生気感情 -vital feeling‐ <2> 少女が部屋に戻ると、そこには甲斐甲斐しく働く侍女の姿があった。 彼女の名はアニタ。タレジュよりも五つほど年上の、下働きの娘だった。 「タレジュさま、また天蓋へ上がられていたのですか。危ないですからおやめ下さいと、あれほど…」 少女の顔を見るや否や、小言が始まる。 しかし、アニタは心配性なだけで、タレジュを叱るつもりなどさらさらない。そういう身分ではないと、初めから心得ているのだ。 タレジュの世話をし、教育するのは、乳母のドゥルガだった。 塔の誰よりも年嵩で、代々の少女神を育て上げた世話役として、この塔でも一目置かれる存在。 少女の全ては、この乳母によって仕切られ、決定されていた。 だから、少女が少しばかりの冒険をするとき、いつも味方になってくれるのは、このアニタだった。 神たるタレジュは、感謝どころか、さしたる感情も抱かなかったけれど。 それでも、時々彼女は、誰もいないときだけは、タレジュの本当の名を呼ぶ。それが二人の秘密だった。 「お早く着替えをなさって――」 アニタは少女の無関心にもめげることなく、いつものように着替えの手伝いをし始めた。 が、そこで、彼女の動きが止まった。少女の手に巻かれた布と、わずかに滲んだ血を見た瞬間に。 「…お怪我を、されたのですか」 緊張した面持ちで、侍女は言った。目線だけで曖昧に頷く少女に、アニタは蒼白になって問い詰める。 「…まさか…誰かに見られたのですか?」 「…」 アニタの震える声に、彼女は小さく頷いた。 「旅の男に。この布を巻いてくれた」 「…外のものに…なんていうことでしょう…!」 ただただ怯えるように、彼女は体を小刻みに震わせた。 「タレジュさま、このことは誰にも話してはなりません。ドゥルガさまにも、私は喋りませんから。貴女さまは聖なる神でおわす身。それは変わりません」 「…でもアニタ。血が流れたよ」 「いいえ、そのようなことで貴女の神性は失われません!絶対に!」 「…」 侍女の必死な様子に、少女は反論もできず、ただ黙り込んだ。 アニタは青ざめた顔で、しかし、どこか嬉しそうな素振りで少女に言った。 「…ラートリーさま、これは秘密です。貴女と私の、二人だけの」 *** 少女にとって、怪我で血が流れたことは大事件だった。 おかげで、発端となった男のことは、忘れようにも忘れられなかった。 どこの誰とも知れぬ、旅の者。すぐにこの国から出て行ってくれれば、それでよかったけれど―― 「タレジュさま。今年の麦の出来は、いかに?」 考え事に没頭していた少女は、その問いに、はっと表情を強張らせた。 (今は謁見の時間…) 神の座にしつらえられた重いカーテンの奥で、ラートリーは姿勢を固くする。 「…」 沈黙のまま、彼女はただ目を開いた。横にいたドゥルガが、すかさず宣託を告げる。 「大変よろしい、と申されております。よろしゅうございました」 (…雨が降らないのに、豊作…?) 少女は内心で反論しながら、しかし表には出さずに、ただ視線をあらぬ方向へそらした。 「…あ…」 「何か?」 沈黙の女神がいきなり声を発したことに、周囲はざわめいた。 (…っ、あの男…) 数人の拝謁待ちの中に、見たばかりの例の青年が混じっていた。 見た途端、彼女に向かって軽々しく手を振ってみせる。 「…」 青年は、物珍しい褐色の肌と、光に反射して緑に見える漆黒の瞳があいまって、周囲から浮き上がって見えた。 着ている衣服はまるで別人のように違っていたが、たとえ襤褸を纏っていても上等な絹を着ても、発する光輝がまるで変わらない。 何かを見据えたような旅人の目だけが、彼を表す全てなのだ。 (……なぜここに) じっと青年を見ていると、怪我をした右手が、不思議に疼く。 ――あの男がいるせいだ。 少女は怒りとも焦りともつかぬ感情の揺れに、かすかに戸惑いを覚えた。 「…さま。この者の娘は、いつ快復しましょうや?」 いつのまにか、問いは次の者に変わっていた。 動揺したままの少女は、目の前にいる一人の男を、つい『まっすぐに』見てしまった。 ――病に臥せった娘…… ――薬湯の匂い…嘆き… ――……死… 頭の中に、次々と夢のような像が迫ってくる。 (嫌…) 見たくないものを見てしまった少女は、頭を振って、無意識に耳を塞いだ。 「嫌…だ…」 遠方からやってきた初老の男には、確かに死の影が近づいている娘が重なって見えた。 ふいに気を抜くと、彼女には『見えて』しまう。神ならば当然のことなのかもしれなかった。 だが、乳母はそれを直接告げる行為を決して許さなかった。 『――少しばかり見えたからといって、いい気になるものではありません』 そう諭されれば、少女には言い返す術がない。 真実が見える。なのに、いえない。 嘘をつくような無表情は神の証。だから、彼女は極力、誰をも正面から見ないようになっていた。 だが、今は見える。…見えてしまった。 少女は気まずい思いを抱え、それを吐き出すことにも躊躇した。 (お前の娘は…) 言ってしまいたい。いずれは訪れる結末を。今この男が知れば、そしてさっさと家に戻れば、娘の死に際に会えるかもしれない。… 「…お…」 口に出かかった言葉を、背後にいた乳母が押しとどめた。 少女の肩をきつく掴む手には、爪が食い込むほどに力が込められる。 あまりの痛さに乳母を見上げると、そこには、恐ろしいほどに青ざめた老婆の顔があった。 「タレジュさまはご機嫌が悪くなられたようです。すぐに退出なさいます…さあ、参りましょう」 *** 「なぜあのような真似を?」 「…」 謁見の場でした行為を、乳母は静かに責め立てた。 「あの者は地方の有力者なのです。あのような不吉な予言など…忌まれるものです。王のご機嫌に関わります」 「けれど…。はっきりと見えた」 「貴方には見えても、それは神の言葉ではありません」 「私は神なのに?」 反抗するような少女に、乳母は強張った表情で、恐れるようにたしなめる。 「貴方は国を守る女神ですよ。その貴方が、不吉なことを言ってどうなさるのです」 「真実は、不吉なの?」 「タレジュさま…」 そっぱを向いたタレジュに、乳母は深いため息をついて唸った。 「お分かりいただけないのであれば、私は罪を負います」 「っ! …また――」 少女ははっとして、前を振り返った。老婆の顔はこういうときにだけ不気味な面に変化する。それはまるで夜叉に似た形相だった。 「分かっておられるなら、愚かなことをなさってはなりません。貴方の言葉一つで、国は混乱するのです」 「ドゥルガ…」 「お願いですから、ご自重下さいませ」 乳母の意志の固い説得に、彼女はうなだれ、低い声で答えた。 「分かった。もう言わない」 「…本当に、お分かりならば」 「絶対にもうしない。約束する」 「タレジュさま。約束ですよ」 *** 「最近は、妙に賢しらになられて大変でございます。あの方の在位もそろそろ長くなりすぎましたわね」 王の私室に招かれた老婆は、ほとほと困り果てたというように、そうこぼした。 彼女は礼儀を守ることにかけては国一番を自負しており、ここでも、与えられた敷物に座ることすら頑なに遠慮している。 「そなたほどの者が、苦慮しておると。これまでタレジュを何人も見守ってきたその方が」 王はふむ、と唸って、乳母をしげしげと見つめた。 王が乳母を信頼する理由には、彼女の実績が関わっている。 普通の少女を神として崇めさせるために、始めに必要なのは脅しと統制だ。 泣くこと、笑うこと、喜ぶこと、悲しむこと。…全てを封印するため、乳母は少女を絶対的に支配する。 逃げ道を塞ぎ、神として生きる道だけを指し示すことによって、彼女は生ける女神となっていく。 乳母はこの手腕にかけて、他に並ぶもののない巧みさを有していた。 追い詰めて追い詰めて、最後に、愛情に飢えた少女に、時たま情けをかけてやりもする。 こうして少女は泣きも笑いもせぬ神の器になりおおせる。乳母の手のひらの上で。 ――しかし…。 「…どこかおかしいのです。あの娘は、まるで本当に見えているかのように振舞うのですわ。…神と崇められて、すっかりその気になって」 「それほど真に迫っておるか」 乳母は不本意そうに、しぶしぶ頷いた。この私でなければ、信じてしまうでしょう。―― 「それならば、喜ぶべきことじゃ。あの小さなお体に、真の神が降臨されておられるのだ。少なくとも、そう信じられるのであれば、そうではないか」 「それは…。王はそのようなこと、お信じになられますのか」 乳母は驚いた声を挙げ、王にずい、と迫った。 「真に、あの娘が、『そう』だと?」 「おお、信じるぞ。それで民が導かれていくのなら、余にとってかの啓示はまたとない祝福よ」 王はふくよかな頬をたるませて破顔し、面白そうに右手の指輪をうごめかした。 そして、去り際に乳母に金子を与え、こう言った。 「そなた、タレジュさまのお力を試してみよ。真に女神であれば…あれは救いの神ぞ」 *** 乳母からきつい叱責を受けた後はいつもそうだが、今日は特にひどかった。 深く沈んだままの暗い顔で、彼女はまた禁じられた庭へと向かった。 また、あの男に会うかもしれない。 それは神の予感ではなく、予想だった。 …そして、それは気が抜けるほど、あっけなく当たってしまった。 「よう」 謁見の場に現れた出で立ちで、青年は軽々と庭に下りてきた。 そして、その貴族のような身なりに似合わず、どこか軽々しい口調で話しかける。 「お前、本当に神だったんだな。実際に見るとぞっとしたぞ」 「…」 やけに馴れ馴れしい彼の言い方に、少女は眉をひそめる。 「なぜ――」 あんなところに、そんな出で立ちで。 そう咎める彼女をさえぎるように、クリシュナは大げさな身振りで語り始めた。 「まったく、見ていて笑えたぞ。女神の予言というのもいいかげんなもんだ。お前は何も語らない。ただ周りをそれを良い様に解釈するだけか」 「…」 「お前は、本当に何か見ているのか?」 「…」 「ただ無表情にしているだけか。…やはり、芝居か」 問い詰めるような口調に、少女はようやく怒りに似た声で返事をした。 「本当は、あの子は死ぬ。それから、雨は降らない。私には見える。でも言えない」 確信に満ちた言い方で、そう断言した。見てきた事実を、ただ述べるように。 その様子はあまりにも真実味がありすぎた。 少女にしてみれば、ただ彼の疑いを晴らしたかっただけだったのだが。 ――この子は、本当に見えているのかもしれない… 青年の背筋を、とっさに冷たい感覚が走る。 少女の足元で切りそろえられた黒髪が、さらさらと鳴るように流れるのを、彼は睨むように見つめた。 この娘の美しさは、幼い子供の可愛らしさとは根本的に違うものだった。 世を見通す視線はどこまでも透明で、顔立ちも幼い。なのに、その表情はどこか老婆のような諦観の相をしていた。 だからこそ、彼女を見た人は誰もが、そこに神を見出さずにはいられないのだ。 彼はそんな少女の顔を見つめながら、躊躇いつつ訊ねた。 「言えないって、なぜだ。予言は当たるほうが良いに決まってる」 「本当のことはいえない。言うと、アニタがぶたれるから」 「? アニタって誰だ?」 「身代わり」 要領を得ない少女の話は、ひとつひとつが禅問答のように続いた。 「なぜアニタがぶたれるんだ」 「私は神だから、血を流してはならない。不浄は神の資格を喪失させる」 「だから、身代わりがぶたれるのか。お前の代わりに」 「そう」 青年は不可解な塔の掟に顔をしかめた。 「それは…、変だろう。お前は神に相応しく真実を知っているのに、言えないのか」 「私は誰にも語らない。だから偽りにはならない。ただ、知らせないだけ」 「知らせないというのは、嘘をつくのと同じだ。お前は知っているのに言わないんだろう?」 「違う。私は不吉なことは言えない」 「それを嘘というんだ。人間は、相手を騙すために嘘をつく」 「…」 青年の追及は、彼女に鋭く棘の如く突き刺さった。 本当は、知っていた。自分が嘘をついていること。民を騙していること。 そしてこの男は、さらに知っている。自分が… 「嘘か。…」 真実を突きつけられて、少女は沈黙した。それでも、彼女は言い訳もしなかった。 「それでも、乳母が正しいと思うときもある。だって、真実は痛い」 「痛いことを言うのが予言だろう。――古来、神は無慈悲なものだぞ」 「…それなら、やはり私は偽りの神なんだ。血を何度も流したから」 そう言って、少女は手に巻かれた布をじっと見つめた。 これまでにも、たまたま血を流すようなことはあったに違いない。子供はよく怪我をするものだ。 それでも大目に見られていたのだろう。…人目に触れない限りは。 (?) そこで、クリシュナはふと疑問を覚え、少女に問いかけた。 「おい、待てよ。それなら、俺と会ったとき、お前が血を流したのはまずかったんじゃないのか」 「うん」 「あれは禁忌だったんだろう。違うか?」 こくんと少女は頷く。 元々は、とても素直な娘なのだ。――なぜかそれでほっとしたクリシュナに、少女は言った。 「でも、まだ私には見通せるの。…たいていは、とても見たくないものばかり」 「普通は鍛錬を重ねなければ、そうはならないんだ。幼少時ならば、たまたま能力が強いこともあるが…。だが血を流しても、お前は神のままなんだな?」 「知らない。私はずっとこうだった。…未来が見えるのは、神だけなの?」 …やはりこの娘は違う。修行者の力とは違う、生まれ持った能力を持っている。 『本物』なのかもしれない―― そのとき、彼は初めて、畏れという未知の感情を知った。 back *** next |
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