生気感情  
-vital feeling‐  <1>









 「…はあっ…」

 少女は重い木製の扉を押しやりながら、かじかんだ手を少し擦った。
 小さな手のひらは真っ赤に染まり、すでに感覚はなかった。
 自分の手なのに、何かに包まれているようにかじかんでしまって、思い通りに動かない。
 寒さが極限に来ると、頭の奥が痛み出す。吹いてくるかすかな風ですら、痛みに変わっていく。
 それでも少女は顔色一つ変えず、声一つ発することもなく、ただじっと目を閉じた。
 しばらくそうやって堪えると、また小さな歩幅で、懸命に歩き始めた。


 もうすぐ冬がやってくる。
 冬は沈黙の季節。命の音が静けさの中に消える。
 何も無い空虚な景色は、どこか自分の心に似ている、と彼女は思う。

 黙々と階段を登り、塔の頂上へ登りつくと、彼女は豪奢な刺繍の施された赤い上着を反射的に引き寄せた。
 (…寒い…)
 寒々しい真夜中の散歩で初めて、彼女はあまりの寒さに身を震わせた。
 吹き付けてくる風は雪の白と空の灰色をしていた。


 なんのためにこんなところに来るのか、彼女にもわからない。
 人の目を避けるように、危険な冒険を楽しむように。
 この国で最も安全で優雅な場所では、そうしないと息をすることすら厭わしい。
 ――もしかしたら、一番の理由は、そうやって生きていることを必死に確認するためなのかもしれない。
 

 自分が閉じ込められているこの場所が、果たして城なのか牢獄なのか、それすら彼女にはわからない。

 ただ知っているのは、穢れがやってくる『そのとき』まで、自分はここから出られない、ということだけだった。





***




 青年がその都へとやってきたのは、初春の近づく冬の終わりだった。
 遠い南の地からわざわざ足を運んだ理由は、あまりなかった。強いて言うなら、彼自身の直感の故だ。

 
 『それほど真実を歪めてしか見られぬのなら、探してくるがいい。お前が望むものを』 
 
 (…ふん)
 師の皮肉な言い回しを思い出し、彼は半分馬鹿にしたように鼻先で笑った。
 「どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ」



 青年は名をクリシュナといった。
 聖なる山脈の周りでは有名な神の名であり、子供にその名をつける親は多い。
 彼自身にとっては、己の裕福な生まれと同様に、名も親から与えられた無意味な賜物でしかなかった。

 (師の求道とやらは、所詮上辺だけの見せかけだ。断食や水浴びで何が分かる)
 クリシュナは長い旅の間、ずっと不機嫌な表情をしたままだった。
 彼の生まれた階級では、青年期と呼ばれる期間をずっと、特定の師について学ぶ。
 そして、生とは何か、智とは何かについて、果てしない問答を繰り返すのだ。
 それは旧来からの慣習であり、家を守り生活することとは別の、生きる目的そのものと考えられていた。
 ――だが。

 『お前は何故私の教えに耳を傾けぬ? 何故しきたりに背き、穢れを身に纏う』
 師はそう言って、掟に縛られまいとするクリシュナをしばしば罵倒した。

 彼らの世界において、師の言は絶対だ。
 十年、ときにはそれ以上の間、師の家に寝泊りしながら、師の生活全てに仕えるのが決まりなのだから。
 クリシュナも両親の勧めに従い、15のときから師の元に入った。
 ところが、彼は十年どころか五年もしないうちに、その生活に心底嫌気がさした。
 (いつまでもこんな年寄りの相手をしていられるか、馬鹿馬鹿しい――)
 
 彼の師は、それほど酷い仕打ちをしたわけではなかった。
 他の導師に比べても、清貧な部類の、学者肌の師であったろう。
 だが、クリシュナは師の教えというよりも、しきたりそのものに反発した。
 『理想の生き方が、こんなものか』
 彼は次第に、いても立ってもいられないほどの焦燥と怒りを師にぶつけるようになった。

 聖者と呼ばれる者は誰もが、わずかな穢れに過敏に反応し、穢れを忌み嫌い、沐浴や断食で清浄を保つ。
 それにも飽き足らない者、もしくは人生をやり終えたと感じる者は、森林に隠れ住む隠者の生活へと入る。
 クリシュナにはこれが納得できなかった。
 ――下らない儀式と枯れ果てた隠遁と、それで得られるものが何だというんだ?

 『水を浴びて落ちるものなど、穢れではなく垢ぐらいなものでしょう』
 彼が師にむかって挑戦的に意を唱えると、師は決まってこう教え諭した。
 『そうして事あるごとに己の罪を自覚することが重要なのだ。人は呼吸をし、身を保つことだけで穢れていく生き物なのだから』
 『ならば生きている人間は、穢れるのが当たり前なのではないですか』
 『そこで堕落してどうするのだ。人は常に清浄であろうと努力せねばならぬ』
 クリシュナと師の問答は、どこまでもすれ違い、彼は師の教えを受け入れることができなかった。
 こうして師と弟子とは、永遠にすれ違う真理を追うこととなった。
 
 
 青年は知識を求め旅に出た。正確には師の家を飛び出し、そのまま故郷を後にした。
 供につれたのは、家から持ち出した、ただ一羽の鷹だけ。
 師の元を離れたあと、まずは名高き聖賢の元を訪ね歩いた。
 学識高い賢者の集まる廟堂へ身を寄せ、昼夜の区別なく学問に打ち込む日々も経験した。

 だが、彼はどんな師の教えにも、いかなる学問にも、真理を見出せなかった。
 それは生きている教理ではなく、中身の空虚な、形式だけの抜け殻としか思えなかったからだ。
 
 ――どこまでいっても、生きることに変わりは無い。
 だが、生きることとは、…罪と穢れを負うこととは何だ?
 答えなど出るはずのない命題に、彼は若くして囚われてしまった。


 そうして、彼はあちこちを放浪し、耳にした場所へふらふらと渡り歩いた。
 旅を支えるものは、ほとんどが若者らしい好奇心だった。
 女神への崇敬が生々しく息づくと言われるこの都に足を伸ばしたのも、この旅の目的の一つだった。




***




 クリシュナがその宮殿に足を向けたのは、都に着いてすぐだった。
 
 広間から中心の参道の奥にそびえる高い塔。
 天高くそびえる塔の外見は、人を威圧するような圧迫感をもっている。天蓋の壮麗な丸天井は、おそらく天上世界を模しているのだろうと思われた。
 彼がその神の宮を半ば睨みつけるように眺めていると、参詣に来た旅人たちは彼を見て、面白そうに笑った。
 「なにを怒ってるんだ? 女神さまを見に来たんじゃないのか」
 「そろそろお顔が見れるかもしれんぞ。運が良ければな」
 見ると、周りの人間はみな楽しそうに窓を見つめ、今か今かと神のお出ましを待っているかのようだった。

 「顔…。直に見られるっていうのか?」
 クリシュナはいかにも胡散臭そうに、隣にいた男に聞いてみた。
 「ときには、そういうこともある。我らが女神は気まぐれだがな」
 「…へえ」
 口の端を曲げて、彼は笑った。
 (どうやら、ここの女神は民の偶像になってるみたいだ)
 「どうせ着飾った娘が出てきて笑って手を振って行くんだろう?」
 馬鹿にした口調で彼が言うと、人の良さそうな男は、違う違う、と大げさに手を振った。
 「あんた旅の人だね…何も知らんのか。タレジュさまは高貴な方だぞ? 笑ったりなどするものかい」
 「ふーん。じゃあ、どんな子なんだ」
 
 旅の途中で聞いた話は、タレジュという少女が神として崇められていること、王すらもその予言には敬意を払うということぐらいだ。
 少女がどんな娘なのか、そこまでは知らなかった。

 「なにしろ女神さまだからな。こちらのほうなど見ては下さらぬ。お姿が見られれば幸運というものよ」
 「…」

 よくよく聞くと、タレジュというのは、その娘の名ではないらしかった。
 国内でも指折りの名家の中から、32の聖なる特徴を備えた娘が、代々の女神として選ばれるのだという。
 彼女は神の娘として崇められ、血の穢れによって人に戻るまで、塔に君臨する。
 現世に現れた生き神として。

 「今のタレジュさまは11歳、もう八年もの間、神であられる。神々しいほど美しい少女なんだぞ」
 「…11、ね」
 クリシュナは呆れたように相槌を打った。
 ――要するに、ただの子供だ。

 彼はその男から暇つぶしに様々な話を聞いた。
 この国の民が女神をどれほど崇めているか。王がその予言にどれほど心酔しているか。
 聞けば聞くほど、彼は懐疑的になった。
 …本当に大の大人がよってたかって、11の子供の言うことを真面目に聞いているのか?

 どんな娘が出てくるのか、彼は期待半分で見守った。
 だが、しばらく待っても、結局、神が現れることはなかった。 



 「どんな娘だろうな、ハンサ?」
 青年は肩にとまった鷹に問いかけると、手にした生肉の欠片を無造作に差し出した。
 彼にとって唯一の家族であるハンサは、彼に似てとても気位が高い。
 いくら餌をやろうとも、気に入らない人間には愛想の一つも見せない鳥だった。

 彼はこの鷹を無二の親友として気に入っていた。馴れ合いばかりしたがる人間よりも、ずっと性が合う。
 「お前、飛んでいって調べてこいよ。あの塔にいるんだ」
 冗談交じりに、彼は傍らの鳥に軽口を叩いた。
 すると、まるでクリシュナの言葉を鵜呑みにしたかのように、ハンサは羽をばたつかせ始める。 
 「なっ…。おい、ハンサ!」
 慌てて叫ぶクリシュナをよそに、鷹はその肩を離れた。
 そして含み笑いをするかのように旋回したかと思うと、本当に塔の方向へと飛び去ってしまった。

 「あいつ…!」
 クリシュナは苦々しく呟く。隣の男は、笑いをこらえるようにくくっと喉を鳴らした。
 「あんたの鳥もタレジュさまがお好きなようだ」
 「馬鹿いうな。あれは俺の相棒なんだぞ」
 青年は怒ったようにそう返すと、どこか荒々しい足取りで、塔に向かって突き進んでいった。




***




 塔の入り口で、門番は居丈高に青年をねめつけた。
 「旅の者か。…何の用だ」
 この様子にむっときたクリシュナは、相手に負けないぐらいの不機嫌さで、高慢に答えた。
 「悪いが、俺の鷹がこの頂上にいるんだ。連れ帰るから、少しの間、入れてくれ」
 「馬鹿か、貴様は。そう簡単に素性の知れぬ輩を入れられるはずがなかろう」
 「少しだけだ。いいから、上の人間に取り次いでくれ」

 クリシュナの旅慣れた風貌と薄汚れた衣を見て、門番は胡散臭そうに顔を顰めた。
 「お前のような宿無しを取り次げだと? 厚かましい」
 「いいから、黙って取り次げよ。それがあんたの仕事だろ」
 クリシュナは目を据わらせて、それでも彼にしては丁寧な口ぶりで繰り返した。しかし。
 「フン、お前のような不審なよそ者を追い払うほうが、ずっと大事な役目だ」

 これには、クリシュナもさすがに切れた。不気味なほど静かに、怒りを言葉に置き換える。
 「…退け」
 「ああ?」
 「お前と話をすると耳が腐る。少しは礼儀を知れ、牛追い野郎」
 「なんだと? …おい、何様のつもりだ、貴様!」

 神の塔の門前での緊迫したやり取りに、周囲にはいつしか人だかりが出来ていた。
 「なんだ、あいつ」
 「よそ者にしては態度がでかい」
 権高な門番に常日頃から好感を持っていなかった民は、面白そうに旅人の喧嘩を眺めた。

 「おい、お前、止めとけよ」
 ついさっき、クリシュナと話をしていた男が、おずおずと割って入り、彼をそっと制止する。
 「なにをだ? 俺は礼儀正しく話をしていただけだぞ。こいつが馬鹿だから悪い」
 「…なんだと、貴様!」
 「ほら、これだ。話にならん」
 相手をますます怒らせる口調で、クリシュナはウンザリした顔をわざとしてみせた。
 「もうあんたの相手はしたくない。早く取り次げって言ってるだろう」
 「この…!」

 クリシュナに掴みかかろうとする門番に、そのとき、穏やかな制止の声が響いた。
 「お止めなさい。…旅の人、そなたも」

 聖職者らしい物腰で、若い男が優雅に階段を下りてくる。
 「あんたは?」
 ぞんざいな口で問いかけるクリシュナに、彼は貴婦人のように微笑んで答えた。
 「私はアシュヴィン。この塔の管理をしています。タレジュさまの世話役の一人です」
 「ふうん。…どこかで会った気がするが、どこだったろうな」
 クリシュナは子供のように首をかしげ、男をしげしげと見つめた。
 アシュヴィンは苦笑して、それでもまっすぐ青年を見返した。
 「貴方はガンディアの廟堂でお見かけした記憶があります。オルドの戒を受けられたクリシュナさまでしょう。…明晰な、賢者に近しい方だと思っていましたが?」
 「あんな学識を得ても、何の役にも立たなかった。時間の無駄だと知ったことが唯一の実りだぞ」
 「なんと…数十年を費やしても、そう簡単に得られるものではありませんのに」
 「戒を得て満足する奴なら、よっぽど幸せだろうがな」

 いつのまにか、クリシュナとアシュヴィンは談義に盛り上がって、周りのことなどすっかり忘れてしまった。
 「…あのう、アシュヴィンさま…」
 しばらくして、ようやくおずおずと口を挟む門番に、アシュヴィンはにっこりと微笑んだ。
 「ああ。…今日は次の者と交換なさい。お前は月がまた細くなったら戻っておいで」
 「…っ…。は、はい…」
 優しい言い方だが、残酷な宣告であることは誰の目にも明らかだった。
 これであと一月、彼は生きる糧を失ってしまうだろう。…




 「それで、本当の目的はなんですか」

 クリシュナはそのまま奥の間に通され、椅子を勧められた。
 それを断り、彼は瀟洒な飾り板の窓枠を立てかけ、外を眺める。
 「…だから、俺の鷹がここにいるんだよ。返して欲しいんだ」
 クリシュナの言に、アシュヴィンは目を細め、薄く笑った。
 「それだけの用事で、この神の塔に来られたのですか。…そんなはずはない」
 「…」
 「タレジュさまに会いたいのですね?」
 確認するだけ、といった言い方に、今度はクリシュナが苦笑した。
 「…参ったな。まあ、隠しても仕方ないか。で、会わせてくれるのか?」
 「そう簡単にはいきませんよ。なにしろ、彼女は我らの宝珠とも言うべきお方です」
 「そうだろうな」
 肩をすくめるクリシュナに、アシュヴィンはこっそりと、隠し事をするように、話を持ちかけた。
 「ですが、偶然にお会いすることはできましょう。…貴方がこの塔に恩恵をもたらすお方であれば」
 そう言って、アシュヴィンは双面をつけたアスラのように笑った。


 

***





 「…なるほど」
 アシュヴィンに屋上の祭塔まで案内されたクリシュナは、風の吹きすさぶ中に目当てのものを見つけ、思わずにやっと笑った。
 
 そこには、長い黒髪を靡かせて、空を見上げる少女がいた。
 確かに、これが女神とやらに違いない。――

 「おい、ハンサ!」
 少女の上、小さな祭塔の、旗がたなびく頂上に、彼の相棒もとまっていた。
 青年の呼び声に、鷹はふん、と顔を背け、少女はびくっと体を固まらせた。

 「…」
 「降りて来い! 帰るぞ」
 「…」
 「やれやれ」
 少女を無視するように、青年は鷹に向かって話しかけた。
 そのうちに、少女は黙って、凍りつくような目で青年を見つめる。

 (なるほど。確かに女神さまだ…) 
 普通の子供なら、鷹を見て面白そうに近づいていく。もしくは、何かしらの反応をする。
 だが、この少女は何もしなかった。瞬き一つ。
 
 「…俺の鷹はここが気に入ったみたいだ。お嬢ちゃんが気に入ったのかもな」
 そう言って、クリシュナはやっと少女に話しかけた。どう答えるのか、彼は興味深そうに見つめる。
 「…」
 少女は話しかけられても、一層感情のない表情で、青年に目もくれない。

 青年はいよいよ楽しそうに、茫洋とした顔の少女を観察した。
 大きな黒目がちの瞳。足元まであるような、長い黒髪。
 端正な顔立ちは、幼いながらもどこか気高い空気を醸し出していた。
 きりっと固く引き結んだ口元も、少年のようで涼しげな。
 豪奢な服を着せて儀式に担ぎ出せば、さぞや見栄えがするだろう――少女は、そんな容姿をしていた。 

 (こりゃ、飾りにはもってこいだ)
 クリシュナはそのあまりの『神らしい』様子に感心して、内心で感嘆の声をあげた。
 そして、黙りこんだ娘に何かしゃべらせてみようと、袋にあった柘榴をおもむろに取り出し、少女に差し出した。
 実が熟した果実は、艶やかに色づいていた。少女は、またも黙って、それをじっと見つめる。

 「今日市場で買ってきたばかりだ。うまいぞ」
 「…」
 「なんだ。食わないのか?」
 「…ア…」
 少女は口を開きかけると、少しかすれた低い声を搾るように出した。
 まるで、久しぶりに声を発するかのように。

 「…お前の望みは」
 「ん?」
 たどたどしい少女の返事は、しかし、意表をつくものだった。
 感謝の一言を期待していたクリシュナは、怪訝な顔で少女を見返した。
 そして、すぐに持ち前の不機嫌な口調で言い返す。
 いくら神とはいえ、子供に向かって下手に出るのは、彼の自尊心には面白くない。
 「食いたくないなら、返せ。別に何か欲しくてやったわけじゃない」
 そのままフン、と顔をしかめる。

 すると少女は、またもや不可思議なことを言い出した。
 「布施を差し出す者なら、願いを聞かねばならない」
 「ふせ?」

 一瞬、少女の言う単語が理解できず、彼は面食らった。
 しばらくして、少女が「布施」、と言ったことにようやく気がつく。
 「布施って…。たかが柘榴で大げさな」
 クリシュナが呆れてそういうと、少女は無表情ながら、目を細め、刺すように彼を見た。
 それが最大の感情表現なのだろう。…不興を示す顔の。
 そうして彼女の放った言葉の矢は、身を凍らせる風の冷たさにも似ていた。
 
 「…ならば私に供物を差し出すな、愚か者」

 少女はまた彼を一瞥すると、まるで何事も無かったかのように、くるりと背を向けた。
 背後を振り返ることすらなく。
 「…おい」
 青年は唖然としたまま、その後姿を見送った。
 声をかけても、彼女は振り返らない。
 彼は手にした柘榴が転げ落ちるまで、あっけに取られて立ち尽くしていた。

 ――愚か者
 生まれて初めて言われた、ひどく高慢なその言葉だけがその場に残る。
 これまで他人を見下したことはあっても、これほど無下に扱われた経験などない。
 クリシュナは、かすかに苦笑いを含んで、ひとり言を洩らした。
 「俺でも、そこまで言った事はないぞ…」



 そのときだ。
 肩に止まっていたハンサが、いきなり少女に向かって飛びかかった。
 あるじが侮辱されたことに気付いたのか、少女の背後に近づくと、その手に鋭く爪を立てる。
 「止めろ、ハンサ!」
 クリシュナの制止にも関わらず、ハンサは少女を傷つけると、そのまま塔から飛び去ってしまった。

 さすがに驚いたのか、少女は呆然と彼方へと飛んでいく鳥を見つめた。
 しかしすぐに、どこか憮然とした表情で、彼女は一言呟いた。
 「…無礼な鳥だ」
 「すまなかったな。ハンサはきっと、あんたに構って欲しかったんだろう」
 クリシュナは苦笑すると、少女にすっと近寄る。

 (ん?)
 よく見ると、彼女の右手は、用心深くもう片方の手によって隠されていた。
 (ハンサがさっき…。まさか)
 その様子に心当たりを持った青年は、少女の手を掴むと、嫌がるのをよそに、むりやり右手を引き出した。
 少女は無言のまま必死に彼の手に逆らおうとするが、力で敵うはずもない。
 
 「おい、手を怪我してるじゃないか。血が出ている」
 ハンサがつついた手の甲は、わずかに血がにじんでいた。
 大した怪我ではないが、そこはそれ、自分の鷹がした不始末だ。
 彼は謝りながら、少女の手に布を巻きつけた。

 「悪かったな、こんな怪我をさせて」
 「……」
 少女は、ひたすら無言だった。
 怪我をさせられて機嫌を悪くしたのかと思い、青年はその顔を覗き込む。
 だが、少女は無表情なままだ。
 ――そして、顔色はどこか青ざめていた。

 「大丈夫か? それほど驚いたのか」
 「…」
 青年の問いに、軽く首を振る。
 「痛いか?」
 「…ううん」
 
 しばらくして、呆然としていた少女は突然、青年の手を振りほどいた。
 「放せ」
 「…。ああ」
 特に機嫌を害したわけでもないらしい――青年は思って、少しほっとする。
 少女はまた手を隠すように袖に入れると、何も言わずに帰っていった。

 クリシュナは笑いながら、その背中に向かって叫んだ。
 「また会おう。女神ちゃん」






*** 
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