風の歌う処

だけど甘く傷ついた夢を
抱きしめる
ただ駆け抜けるだけの
僕たちの愛おしい今を
抱きしめる 

[覚醒都市/新居昭乃] 

9



 「また来てね。絶対、忘れないから」
 ノヴァーリスが旅立つ日、ティアンとアルファの二人は人気の無いエアポートまで見送りに行った。
 CCのおかげで、彼らはなんとか矯正を免れた。
 ただし、アカデミーの監視は一層厳しくなり、二人そろって辟易してもいたが。

 「今度は君たちも一緒に宇宙に行こうか。今は無理だろうけど、ヘリオスのお許しがでたら」
 「本当に? 私たちでも、外で生きていける?」
 フィルはおかしそうに笑って、頷いた。
 「当たり前じゃないか。二人とも元気活発で問題なし」
 「一歩外に出たら、どこだって生きていけるわよ。大事なのは、踏み出すことだけ」
 隣にいたクレアは、エリーを腕に抱きながらそう言って微笑んだ。
 初めて目にした彼女の柔らかな表情は、意外にも花が咲くように優しく、綺麗だった。
 だから、アルファとフィルが外界について話している横で、ティアンはしばらく惚けたようにクレアを見つめてしまった。

 「じゃあ、そろそろ行くよ。…二人とも、元気でね」
 フィルが少々落ち着かない調子でそう言うと、アルファはからかうように笑った。
 「…落ち着かないみたいですね」
 「そう?」
 「ええ、とっても。…そうそう、今度来るときは、ちゃんと関税払って下さいね。この星系でも有益な投資をなさってるようなので言いたくないんですけど、やっぱり不法行為は良くないと思います」
 図星を指されてぐうの音も出なかったのか、フィルはほとんど完敗という身振りで手を上げ、ため息とともに答えた。
 「…君は大物になるよ、アルファ」
 それから次に、ティアンに向かって手を差し出した。
 「握手ってここでもするもんだよね?」
 「あ、うん。そっちも元気で。…あの、それから――」
 「?」
 ティアンは顔を俯かせて、小声で言った。
 「…ありがとう」
 フィルはそんな彼を見て、不思議そうに目を丸くした。
 「僕は何もしてないよ。最後は全部クレアに助けてもらったし。…ちょっと情けなかったな」
 そう言って彼は照れくさそうに笑ったが、ティアンは顔を上げてかすかに首を振った。
 「そうじゃなくて。…」

 一瞬、どう説明していいのか分からなかった。
 嬉しかったのは助けてくれたからではなくて、もっと別のことだ。
 たぶん、最初に会ったのが偶然だったとしても、自分を見てくれたから。
 市民の一人とか、生徒の一人じゃなくて、自分を自分として扱ってくれたから。…

 その気持ちをうまく伝えられずに、ティアンが言いあぐねていると、代わりにフィルが言った。
 「僕もありがとうって言わなきゃいけない。ここに来て後悔せずにすんだから」
 「後悔?」
 フィルの口からそんな言葉が出たことに、正直ティアンは戸惑った。
 彼は常に前向きで、後ろなど振り向きもしないように見えたのに。
 「もし何もせずにCCとだけ交渉して帰ってしまったら、わざわざ来た意味がないし、虚しいだろ。あちこち旅をしてるのは、人と会うためなんだから」
 「…そのため?」
 「そうだよ。自分と違う人に会ったら、それだけで自分も相手も何かが変わるんだから。何年も時間をかけて作り上げた自分っていう存在が変質しちゃうんだよ。そう考えたら、人と人の摩擦エネルギーってすごいと思わない?」
 「それは…僕は、ちょっと変わったかもしれないけど。でもフィルは変わってないじゃないか。初めて会ったときと同じだ」
 「そんなことないよ。僕だって君を見てて昔のことを思い出して、いろいろ考えた。僕の父親もヘリオス並みに不器用な親父だったけど、君と違って、僕は結局何も話し合えずに終わっちゃったなあ、とか」
 「ロウ…」
 驚いたクレアがフィルに触れようとして、そっと近づく。そこで体を動かした拍子に、その腕の中からエリーが飛び出した。
 「あ――」
 
 勢いよく逃げ出した猫を捕まえようと、皆が慌てて後を追った。
 エアポートの入り口のほうに走り出したエリーは、勢いよく飛び出していきそうだったが、しばらくするとふと立ち止まった。
 「エリー、こっちおいで」
 「…あれ?」
 立ち止まったエリーは、その入り口から入ってきた人物に抱かれていた。
 そのシルエットを見たとき、ティアンは思わず息を呑んだ。
 エリーは逃げたのではなくて、その人物のいる方向を知って、探しに行ったのだ。

 「フロラ」
 「…ティアン。なんでこんなとこにいるの。…あたしは、どうしてこんなとこ知ってるんだろ。…この子も。なんで?」
 彼女はエリーを宝物のように抱いていた。匂いが懐かしいのか、猫は額をこするようにしてフロラに愛嬌を振りまく。
 「フロラ、エリーのこと覚えてるの?」
 アルファが恐る恐る訊ねると、彼女は訝しげに首を捻った。
 「…分かんない。でも見た途端、大好きになっちゃった」
 そのままぎゅっと目をつぶって、彼女は無言で猫を抱きしめた。しばらくそうした後、そっと、不安そうに囁いた。
 「…あたしおかしいかな。変だよね。なんだか、この子を見てると、すごく懐かしくて哀しい」

 ――あたしが寂しいのって、おかしいのかなあ?
 ティアンの耳に、いつか聞いた彼女の悲鳴が重なる。
 あのときは何も言ってあげられなかった。自分の気持ちだけで精一杯だった。
 だから、今度はそれじゃダメだ。

 「おかしくないよ」
 ティアンは正面から彼女を見て言った。ちゃんとその殻の中に届くようにと祈った。
 「哀しくなるのも、寂しいのも、人間なんだから当たり前だろ。おかしくない」
 「ティー」
 フロラはそのまま声を詰まらせた。必死で我慢しても、徐々に表情が歪んでいく。
 「あれ? やだな、ごめ…」
 彼女の頬は見る見るうちに紅潮した。必死に隠そうとする姿が痛々しいほどに。
 僕たち――というか、市民にとっては、公衆の面前で泣くことは、こんなにも恥ずかしいことなのだ。
 「心配しなくても、私も一週間前に泣いたばかりだから大丈夫。ティアンも泣いたし」
 ね?とアルファが意地悪くも丁寧に、ティアンにも同意を求めた。彼もしぶしぶ頷く。
 「…子供みたいだって馬鹿にしない?」
 「しないわ」
 フロラはその言葉に安心したように、ころっと表情を変えた。いつもの彼女に戻って、明るく笑う。
 
 ――でもたぶん、その笑顔だって、前と少しは違うはずだ。
 ティアンはそう思って、ゆっくりと様子を見守った。
 そして彼は、いつの間にか無意識に、穏やかに微笑んでいた。
 それを見て驚いたように、フィルとクレアが、それからアルファが目を丸くした。
 それから、彼らも顔を見合わせて笑った。




 ***




 「若いってすごいよね、あんなに短期間で変わっちゃうんだから」
 ヘリオスの領域圏内から宇宙に出て、安定した航海軌道に乗ったあと、フィルは嬉しそうに思い出し笑いをした。
 「やっぱり彼に声かけて良かっただろ?」
 途中の面倒に対する反省の色が少しも見られない彼に、クレアは振り向きもせず、怒りとともに苦情を吐き出す。
 「…あなたも少しはあの子達を見習えば? いつまでたっても成長しないんだから」
 「散々謝ったのになー、まだ根に持ってる?」
 「そうじゃなくて、私は――」

 海図の映った画面から目を離し、彼女がいよいよ本格的に怒り出そうとしたとき、隣の端末でかすかな着信音が鳴った。
 フィルはこれ幸いと彼女の動きを遮り、そちらに集中しようと移動する。
 彼は始め、届いた知らせに喜びながら目を通していたが、読み終えると、不思議に静かな声でクレアに話しかけた。
 「これ見て」
 「エリジオンから? …珍しく公式文書ね」
 彼女が読み終わった頃合を計って、彼はゆっくりと首を振った。
 「…いよいよ僕たちの子供も自立しちゃったかなあ。もう世話を焼く楽しみも無くなるかもしれないね」
 「…」
 
 メールの中身は、エリジオンがドームを外し、惑星改造に取り掛かる計画が正式に決議された、という知らせだった。
 それは、以前に投資したプロジェクトの中でも、最も困難で、検討期間の長いものだった。
 新たな都市政府は、今後半世紀でその計画を推し進めると決定した。
 その中心になったのは、フィルの仲間だった者たちだ。
 
 「エリジオンもカプセルを出て、大人になるのね。…そういうことよね」
 「寂しくない?」
 心配そうに、そして探るように見つめてくるフィルに、彼女はなんでもないという顔で笑った。
 「あなたのほうが寂しそうじゃない。私は平気。むしろ嬉しいと思ってる――ホントよ。…あ、ほら、追伸がついてる」
 そっけないクレアの反応に彼は少し戸惑ったが、そう言われて見直すと、仰々しい形式の文書と一緒に、彼宛ての私信が添えてあった。
 それを読むと、フィルの表情はまた微妙に変わった。

 「クレア、一度エリジオンに戻ろう」
 「え? …何、突然」
 「追放は解除されたみたいだよ。もう僕らは特別扱いもされないから、遠慮しないで帰って来いって言ってる。…というか、今は人手も足りなくて大変だから、一回戻って来て手伝えって」
 そんなぞんざいな口を聞くのは、フィルの悪友に違いない。彼女はとたんに冷ややかな視線になって彼を見つめた。
 「…で?」
 「で、って。…だからさ、そろそろ戻らないかって」
 「だから、他に何か言うことはないの? いつも私が望んでることは、何でしたっけ」
 「…」
 彼は子供のように首をかしげて、真剣に考えた。
 いつもクレアが望んでること。――
 はたと答えに行き当たり、彼は素直に、最初から提案をやり直した。

 「僕はそろそろ帰ってもいいかと思うんだけど、君はどう思う?」
 その答えに満足したのか、彼女は先生のように正解、と言って笑った。
 「いつでもそういう風に、ちゃんと言ってくれれば、それでいいのよ」

 
 
 ――実を言えば、こんな風に笑う彼女を見るたびに、フィルは自分が少しだけ怖くなる。
 綺麗に笑う彼女を独占して、他の人間には笑顔など見せずに、自分だけのものにしたいという欲望が頭を掠めるから。
 (改めて思い知るディアシステムの恐ろしさ、だよな)
 例えば、父親のように不器用な人間にとっては、あれはなんと魅力のある誘惑だったことだろう。
 愛する人を、公的に認められた状態で、多少の罪悪感を感じる以外は問題も無く、ずっと閉じ込めておける。
 自分はあのときはまだ子供で、彼女を取り戻したい一心で無我夢中だったけれど、実はあの瞬間から、この恐れは始まってしまったのかもしれない。…

 「君はカプセルを出て幸せ?」
 そのとき、ふと気付くと、そんな馬鹿なセリフを口走っていた。
 すぐに後悔して口を噤んだけれど、すでに遅かった。
 「…どういう意味」
 「いや、ごめん。だから、エリジオンもドーム都市じゃなくなるから、その…」
 あたふたと下手な言い訳をする彼を、彼女は疑わしい顔でまじまじと見つめた。
 「カプセルに入ったのも、そこから出たのも、全部原因はあなたなのよ? そのあなたがそんなこと言う資格があると思う?」
 「ありません」
 「そうでしょ。幸せなんて、いちいちお互いに確認することでもないし」
 彼女のあまりにもクールな言い方に、フィルも一抹の不安を感じてしまった。もしかして、不満どころか、かなり怒ってたんじゃ…
 「でも、幸せじゃないと思ってるわけじゃないよね?」
 「…」
 本気でオロオロし始めた彼に、クレアも頭を抱えた。

 (エリジオンより、いつまでも自立しない子供が残ってるみたい…)
 彼は自分がいないと恐ろしいほど強くなる。けれど、その裏側には泣いている子供が隠れているようで、彼女はそんな彼をほうっておくことができない。
 そして傍にいると、呆れるほど優しくお人よしな、彼本来の性格に戻ってしまう。
 それでも、どちらがいいかと問われれば、いつでも答えは決まっていた。

 「私は別に、幸せにしてもらおうなんて思ってない。あなたと一緒に行ける所まで行くだけ。あなたが幸せだろうと何だろうと、よ」
 「…ありがとう」
 フィルは思わず、意地っ張りな彼女を抱きしめた。
 眠っている間に伸びた髪に触れるたび、もう二度と彼女を失わないという誓約を、時々確認しているような気がする。
 いいかげんなもので、その瞬間に、彼の中にあった恐れは嘘のように消えてしまうのだ。

 「僕は幸せだよ」
 自分でも持て余すような想いは飲み込んで、彼はぽつりと呟いた。
 たぶん、失うことを恐れていられるのは、とても幸せなことなのだと思う。
 だから隠しておこう。
 自分が幸せかどうかなんてどうだっていいと思っている、そんな情けない本心なんて。

 「帰ろう。僕たちの故郷に」
 
 ――どこまでも、一緒に。
 




 ***




 どんな変化の後でも、いつもの日常は襲ってくる。
 自分が少し変わったぐらいで、アカデミーのつまらない講義が変わることは無い。
 高層ビルの屋上でぼんやり佇む、ティアンの習慣も変わらなかった。
 フロラは相変わらず明るく活動的で、ただ、表情はますます変化が早くなった。
 時々悪戯っぽくティアンに言う。『そんな顔してたら、いつまでたっても彼女できないよ?』
 それから、アルファは――

 (あのとき、優等生の仮面はどっか行ったとか言ったよな、確か)
 ついこの間のことを思い出し、彼は苦々しく顔をしかめた。
 「ティアン、何しかめっ面してるの」
 「…」
 隣にいたアルファが、不思議そうに覗き込んでくる。
 「だから、何で用も無いのにこんなとこに来るんだよ。優等生のフリ続けるんだろ」
 
 彼女はあれだけのことをしでかしたというのに、今でも依然として、完璧な優等生のままだった。
 アカデミーでばったり出くわすと、何食わぬ顔で優雅な会釈すら返してくる。
 大っぴらに委員会に楯突いた割には、周囲の評価も下がることなく、…むしろ、その後の神妙な態度が余計に株を上げているような気さえした。
 彼にとっては、そんな彼女の振る舞いは、言わば裏切りのようなものだった。その非難もこめて、外で会ったときにはわざと無視してやりたくなる。

 アルファは彼のあからさまな拒絶に、かすかに苦笑した。
 「それはもう習性だから、仕方ないみたい。でも一応、手段は同じだけど、目的は変わったのよ」
 「…目的?」
 「そう。聞きたい?」
 彼女の言い方は、まるで隠し事を教えたくてうずうずしているようだった。ティアンは反射的に、聞きたくない、と言いたくなったが、そこはぐっと堪えて促した。
 「…言いたいなら早く言え」
 「あのね。――私、独裁者になるわ」
 
 
 それがあまりに明るい口調だったので、彼は一瞬、何かと聞き間違ったのかと思った。
 まるで、『将来、芸術家になるわ』とか『科学者がいいな』と言ってるように聞こえたからだ。
 
 「…なんだって?」
 「だから、独裁者になるの。私のことを皆3Bって呼んでるんでしょう? だったらそれらしく、独裁者になるのが手っ取り早いかなって」
 何が手っ取り早いんだ?と、ティアンは胡乱な目つきで彼女を見た。
 アルファはやたらと嬉しそうに、早口で計画発表を始める。
 「CCみたいな機械が相手だと、なかなか不満が出ないじゃない? だから人間が分かりやすく支配しちゃったほうが文句が言いやすいと思うの。そうすれば、皆もいろいろ考えるだろうし、ヘリオスの中も変わるわ。それから独裁ついでに、他の都市にも口を出して、援助して、復興も支援して、必要ならその間、難民だってどんどん受け入れる。封鎖経済も止めて、外界とも海路を開けば、この星系全体が活性化して、昔みたいに三都市でやっていけるようになるかもしれない。…とりあえず、目下の計画としては、五年以内に評議会入りして、十年でCC評議会の議長になるつもり」
 そこまで一気に言い放った彼女は、最後ににっこりと微笑んで付け足した。
 「どう? 計画としては、完璧でしょう?」
 「……」
 あまりに突然な上、計画は壮大――というか無謀だったので、彼はひたすらあっけにとられて、疑うように彼女の本心を探ろうとした。
 だが、理知的で聡明な、と常々アカデミーで賞賛されるアルファの瞳は、真剣そのものだ。
 
 「本気、だよな」
 「もちろん」
 「…そんなことバラしていいわけ? せっかく今はうまく騙してるのに」
 「あなたはいいの。引き込んで、仲間にしたいから」
 「…?」
 彼女の顔は明るく笑っていたが、目は依然として真剣だった。
 本気だからこそ、彼は余計に恐ろしくなった。
 「私がやることに賛成なら手伝ってよ。反対なら、――ちゃんと止めて。私は一旦計画したら、まっすぐ突き進まずにはいられない。途中では止まれないの。だから、正しいかどうか判断して欲しい」
 「…? なんで」
 ――なんで自分なんかに?
 そう言いかけたとき、彼女はそれをさえぎるように、きっぱりと言った。

 「信じられるから。――あなたは、自分で判断したら、ちゃんと動ける人だと信じてるから」
 
 そういうのは反則じゃないか、と彼は思った。
 信じてるから。…誰かにそんなことを言われたら、なんて答えたらいいのか分からない。
 
 「…間違ってると思ったら、文句言えばいいんだな」
 アルファはその答えに、黙って頷いた。
 彼が協力しないとしても、彼女は一人で戦うつもりだ。今までずっとそうだったように。
 そう思ったら、自然と次の言葉が口から出てしまった。
 「手伝うなんて約束できないし、自分が役に立つ自信もない。でも」
 ゆっくりと片手を差し出して、彼は言った。
 「今は君のことを信用してる、と思う。それから、…その。ここにいるときなら、泣いても恥ずかしくないから」
 アルファは彼の手を両手で強く握った。おそらくは感謝の証なのだろう、そうして彼女は笑った。
 その笑顔は、普段の優等生スマイルよりもずっと強い意志を浮かべていた。

 
 ――彼女はきっと、とても強力な『独裁者』になる。
 ティアンはその瞳の強さに驚き、強い確信を抱いた。
 アルファは、目的も意思も、市民が束になっても敵わないぐらいの強さを持っている。
 そんな強さを間近に見ていたら、自分も引き寄せられて、圧倒されてしまうかもしれない。でも…
 
 それでも、少なくとも、自分のことだけでいっぱいになってしまうことはないだろう。
 一人でいることをひたすら恐れる必要も無くなるだろう。

 …それから、一人で泣かなくてもいい。これからずっと。
 
 そう信じられるようになったときから、世界の全ては変わってしまった。


 
 「風が…」
 「?」
 「前は、風が寒かったんだ。ここに来ると」
 ティアンはぽつりと呟いた。
 「でも今は寒くない」
 「じゃあ、気持ちいいって思うの? 前にそう言ったら、怒ったわね」
 「風の吹く音を聞いていても寒くない。耳をすましてもいいと思う。夕暮れを見てても、デジタルアートじゃなくて、温度があって温かいような気がする。…前と違うのは、それだけなんだけど」
 「それは普通、気持ちいいって言うんじゃない?」
 彼はくすぐったそうに頷いた。
 「そうなのか」

 彼女の笑った音も、かすかな温かさと一緒に、つないだ手から伝わってくる。
 ――この温度を、いつの間にか分けてもらったのかな。
 だから、彼女がいないときでも、自分の中には小さな灯りがともったのかもしれないと、彼はぼんやり考えた。
 
 「私ね、今この瞬間のことも、忘れないと思うわ。矯正されても」
 「…うん」
 「きっと脳の一部じゃなくて、体のあちこちで覚えてるのよ。目に映った景色とか、頬に触れる感触とか」
 「――手のひらの温かさとか?」
 「そう」


 


 こうやって、僕はまたひとつ、彼女と分け合う記憶が増えた。
 
 そして、忘れたくない愛しい瞬間が、これからも宝物のようにひとつひとつ増えていくのなら。
 
 ――僕はここで、生きていける。



 

 
 
 end.

 

 
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