ナルシスの夢 B

「…」
「これで終わりだ」
残酷なほど無機質に、彼の影は言った。『これで全てが終わり』と聞こえるような言い方で。
顔を俯けて、彼はぼそっと呟いた。
「だから何だというんだ。…あの娘は、もう出て行ったんだ」
「お前のためにな。つまりは、お前が追い出したんだ」
「違う。あの子にとってはこれが…」
怯えるように、イライラと歩き回る青年に、分身はせせら笑って言った。
「怖いのか?」
「…? 何が…」
「お前は怖いんだろう? あの娘が、ひとりになっても大丈夫だと分かってしまうことが。『お前が』ひとりになってしまうんだからな?」
「私は元々ひとりだ。あの子が来る前から、ずっとひとりだった」
「だが、あれがいれば、ひとりではなかった」
「だから何だ」
イライラが頂点に達して、彼は分身をにらみつけた。
「だからって、あの娘をあのまま傍に置けばよかったのか? 何も知らないターナを、ただ孤独な時間を埋めるように利用するのか」
「別に利用でもなんでもない。あの娘は、何も知らない子供じゃない。あの子は何でも知ってる」
「…」
「情けないお前の本心も、自分の思いの強さも。それから、お前の弱さも」
「黙れ」
「いや、こう言ったらお前はほっとするだろう? あの娘は望んで傍にいたいと願ってるんだから、罪悪感なんていらないんだよ」
「…お前の言葉はまやかしだ。私の心が生んだ誘惑だ。そうだろう、お前は、私の影なんだからな」
「ほうら、本音が出た。それがお前の本心なんだよ。お前はあの娘を傍におきたい。そして、都合のいいときに自分を慰めて欲しいんだ」
「…」
「違うといえるか? 言えないだろう? あの娘の短い命を、お前は自分のために捧げて欲しいと思ってるんじゃないのか。長く虚しい生を、余興で楽しませる道化として」
「…うるさい…っ」
とうとう堪えきれずに、彼は長い白髪をかきむしった。
この幻が吐く言葉は、つくづく真実だ。鏡に向かって話しているのと同じ。
己の胸の奥に確かに存在する欺瞞の塊を、まざまざと見せ付けられることの醜悪さといったら。
彼女は何を知っていた?
彼女は知っていた。
自分の心の全てを。――彼自身すら知らなかった、醜い本心を。
…そう。自分は、少女の想いを、素知らぬフリをして無視していた。
そして、心のどこかで喜んでいたじゃないか?
「認めてやろう。そうだ、私はあの娘の幸せなんか願ってはいないんだ。いつだってそうだ。自分のことだけを考えていた」
「…ふん。良かったじゃないか、ようやく素直になった」
「ああ、良かったよ。…気付いたときには、あの子はいない。本当に良かった」
「?」
「これで私はこれ以上自分を憎まずにすむからさ。…どうだ? エゴイスティックな理由だろ」
「まったくだ。…見てみろ」
分身は、終わったと思っていた映像をまた続けた。
嫌がらせのように、映像はくっきりと彼の目に飛び込んでくる。
そして、少女の声がまたぼんやりと反響して耳に響いた。
『だけど、もし』
『もしも、あのひとが苦しまないでくれるのなら』
「止めろ」
怯えたように、彼は影に叫んだ。これ以上、馬鹿なことを言わせるな――
そんな願いも空しく、少女は呟く。
『あのひとを愛してもいい? 永遠に、とはいかないけど、せめてこの命が尽きるまで。あのひとは無理だろうけど、私は短い命だから、あのひとだけを思い続けることが出来るでしょう』
「もう止めろ。あの子は幸せになれるんだ。私の手の届かないところで――」
彼は映像に向かって呻いた。これは過去の映像だと知っていても、止められずに。
彼女はなおも続ける。彼にとって、その声はどこまでも残酷に、優しく甘い。
『あのひとの心を、私は知ってるから。私の想いを重いと感じるのは、あのひとが優しいから』
「…そうじゃない。臆病だからだ」
『自分しか見ようとしないのは、傷つきやすいから。他の人を愛さないのは、傷つくのが怖いから』
「卑怯だと言えばいい」
『それなのに、私を助けてくれたから』
「…」
彼はおずおずと顎を上げ、金色の瞳を瞬かせた。
正面に据えられた少女の像から、穏やかな微笑が広がる。
これほど彼女とまっすぐに向き合ったのは、出会ったとき以来ではないだろうか?
彼はその姿に目を見張った。
大きくなったと思っていた。もう子供ではないと。
成長した姿など、何度も見慣れていたはずだった。
けれど、彼女は脳裏にある記憶とは、まるで別人のような顔をしていた。
微笑みの中にある憂愁が、驚くほど彼女を大人に見せていたからだ。
『あの暗い夜に、あなたは怯えながら、私を抱きしめてくれたから』
『だから、私はあなたを守ってあげたいと思ったの』
どのくらい黙っていたのか分からない。
だが、しばらくして誰かが言った。
「いつまで閉じこもっているつもりだ?」
――こう言ったのは、自分を模した憎らしい人形だったろうか。
…それとも、もしかしたら、自分自身だったのだろうか?
胸に響いた声は、どちらから発したものなのか、彼には区別できなかった。
***
少女は道なりの街道を歩き続けて、いよいよ七つ目の丘を越えようとしていた。
この丘を超えれば、もはや見知らぬ土地へと足を踏み入れる。
途中で数え切れないほど多くの人に出会った。
彼女のこれまでの人生で出会ったのと同じくらいの数と。
彼女に親切に声をかけてくれる少年もいた。例えば、こんな風に。
『ここに、ずっといればいい。俺はあんたのこと気に入ったよ』
――あんたは村の娘たちより、器量も言葉も垢抜けてる。
少年はターナに、見たことも無い花と、賞賛の言葉を贈ってくれた。
だから彼女は、戸惑いながら、こう答える。
『ありがと。…でも…』
『どこか行くアテでもあるのか。ないなら、ここに残れよ。そして』
少年は言う。
――ここで一緒に暮らさないか。あんたがよかったら。それから、家を建てて、子供を作って…
当たり前の人生を、少年は語った。人々の普通の生き方を。
だが、世捨て人のように暮らしてきたターナにとって、それは想像したことのない未来だった。
だから彼女は、正直に訊ねた。
『家を建ててどうするの。子供を作って、いったいどうなるの?』
少年は目を見張って驚く。
『どうって…。それは、それが大人になるってことだろ。生きるってのはそういうことだ』
『そう、なの? …私は自分が望むように生きていられたら、それでいいと思う。他の人と同じじゃなくても』
『そんなの変だ。ちゃんと生きてない』
『変…かもしれないけど。でも、ちゃんと生きてないってどういうこと? そうしたいと思うことをしてはいけないの?』
『あんたは、綺麗な娘なのに、おかしなことを言うなあ』
ターナの不可思議な答えに、少年は去っていった。当然のことながら。
彼女はただ、ぼんやりと考える。
(そうか、これが『普通の生き方』というもの?)
でも、別に「ちゃんと生き」なくたっていい。死んですぐに忘れられたって構わない。
生きた証を残したいなんて思わない。
だって、本当は死んでいたはずの命なのだから。
(私も、地に足がついてないのね。――あのひとみたいに)
そう考えて、思わずくすくすと笑った。育った環境に思った以上に染まっていたことがおかしくて。
――そして、一歩進むごとに、笑っていたはずの彼女の心は、ゆっくりと暗く沈んだ。
いよいよ、一歩ずつあのひとから遠ざかる。
残してきた想いと、最後に見た悲しい顔が、いよいよ鮮やかになろうというのに。
少女はふと後ろを振り向いてみた。
もしかしたら、あのひとが追ってきてはくれないだろうか。
――そんな、かすかな希望を捨てきれない自分に、彼女はつくづく嫌気が差した。
***
「ねえ、お花買って」
「え…」
旅に出て、数ヶ月もした頃だった。
ある木陰でぼんやりとしていたターナに、数人の子供が声をかけた。
「どれがいい?」
手にしているのは、色鮮やかな野の花だった。マーガレットに、百合に、…それから、水仙。
「…これ、どこにあったの?」
「泉のほとりに咲いてるよ。たくさん」
「たーくさん」
大きな身振りで声を揃える子供たちに、ターナは笑って、子供の傍にしゃがみこんだ。
そして、花束の中から水仙を数本抜き出して、代わりに銅貨を一枚差し出した。
「これ、大好きな花なの。きっと私は泉だから、水仙が好きなのね」
「じゃあ、もっと欲しい? たくさん咲いてる場所、教えてあげようか」
田舎の村では高価な銅貨を見た子供たちは、一層勢いをつけてターナに群がった。苦笑しながら彼女も答える。
「…ありがとう。じゃあ、案内してくれる?」
子供たちと一緒に、ターナは近くにある深い森の奥に入り込んでいった。
青々とした緑と共に、ところどころに柔らかな光が射す。
床の絨毯は、ふかふかな苔で覆われて、足音すら吸い込んでしまう。…
「…ここ、知ってる」
ターナは次第に襲ってくる既視感に、足元がグラグラと揺れてくるのを必死に抑えた。
「そうなの? この奥だよ。ずーっと先に泉があるんだ」
でも、と子供たちは続ける。
「ときどき、怖い魔物が出るんだ。だから、大人は怖がって近づかない」
「魔物?」
「そう、暗い中でぼーっと光るんだ。すっごく怖ーいんだよ」
子供の一人が、怯えさせるように言う。
それを合図にしたかのように、他の子供が叫んだ。
「ここに骸骨がある!」
見ると、確かにそこには白骨化した頭蓋骨が土に埋もれていた。
明らかに年月を経た、古い遺骨。
…と、同時に。
森の奥からは、ぼんやりと白く光る亡霊のような影が見え隠れしてきた。
明らかにこちらへと近づいてくる…
こんなものを見たら、いくら悪戯好きの子供でも我慢してはいられなかった。
口々に悲鳴とも嬌声ともつかぬ声を挙げて、子供たちは走り出す。
「ホントにお化けが出たぞ!」
「骸骨のお化けだ!」
本当に驚いて、怖がったのだろう。子供たちはターナを置いて走り去ってしまった。
「お化けだって」
ゆっくりと亡霊のように近づく影に、少女は軽口を叩いた。
触れるほどの距離になった『お化け』は、不本意そうに顔をしかめる。
「…」
「私はここを知ってるわ。あなたと初めて会った場所。…そうでしょ?」
「覚えていたのか」
「忘れるはずがない。ここから始まったんだもの――全てが」
少女は二度と会わないはずだった青年の顔を、いっそ懐かしそうに見遣った。
その不機嫌そうな口元も、寂しげな目も、全てが記憶に染み付いて離れない。
初めて出会った場所で彼を見ると、髪の一筋までがそのまま変わっていないように思える。
(――本当に私はこのひとと10年も一緒にいたのかしら)
それすらも、今となっては怪しく思えてきた。…
「…お前は、ここを忘れたほうが幸せだった。不幸の源だ。何もかもが」
「あなたと出会ったことが? …それとも、私と出会ったことが?」
「両方」
「じゃあ、何故こんな」
――こんなところに来たの。わざわざ、私に最後の別れをするため?
思わずなじるような言葉を口にしかかって、少女はそれを危うく飲み込んだ。
黙って出てきたのは、喧嘩をするためじゃない。
…ちゃんとした喧嘩は、もっと早くにしたかった。
「…いったい、何をしに来たの。散歩にしては遠すぎない?」
「お前も私も、逃げるべきだった。お互いに」
「…?」
「早く気がついたら、逃げられたのに。この重さに縛られる前に」
「何が…」
「この空よりも、この星の重力よりも、私たちはお互いの心に縛られてしまった。縛る重さを心地良いと感じてしまうほど」
「…っ」
夢を見ているのかと思って、少女は呆然と目の前の水仙を見た。
確かに存在しているように見える。
夢ではないように思える。…
「私の生命は長い。お前が死んだ後も、ずっとずっと私は生き続ける。だから、いずれお前の思い出など消えてなくなってしまうだろう」
――それでもいいのか?
傲慢な躊躇いを滲ませて、無言で問う彼に、少女は泣き笑いの顔で答えた。
「私の命は短いから。あなたが夢を見ている間に過ぎ去ってしまうわ」
「…それでいいのか? 何百年も経って、お前がいたことすら忘れてしまってもいいというのか?」
「そうしたら、私はきっとあなたの夢になる」
「…夢…?」
「そうよ。眠ったときに、その中で思い出すの。…だから、一瞬だけでいい。そして目が覚めたら忘れてくれてもいいの。私はあなたの夢の中で生きるから」
彼は目の前の少女を見た。
黒い瞳が彼を見つめ返す。彼の何倍も強く。
その瞳に射抜かれたように、彼は呆然と佇んだ。
これが自分の夢だというのなら、なんて美しい瞳だろう。
この瞬間は一瞬だとしても、強烈に焼き付けられた記憶は薄れることなく残ってしまうだろう。
だとしたら、これは、永遠に醒めない幻だ。…
「だからせめて、今だけは私を見てくれる?」
彼は無言で頷いた。…それしかできない情けない自分に、彼女は言った。
「それならもう一度、ここからやり直しましょう。今度は名を呼んだら、答えてくれる?」
「…ああ」
苦笑しながら彼は答えた。
これが自分の甘えでも、偽善でも、なんだってかまわない。
…彼は開き直ってそう思った。
***
そして、いつもの日常はきっと、いつまでも留めておきたい夢に変わる。
いつかは覚めるその瞬間を予感しながら。
彼がこの重さから逃げ、仲間の元へと去っていくことを彼女は恐れ、
彼は彼女がこの夢から醒めて、あるべき世界へ戻っていくことに怯える。
それでも、ふたりは確信する。
今は――今だけはもう、ひとりではないことを。
青年は、少女には言えない呟きを、分身に向かってこっそりと洩らす。
――もし目が覚めたとしても、自分はまたこの夢を見たいと願うだろう
――そして必ず、永遠に覚めないことを祈ってしまうだろう…
end.
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