生気感情  
-vital feeling‐  <3>








 それからというもの、青年と鷹は時折ふらりと塔を訪れた。
 彼の聖賢としての肩書きとアシュヴィンの口利きが、その訪問を可能にした。
 それは、自然な導きに従う巡礼のようだった。

 乳母に隠れて青年に会うことは、本来たいそう困難なことだったが、少女は侍女の助けもあって、秘密を守り通すことができた。
 春が近いとはいえ、冬の終わらぬうちに、寒風の吹く天蓋に上がろうとする者などいない。そのことも幸いした。
 
 彼女にとっては、なにもかもが初めての客だった。
 自分を崇めない者、気安く触れる者、
 …そして、自分を非難する彼が。




 「お前も、いずれは人に戻るだろう。そのあとはどうやって生きる」
 時に男は、答えることの出来ない問いを発して、彼女を困らせた。
 「…? 言っている意味が分からない」
 「だから、…お前は今は神だが、いつかはただの人間に戻る。人の中で暮らして行かなくてはいけないだろう」
 「私は神。人ではない」
 「…・・・」
 頑強な彼女に、彼は二の句を継げられずに唸った。
 「ここに来る前は、お前も普通の子供だったろう。覚えていないか?」
 「…」
 そう問われると、少女は、かすかに苦痛に満ちた目を伏せた。

 クリシュナは暗い影を落とした少女の顔を見て、ふと、自分の問いが難しいものであったことに気付いた。
 (そういえば、この子は3つのときからここに――)
 この少女は物心つかないうちから、人間ではなく神だった。
 理想的な女神であるために、言葉も表情も、感情すら殺されてきたのだ。
 それなのに、今更自分が人間だなどと言われても、納得できるはずがない。
 人間として育った子供が、突然「お前は犬だった」といわれるようなもの。

 …けれど、少女が暮らす神の園は、儚い仮の楽園に過ぎない。
 偽りと勝手な願望と大衆の信仰で組み立てられた、空虚な塔。
 ある日、この塔が崩れてしまったとき、彼女はどうするのだろう。――




 「…もし、もし神でなければ、どうしたい?」
 彼はわけもなく怒りを覚え、それをそのままぶつけるかのように少女に問いかけた。
 「?」
 目で疑問を訴える彼女に、彼は重ねて言った。
 「もし街に暮らす普通の人間だったら、どうする? 何がしたいんだ?」
 「…そんなことは、考えたことがない」
 「いいから、考えてみろ。神でなく、普通の子供だったらどうするか」
 クリシュナは少年のように熱心に言い募った。何かの感情が蘇ることを期待して。
 しかし――


 「何も」

 少女の答えは、簡潔そのものだった。躊躇すらなく、彼女は言った。
 「私は神として全てを見通す力がある。けれど、人間として生きる術は知らない」
 「それは、…今はそうだろうが…。何かないのか。お前の希望は」
 「希望という祈りは未来にある。私にはない」

 ――何が無いのか。
 青年は考え、すぐさま戦慄を覚えた。

 少女には、希望がない。人としての望みがない。
 なぜなら、『未来がないから』。


 「なぜだ? …お前は成長したらここから出るのだろう? もうまもなく、ここから開放されるんだぞ」
 青年は不審に思って問いかけた。少女が乙女になる日はまもなくだ。そうしたら、この娘はここから市井の生活に戻る――
 そんな彼の疑問に、彼女は明快に答えた。
 「神として生きたものは、もう人としてはうまく生きられないのだそうだ。確かに、私の未来には不幸が見える」
 「そんなもの、ただの噂だろう」
 「違う。乳母もそう言っていた。それに、私にも見えた。それなら真実」
 「…っ」
 タレジュはクリシュナの肩に乗ったハンサをじっと見て、そっと手を出した。
 来い、という仕草をしても、ハンサは無視する。
 その拒絶にすっと手を引っ込める。子供にしては、その諦観は、あまりにも哀しい。
 
 自分の未来が不幸だと、『知って』いる少女。
 それを諦めるでもなく、嘆くでもなく、淡々と語る。
 育ての親までが、そんな希望のない未来をこの子に吹き込んでいるのだ。
 それなら、どうして絶望せずにいられよう?


 「お前の未来は、暗闇なのか。不幸しか見えないのか」
 クリシュナはどうしようもなくやるせない気持ちに襲われ、自分でも愕然とした。
 これほど他人のことを考えることなど、かつてあっただろうか。

 ――この少女があまりに空虚だから。その色の無い心が、あまりに痛々しいからだ。

 そう思い、つい訴えるような言い方をした青年に、彼女は子供に諭すような静けさで答えた。
 神が無表情なのは、悲しみを隠すためなのではないかと、彼が思ってしまったのは、このときだ。
 「不幸はどこにでもある。私にも、お前にも、この鳥にも。…この世の全てに」



 ――それでも、人は生きねばならないものなのに。
 思わず彼は、心の底で、彼女にそう叫んだ。
 幼い彼女が悟ったように言う言葉は、どこかがいびつで、ひどく歪んでいた。
 彼はいつしか、この小さな女神に、妹に向ける愛情に似た親愛さを抱いていた。
 不器用で無表情な顔でも、彼には、そこにどんな感情が潜んでいるのかを読み取れるような気がしていた。

 ――この娘は、確かに神だ。だが、同時に人間で、泣いている子供なのだ。
 なぜ不幸なままになどしておけるだろう。
 …なぜ、自分はこんなに、この少女が哀れでならないのだろう…
 青年は考えた末に、ある結論に至った。

 「俺はお前から学んだことがある。神ですらも思い悩むことを。最も清浄な、穢れなきものであっても、その苦悩は無くならないのだと」
 「…?」
 またも難しいことを言い出した青年に、少女は黙り込んだ。
 「何を…」
 「お前は確かに神聖な光彩を持っている。聖者と呼ばれる者がいくら修行しても足りぬ、生まれ持った清さがある」

 青年は、すでに日頃の口調で話してはいなかった。
 ただひたすら、賢者の片鱗を覗かせる澄んだ瞳で、終わらない問答を繰り返した。
 
 「だが、それでもお前の魂には苦悩と苦痛が刻み込まれているのだ。神と見紛うお前でさえ。穢れに最も遠いところにいる神の娘でさえ」
 「ならば、生きとし生けるものには、穢れと苦悩が無くなることはない」
 「それでも命を与えられたものはこの世界に生まれてくる。何故だ?」

 少女は青年をじっと見つめたままだった。
 聡い彼女には、言葉の一つ一つは分からないまでも、その意味するところが感覚的に自分とつながるものだと知っていた。
 ――なぜ、私はこんなところにいるの? 私が神なら、なぜ天にいないの?
 そう繰り返し考えてみたのは、彼女自身だったから。


 「人が生まれることに意味があるの?」
 「ある。…いや、違うな。意味だの穢れだのというのは我らが勝手に考えたもので、生きることそれ自体は、そんな下らない妄執を超越したものだ。誰かが、何かが俺たちを生かしている。それは神よりも遥かな存在だ。神とこの世界を生んだもの。我らの存在など意に介さないものかもしれない」
 「…」
 「だから穢れを抱えても、罪を犯しても、人は生きるものだ。そのように生まれついた。苦悩を抱えて、のたうちまわって生きるようにと」
 「あまりに穢れて不浄な動物と同じになっても?」
 「穢れというのは誰が決めたことだと思う? この思考がどこから来たと思う? 穢れがあるから苦悩するんじゃない。存在することはそうして苦悩することだからだ。神すらもその答えを知らぬ」
 「…人には神なんていらないの? …それなら、私は必要ない」
 少女が洩らした本音に、彼はしばらく黙考して答えた。

 「お前は神でなくなっても、人が真実に至るための階梯になれると思うぞ。お前がもし、人の心を黙殺しないのなら」
 「黙殺している。――結果的に」
 「だがそれでお前は心を痛めているじゃないか。神らしくもなく」
 ――そうだろう?
 青年はその確認をして、ようやく問いを止めた。


 「それならば、諦めるな。お前は神でなくとも、より貴き者になることができるんだぞ。だから生きて人になれ」
 「人になれ…?」
 「この世に生きて、穢れも痛みも苦しみも、その全てを知ることだ。この孤高な場所から最も低い不浄の中へ降りていけ」
 「なぜそんなことをしなくてはならない? 私は全て知ってる。見えるのだから」
 ふてくされたような顔をする少女に、青年は熱心に畳み掛けた。

 「お前が見ているのは極端な片面だけだ。ここには負の感情だけが充満してるじゃないか。この世に生きることは、不幸なだけじゃないはずなんだ。素晴らしいこともある。まだ俺もお前も知らぬことが」
 クリシュナの言葉に、少女は首をかしげた。
 「…ここに立って、下界を見下ろせば、全てが見えるのに?」
 「違う。…絶対に違うぞ。見下ろすのと、同じ位置に立つのとでは、まったく違う」
 「…」

 少女は鳥を見つめて、そっと呟いた。
 「この鳥のように、私が空の向こうに行けたなら、違うものが見える?」
 「ああ。別の土地へ行けば、なにもかもお前の知らぬことだらけだ。俺もほんのわずかしか知らぬ」
 「そう…」

 どこか戸惑うように、少女は目を閉じた。
 夢で見たように、この土地に縛られた魂が、鳥に乗って少しだけ彼方へと運ばれていく。

 ――諦めてはいけない…

 青年の言葉は、彼女の心にある聖櫃の中へと、奥深くしまいこまれた。




***




 青年と会う度に、少女の心は揺れた。
 まだ自分に穢れは訪れない。神として民に無言を与える日々は続く。
 ――もう嘘をつきたくない
 そんな思いが溢れて、彼女は豪奢な赤と金糸の衣装に着替えるごとに顔を強張らせるようになった。

 彼女の願いが強くなるにつれ、彼女の予言は、ますます鮮明になっていく。
 そのうちに、とうとうそれは言葉にしてあらわされるようになった。
 当然の如く、答えは当たる。
 始めは恐る恐る、しかし、次第に大胆に、タレジュは神の娘としてあるべき姿に変貌した。
 ――乳母もなぜか、彼女の行為を留めようとしなかった。ひどく苦々しげに、それを横目に眺めていた。
 こうして、人々のタレジュへの崇敬は、日を追うごとに崇拝へと高まっていった。




 「さすがは我が女神だ。わが民のために、聖なる予言をして下さっている!」
 その事態を、王は狂喜して迎え入れた。
 渋々と報告する乳母に、彼はにやりと髭をしごいてみせる。
 「…たまたま今はよろしいでしょうけれど。そのうちに思い上がってとんでもないことをしでかしたらいかがなさいますのか?」
 「だが、女神は偽りを言わぬであろう? 遠く千里の彼方まで見通せると、民は信じておるぞ」
 「…」
 「あの叡智があれば、我が国は永劫に繁栄を築くことができよう」
 王は深々と息をして、満足げに囁いた。
 「ドゥルガよ、あれは逸材ぞ。余はこの上も無い賜物を得たのだ。――余と余の王国だけに益をもたらす生きた神を」

 ――そうは思わぬか?
 王が後ろを振り向く先には、乳母にも見覚えのある男が潜んでいた。
 「祭司殿…」
 アシュヴィンは、軽く会釈するように、彼女に笑いかけた。
 「そなたが王に?」
 あからさまに面白くない、といった老婆の口調に、青年は密やかに皮肉な顔をした。
 「乳母様、彼女は特別ですよ。…貴女の役目は完璧でしたし、采配が悪かったのでもありません」
 そう慰められても、乳母が苦虫をつぶした顔を止めるはずもない。
 ただ、彼女は王に対しては忠誠の篤い臣だった。
 ――いずれ次の娘が来れば、また私が世話して差し上げるのだから…
 こんな男が出てきても、何ほどのこともない。そう彼女はほくそえんだ。




 裏側にある茶番の存在に、気がついているものはわずかだった。
 クリシュナはその中の一人だったが、遠慮なしにずけずけと指摘するのは彼一人だったろう。

 「アシュヴィン、お前が王を唆してるのか?」
 「…まさか。私はただ、タレジュさまが民から崇敬されている事実を申し上げただけだよ」
 それを王権の強化に利用するかどうかは、王が決められること。
 しらっとした顔で、彼は策略家の片鱗を見せる。

 しばらく逗留する間に、クリシュナとアシュヴィンはすっかり遠慮なく毒舌を飛ばしあう間柄になった。
 二人とも、容易に本心を見せる性格ではなかったが、お互いの中にあるものがある種の似通ったものだと、すぐに気がついた。
 ようやく巡りあった同類に対する興味と警戒は、いつになっても解けることはなかったけれど。

 クリシュナは澄ました神官の顔には飽きたと言いたげに、面白くもなさそうな相槌を打った。
 「確かに、ただの娘じゃない。王の権威にも役に立つ。だがな」
 彼は真顔になって、アシュヴィンを凝視した。
 「あれは本物だ。たかだか王の欲のために利用するのは酷だと思わないか?」

 アシュヴィンはこれには身をよじって笑い出した。
 「ふ…あははっ…、いや、いきなり驚かせないでくれ。本気で言ってるのか? お前はそんなことを心配するような性格だったのかい?」
 クリシュナは憮然とした顔で言い返す。
 「俺はあの子を利用するのが気に食わないだけだ。本物だからじゃなく、あの子本人が好きだからさ」
 「…」

 その言葉をどう受け取ったのか。
 アシュヴィンは、最近クリシュナと話すときだけに使うくだけた口調を瞬時に改め、元の彼らしい言い方に戻った。
 礼儀正しく、しかしひどく冷淡に聴こえる、その口調で。
 「あの方は生まれたときから、そのように扱われるのが宿命です。偶然ではない。名家に生まれ、あの容貌を持つ少女なら、仕方がないでしょう?」
 「…あの子が黙ったまま苦しんでるのが、お前だって分かるだろう。俺はあの子を見ていると、色々なことを知ることが出来る気がする。神が何故沈黙し続けるのか、とかな。神が無言なのは、その叫びを押し込めているからだ」

 しばらく冷ややかにクリシュナを見つめたアシュヴィンは、抑揚のない声で呟いた。
 「あなたはもっと枠に囚われない人間かと思っていましたけどね。一つの存在に執着することは、真理を知る上でひどく危険ですよ」
 「俺は旅をして分かったことが一つある。…そうやって真正面からぶつかるのを避けると、結局何も見えなくなるってことを」

 アシュヴィンはクリシュナの鋭い視線を受け止め、ふいに背けた。
 そして今度はまた話し方を変え、おそらくは唯一の友だけに向けるのであろう、芯の通った瞳でクリシュナを見た。
 「お前が追うのも、神という名をした、思考の中心にあるものか。――そう、私はあの子が本物だと知っているよ。でも信じてはいない」
 「どういう意味だ」
 「信じる、帰依する、というのは、己の全身全霊を無条件で捧げることだよ。ならば、例え何もかもを見通せる者がいたとしても、それを崇拝するのとは別問題だ。そうだろう?」
 「…ああ。俺もそうだ」
 「彼女を神として崇めるのは、己が神になれぬと知っている者だけだ。私は違う」
 クリシュナはふん、と鼻を鳴らした。
 「崇めないのに、求めるのか。矛盾だな。それなら、こんな真似はもう止めればいい。お前はあの子を神に見立てるつもりなんかないだろう?」
 「違うよ。私は崇めないだけだ。神は常に万人にとって必要な存在だ。それを願わないものは、かつていなかったし、これからもいない。私だって例外ではないよ。…彼女が本当に女神であったなら、私のような苦界の者をすら打ちのめしてくれるだろう」
 「…」
 
 
 遠い目をして、アシュヴィンは夢見るようにいった。
 「…そうなったらいいと、思っているよ」
 その瞳のうちにあるものが、狂気に似た憧憬であることを、クリシュナはひどく危険に感じた。




***




 クリシュナの杞憂は数ヶ月のうちに、現実のものへと変わっていった。
 王はアシュヴィンの影響を受け、徐々に予言の儀式を増やし、その度にそれを己の力へと転化させた。
 民はその力の誇示に酩酊した。

 ――この国には守り神がおわす。何があろうと、生きた神が守ってくださる。そのような国はここしかない…
 
 女神を神聖視する思考は、そのまま自分たちの優位を楽しむ優越心へとつながる。
 民は惑った。
 ――タレジュさまがいれば大丈夫なのだ。何があろうと、何をしても。

 すると次第に、国の中の空気は違ったものとなった。
 他国の旅人を排斥し、高飛車な態度が民の一人一人に浸透する。
 まるで、タレジュの光輝と清浄さが、この国の民全てに行き渡ったかのような錯覚によって。
 
 
 そしておもむろに、王が隣国と戦を始めようとしたとき、それを拒む者はすでにいなかった。
 
 それもそのはず。――負けぬ戦に反対する者が、どこにいよう?



 
 

 (これでいいの?)
 (血が流れる。私のひとことで、血が――)
 
 国の中で、戦を最も拒んだ者は、他ならぬタレジュ自身だった。
 彼女はまだ見てもいない戦を思い浮かべただけで、その身が激しく震えた。
 
 空想ではない。だが、現実でもない。
 その間にあるひどく生々しい感覚が、絶え間なく少女を襲って、吐き気すら催させた。
 弓に貫かれる痛み、剣に切り裂かれる傷、そんなものが、少女の脳裏に浮かんで止まない。

 


 ――赤い血の記憶は、少女の原体験にさかのぼる。
 神に選ばれるために受けた試練で、最後に訪れたのは、暗い密閉された一室に閉じ込められることだった。

 石造りの扉が重々しく閉まる音は、まるで死が訪れる前触れのように響いた。
 暗い室内をたどたどしい足取りで進むと、ふと、足元でぴちゃり、と水音がした。
 少女は跳ね上がって下を見る。
 ただの水音ではなかった。
 ねばつくような、金臭いような匂いが、不吉な懐かしさを誘う。
 
 『…ひっ…』

 部屋の中心、ちょうど彼女の目の前に、角を持った生き物が見えた。
 少女も道端や納屋でよく見かける黒々とした雄牛。見慣れたものだ。
 ただしその牛は、いつもの、見上げる位置にはいなかった。3つだった少女の目線よりも、さらに下にあった。
 
 それは、首だけだったのだ。



 少女は悲鳴を上げなかった。
 上げられなかった。あまりの恐怖に、声が出なかったから。
 ただひたすら、重い扉にしがみつき、身を縮こまらせた。
 『…っ、ひっく…』
 泣くこともできずに、体全体を痙攣が襲う。
 できるだけ生首から逃げようと、部屋の隅で震えたまま、少女は一夜を明かした。――


 恐怖の夜が明けると、数人の神官が扉を開け、わらわらと近寄ってきた。
 『おお、女神がおわす』
 『泣いておられぬ。気高い幼女だ』
 『よかったよかった。これでタレジュ神が降臨した』…


 後から試練のことを問われると、少女は『知らない』と答えるのが習慣だった。
 確かに忘れていた。
 …試練に赴く前のことは全て。両親のことも、試練に導かれたときのことも。
 覚えているのは、闇に光る、生贄の目だけだったからだ。
 哀れな、涙と血に濡れたその瞳は、いつしか少女自身のガラスのような目に変わった。




***




 自分は痛みを知らぬ者だと、少女は知っていた。
 それでも、血を流す痛みを知らずとも、その者の悲しみはなぜか心に響く。
 己の名を呼びながら死ぬ民の声が、少女にはどんなに遠くからでも聴こえてくる。



 神であることは、全知の存在である。
 それなのに、彼女には知らぬことが多すぎた。
 嘘を言えば、彼女の中の良心が咎める。
 真実を言えば、それをいつのまにか利用され、民に更なる苦しみを与える。

 ――どうすればいい。何ができる…
 八方塞がりの中で、彼女は一人未来を占った。


 例えば、自分が予言を止め、王とこの国を裏切ったなら、どうなるだろう。
 彼女は神の思考で、その道筋を追った。
 
 予想できる未来。
 自分の身、記憶すらない自分の家族、育ててくれた乳母、いつも身代わりになった侍女――

 いずれも、彼女にとって最も身近な者だった。
 だが今、神にとっての価値は、見知らぬ民と同等だった。
 彼らの苦しみも悲しみも、神には等しく身を苛むものだった。
 それは、自分自身の痛みと同じだったから。

 
 (…)
 彼女はふと我に返って、首をかしげた。
 ――普通は、こんなふうに考えはしないものだろう。
 まずは自分、それから自分の家族、親しい者、…人はその順に『自分』という枠を広げていくもの。

  (…そうか)
  そう思った途端、少女は気持ちが軽くなっていく。

 自分は神であり、人である。
 けれど同時に、人としても神としても、ひどく中途半端な存在なのだ。
 いなくなっても誰も悲しまない。それだけの、ささやかなもの。


 ――それから大丈夫。
 彼女はそう気付いて、はっきりと安堵した。

 私が神でなくとも、人でなくとも、苦痛を与えるものは何も無い。








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