ナルシスの夢 @






















 私の中の一番古い記憶は、あのひとの顔から始まる。
 深い深い諦めのため息をついて、彼は言った。

 『…すぐに露と消える儚い命でも、全うさせてやるべきだろうか』

 呪文のような、まるで感情の無い呟きを、幼い私はただ呆然と聞いた。

 ――違う。

 私の存在は、そのとき、全て彼に注がれていた。
 あまりにも強烈な違和感に、その光景が耳と目に焼きついてしまった。
 初めて聴く音楽的な声、詩の一片を口ずさんだかのような言葉、…そして、姿。

 ふと、泉に咲く水仙が、光る水面に映る光景を見たと思った。
 白と金の粘土を人の形にこねた偶像は、あまりにも作り物めいていて、そんな、水面に映る影に似ていた。
 一歩近づくと、それだけで、触れる前に消えてしまいそうな幻。
 捕まえようとしたら、泉に落ちて死んでしまう――
 無意識に、そう思った。



 ほかの事は全て忘れてしまった。
 どこから来たのか、私は誰なのか。名前すら、あのひとが気まぐれにつけたもの。

 それでも、この出会いは幻ではない。
 例え泡沫の一瞬でも、私にとっては現実。
 あのひとの言う、私の儚い命は、ここから始まった。




***




 薄暗い部屋で、熱心に本を読みふけっていた青年は、ふいに差し込んだ光に目を細めた。
 金色の虹彩には、強い光が刺激になる。逃げるように顔を俯けると、その拍子に長く伸びた白い前髪が視界を塞いだ。

 「灯りがないと、読めないでしょ」
 部屋の扉を遠慮なく開けた少女は、やれやれといった口調で、手にした蝋燭の灯りを彼の目の前に置く。ぼうっと浮かんだのは、じっと青年を見つめる黒い瞳だった。
 「…こんなに暗かったのか」
 かすかな灯りがもたらす明るさに、彼は部屋の暗さに改めて気付いて、黒く縁取られた天井の窓をゆっくりと見上げた。
 「そうよ。いいかげんに出てきたら? 二日も穴倉に入り込んだままだなんて、まるでモグラみたい」
 「ああ」
 「体に悪いよ。ねえ、聞いているの?」
 「ああ」
 「…」

 星が瞬き始めても、本のページを繰る規則正しい音は止まない。
 少女はしばらく眺めていたが、そのうちやれやれと呟いて、くるっと背を向けた。
 別に無視されているわけではない。
 単に視界に入っていないだけ。いつものことだ。

 「お腹が空いたら、棚の中にあるチーズと胡桃のパンを食べてね」
 まるで猫にエサをやるのと大差ない声で、彼女は言った。
 これにも返事はない。
 だが、こう言うと、いつのまにか食べ物は無くなっている。だからきっと、聞こえてはいるのだろう。

 (猫だったらたまには懐いてくれるのに)
 彼が猫のように自分に甘える様子を思い浮かべて、彼女はそのあまりの想像の無謀さに、肩をすくめてそっと笑った。
 (無理だわ。有り得ない。…そんなの期待できるわけがない)

 ――だって、飼われているのは自分のほうなのだから。




***




 私が、…いいえ、彼が住む小島の家は、泉の館と呼ばれている。
 近くに住む村人は、用が無い限りここには近づかない。
 この館の主人は、人が近づくのを好まないからだ。それを、皆知っている。

 ときどき、育てた薬草と食料を交換に行く私に、人々は恐る恐る問いかける。
 『やあ、ターナ。いつまであそこにいる気だね?』
 『お前は良い娘だ。…悪いことは言わない。早く、戻っておいで』
 優しい人たち。大地に足をつけて生きる人たち。

 それでも私は、素直になれない。つい、意地を張って答えてしまう。

 いいの。もう少し、傍にいるわ。だって、私がいないと、あのひとは何もできない
 育ててもらった恩があるもの。見捨ててなんていけないじゃない――

 そんな言い訳は、誰も信じてくれないに違いない。
 当の本人すら信じていないのだから。



 あのひとは自分しか見ていない。誰も必要としていない。自分以外、誰も。
 こんな下らないことにすら、私は満足を覚える。
 彼が見ないのは私だけではないということに、救いようのない安心を求める。
 『私の種族は、私以外にいないからな。…ここには』

 彼の同胞は、青い空の彼方にいると言う。
 何も見えない夜の帳の星の向こうに。
 たまたま重い大地に落ちてしまって、囚われているだけだから、いつかは還るのだと呟く。
 そういいながら、彼は同じ日常をひたすら送り続ける。浮世離れした、現実感の無い暮らしを。
 星を測り、本を眺め、夜空を見つめる――その繰り返し。
 いつかは還るといいながら、永遠にそうしているのかのような錯覚を覚える。
 
 もしかしたら、いつかというのは、星が一周りするよりもさらに遠い先のことかもしれない。
 私とあのひととは、命の長さが違うのだから。


 いつも口癖のように彼は言う。
 『いつの間に大きくなった? このまえまでは、私の腕の中に納まっていたのに』
 …あなたが私に目を向けるのは、それほど珍しいことなのよ。

 『もう外でも生きていけるのではないか? 私はお前を縛りつけたりしないぞ。好きにするといい』

 悪気がないことなどわかっている。むしろ、最上級の思いやり。
 偶然出会ったことすら、単なる気まぐれの結果だ。その上、拾ってくれるだなんて、それこそ有り得ないほどの奇跡だったのだから。
 これ以上、何かを望んでどうするというの。
 それでも…

 『お前たちは、不思議だな。大地に縛られているのに、飛ぶように育っていく。空に上がったら、どうなるのだろう』

 ひとりごとのように、彼は理解のできない言葉を辺りに振りまく。
 対等に、…ううん、せめて「会話」ができたら、どんなに幸せだろう。
 そんな幻想を抱いて、私はかすかな望みに希望を託す。

 ――そして、あのひとの言うことの半分でも理解できたなら、私はもっと貪欲になるだろうか?




***




 ターナは子供の頃からずっと、屋根裏部屋に入ることを禁じられていた。
 けれど、すぐに隠れて入り込む手段を見つけた。
 子供は屋根裏部屋が好きなのだから、入るなというほうが無理というもの。



 「ターナ、ここに来てはいけないと言われているだろう?」
 こう警告するのは、彼の分身だった。いつ来ても、同じ声で、無表情に叱責する。
 どういうカラクリかは知らないけれど、これは動く映像なのだ。実際に腕に触ろうとしても、手は虚しく空を切る。
 ぼんやりとした光に包まれたそれは、この屋根裏に入ると、それを感じ取って、途端に動き始める仕掛けになっているようだった。

 「別に悪いことなんかしないわ。たまには話し相手が欲しいだけ」
 「私は何も話すことなどない」
 「それでもいいの。…少なくとも返事ぐらいはしてくれるでしょう」
 「なにも有意義なことはない。時間の無駄だ」
 「話をするのは無駄じゃないわ。必要なことよ。――私の種族では、そうなの」


 このカラクリは、実際、本当に何もしてくれない。
 相槌を打ってくれるわけでもない。慰めてもくれない。
 話をするのは自己満足だ。ひとりごとの、単なるエコーに過ぎない。
 それでも彼女は話し続ける。

 「ねえ。私は大きくなったわよね。初めて来たときと比べて、全然違うでしょう?」
 「君の身長は比較すると1.25倍に成長している。速度は平均的なレベルだ」
 「…そう。よく分からないけど、ありがと。じゃあ、私はもう子供じゃないのかな」
 「定義が曖昧だが、この星の基準に照らせば、一般的に15歳ならば成人期に達したとみなしてもいいだろう」
 「そうよね。…あのひとも、そう思ってるみたい。養い親なんて、きっと、もう飽き飽きしてるのね」
 「だとしても、道義的に、一度責任を負ったことを簡単に放棄することはできない」
 「…」

 責任というのは嫌な言葉だ。
 つまり、本当はやりたくないことでも、やらなければいけない、ということだ。
 早く重荷を下ろしてしまいたいと思っていても、厄介で面倒な荷物を捨てられない。

 (…重荷の気持ちだって、複雑なのに)
 彼女は少し苦笑いをして、目を伏せた。
 別に、重荷になりたいわけじゃない。邪魔をしたいわけじゃないのに。

 「あなたには、何を話してるの――あのひとは」
 「君に教えることはできない」
 「私に分からない難しいこと? それとも、聞かせられないこと?」
 「どちらにしろ、知って益になることではない」




 彼がここで話をするのも、単なるエコー。ひとりごとを言っているだけ。
 これは、仲間のいない彼が、あまりにも長い空虚な時を紛らわすために作った分身なのだ。
 心を持った存在ではない。本物の生き物ですらない。

 それなのに、こんな幻にすら嫉妬する自分は、どこかおかしいのではないだろうか。
 だとしたら、それもあのひとのせいだ。

 八つ当たりを承知で、ターナは忌々しい分身に殴る真似をしてみせた。
 「あなたなんか、消えてしまえばいい」
 これさえなければ、あのひとは…

 ――これさえなければ、私に話しかけてくれるかもしれないのに。

 そう考えようとして、すぐに首を振った。
 いくらなんでも、そこまで楽天的になれるわけがない。
 
 「…ごめん」
 彼女は最後に、反省して頭を下げた。
 「私に謝ることなど何も無いよ」
 「それでもこれ以上、情けないところは見られたくないの」
 「誰も、何も見ていない」
 「それでもよ」
 少しぐらいの自尊心でも、持たなければ生きていけない。




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