1584年3月6日織田信雄が、羽柴秀吉に通じる3老臣を斬り徳川家康と同盟を結び秀吉と断交する。
3月28日両雄が小牧で対峙4月9日長久手で合戦、11月11日秀吉と信雄は和議を結んだ。
小牧長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康
三英傑の両雄が戦った唯一の戦いであった。
鮮やかとも言えるこれまでの秀吉の戦略が、この戦いにおいては支城攻略以外、家康に軍配が上り秀吉は今一つのようである。
ただ最終的に政略で秀吉の勝利となったが。
| 小牧長久手の戦い本能寺から岡崎進行作戦 | 1582年6月2日〜1584年4月5日 |
| 小牧長久手池田、森 楽田から白山林へ | 1584年4月6日〜4月9日 |
| 白山林の戦い | 4月9日未明 |
| 長久手の戦い | 4月9日午前9時頃〜4月10日 |
| 長久手の戦い以降 | 4月22日〜1586年10月27日 |
小牧長久手の戦いにおいての疑問点
疑問1.なぜ秀吉は5倍くらいの兵力で勝てなかったか?
○ 1570年 4月 金ケ崎の撤退の折り、家康に助けられた恩義がある
あえて激突したくなかった、また義理堅い家康と手を組みたかった○ 1570年 6月 姉川の戦いでの徳川軍の強さを思い知っているのでうかつに手を出せない
○ 1572年12月 武田信玄と三方ヶ原で完敗したが、果敢な家康を知っている
○ 1575年 5月 長篠の戦いにて酒井忠次が難しい鳶ヶ巣山の砦急襲を成功させている
○ 紀州の動静のほうが気になり、思い切った力攻めに踏み込めなかった
○ 岩崎城の勇猛果敢な抵抗を予測していなかった
○ 本能寺の変の後、家康は岡崎に帰って準備、7日後に鳴海に兵を出すと言う遅い行動を侮った
○ 三好秀次の油断が致命傷だった
○ 秀吉自身の将兵は家康の将兵より統率がまだとれていず烏合の衆だった
疑問2.小牧から長久手は遠くないか
以前私は、名鉄小牧線の楽田駅から瀬戸線小幡駅まで歩いていってみました。途中、野良犬に囲まれたり(といっても2匹)非常に危ない車道を通りながらで、疲れたので小幡駅まででやめました。
また、岩倉から岡崎まで徒歩で歩いたこともありました。朝の6時から夕方6時まで12時間で岡崎に入る手前までたどり着きました。
当時は車道がないので現在よりは歩きやすく、およそ40Kmなのでマラソン選手ならそれほど遠くはないでしょう。
2日あればそれ程遠くはありませんが問題は小荷駄隊だと思います。特に池田隊などは2万の軍勢で岡崎まで敵中を進行するのでかなりの荷物があったのではないかと思います。2万の軍は一列縦隊1m間隔で20Km、2列縦隊でも10Kmの長蛇の列になります。
疑問3.信長の将兵だった池田、森、丹羽 また小姓だった長谷川らは、なぜ信雄に弓をひいたのか
信雄に人望が全くなかったからでしょうか、或いは私利私欲で秀吉についたほうが特だからでしょうか。本能寺から2年もたたないくらいなのに秀吉と組して信長の子に弓を引いたということから明智光秀だけが謀反を企てたのではなく他の武将も多かれ少なかれ謀反を或いは信長のやり方に反感を持っていたのではないでしょうか。あるいは信長に忠義・恩義をもっていなかったのではと思われます。
秀吉は、信孝の母を磔にし信孝をも自害させ、他信長の子供たちを羽柴姓を与えるなど主従逆転な行為をしているし、三の丸殿などを側室にもしている。お鍋の方、信長の母 土田御前がまだ生存しているので、この秀吉の行いをどのように思ったのだろうか。
時代は変わり、後の関が原の戦いでは、秀頼に弓を引いたわけではないが秀吉子飼いの武将までが豊臣家崩落の手伝いをしてしまった。小牧長久手の戦いで家康は、どんな忠臣でも条件さえ良ければ、或いは時代の流れの勢いに主家に弓をひいてしまうことにどう思ったのか興味があります。