| トップに戻る | 歴史に戻る |
年表
| 誕生の少し前から元服まで 12才 | 1527年〜1546年 |
| 元服から 12才 正徳寺会見 19才 | 1546年〜1553年 |
| 正徳寺会見 19才 から 桶狭間の戦い 26才まで | 1553年〜1560年 |

うつけと言われた頃の尾張周辺
若い頃の信長が寝起きした所は 那古野城、志賀城(平手の城)、清洲城に大きく分けられる
| 1534年の誕生〜1543年の10才くらいまで | 那古野城より平手の志賀城が起居する場所であった |
| 1544年の10才〜1555年の21才ころ | 那古野城に居城 この15才ころに、うつけと言われる行動をしていたらしい この頃父が死去し家督を継ぎ、濃姫との婚礼、弟との派閥争いがあった 16才から18才の頃、文武両道学び励んでいたらしい 18才鉄砲を購入し、父の死後最初の合戦である山口の寝返りがあった 19才平手政秀 自害 |
| 1555年21才〜1560年26才 | 清州城居城 21才 信忠が1557年生まれなので1556年の22才の頃から吉乃のいる生駒屋敷に度々 通っていたと思われる。 26才で桶狭間の戦い |
その頃にあった街道は、鎌倉街道、美濃路の前身、津島清洲を結ぶ道、清洲から下つ道を結ぶ豊場街道、犬山熱田を結ぶ道が
考えられる。中でも信長が足繁く通ったと思われる清州から吉乃の生駒屋敷への道で考えられる最短距離の道は灰取街道とおもわれる。
稲生の渡し
矢田川が庄内川に合流する稲生の渡しは志賀城の北西1.5K
河口を除いて河幅が一番広く水量豊か
特に幼少の頃は志賀城に起居していたらしいので稲生の渡し付近で遊んでいたのではないだろうか。
庄内川の河原(枇杷島河原、名塚河原、成願寺河原)の3ヶ所が大きいところと考えられる
枇杷島河原が最大の遊び場だったと思われる、ここで秀吉と接触したかもしれない、枇杷島から稲葉地にかけてある3K幅300m
清洲
「なぐさみ草」1418年
東に江川流れ出、緑色の竹が川波を覆い、朝日の影を浮かべず、南に砂山があちこちにあり西に野沢が絶え絶えにあり一つの村里まで続き葦が茂りヌナワ(じゅんさい)が這い広がり池が北の方に巡っている
と「なぐさみ草」は清洲の情景を語っている。
清州六角堂 (現 稲沢)
臥龍水と言う井戸 信長愛飲していたという。
清洲や岐阜城に運んで常用
松井夕庵に命じて扁額寄進
また南東の隣屋敷が浅野又右衛門長勝の清洲屋敷
ねね が秀吉に嫁したおりここから「うこぎ長屋」に出る路
岩倉
岩倉は伝馬の中継地 寺町、佐久間、青木、津田、前野はかつての名所だったらしい
前野村95貫文の領地 宮後は取出しの東古川
丑寅に大沼 沼沢 乾に古川 舟戸ともうす鎌倉道
吉乃御興小牧へ途中三ツ淵村で中山屋敷休息
中村
中々村松葉城主 織田右衛門 反銭、夫役厳しい中村は公孫樹が林立、戸数60、筵、こも、簾、牛副業
春日井原の溝川には泥鰌が多い
三井重吉一宮丹陽 城戸 小牧清洲結ぶ連絡
富田 正徳寺会見(苅安賀富田 現西之町)
4月下旬 石山本願寺より派遣された代理住持を置き負担免除の地
浄慶寺が近くにあり 富田大堀
宮後村安井屋敷
西北の大竹林の馬隠しの場、南東の八幡社 東口、古川筋の沢沼、古川から引き込んだ幅7間の堀も残る本丸は小高く大竹林のなかほどに古道があり濃州のマエドへ、東はウツツへ東北に清水の湧き出るところあり
宮後 東方は前野の境で原野 、古来馬捨ての河原
下津(鎌倉街道沿い)
室町時代
下津に守護の役所(守護所)が置かれていた、ここに織田氏一族が務める又守護代(又代)がいて幕府や守護の命令を現地で実行する役割を果たしていた