ナルシスの夢 A























 「あなたの仲間は、きっと迎えには来ないわ。あなたのことなんて忘れてしまってるのよ」

 あのひとは哀しい顔をしていた。流れない涙が、その頬に見えたようだった。
 ひとりきりの孤独を、私が知らないわけではないのに。
 一番残酷なことを言ってしまった。
 とても、とてもひどいことをしてしまった。



 けれど頭のどこかで、こう思う。

 ――『とうとう』、言ってしまった。

 私は確かに確信犯だ。





***




 いつものように、屋根裏部屋にこっそりと入り込もうとしたときのことだ。
 あのひとと分身が話しているところに出くわした。

 「…救難信号は出ているんだろう?」
 「こんな辺境までそうそう船が来るものか。運が良かったらそのうち拾ってもらえるさ。もう少し待つんだな」
 「本当に役立たずな人形だな。…それとも、表層人格のコーティングが悪かったのか」
 「ああ? おい、誰の人格を移植したと思ってるんだ?」

 話の内容は分からない。
 ただ、あのひとが仲間に救いを求めていて、それが叶えられないことはかろうじて聞き取れる。

 「…。仕方ない。しばらくなら待つさ。幸いなことに、私には時間だけはあるから」
 「そうだな。暇つぶしのタネもちょうどよく見つけたようだし、お前はここでも生命は維持していけるだろうさ」
 それが『生きる』ことと同義かどうかは知らんが。――影は嫌味っぽく付け加える。
 「何を言ってる?」
 「おお、身に覚えはないのか。それはすまなかった。単に事実を述べただけだ。気にするな」
 「だから、何のことだ?」
 「お前はひとりで生きているつもりだろうが、実際には違うってことさ。呼吸して栄養を摂取して排泄するだけなら、動物だってできる。だが、どの種族だろうと、心ある生き物はひとりでは生きられない」

 心臓が沈んだ鼓動を打った。
 なんと答えるのだろう…彼は。
 暗い期待を胸に、答えを聞く時間は、とても長く思えた。――

 「私はひとりだ。わざわざ思い知らせてくれなくてもいい。私はここから飛び立つ手段が無いんだ」

 (……)
 それを聴いて思わず、心が破れそうになった。

 私が一緒に生きているつもりでいた、ただひとりの人。でも私はこのひとの名すら知らない。
 『好きなように呼べばいい。私の名はお前には理解できないだろうから』
 特別に冷たく言われたわけでもない。ただ淡々と、事実を述べる声で、そう言われた。
 だから私は勝手に名をつけた。
 初めて会ったときに思ったとおりに。…水仙の色とイメージで。

 でも、私がつけた名は、あのひとにとっては意味がなかった。
 その名で呼ばれても、彼は自分がひとりだと感じていたのなら、そういうことなのだ。

 いつも呼んだら、いつか答えてくれるかもしれないと思った。
 その名で答えてくれたら、私を見てくれるかもしれないと。
 …でも…

 ――それなら、あのひとが作り出した分身よりも、私は意味がないものなの?

 そう思ったら、もう耐え切れなかった。
 ここにいてはいけないという言いつけを破ったことなど忘れて、彼の前に飛び出した。
 そして言ってしまった。あの、刃のような一言を。




***




 「…そうだな。きっと私は忘れられ、たったひとり、ここに囚われの身であり続けるのだろう」
 ナルシスは金色の透明な瞳で、刺すようにターナを見た。
 これは彼の怒っている顔。そして、哀しんでいる瞳だ。
 理不尽な怒りをぶつけると、彼はいつも戸惑い、傷つく。
 なぜ彼女がこんなことを言って彼を追い詰めるのか、ただ理解できずに悲しむからだ。
 「さあ、認めたぞ。これで満足なのか? フォンターナ」
 「…っ」

 しおれた花のように、彼女は力なく首を振る。
 …これは喧嘩ではない。
 喧嘩ができたら、私は苦しまない。
 だって、それは私に向き合っている何よりの証拠なのだから。
 私を見て、怒って欲しい。そして、思い切り罵ってくれればいい――

 (ああ、そうか。そうなんだ…)
 そこでターナは、ようやく気がついた。
 (私はそのためにこんな酷いことを言ったんだ。ただ、振り向いて欲しい。そのためだけに)

 あまりに醜い自分の本心に、彼女は思わず笑ってしまった。
 単なる独占欲と、意固地なワガママで、このひとに悪意を浴びせた。
 (――どうしたって、このひとには届かないのに)
 ターナは絶望に思わず溢れそうになった涙を見せないように、背中を向けて逃げ出した。



 愛しさも、悲しみも、彼に向けた精一杯の想いは、全て自分に跳ね返ってくるだけ。
 だって、受け入れたら、彼は傷ついてしまうから。
 その弱さを、彼女はいとおしいと思う。
 孤独に耐えるために殻に閉じこもった彼を、非難するつもりなどない。


 …けれど、それならば、行き場を失った想いは、どこへ行けばいいのだろう?

 自分の中に閉じ込めておくには、あまりにも大きく育ってしまった心は、どこに捨てればいいだろう?



 いっそ、空に向かって飛ばしてしまいたい――





***




 ターナが泉の館を去ったとき、館の主はただ沈黙した。
 
 何も思わなかったわけではない。
 ただ、予想していたことが実際に起こってしまったという、予定調和が為った安堵感があった。
 ということは、心のどこかで望んでいたのだ。
 …こんな風に、かすかに絶望することを。
 
 
 数ヶ月もすると、彼はさすがに本に没頭することが億劫になった。
 久方ぶりの孤独は慣れるのに時間がかかる。
 彼はまた、以前のように、分身にひとりごとを語りかけた。
 
 「あの子は飛び立っていった。この世界へ戻っていったんだ。…仲間のところへ」
 これに、彼の影はふん、と薄く笑った。
 「戻った、か。お前が戻したんだろう? あの子を持て余して」
 自信なく否定すると、分身はさらに言った。
 「あの娘は、お前と違って、仲間など欲していなかったのに』
 「そんなはずはない。あの子はこれでやっと幸せになれるだろう」
 元々拾ってしまったのが間違いだった。…そんな自嘲をもらしながら。
 すると、ため息に聞こえる沈黙を置いて、分身は己の意志を示した。
 「あの子にとっての幸せ? そんなもの、お前は考えていたのか。あの子のことすら満足に知らないくせに」
 「…」
 
 黙り込んだナルシスに、影は意地悪く問いかける。
 「あの娘の言葉を、一字一句ここで繰り返すこともできる。聴きたいか?」
 「別に…」
 「検索しないなら、削除しよう」
 「…。」
 「聴くのか?」
 自分の性格を模して作ったAIの人形。――呆れるほど、嫌味な奴だ。
 こちらの弱みを、よくわかっている。…

 
 
 
 『ナルシス! どうしてここにいるの?』
 初めてここに来たときの映像だろう。ターナは幼い声で驚いている。
 懐かしい子供の笑顔。

 …そう。こんな笑顔を見せるまでにどれほどかかったことだろう?
 初めて出会ったあのとき、彼女の傍には祖父と思われる老人の死体があった。
 おそらくは盗賊にでも襲われて殺されたのだろう、惨い様子の亡骸にしがみつくように、あの娘はいた。

 彼女は長い間、表情を凍りつかせたまま、一声すらも発することができなかった。
 無邪気に笑うようになったとき、自分がどれほど安心したことか。
 悲惨な出来事は、幸いにも、彼女の記憶には残らなかったらしく、彼は心底安堵した。
 …おそらくは記憶障害の一種なのだろうけれど、それでも良いと思った。
 このまま腕の中で儚く散ってしまったらどうしようと、本気で思い悩んだ後だったから。

 幼いターナは、ときどき夜中に突然、引き付けを起こしたように泣き出した。

  『血が』
  『私をおいていかないで』
  『しなないで』――

 細切れにそんな悲鳴を上げる少女に、彼は恐る恐る近づいた。
 そして、不器用にゆっくりと抱きしめて、泣き声が止むまで、そっと答え続けた。

 『大丈夫だ、誰も血を流していない。それに、誰も死なない。私は、お前よりも先には死なないから』
 『ほんとう? ひとりぼっちにしない?』
 『お前がひとりになりたくないのなら、私は傍にいよう。お前が望むなら、お前が死ぬそのときまで』
 『やくそくね。きっとだよ。おいていかないで――』

 小さな手で必死にしがみつく子供に、嘘など言えるわけがない。
 彼は頷いて、しっかりと少女の手を握り返した。
 どこにこんな力があるのだろうと思うほど、少女は強くきつく自分にしがみつく。
 その温かさに、彼は瞬間、愛しさよりも先に恐れを抱いた。――

 …幼い彼女に森の中で出会ったとき、彼はひたすら躊躇し、苦悩した。
 無力な存在を保護する責任の重さに、ひたすら怯えた。
 自分以外の誰かを守ることはとても恐ろしい。
 心を移そうものなら、己の死よりも大きな恐怖を生むから。

 だから、ずっと思っていた。
 懐に迷い込んだ小鳥が、早く成長して、自分の手を離れてしまえば、どれほど楽になるだろう。
 元々あるべき世界に飛び立ってくれたら、どんなに気が晴れるだろうと。

 けれど――




 分身が映し出す彼女の姿が、時と共に変わる。
 ほっそりと大人びた、少女の顔に変化する。そしてそれは、次第に曇っていく…

 『私じゃダメなの? あのひとの仲間になれないことなんて分かってる。満足な話し相手にもなれない。でも』
 『私ならひとりにしないのに。短い命しかないけど、その間ずっと、あのひとの傍にいてあげるのに』


 …なぜ、自分などにこだわるのだろう。
 他に人間がいなかったから。――おそらくは、ただそれだけの理由だろうに。
 幼い憧憬など、まったくの思い込みだ。もしくは、ただの勘違い。
 生きるサイクルがまったく違う存在を愛するなど、愚かとしか言いようがない。
 たまたま近くにいた異性に向ける彼女の想いは、幼さ故の錯覚に過ぎない。

 ――そう、いささか哀れむように、過去のターナを見つめていた彼は、次の映像が始まったとき、思わず呼吸を止めた。


 『…分かってる。この想いは、あのひとにとっては重いの。私のことを嫌ってるわけじゃない。ただ、とても重いと感じるのよ』
 (――重い?)
 ずきんと胸が痛む。この娘は、何を知っているというのだろう。

 何も知りもしないくせに。
 知識も英知も何も無い、こんな辺鄙な未開惑星の原始的な種族の、さらにちっぽけな小娘。
 自分の孤独も、宇宙の存在も、何も知らないはずなのに。…


 『自惚れてるんじゃないわ。嫌われてない自信があるわけでもない。ただ、知ってるの。だって、ずっと私は見ていたんだもの』

 ――何を?

 『あのひとは、永遠に穏やかな時の中を彷徨っていたいの。私のことも、ゆっくりと忘れたいのよ。傷つかないように、穏やかに。無くなるものに想いを預けたら、苦しむだけだから』

 ……。
 張り詰めた呼吸が、彼を圧迫した。

 彼女は何を知っていた?
 
 
 打ちのめされたように、彼は映像に見入った。
 ターナの顔は、ますます悲しく歪む。けれど、その表情は醜いものではなかった。
 彼がもう忘れてしまった、遠い日に見たはずの、懐かしい表情のように思えた。
 ――あれは誰の顔だったろう? 
 それすら思い出せない。こんな記憶を回想することは、ひどく痛みを伴う。

 あの小鳥は、ときどき彼にこんな甘い痛みをもたらす。
 ひとりになったときに封印した感情は、いつのまにか、あまりにも脆くて壊れやすい脆弱な代物となってしまった。
 だから見たくなかった。知りたくなかった。…無視をした。

 それでも、分身が映し出す映像は止まらない。


 『私の思いは、あのひとを縛りつける鎖。優しくて臆病なあのひとには、苦痛にしかならない』
 『だからどこかへ行ってしまいたい。できるものなら、あのひとから離れて、どこか遠くへ』


 『…これ以上、あのひとを苦しめないように』






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