かつて僕が見たのは、幻だったのか。 それとも子供にありがちな夢だったのだろうか。 ![]() 残ったのはあまりにもかすかな思い出の欠片。 今は、現実だったのかどうか、自信がない。 けれどそのうちに、はっきりするだろう。 彼の地から、僕に語りかけてくれるはず。 ――たぶん。きっと。 もしも、僕が約束を守ることができたなら。 ‖彼方にある国‖ 「リーーン…どこに行ったの。リン、戻っていらっしゃい…」 遠くから自分を呼ぶ伯母の声に、リンは顔をしかめた。 誰が聞くわけでもない、荒野に響くだけの呼び声だけれど、彼には色々と不満がある。 (あんなに何度も呼ばなくてもいいのに。恥ずかしいんだから) まず彼は、まるで女の子のような自分の名前がとても嫌いだった。 パパは『日本では、男の子の名前だよ』というけれど、ここでは違うんだから、もう少し考えてくれればよかったのに、と思う。 ついでに、伯母がいつでも嫌味のように名前を連呼するのも嫌いだった。 従姉妹のフィリスがそれを真似して意地悪するからだ。 『ねえリン、私の服、お下がりであげようか? …あ、男の子だもんね。スカートはいらないわよね』 (…早くパパが迎えに来てくれればいいのに…) そう思いながら、彼はいつも広大な館の裏手に広がる荒地に逃げていく。 子供が一人で行くにはとても危険な場所だ。だから、伯母はきつく彼を止めようとするのだが、リンにとっては唯一の避難所であり、いくら後で怒られるとしても、逃げる場所はそこしかないのだった。 「寒い…。コート持ってくればよかった」 肌寒い風を遮るものさえない荒地は、秋も近づくこの時期にはひたすら寒々しい。 夏にはヒースが乱れ咲く丘も、今は枯れた灌木しか見当たらず、寒さを余計に厳しく感じさせる。 「…」 しばらく、リンは丘の頂上に座り込み、目の前に広がる荒地をただ見つめた。 こんなところに来たところで、何もないのは分かっていた。ただ単に、誰にも会わずに一人でいられるというだけのことだ。 それよりは、屋敷の中で温かなミルクを飲んで、スコーンでもつまんでいるほうがいいに決まっている。 けれど―― 「もう、帰りたくない。パパが来ないんだったら、あんなとこ、いたくない」 リンは、涙がこぼれそうになるのをこらえながら、思わず声を荒げた。 ひとり言にしてはあまりに大きな声。 風が吹きすさぶ荒野ではそれほど遠くまで聞こえはしないだろうけど、それでももしかしたら、耳を澄ましている誰かには聴こえてしまいそうな、そんな声で。 『じゃあ、帰らなきゃいいじゃない?』 「え…。何? 誰…?」 風の音というにはあまりにクリアな幻聴が聞こえて、リンは驚いて立ち上がり、背後をきょろきょろと振り向いた。 もちろん、振り向いても誰もいない。こんなところに、誰もいるはずがない。 ましてや、女の子なんて。フィリスの声には聞こえなかったし、とリンはまた顔をしかめた。 「…寒い」 しばらく考え込んでその場にしゃがんでいたら、本格的に寒くなってきた。 これでは、すぐに風邪を引いてしまう。風邪なんて。それはまずい。 そうしたら、伯母はもう二度と外に出してくれなくなるかもしれない…。 なんとなく後ろ髪を引かれるような思いで、彼はお尻についた塵を払った。 帰りたくないとは思っても、ここにずっといられるわけでもない。山のように積もった不満にしても、寒さに負けて帰る程度のものだった。 「帰ろ」 そうして、荒野に背を向けた彼に、またあの声が聞こえた。気のせいかと思うほど、かすかな音だった。 『ねえ、 また来るよね?』 「……え」 今度こそ、彼は耳を疑った。誰かが自分に話しかけてる。 そして、姿が見えない。もしかすると、幽霊とか…? 「わああっ」 怖がりの彼は、そう思った途端に震え上がった。そしてすぐさま、服を引っかく枝に足をとられながらも、一目散に駆け出した。 (お祖母ちゃん、お祖母ちゃん!) ただひたすら、心の中でそう叫んだ。 *** 「まあ、そうなの。女の子の声ねえ」 外から帰るなり、思いっきりの早口で叫びだしたリンに、祖母はゆっくりと微笑みかけた。 いつでも祖母は、大きな暖炉の傍で彼を迎えてくれる。そして、マーガレットには秘密よ、といいながら、甘いココアやお菓子をこそっと与えてくれるのだ。 だから、リンはこの祖母が大好きだった。ゆっくりした話し方も、穏やかな笑い方も、枯葉の匂いのするショールも、何もかもが彼にとって安心するものだ。 「嘘じゃないよ。僕、ほんとに聞いたんだ。二回もだよ」 祖母に信じてもらおうと、彼は必死の手振りで説明した。 「そうね、リンは嘘を言ってはいないわ。お祖母ちゃんは知ってるわ。だって、それは妖精の声ですもの」 「妖精? …幽霊と違うの?」 「ええ、違いますとも。もっと素敵で、綺麗なものよ」 祖母の断言する言い方に、リンもほっと胸を撫で下ろす。どうやら、怖いものではないみたいだ。 「じゃあ、今度会ったらお話してもいい?」 「…そうねえ。」 そこで、祖母は少し黙り込んだ。そしてリンを招き寄せ、大事な秘密を教えるように、真剣な顔で囁いた。 「あなたがそれを望むなら、いけないことではないわ。でもこれだけは忘れちゃ駄目。彼らは人間ではないの。だから、私たちとは違うものなのよ」 「どう違うの?」 「そうね、…。例えば彼らは嘘を言うけど、それは彼らにとって嘘じゃないの。それから、大事なことを覚えていたり忘れていたりするのよ。でもわざとじゃないの。こちらがいくら言っても駄目なのね」 「ふうーん。変なの。…どうして?」 「それは、きっと、彼らには彼らの決まりごとがあるんでしょうよ。私たちにもどうでもいいような決まりがあるものね?」 うん、とリンは大きく頷いた。伯母さんからつまらないことでいちいち怒られることを考えてみれば、それはよく分かる。 「彼らは私たちを傷つけようというわけではないのよ――からかって遊ぼうとはするけれど。ただねえ、決まりを守れなかったら駄目なの。もしかしたら、とても危ないことになるかもしれないわ。だから付き合うのはとても難しいの。分かる?」 「うん。…じゃあ、決まりを守ったら大丈夫?」 祖母の言うことを聞いているうちに、彼は妖精と会うのが楽しみになってきた。 少なくとも、お説教をしたり馬鹿にしたりするものではなさそうだ。 それならフィリスよりずっと良い。もしかしたら、一緒に遊んでくれるのかも―― 「そうねえ。…きっと大丈夫ね。もし危険なことがあっても、あなたの中のマクミランの血がきっと守ってくれるでしょうよ」 血が守ってくれる? その意味が分からず、リンは首をかしげる。 「血ってママのこと? ママが守ってくれるの?」 不可解な彼の顔を見ながら、祖母はふふっと優しく微笑んだ。 (…ママが守ってくれるなら、危なくないんだよね。お祖母ちゃんが言うんだから、大丈夫) リンは素直にそう思った。祖母の言うことは、彼にとって絶対だったから。 *** 「ねえ! ここにいるんでしょ? 出てきてよ」 次の日から、リンは荒野で叫び始めた。呼んだらまた声をかけてくれるに違いないと思っていた。 「また来たよ。だから出てきてってば。ねえ!」 …。何も、聞こえない。 彼はしばらく叫んでいたけれど、そのうちに飽きて屋敷に帰った。 (やっぱり気のせいだったのかな。せっかく会いに行ったのに…なんだよ) 帰り際、こそこそと囁く声がしたような気がしたけれど、風の音にまぎれて分からなかった。 『くすくす。また来たよ。あの子、聞こえたんだね』 『でも、見えるかどうか。…は一緒に遊べたけどね…』 一人で荒野まで行ったことがバレると、伯母は困ったような顔でいつも教え諭した。 「ねえリン、あそこは危ないから行くのは止めなさい。家でフィリスと遊べばいいでしょう。どうして何もないところなんかに行きたがるのかしら…」 「だって、声がするから…。誰かいるんだよ。お祖母ちゃんは妖精だって言ってた」 伯母をびっくりさせたくてそう言ってみると、彼女は驚くどころか、より一層苦い顔になって、ため息をついた。 「妖精だなんて、まったく。そんなものいるはずがないでしょう。だいたいいるとしたら、尚更危ないわ。どこかに連れて行かれてしまうわよ」 「どこ? どこに連れて行かれるの?」 思わずリンは期待に目を輝かせて聞いてしまう。まるで遊園地かどこかに行けるようで、わくわくしていた。 「馬鹿おっしゃい。連れて行かれるってことは、死ぬのと一緒よ。いいこと、妖精なんてものは、普通魔よけをして防ぐものなのよ。人間に悪さばかりすることになっているの。分かった?」 リンは祖母とまったく違うことを言う伯母に不満一杯になったが、しぶしぶ頷いた。 だが、心の中ではますます妖精と会いたくなった。 伯母が止めるのは、たいていがスリルがあって楽しいことばかりだ。 そして、彼は伯母よりも祖母のほうをずっとずっと信頼していた。 それからも、気がつくとリンの姿は屋敷から消えていた。 伯母のマーガレットは、怒ったようにフィリスに囁く。 「あの子ったら、セーラにそっくり。いつも心がどこかに飛んでるわ…」 *** それからというもの、リンは荒野を彷徨って、時には大声を上げ、何かが聞こえないかと耳を澄ませた。 しかしその度に聞こえてくるのは北風の乾いた音ばかりで、一週間ほどすると、さすがに自分のやっているのが無駄なのではないかと思い始めた。 (やっと友達が出来るかと思ったのに…) しょんぼりとそう考えると、少しだけ泣きそうになった。 もうすぐパパが迎えに来てくれる。――そう思うことで、彼はずっとここでの不満を我慢していた。 だが、学校に入る年齢も近づいてきたのに、まだ迎えはやってこない。 このままだとフィリスと同じ学校に行くことになってしまう。 (一緒に通うなんて、絶対そんなの嫌だ…。どうしよう?) リンにしてみれば、それは人生の一大事だった。 だからこそ、ここに来たかったのかもしれない。逃げたかった。自分ではどうしようもないから。 『ねえ、ほんとに一緒に遊びたい?』 突然、耳元でそんな声が響いた。リンは本当に驚いて、びくっと体を仰け反らせた。 「え? え? 誰?」 『私のこと見える? 見えるなら、遊んであげる』 リンは声のする方法をじっと見つめた。何も見えない。 でも、声はする。 (きっと、そこにいるんだ。だからちゃんと見れば見えるんだ…) 彼は必死になって、大きく目を見開いた。 『ねえ、見えるの?』 苛立ったような、少女の声がした。よく聞くと、少しだけ不安そうな声。 リンは聞いているうちに腹が立ってきた。 そんな言うなら、自分から出てくればいい。こっちはずっと探し続けてがんばったんだから。 「見えないよ! ちゃんと見せてくれればいいじゃないか、意地悪!」 『…』 しばし、躊躇するような間が空いた。何か迷っているようだ。 そして答えが返ってきた。 『違う。あなたが見つけてくれなきゃダメなの。』 「僕が? …どうすれば見つけられるの?」 少女の声がなんだか悲しそうだったので、リンも思わず真剣に訊ねた。 『――私がいるって、信じて』 リンは、その言葉をそのまま実行した。 (この子はいる。ここにいるんだ) 心の中で、何度もそう繰り返した。声が聞こえた今なら、彼女の存在が本気で信じられる。 すると…おぼろげに、何かが見えた。 見えた、と思うと、あとはみるみるうちに姿がはっきりとしてきた。 薄い衣装を纏った少女。金髪かブラウンか、曖昧な髪の色。フィリスと同じくらいの年齢。 「見えた! 見えたよ!」 彼は嬉しくなって夢中で叫んだ。 ――ああ、これが妖精なんだ… 信じられない。本当にいたんだ、と呆然とする。 すると、せっかく見えた姿が、また薄く消え始めた。 「あれ? ねえ、また見えなくなっちゃった」 『…私が言ったこと、分からなかったの?』 リンはその言葉にはっとする。信じなきゃ、消えちゃうんだ… 今度はしっかりと『見ようと』した。彼女が消えないように。 気持ちを込めて見つめると、徐々にまた彼女は現れてくれた。 輪郭が鮮やかになった妖精は、リンに微笑みかけた。目も覚めるような、綺麗な瞳。 「やっと会えたね」 初めて空気を通して、彼女の声を聞いた。透き通る高い声。歌うような抑揚に思わずリンはうっとりした。 これが悪い生き物だとは、絶対に思えなかった。 ≫next ‖back‖ |