「王はあれがお気に入りのようじゃの」
「…は」
「可憐で素直な、可愛い鳥じゃ。…殺しとうはないの」
「……は」
「が、王が油断めされれば、そちの出番よ。心得ておくがよい」
老人は飄々と言う。
ファルハングもまた、いつものように、淡々と受け止める。
「一度、あれに聞いてみたのだ。ジャムシードの王や王妃が処刑されたが、どう思うかと」
「…」
「したらの、顔が変わった」
「では、やはり」
王の親族なのか。ファルハングは目で問うた。
ならば、王に害を及ぼすかもしれない。身内の仇として。
しかし、フーシュは否、と答えた。
「…あれは、戸惑った。それは良い。だがの、次には」
「泣きましたか」
「いや、ほっとしておった。だがすぐに、それを自ら咎めた」
意味が分かるか?――フーシュは孫に問う。
ファルハングはただ首を振る。
「姫ならば、身も世もなく嘆き悲しむであろう。奴隷ならば、主人の死を聞き、自由になったと喜ぶ。または、形ばかり悲しむ」
「はい」
「…であればこそ、あれはどちらでもないものよ」
フーシュは、密かに彼女の身上を調べるよう、孫に諭した。
王のお傍に危険があってはならぬ。それは、当然のこと。
…彼の見る限りでは、あれは吉兆と見えたのだが。
――さて。王が捕らえた鳥は、いったい何であろう?
***
「おまえ、歌う以外に芸はないのか」
王が髪をつんつん引っ張ると、歌姫は困ったように首を振る。
「踊りは?」
少しは。――彼女は、小声でそう答えるのみ。
王様も頷いた。扇情的な踊り女など、およそこの娘では務まらぬ。
「おまえは生娘であった。側女だったわけでもなかろう。歌うだけか。…役に立たぬな」
王の一言に、彼女はようやく傷ついたような顔で俯いた。
いつも微笑んでいる瞳が、暗い影を落とす。
何を言っても反応しない娘だったので、王はこの様子に少し驚いた。
「泣くなよ。今は役目を与えてやったろう。俺のために歌え――ソルーシュ」
名を呼ばれて、歌姫は顔を輝かせた。
初めて名を付けられた獣でも、これほどの反応はしない。
名を貰って喜ぶなど、おかしな娘だった。
普通なら、己の名を捨てさせられたと屈辱に思う。人としての矜持を傷つけられて。
…これは元々、そんなものを持たぬ娘だったのだろうか。
そのうち、王は考えるのが面倒になった。
この鳥は喜んでここにいる。
逃げるなら逃げればよい。鳥が逃げても嘆きはしない。
一時の安らぎをもたらすならば、飼ってやろう。――
王を膝に寝かせ、彼女は歌う。
――まるで母親がそうするように、心をこめて。
***
「ソルーシュ、今日は王が来られたのか」
「…はい」
素直な鳥は、老人に答える。
彼女は、来たときよりもさらに表情が和らいだ。
フーシュにもよく懐いていた。あの朴念仁の孫よりも余程、愛らしい孫代わりだ。
「そなた、真の名は何という? 本来の名で呼ばれたいとは思わぬか」
「…」
彼女はゆっくりと首を振る。
「今は別の名を頂きました。私はそれでいいのです」
「そうか。ならばよかろう…」
彼女の本当の名は、アルナワーズという。
老人は、もう知っていた。
ジャムシードの後宮にいた女から、ファルハングが聞き出してきたのだ。
『白い肌の女? そんなもの、奴隷にいくらでもいたわ!』
混乱の中、大臣の第四夫人にうまく納まった女は、かつてジャムシードの後宮にいた。
王の11番目の王女だったという。かの城には、数え切れぬほどの姫がいたのだ。
ファルハングは、重ねて娘の特徴を述べた。
ささやくような小声で歌う。森が好きで鳥と遊んでいるような娘。――
そう云うと、女はああ、あの婢女の姫、と嘲りを込めて笑った。
『…婢女の姫』
ファルハングは、聞きなれぬ響きを繰り返す。
『あれは奴隷のようなものよ。そんな娘もいたわね、すっかり忘れていたわ』
『奴隷のような、とは?』
『…昔、奴隷女が産んだ娘よ。本人は王の子だと言っていたけど、嘘に決まっているわ』
『では、姫なのですか』
『だから、あの肌で王の子のはずがないでしょう。きっと、白い奴隷同士で通じてできた卑しい娘よ』
『…』
竜涎香の冠を巻きつけたような、自らの艶やかな黒髪を誇るように、女は言った。
『で、あの娘がどうしたというの。ようやく奴隷に売られるのかしら?』
優越感を込めて、女はせせら笑う。
もしかすると、妹にあたるかもしれぬ娘。
しかし彼女にとって、そんな仮定は意味がない。
『…はい。それで、生まれを確かめておりました』
『そう。せいぜい高く売れるとよろしいわね。卑しくもジャムシードの後宮にいたのですもの』
もしも、その娘が王の傍にいるなどと口走ればどうなるか。
彼女は、己の幸運を上回る厚遇など、決して認めないだろう。
ソルーシュを妬み、恨み、…殺したいとさえ願うだろう。
そういう女だ。
ファルハングは、ただ黙って礼を述べた。
あの鳥がどういう生まれで、どのような扱いの中で生きていたか。
ファルハングには、手にとるように分かったような気がした。
彼は奴隷の身分でありながら、王の傍近くで様々な人種をつぶさに見てきた。
だから、知っている。権力の集まるところで、人間がどう振舞うのかを。
…あの姫は、王を裏切るまい。
少なくとも、彼はそう信じたいと思った。
***
あるとき、王は森で狩りに夢中になっていた。
そんな中、傍らのラクシュが消えたことに、しばらく気がつかずにいた。
彼の愛馬は家臣の誰よりも我が儘で、気ままだ。
王の許可もなく好き勝手に動き回る。
だから、誰もが恐れる王が後ろから追いかけるのは、この世でラクシュだけ。
「まったく、生意気なヤツだ。あるじを置いていくつもりか」
ブツブツ言いながら、王はラクシュを探し回った。
今度こんなことをしたら、焼き馬にしてくれようか。…そうこぼしつつ。
だが、彼はラクシュには手を出せない。
彼の愛馬ほど、輝く毛並みと天馬の如く軽やかな足を持つ馬など他にはいない。
数多い戦の中で、ラクシュは王と一体となり、縦横無人に戦場を駆け巡った。
まさに、王の分身なのだ。彼と心を共にする唯一のもの。
…であれば、気ままで勝手なのも当然ではないか?
「どこにいるのだ、ラクシュ」
森の奥、普段の狩りでも近寄らぬところに、愛馬はいた。
穏やかに草を食み、甘えるように鳴き声を漏らして。
そこで王は気づいた。ラクシュはただいなくなったのではない。
なぜなら、その傍らには彼の鳥も共にいたから。
「…何をしておる」
どちらに向けていったのか、王にもよく分からない。
馬と鳥は、顔を見合わせて、王にそれぞれ笑いかけた。
ラクシュは王以外の者の手には慣れぬ高貴の馬。
そのはずだった。
だが今、ラクシュは彼女に甘え、その手から差し出された林檎を美味そうに食んでいる。
ソルーシュも馬を優しく見つめている。
その目つきは、普段よりも優しいように思われた。――王には。
「…帰るぞ、ラクシュ」
王は、歌姫を無視して、愛馬にそう声をかけた。
ラクシュは一声、ヒヒン、と抗議する。
まるで、彼女の傍にもっといたい、とでも言うように。
――そういえば、この鳥を始めに見つけたのも、ラクシュだったのだ。
王はそのことを思い出し、無意識に腹立たしく思った。
何が腹立たしいのか、彼自身にもよく分からない。
愛馬を手慣づけられたのが悔しいのか。歌姫が馬に優しいのが苛立つのか。
「…ふん、勝手にするがよい」
そういい残し、彼はその場を去った。
それくせ、その夜、王はいつものように歌を聴きに赴く。
昼間、彼女を無視したことなどすっかり忘れて。
彼の鳥は、ただひそやかに笑う。
その瞳は、馬に向けたものよりも、なお優しい。
ラクシュがこの天使に甘えるのも当然のこと。
かの馬は、王の分身なのだから。
そのことに、王はまだ気付かない。――
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