉しくなる。正直に言って、派手すぎるというか、ちょっと露出が多すぎる気がしていたのだ。こんなのを着ているのは勘違いした馬鹿か娼婦しかいないように思えていたのだから。それでも、気に入ってくれたとしたら(実際には勇基がドレスを選んだのだが)、それまでのちょっと後ろめたい気持ちが消えてなくなる。
「さぁ、行きましょう♪もう始まっちゃうわよ」
 ぐっと勇基の腕を勇基を促す。
 腕に胸の感触を感じた勇基はより一層、顔を赤くしているような気がした。

 勇基とマリアが腕を組んで会場に入った時、明らかに彼らを意識したどよめきが起る。どんな美男、美女のカップルでさえも、一瞬、ハッとせざるをえないものを持っていた。もちろん、視線のほとんどがマリアに対して向けられたものだった。「おい、どこのお嬢さんだ?」「うっひゃー、綺麗だねぇ」「うちの嫁さんもあれくらい美人だったらなぁ」「私の息子の嫁にほしいくらいじゃわい」「一緒に踊ってくれないかなぁ」「ちょっと声をかけてみようか」「キーっ、デレデレしちゃって!あたしの方が美人じゃない」「あの隣にいるのは弟だよな」「うんうん、ちょっと顔が似てないけどねぇ。あんな美女が相手にするわけないじゃん」などなど。一部でちょっと違う意見もあるようなのだが。
 もちろん、勇基の方も成熟した女性を中心に幅広く人気があるようだった。どこか野生と冒険心を感じさせる風貌。こういうパーティに集まるのは落ち着いた感のあるおっさん(それも十分、ダンディで魅力的なのだが)や金持ちのボンボンばかりで、一言で言ってしまえば型にはまっていて面白味がまったくない。甘いケーキもいいけれど、ちょっと辛めの南国料理もたまには食べてきたいというところだろうか。
 そんなギャラリーのことは関係なく、勇基とマリアはボーイのトレイに乗っているシャンペンを受け取って、口を付けた。
「本来は一般販売されてるパーティじゃないんだよ。ほら、あっちに頭のてっぺんが禿げあがったおっさんがいるだろ?スーツケースを大切に抱えてる、両方の指にギンギラギンと指輪をつけまくってるやつだ。そいつがこのパーティの主催者でな。そのおっさんの会社の新製品のお披露目と業績躍進を祝うっていうのが主旨なんだよ」
 10人くらいの男女に取り囲まれている、もうだいぶお酒が入っていて、顔を茹で蛸のように赤くしている中年の男性。取り巻きなのか、金目当てで近づいているのかは判別付かないが、楽しそうに談笑し、時折、その輪の中に入っている女性のお尻なんかを触っては嬉しそうな顔をしていた。
「んで、チケットの方はある筋から手に入れてね。本来は関係者しかいないはずだから、とりあえずあまり目立つことはしないでくれよ」
 勇基が耳元でささやいた。マリアとしても、目立つつもりもないので静かに頷く。とりあえず手近のテーブルに勇基と一緒について、お酒と料理を楽しむことにした。
 テーブルに乗っている料理は、フランス料理を日本風にアレンジしたもので、フランス料理で使う食材をベースに、日本料理的な見る楽しさがそこにある。わび、さびと言うのだろうか、料理全体で日本の屋敷や庭園、もちろん、その外の山河まで表現している。取り皿に肉・・おそらく、ラムか何かを移し、口に運ぶ。
 想像通りというか、見た目に負けないまろやかな味が口の中いっぱいに広がった。火の通し方といい、下ごしらえといい、ソースといい、どれもしっかりと出来上がっている。勇基の舌も十分満足したようで、どんな材料で、どんな調理法をしているのか探っているような表情だった。
「ん〜、うまいな。こっちのエビも良さそうだ。ちょっとそっちの白身の魚も取ってくれよ。ん?ちゃんと食べてるか?けっこう高いんだから、しっかりと食っておけよ」
 身体が資本と言わんばかりに、誰よりも勢いよく食べていた。さすがにその食欲にマリアも恥ずかしさを覚えるが、さりとて、別にすることがあるわけではない。周りの人も程度の差はあれ、同じテーブルを囲んでいる人と談笑しているか、お酒を飲んでいるか、何かを食べているかだった。同じテーブルを囲む人が時折、話しかけてくる。他愛もない世間話ではあったが、とりあえず頷き、また適当に話を発展さしてもいった。
 よく考えれば、パーティなんてこんなものなんだろう。お酒を飲んだり、豪勢な食事を食べたり、あとは今のように誰かと楽しそうに話すこと以外に別にすることはない。主催者の挨拶というのはもう終わってしまっているようだったし、ダンスパーティでもないわけで、踊ることもない。もちろん、誰かが歌い出す〜なんてこともあるわけがない。あるのはせいぜい、異性目当ての男女のアプローチくらい。そういう目的に人も何人かいるゆだった。あとは、仕事の話だとか。
「悪ぃ、ちょっとトイレに行ってくら」
 と、突然、勇基がテーブルを離れた。別段、なんということもなく、マリアは頷く。
 勇基と一緒に話したり、食事をしたりする以外に面白いことなんて何もないと理解してマリアはちょっと寂しい気分になる。
「いやぁ〜、これはこれは美しいお嬢さん、失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですかな?」
「!?」
 声をかけられたことにではなく、その声の主にマリアは驚いた。なぜなら、その人はこのパーティの主催者だったから。遠くから見た通り、いやそれ以上にお酒が入っているらしく、吐きかける息がとても臭う。キンキンギラギラとしているのは指だけでなく、上着やら耳やらとやたらと貴金属を身につけている。正直に下品な笑みを浮かべる主催者は、お金があるのだろうけれど、容姿といい、装飾品といい、豚に真珠ということわざを地でいっているかのようにさえ思える。
「えっ、ええ・・・・」
 マリアはどう答えていいものか戸惑いながら、しかし、肯定してしまったことに後悔する。
「そうかい、そうかい、やっぱりオジサンの方から名乗るのが礼儀だのぅ。ひっく。おじさんの名前はアレクサンドル=アーカイバル。お嬢さんにならアレックスって呼んでくれてもいいぞよ。それとも、アレがお気に入りかな?」
 なんとなく、頷く以外の選択肢がないような迫力がある。すごくイヤなことだった。
「マリア・・・です」
「ひょ〜、マリアちゃんとな。可愛い名前じゃのぅ。どれどれ、名前だけじゃなく、身体も可愛いかのぃ?」
「ひゃっ!」
 お尻のあたりがぞわぞわっとする。つまり、その、アレクサンドル氏はいきなりマリアのお尻を撫でたのだった。いつもの情景反射で、マリアはアレクサンドルをキッと睨みつける。だが、その視線に気づいていないのか、それともわかっていてやっているのか、アレクサンドル氏はいっこうにマリアのお尻から手を離そうとせず、それどころか愛でるように執拗になで回すのだった。
「う・・・くっ・・・」
 はっ倒そうという衝動にかられるが、マリアは必死に抑制する。勇基の言った「目立つことはしないでくれ」という言葉が脳裏に浮かんでくる。ここで騒ぎを起こすのは、勇基に迷惑をかける。気持ち悪いのを我慢して、必死に嵐が過ぎるのを待った。
 抵抗しないことに気をよくしたのか、いや、地なのだろう、アレクサンドルは卑猥な笑みを浮かべてマリアのお尻を撫で続けた。感触を楽しむように強弱をつけてまさぐる。視線はマリアの屈辱を我慢している顔と、大きく開いた胸元を行ったり来たりしていた。触られるだけでなく、やらしい目つきで胸を見られるのも耐えられなかった。
(もう、勇基!早く帰ってきて・・・。)
 涙が目尻に浮かんだ瞬間、アレクサンドルの身体が不意にぐらっと揺れると、そのままバランスを失って床に倒れる。それはおかしなことだったが、どうしてそんなことになったのか、すぐに理解できた。なぜなら・・・、
「待たせて悪かった。大丈夫・・・か?」
「勇基!!」
 思わず、マリアは勇基の胸に飛び込んだ。「おおっと」と勇基は一瞬、ぐらつくが、しっかりとマリアを受け止めて、まるであやすようににっこりと微笑んだ。このまま物語だったらキスシーンに突入するのかもしれないが、周りの状況がそれを許さなかった。
 つまり、勇基が蹴り倒した男はこのパーティのVIP中のVIPなのだ。蹴倒されたことによってすぐに辺りがざわつきはじめ、アレクサンドルの警備係がこちらに飛んでくるようだったのだ。
「まずい・・・な。逃げるぞっ」
 勇基は目の前にいた紳士を突き飛ばして、退路を確保した。マリアも勇基に続く。
 勇基の手はしっかりとマリアの手を握っている。
 警備係3人が行く手を阻んだが、一人に勇基は体当たりをし、もう一人はフェイントを混ぜて取り押さえようとしてくる腕をかわす。最後の一人と一瞬目が合い、にこっと微笑んで相手を油断させてから、おもいきって踵落としを食らわせた。
 先にあしらった二人もすぐに後から追いかけてきたし、会場内の至る所に配備されていた警備班が集まってくる。速く逃げなければ、多勢に無勢ほおを、捕縛される可能性が非常に高い。
 追ってきた二人を今度は正面から蹴り倒し、勇基はマリアを見た。
 マリアの方は、さすがはゲリラというべきか、能力者というべきなのか、戦闘能力だけなら勇基と互角以上のものを持っている。ここから逃走するときに明日香みたいに転んだり捕まったりというドジは踏まないと思うが、さすがに・・・・。
 ちょっと考えてから、勇基はマリアにべったりと近づき、スカートの裾を集めてそのまま、マリアを抱え上げた。
「えっ、ちょ、勇基!?」
 いきなりお姫様だっこをされた方は、心の準備ができていなかったために激しく戸惑った。こんな緊迫している状況なのに不謹慎かも知れないが、マリアは頬を赤く染めて、抗議をする。
「頼むから暴れないでくれよ」
 マリアのドレス姿とヒールがあまりにも走りづらそうだと思った勇基は抗議を完璧に無視し、軽々とマリアを抱えて走り出した。
 こうなればもし警備班が前に立ちはだかれば、今度は蹴るなりかわすなり派手なアクションはできない。しかし、勇基はまるで一人で走っているかのように軽快に走り抜けると、包囲網が完成する前に会場からロビー、途中で全く関係ない一般人数人を吹き飛ばし、そしてホテルの前の長い階段を降りていった。
 階段を降り終えた勇基は、バイクなり自動車なりに乗り込めばいいのに、なぜかマリアを抱いたまま、そのまま道の彼方へ走り続けていった。
 追っ手を撒けたと気づいたのは、延々と3キロほど全力疾走し、ガルドの埠頭にたどり着いてからだった。

「あ〜、つかれた・・・・」
 つかれたの一言ではすまないくらい体力を使う行為だったのだが、勇基はマリアをそっと降ろしてから、両膝に手を当てて、激しく肩で呼吸をしていた。
「自業自得じゃない」
 ドレスに付いた埃を振り払いながらマリアは冷たく答えた。
「おいおい、そりゃねーだろよ・・・」
 まだ苦しそうに、勇基が受け答える。
 マリアの方は乗せてもらったにもかかわらず、勇基に感謝の素振りも表面上は見せずに、ドレスがどこか破けてたりしないかしきりに気にしていた。
「あ〜、でもさ、その・・・悪かったな。せっかくのパーティだったのに、途中で逃げなきゃならなくなるなんて」
 その謝罪の言葉はマリアにとってちょっと意外なものだった。助けられたのは自分だったのだし、トラブルを起こしては困るからといって見て見ぬふりをされるよりはよっぽどいい。というより、スッキリしたというのが本音なのだ。
「いいのよ、もう十分、楽しんだから。それに、だっこしてもらって、ちょ、っとだ、けいい思、いをした、わけ、だし・・・」
 最後の方は勇基に聞かれないように、消え入るような声でつぶやいた。
「あん、なんだって?」
 意地悪。聞き返すことないじゃないと思って、今度は声を荒げる。
「ありがとうっていってるの!」
 つくづく、素直になれない。それは勇基も一緒なのだが。
「へへっ、そっか。それに、気取ったパーティ会場にいるよか、こんな閑散とした埠頭なんかで黄昏れてる方がよっぽど似合いそうだしな」
「ちょっと、それどういう意味?」
「いや、別に悪い意味じゃねーよ。ただ、こっちの方が、より綺麗に見れ、る気がす、るってだけ、で・・・・・・・・・・・・」
 勇基も後半部分は聞き取れないように、ぶつぶつと変な所で言葉を切る。ただ、音量そのものは変わっていないので、何が言いたいのかはマリアにはきっちりと理解できた。
 月の明るい晩に、気持ちのいい潮風を受けて髪をなびかせているマリア。ドレスの裾がひらひらと舞い、寂しげな哀愁を漂わせる埠頭が彼女の幻想的な魅力をより一層引き立てる。
 それでも、二人が望めば、もっと素敵なことは今にもできるはずだったのに。
 いつの間にか二人は沈黙を守り、そして抱きしめるかのようにお互いが向き合って見つめ合った。
 勇基の、オレンジ色の尻尾が揺れる。
 それは遠いどこかで見た既視感。
 彼がゆっくりと微笑んで、そして長い睫が彼の瞳を覆った。
 ゆっくり、ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
 そしてもちろん、マリアも、ゆっくりと瞼を閉じ、その瞬間を待ちわびる。
 彼の身長に合わせるように、ちょっとだけ顎を上に向けて。
 ほとんど閉じかけた視界から、最後にその瞬間が間近に迫っていることを知らされた。
 ごくっと唾を飲み込んで、勇基の唇を迎え入れる瞬間を待った。
「お〜い、勇基ぃ〜!こんなところにいたのかよ」
 あと0.00001秒というところで、不謹慎な声が割ってはいる。もしこれが映画だとしたら、鬼監督の「カーァット、カット!誰だ!?せっかくのシーンを邪魔しおったやつあ!?」なんて怒鳴り声が聞えるはずである。慌てて二人はお互いが誤解されない適切な距離に離れて、そっぽを向きながら声の主が近くまで来るのを待った。
「あれ?もしかしてお楽しみ中だったのかな。そりゃ、悪いことしたな。
 しっかし、勇基よ。いきなりトラブル起こして逃げ出した時はどうなるかと思ったぜ。だが、仕事の方は大成功ってやつだな。な?言った通りだろ。あのスケベなおっさん、とびっきりの美人のケツを追いかけるためにゃ大事な書類もほったらかしにするってね」
 現れたのは、勇基の知り合いの、眼鏡をかけたちょっとやせ気味でひょろっとしている短髪の情報屋だった。そして、服装は普段の彼からは想像も付かない、タキシードなんか着ている。そして、確かパーティの主催者、アレクサンドルが大切に持っていた鞄と同じ鞄を持っていた。
「しーっ!おい、その話はあとだ、あと」
「おいおい、ツレナイこと言うなよ。報酬だって渡さにゃならねーしよ。ほらよ、これがお前の取り分な。すり替えた本物のケースに入っている書類は、明日にでもオレが依頼人に届けておくからよ」
 勇基の制止をまったく無視して、情報屋の彼がご機嫌そうに言う。そのおかげで、マリアもだいたい全ての事情が飲み込めてきた。
「それじゃ、確かに渡したからな。じゃ、お二人さん、あとはごゆっくりお楽しみでも堪能してくれよ」
 アディオスと投げキスをして、彼は去っていった。そして、彼が視界から消えてから、勇基が恐る恐る、マリアの様子を窺った。
 それは怒っているような、笑って許しているような、そんな複雑な表情だった。勇基は本能で、その表情が、これからとてつもなく恐ろしいことが起るのではないかと悟る。
「はは・・はははっ・・・」
 勇基は愛想笑いなんかしてみる。だが、それが破滅へのサインだったのは言うまでもない。マリアはにこっと微笑んでから、強烈な平手打ちを、勇基の頬に見舞った。
“バチーン!!!!!”
 これこそ自業自得と言わんばかりに勇基の頬に真っ赤な刻印が残った。
 マリアは文字通り風のようにずんずんと勇基を置いて去っていった。その後ろ姿に弁解の余地だとか、恩赦だとかいう文字が書かれていないのは、誰の目にも明白だった。


「くぁ〜っ、まだ腫れがひかねーじゃねーかよっ」
 虚しく一人で自宅に帰るハメになった勇基は、ベッドに座りながら姿見に映る自分の顔を見た。
 その顔は、男として非常に情けないものだと思う。
 くっきりと女性の手形が勇基の左頬に残っている。もう何時間も経つというのに、彼女の怒りがまだおさまっていないことを証明するかのように、勇基にヒリヒリとした痛みを覚えさせる。
「あの女、痕が一生残るようなノーリョクとか持ってるんじゃねーの?」
 不満をぶつけてみても、痛みが引くわけではない。即席の氷嚢をずっと頬に当てているのだが、熱は簡単に引きそうでなかった。
 確かに、仕事のことを言ってなかったのは、悪かったと勇基も認める。ターゲットのおっさんがスケベなのを知っていて、マリアに注意が行った隙に大事にしているケースをすり替えたのも、言い訳ができないと言えばできるわけもない。もちろん、そうなるようにけしかけたわけじゃないし、勇基自身は、この計画に半信半疑だった。そもそも、こちらからアプローチもしないのに、連れが離れた隙にのこのこと現れるなんて夢にも思わない。別に破廉恥な行為を働くなら、他の女だっていいのだから。勇基の見立てでも、マリアよりもっとおしとやかで可愛い女性がたくさんいた。マリアに鼻の下を伸ばして大事なスーツケースを手放すくらいなのだから、他の女性相手でも機会はあったのではないかと思う。その隙にオレかあいつがケースをそれとなく交換してしまえば御の字なのだ。それなのに。
 結局、パーティは途中退場(本当はアイツがケースを持ってバレないうちに逃げるはずだったのだ)、マリアとのアレも邪魔されてしまった。まったくもって、ツイてない。
「あ〜、もう考えるのやめやめ。さっさと寝よっと」
 勇基は痛みが引くのを諦めて、さっさと布団をかぶって寝てしまう。
 布団の中からひょいっと手が伸びて、照明のスイッチが消され、寝室に闇が訪れた。

「もう、まったく、ハラがたつ!」
 平手打ちを喰らわしたくらいじゃまったくおさまらないマリアは、自分の部屋で勇基をデフォルメした人形を殴った。ちなみにこの人形は、以前に明日香と一緒にこっそり作ったものだった。明日香は勇基人形ではなく、戒人形を持ってたりする。
 首根っこを捕まえて勇基人形を引き寄せると、マリアは勇基にではなく、身代わりの人形に今日のありとあらゆる不満をぶつけた。
「人をデートだと騙して仕事に利用するなんて最低っ!」
 そんなことも露知らずに、にこにことしていた自分にも腹が立つ。
 げしっ、ばしっと人形を殴る。本人にも強烈な平手打ちを喰らわしたのだが、それでおさまりがつくものじゃ到底、ない。
「しかもあんなことをさせるなんて・・・。ジロジロ変な目で見られて気持ち悪かったわよ。さらに勇基にもなんだか胸元とかちらちら見られていたし・・、なんで男ってスケベなのかしら!もう口も利いてやらないんだから」
 本当に?
 心の中のもう一人のマリアがそっと尋ねる。
「うっ・・・、少なくとも、アイツが謝るまで許さないんだから」
 もう一人のマリアは、怒っているマリアをなだめるように、コツコツとつついてくる。
 本気で平手打ちをして、それで償ったんじゃないの?
「そう・・だけど、でもっ、そんな簡単に許すほど、あたしは軽い女じゃないわ」
 彼のこと、許せないの?あなたがスケベオヤジにセクハラされているときに、助けてくれたじゃない。蹴倒した時、胸がすっとしたのは誰?彼が騒ぎを起こす必要なんてなかったじゃない。
「・・・でも、その時はまだ、騙されてるなんてわからなかったし」
 じゃあ、逃げるときにだっこしてくれたのはどうして?重いあなたを抱えて全速力で長い距離を走ってくれたのに、それでも彼のことを信じられないの?
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 せっかくのデートなんだし、明日になれば明日香たちも帰ってくるわよ。二人っきりになれるチャンスなんてないんだから、最後の夜を楽しんできなさい。
「そうね、今日はお世話になったんだし、お礼もしないとね」
 真っ赤な口紅を化粧箱から取り出して、ふふふっと不気味な笑みを浮かべる。
 楽しむ、お礼の意味がどうやら世間一般との解釈と違うような雰囲気なのだが、まぁ、そこはそれ。勇基を起こさないように忍び足で彼の寝室に向かった。


 勇基の部屋の前で、マリアは出来る限り音を立てないようにして、ドアに聞き耳を立てた。
「・・・・・・・・」
 中は静かだった。活発に行動していはいないということは間違いなくわかったが、単に大人しく寝転がっているだけかもしれない。普通の人ならば中の様子を確かめるのにドアを開けるしか方法がないが、マリアは幸い、能力者である。精神を集中して、ドアの中の様子を探ってみる。
 一瞬見えた映像は、勇基がお腹を出して熟睡している様子だった。
 これなら間違いない。
 ノックもせずに、そっとドアを開ける。
“きぃぃっ”
 さすがに、ドアの開閉時の音は完全になくすことはできなかった。音がたったことにびっくりするが、熟睡する勇基の耳に届くわけでもない。
 しっかりと今の音で目覚めていないことを確認してから、マリアはまた動き始める。
 ドアをパタンと閉めて、ゆっくり、ゆっくりと勇基の寝るベッドに近づいていく。
 透視した通りに、勇基はぐっすりと寝ていた。冬ではないとは言え、お腹を出して寝ているのはやはりどうなのかと思う。まるで子供のように寝ている勇基の枕元に、そっと腰を降ろした。
 こんなに近づいているのに、勇基は目を覚ます気配さえない。深夜に、魅力的な女性がパジャマ姿で殿方の寝室を訪問する。そんな重大なイベントが今、繰り広げられているというのに、勇基はまったく知らないで寝息をたてている。
 そんな無邪気な勇基が、ちょっとだけ可愛い。
 くすっと微笑んで、マリアは例のお礼する。
 手に持ってきた口紅をくいっと出して、おもむろに勇基の左側のほっぺに落書きをはじめる。
 いきなり目を覚まさないかとちょっとだけドキドキしながら、マリアはキスマークを描いていく。
 朝、勇基が洗面所で鏡を見た時、自分の頬に女性の唇がくっきりと刻印されていたとしたら、どうリアクションを起こすのだろう。慌てふためくのか、それとも、昨晩の記憶を必死に思い出そうとするのか。悔しがるのが、それとも、悪戯だと気づくのか。
 そんな彼を想像すると、無性に楽しくなる。
「おやすみなさい。風邪をひかないでね・・・」
 そっと毛布を勇基にかけてあげる。
 そして去ろうとしたとき、マリアはもっと大胆な“お礼”を思いつく。
 悪魔のような笑みを浮かべて、マリアは今思いついたとっておきの考えを実際に行動するべきなのかどうか考える。
 なんとも優越感に浸った瞬間である。勇基の運命が、今、自分の手の中にあるのだから。
 数秒ほど逡巡して、マリアは考えを実行することにした。
 勇基の顔を、手始めにのぞき込む。
 ごくっと息をのめば、後は早かった。
 ちょっとだけ顔を勇基に近づけて、勇基の唇と自分の唇をくっつける。
 触れるだけの、軽いものだった。
 それでも、勇基の柔らかい唇の感触が伝わってくる。
 1秒くらいだろうか、それだけの出会いをして、おもむろに出会った二人は別れを告げる。
 遙か頭上から勇基の顔を眺めて、マリアは少し心残り気味に踵を返す。
 ちょっぴりの感謝と、お礼の気持ち。
 朝、勇基が起きた時、マリアに悪戯されたことを気づいても、本当にキスされたとは、けっして気づかないのだ。
 勇基、寝てるなんて残念ね。
 朝、食卓で顔を合わせた時、勇基は罰が悪そうな表情で私を見る。
 その時、心の中でだけ笑って、すべてを許してあげようと思う。
 昨晩の出来事は、私だけの秘密の宝物にして。




あとがき
長かったです。これくらいのプロットだとこのくらいの量になるのはあらかじめわかっていたはずなんですが・・・。いや、安易に考えるのがいけないのでしょうね。
とりあえず、途中で挫折しそうになりながらも、とりあえず最後の展開まで持っていけたのはよかったです。思わぬ禁じ手によってとりあえずストーリーはつながりましたし。
しかし、心理的な展開がもうちっと丁寧に書けないものかと考えてしまう今日この頃です。直情径行もいいんですが、勇基ちゃんとマリアさんにはもうちょっと大人の駆け引きっていうのもしてもらいたかったです。どうも思考が子供なんですよねぇ。私の書き方が問題なんですが・・・。
そういえば、伏線としては勇基ちゃんの頬の痕なんかがあります。作中でしっかりと書いてあげようと思ったのですが、左頬に落書きという表現だけになってしまいました。残念です。
マリアさんが落書きをしているときには、いつもの綺麗な頬になっているんですよ。一応、お許しがでたという意味なんですが・・・、誰も気づいてくれないでしょうね。(笑)

戻る