生気感情  
-vital feeling‐  <4>








 少女は王の目の前で、長い儀式が始まると同時に、息を殺して自分の覚悟を待った。
 
 『諦めるな。この世には素晴らしいこともある』

 頭の中で青年の力強い声が木霊する。
 ――本当に、この世が悲しみだけでないのなら、私は希望を持つこともできるだろう。こうすることによって…。
 少女は長い袖に隠して、密かに拳を握り締めた。

 「――王よ」
 「…、どうされた、我が女神よ」

 突然、公式な場で言葉を発した女神を、王は不審な顔つきで見返した。
 そんな彼に向かって、少女はそっと腕を突き出した。
 そして髪に挿された長い銀製の飾り櫛を引き抜くと、腕に思い切り押し当てる。

 「…っ!」
 「タレジュさま、何を…!」

 周囲の悲鳴の中、少女は腕から一筋の血を流し、それを見えるようにかざした。
 流れ落ちる血の滴り。
 神の身体からは決して流れてはいけない、不浄の証が、腕を伝って地に落ちる。…

 「私はこれでタレジュではなくなった。不浄の血によって穢れた人の子に戻った」
 「…」
 少女は黙り込んだ王に近づき、その血を見せ付けるかのようにして言った。
 「王よ。だから、これは予言ではない。ただの小娘の、…だが心から国を憂う者の言葉。どうか、聞いて欲しい」

 「何を…。何をなさるのだ、この大事なときに…」
 王は、震える口調で問いただす。
 ――民にとってのカリスマが最も必要なこのときに、この娘は何をしようというのだ…
 思わず娘を殴りつけたい気持ちを、彼は必死に抑えた。

 だが、王の焦燥をよそに、少女は先を続けた。
 「この戦は、避けねばならぬ。さもなくば、多くの民が死ぬ。この国は必ずや苦難を被るであろう。だから、王よ、耐えて欲しい。民のために、民の血を流してはならない」

 神の予言ではいえなかった言葉を、少女は澄んだ声で語った。
 自分の口から、自分の意志で言わなければならなかった最後の忠告を、王に与えた。
 驚きに目を見開き、顔を強張らせたままの王を、彼女は必死に見つめた。

 「王…」
 聞き届けて欲しい…その願いを胸に、彼女は王に近づこうとした。
 いつも王は彼女に優しかった。乳母があまりにきつく叱るときには、やんわりと宥めてくれもした。
 
 だからその瞬間も、彼女は子供のような思い違いを抱いていたかもしれなかった。
 神であることこそが、王に示唆を与える資格なのだという大事を、彼女は無意識に忘れてしまっていた。
 王が考えていることは、彼女にとって知ることはできても、理解することは出来ないものだったから。
 
 タレジュよりもわずかに低い玉座に座っていた王は、ぶるぶる唇を震わせたかと思うと、突然立ち上がった。
 そして、高い目線から投げ捨てるように、冷ややかな目で彼女を見た。
 「…血迷うた。我が女神たるそなたが」
 「――っ」
 「国を憂う、だと? ふざけたことを云いおって…。神の座におらぬそなたなど、虫けら以下の役立たずに過ぎぬのだぞ」
 「王…」
 「今この場で切り捨ててくれようか。血の穢れはすでに起きた。もはや躊躇う理由もあるまい」

 王はそう言うと、腰の長剣を抜こうと、鞘に手をかけた。金属の乾いた音が、不気味に響く。
 凍り付いていた周囲は、その鞘の鳴る音に、ようやく目が覚めた。

 「王よ、お慈悲を…! どうか、どうか、ご勘弁を。なにも分からぬだけなのです。この方は、幼い娘にすぎぬのですから…っ」
 アニタが足元にひざまずき、床に頭を擦りつけるようにして叩頭を繰り返した。
 「王、どうか」
 「王よ…」
 それにはっとしたかのように、乳母も使用人も、次々に王の下へと群がる。
 これ以上の凶事は、絶対に避けねばならない――そう思った彼らは、必死に娘を庇った。

 「ええい、控えよ! お前たち、この愚かな娘の罪を見たであろう! 恐るべき大罪、国を滅ぼす悪しき言を吐いた娘だぞ!」
 王の叫びが広間に轟く。怒りに燃え盛る彼の声は、雷のように響き渡った。
 あまりの咆哮に、辺りは静まり返った。これほどの怒りを、王は見せたことがなかった。

 ――しかし、その中で、またもや少女は言った。恐れ気もなく。
 
 「人の私が言う言葉は、もはや予言ではない。だが王よ、神の言葉よりも大事なものが、この世にはある」


 
 「・・・・・・」
 長い長い沈黙が、王の葛藤を物語る。
 畏怖すべき対象である少女。神が宿るその身には、神性とも言うべき光彩が、確かにあった。
 しかし、このままにしておくには、あまりに危険だった。
 この少女には、あまりにも力がありすぎる。――

 「王、お待ち下さい」
 そこで、アシュヴィンの優雅な声が、異様に大きく広間に響き渡った。
 「この方はただの娘ではありません。扱い一つにも、王の威厳がかかっていると思し召して」
 いつものように、彼は穏やかに、優雅に微笑んだ。
 …注意深い者が見れば、そこには真実の心が潜んでいると知ることも出来ただろう。…

 「タレジュさま、お聞きしたい。その言は確かに神としてのものではないのですね? ならば、ただの迷い言だ」
 「…」
 少女はアシュヴィンを見て、ぴくりとも動かなかった。
 「貴女は民の一人一人に心を留められたのですね? …神ではなく、貴女自身の心で」
 「そう」
 「…そうですか。ならば、貴女はもはや女神ではない。神の宿る聖なる御身ではなくなった」
 今度こそ、少女は同意したように頷いた。


 「王よ、この娘はただの人の子です。もはや女神タレジュは去りました。ですが、神の宿っていた身は我らにとっても重んずべきもの。邪険に扱っては世の指弾の的となりましょう」

 彼の巧妙な言い方に、王は誘われるように押し黙った。
 ――こうすれば、娘の言ったことは妄言になる。
 そして確かに、衆目の中で殺すわけにはいかぬ。ならば…

 「…神であったそなたであれば、丁重に扱わねばならぬ。聖なる儀式に乗っ取り、そなたを神の座から降ろすとしよう」

 王の威厳を込めて、彼は高々と宣言した。
 アシュヴィンの助言は、こうして王を追い詰めていく。
 こうしなければ、彼は王であることができなかった。




***




 「なぜ、なぜこんな…、私がお育てしたタレジュはみな美しく賢くおなりでしたのに…」
 広間での驚愕的な事件のあと、少女は自室で裁きを待った。
 殺されるかもしれない、という状況の中でもあくまで落ち着いて見える少女に、乳母は半狂乱になって叫びだし、最後にはあてつけのように泣き出した。

 「あんな嘘を王に申し上げて、どうなるというのです? 神からただの娘に戻ってどうするのです?」
 「…」
 「お前が――お前がおかしいのです!ずっと前からそうだったわ…。私の助言も聞かず、勝手な真似ばかりして!私は女神を幾たりもお育てしたきたけれど、お前のような出来損ないはいなかった!」
 「…」
 少女は狂乱した乳母の嘆きを、淡々と受け止めた。
 「ドゥルガ。…お前の役目をまっとうさせてやれなかったことは詫びる」
 彼女の冷静な声は、余計に乳母の感情を逆撫でした。
 「…!」
 少女に向かって手を上げようとした乳母に、アニタがすかさず止めに入る。
 「お止めください!乳母様!この方は真に神でいらっしゃいますのに…!」
 「お黙り、アニタ!お前ごとき者に説教をされる謂れなどありませんよ。この娘のふてぶてしい態度を見てもそう言うの?」
 「タレジュさまは感情を面に出すことの出来ぬ方です。そうお育てしたのは貴女ではないですか…っ」
 「この…!」

 タレジュばかりか侍女にまで馬鹿にされたと感じた乳母は、怒りの余り真っ青になって、ぶるぶると震えだした。
 「お前たち…。揃って私を馬鹿にするつもり? これほど心を砕いて世話をしてやったというのに…」
 乳母はいよいよ荒々しく、狂ったように二人の娘を睨み付けた。そして手始めに、アニタの髪を無造作に掴み引っ張りまわす。
 「許せぬ…。私の苦労が全て無駄になった!お前のような小娘のおかげで!」
 「ドゥルガ!アニタは関係ない!」
 そう叫び、必死で止めようとした少女の肩に、そっと違う誰かの手が置かれた。
 「あんたがいったい何の苦労をしたって? …この子を黙らせる脅しをしただけだろう?」

 青年は静かな足音で忍び寄り、乳母の腹を殴りつけると、ようやくその狂乱を止めた。
 そして、目を少女に向け、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
 「…やったな、お前」
 

 

***




 アニタは、少女と青年を遠い昔に作られた抜け道へと案内すると、急かすように逃がした。
 「お早く、お連れ下さい…!早く、タレジュさま」
 「アニタ…」
 事の成り行きに驚いたままの少女をよそに、侍女は青年に必死の懇願を繰り返した。

 「私の命を捧げてお仕えする方です。お願いですから、どうかお守りください、どうか…」
 「――わかった」
 クリシュナは言葉少なに、侍女に頷き返した。
 「俺がこの子を連れて行く。生きられる場所へ、必ず。…だから心配するな」
 「必ず、ですね。…約束して」
 射るような鋭い眼差しで、アニタは誓いを求めた。
 青年が黙って頷くと、彼女はようやく安心したように少女を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。


 「行って下さい。あなたが人として生きられる場所へ」
 「…アニタ」
 「あなたはもはや神ではないかもしれません。けれど、貴い方です。神に愛されているお方。死んではなりません…決して」
 「私は…私だけ逃げてどうするの。だいたい、お前は?」
 いまや神でなくなった少女は、表情の端々に混乱を匂わせ、彼女に問いかけた。
 身代わりになったきた彼女に、これまで一度たりとも不安を問うことなどしなかったのに。

 「今まで私の代わりにお前は酷い苦しみを味わってきた。もう止めればいい」
 「私はいいのです。身代わりであることが私の喜びなのですから。今までも、…そして、今このときも」
 「…なぜ」
 眉根を寄せて、少女は精一杯の苦悩を表した。
 「なぜ、私を恨まない? 悪しき予言をすれば、自業自得の者たちでさえ私を恨む。なのに」

 ――お前は何も悪いことなどしていないのに。
 そんな言葉を察したのか、アニタはかすかに首を振って笑った。
 「身代わりとなってお恨みしたことなど、一度たりとありません。本当です。私はただ、あなたをお守りしたかった」
 「…私を守っても、もうお前の願いを叶えてやれない」
 「願いなど、ありません」

 『別に何か欲しくてやったわけじゃない』

 初めて会ったときの青年の言葉が、ふと胸を掠める。
 無償の言葉。無償の思い。
 そんなものも、この世にはあるのだ。
 彼女はなにかと引き換えにしか考えることの出来ない自分を恥じた。
 

 「アニタ、お前に善きことを与えたい。今こそ、願いを叶えてやりたい。…私にその力があったなら」
 泣けない顔を最大限に歪ませ、少女はアニタにしがみついた。
 「タレジュさま…。あなたは私にとって唯一の神です。貴女が奇跡を起こす様を見られただけで、幸運でした。私は心から神の存在を信じることができた、幸せな人間なのですよ。あなたに会うまで、私はこの世に神などいないと絶望していたのですから」
 身代わりの少女はなんでもないことのように、そう言った。

 『大丈夫ですよ』
 鞭で打たれた後、アニタはよくそう言ってかすかに微笑んだ。
 神たる少女はただ無表情に、彼女の苦痛を眺めていただけだった。そっと眉をひそめるだけで。
 だが、アニタは、何も言わない彼女の悲鳴が聞こえていたかのように、そう言うのがクセだった。
 『気にしないで。これは、あなたが受けるべき痛みではないのですから』


 今、アニタは同じように微笑んでいる。
 …その瞳は、いまだ止まない女神への献身に満ち足りていた。
 そしてそれ以上に、まるで妹に向けるような愛情も、その顔には輝いていた。





 「…行くのですか、タレジュさま」
 「アシュヴィン!」

 そのとき、誰もやってこないはずの隠れ道から、堂々と現れる影が見えてきた。
 整った容姿の青年は、まるで散歩を楽しむ途中といった微笑みで、彼らに近づく。
 「当然といえば当然ですか。貴女はここにいては殺されますからね」
 「アシュヴィン…?」
 何故か嬉しそうな青年の口調に、少女は戸惑いを隠せずに問いかける。
 「お前は何をしたいの?」
 「私、ですか。さて」
 とぼけたように、彼は答える。

 「あなたのお世話をするのが私の仕事でした。これからは、次に選ばれるタレジュの世話をすることになりましょう。けれど、そろそろ潮時ですね」
 「お前は世話役など初めからする気がなかっただろう」
 吐き捨てるようにクリシュナが言うと、アシュヴィンは苦笑して、大げさに手を振った。
 「いいえ、とんでもない。このタレジュさまのお世話を心をこめてしてきましたよ。久しぶりに有意義な仕事でした。…ただ、やはり、つまらなくなったのです。所詮はこんなものかと思うとね」
 「いったい…アシュヴィンさま? この方を身近に見て、そんな風に思っていらしたのですか?」
 目を丸くするアニタに、彼は肩をすくめる。
 「お前のように、単純に感動できればいいけどね。けれど、透視や幻視程度ならば、いくらか修行をつんだ者なら可能なことだよ。代々のタレジュは、元々、血筋によって高い能力を発現する確立が高い。計算されて選ばれている」
 「……」

 黙り込むタレジュを見つめながら、アシュヴィンは淡々と呟いた。
 「だから、貴女が人となっても失望はしませんよ、タレジュさま。…いや、もうタレジュではないか。ただの少女ですね、望み通り」

 そこに、クリシュナは皮肉な声で問う。
 「本当にそうか? …ならば何故ここにお前はいるんだ、アシュヴィン。女神に期待したんだろう、少しは?」
 「…。そうだね。でもタレジュは刹那の幻想であって、手に入れられる確かな神ではないよ。私が期待したものではなかった」
 強張った顔で笑うアシュヴィンを見て、クリシュナはかすかにため息を洩らした。
 (こいつも素直じゃない…)


 ここに自分と彼が集ったのは、偶然ではない。
 同じ目的を持って、…生ける神と切なる答えを求めて、自分たちはここに来たのだ。
 そして、最後に違う結論に行き着いた。
 自分は人としての少女に希望を見出し、彼は神としての少女に絶望した。
 彼はきっと、血に塗れたこの塔の中で、神として在り続ける少女を崇拝したかったのだろう。
 自分を圧倒するほどに、死や苦悩を超越して欲しかったのかもしれない。――


 「お前が人に希望を持てないのは勝手だが、俺は違うぞ。この子は人として生きていく中で神に近づく、それが本当の女神だよ」
 「穢れた人の世で、神のままでなどいられるものか」
 「いられるさ。いや、それでこそ、本当の神になる。こんな閉じた世界にいては、何も識ることなどできないままだ――それが俺の答えだ」
 自分に言い聞かせるように真剣に答えるクリシュナに、アシュヴィンは皮肉な笑顔を向けた。
 「それが正しいといつ分かる? …我らが死ぬそのときか、それともその先か?」
 問いかけて、彼は自ら否定するように続けた。
 「否。お前の答えはあまりにも不完全だ。…それなら、私はもっと確かな神を見出すよ」

 「それがお前の結論か…」
 クリシュナは静かにそう言うと、少女の手を引いて、歩き出した。
 「答えはいつか出るだろう。…俺にもお前にもわからなければ、いずれ、世の終末を迎えるまでには」

 アシュヴィンが止めないことは知っていた。
 彼はもはやタレジュ神を求めず、永久に関心を失った。
 そして、彼は友と行く道を違え、互いにそれを認め合ったのだから。




 重々しい隠し扉を閉め、タレジュの痕跡を可能な限り消し去ると、アニタはおもむろに短剣を取り出し、その切っ先を神官に向けた。
 「アシュヴィンさま、出て行って下さいませ。そしてこのことは御内密に」
 「いいのかい? お前は死ぬよ、アニタ」
 アシュヴィンはいくらか呆れた口調で、侍女を馬鹿にするように眺めた。
 ――この娘は、どこまでも己の信念に殉じようとする心構えらしい…

 「今なら逃げられるが? お前が責めを受けても、何にもならないよ。命を無駄にするだけ」
 「…構わぬと、申し上げました」
 「――馬鹿な娘だ」

 言いながら、アシュヴィンはふと、彼女の心に住まう神がいることに気がついた。
 タレジュであってタレジュでない、それでも彼女にとっては、唯一無二の絶対のもの。
 ――こんな風に、信じる者の心の中にだけ生きる神も、また真実の存在には違いない。
 彼はそう考えると、一瞬、慈悲そのものの顔をして、侍女を見遣った。

 「お前のようなものがいるから、神は衆生の中に生きていられるのだろうね…」




***




 「本当にいいのか、家に帰らなくて」

 クリシュナは塔を出た少女をまずは実家に戻そうとした。八年も前から離れたままの家は行きづらいかもしれないが、親もお前を待っているだろう、と。
 だが、少女には頑なに拒絶された。
 『あそこには私がいなくても大丈夫だから』

 本当の両親や家族がいるところに帰りたくないのか、重ねてそう問うと、彼女は言葉少なに答える。
 『…私の家は、王家よりも古い、声望のある家門だ。そう聞いてる。王も手出しはできないはずだ』
 『そんなことを言ってるんじゃない。親や兄弟のもとに帰りたくないのか?』
 青年がいらついたように言うと、少女はぽつりと小声で、胸の内を打ち明けた。

 『…帰りたいとは思わない。タレジュを降りた娘は、大抵家の中に閉じ込められて生涯を終えるだけだ。人の生活に適応できないし、結婚すると夫を早死にさせるのだって』
 『それは、…そんなのは迷信だ。恐れずに戻っていいんだぞ』
 『せっかく牢から出たのに、また牢に戻るのか。…お前は別の牢に私を移すためだけに、ここにいるの?』

 そういわれて、クリシュナは黙って降参した。
 神でなくなってもなお、少女の身に平穏は訪れない。
 ――私の未来に希望はない
 かつての少女の言葉が、ようやく実感を伴ってクリシュナに理解できた。


 「お前は、強いな。出たこともない世界に飛び出そうとする勇気がある。さすがだよ」
 心からの賞賛をもって、彼は馬上に相乗りした少女に語りかけた。
 しかし、目の前の少女は後ろ姿のまま、そっと首を振る。

 「――違う。私は、本当は、人の世が怖かった。今だって家に帰って閉じこもってしまったほうが、ずっと楽なように思える。塔から垣間見た世界は、想像もできないほど、恐ろしいところに見えた」
 「…ああ」
 青年は、そんな思いが分かるような気がして、そっと頷いた。
 温かさを知らない目で見た人の世なら、これほど恐ろしい場所はないだろう。
 ・・・ましてや、神から人に戻ったばかりの娘には。

 「怖いのは当然だろう。…お前、泣いてるのか」
 青年の前に座っている彼女の頭は、かすかに震えていた。
 だが、嗚咽は聞こえなかった。そう簡単に彼女は泣けないから。

 「あそこにずっといられたら、何も考えなくてよかった。全ては私の前に用意されていた…食べ物も着るものも、言葉さえ」
 「だからお前は外へ出て行きたくなったんだろう。容易されたものほどつまらぬものはない」
 「分からない。…でも、何かを不満に思ったことなどない」
 「だが、実際お前は出てきた」
 「うん」

 彼女は、怯えるウサギのように、彼にぎゅっとしがみついた。
 初めて足を踏み出そうとする今、彼女は確かにありったけの勇気を振り絞っていた。

 「人の世界は怖かった。でも、そこへ行かないことはもっと怖かった。心の中で声がした。いつも、いつも」
 「人になりたいと?」
 「違う。ただ、『早く行け、お前の世界に戻れ』と。その声は私の内から響いたもの。それに逆らうことは、私自身を偽ることだった。私は、…私にまで真実を隠してはいけないと思った」
 「そうか」
 クリシュナは、ゆっくりと少女を抱きしめた。貴い女神が宿っていた小さな背中を温めるように、そっと。

 「お前はもう人の子だ。ここが、お前の住む場所だ」

 その言葉に、彼女は弾かれたようにくるりと振り返った。
 「…何と言った」
 「ん? …ああ、お前のいる場所は、ここだと言った」
 ふざけたように答える青年を、彼女は真剣な眼差しで見つめた。
 あまりにじっと見つめるので、彼が居心地を悪くするほど。

 「…お前の声だ」
 「何が?」
 強張った彼女の声が、必死に告げる。
 「私に行けと命じた声は、きっと、お前の声をしていた」

 青年は一瞬黙り込んだ。
 だがすぐに、遠慮なく彼女の頭をくしゃりと撫でた。
 「そうか。そうかもしれない。…だから、俺が呼ぶ声で、お前は出てきたんだろう」
 少女はこくりと頷く。至極納得した、というように。

 「お前は今、この世界に生まれ直した。生まれたての赤ん坊と同じだな」
 「…間違ってもお前は親ではない」
 「馬鹿、俺だってまだ子供を持つ気なんか無い。――そうだな、兄とでも思っておけ。お前が一人前になれるまでは、面倒みてやるさ」
 少女はそう言う彼を、驚いた顔で見上げた。
 「…面倒…」

 今まで『お世話申し上げ』られたことしかない少女は、その台詞に衝撃を受けたのか、眉根に皺を寄せて首をかしげた。
 「私は厄介者になるの…?」
 「おい、真面目に悩むんじゃない。ただ単に、一緒にいてやるっていう意味だ」
 一緒、という言い方にも少女は合点がいかない様子だったが、しぶしぶという風に頷いた。

 「まずはのんびり楽しくやろう。人の世も、暮らしてみればいいところだぞ」
 クリシュナは少女に笑いかけた。少女も少しだけ、その表情に彼の笑顔を映す。
 そんなかすかな感情の動きすら、人である証に見える。
 それが彼には奇跡のように美しい瞬間に思えた。
 聖賢にすらどうにもならぬこの世の穢れも、これによって浄化されるのではないか。――そう思えるほど。



 「まずは、お前の名を聞こう。本当の名を」
 「名など、名乗ったことがない」
 戸惑うように少女は洩らした。
 しかしクリシュナはそれにも構わず、ずけずけと言い足した。
 「俺が始めに呼んでやるから、教えろ」
 「…。ラートリー」
 もはやタレジュではない娘は、居心地が悪そうに、そう言った。

 初めて自分から他人に名乗る本当の名。
 教えた途端に、神の衣を脱ぎ捨てた心細さが彼女を襲う。
 それを知ってか、青年は朗らかに笑って、また少女の頭をくしゃりと撫でた。

 「そうか、夜の女神か。お前に似合いの名だ。美しき天の娘」
 「…」
 「では、ラートリー。見知らぬ人の世でも、怖がるな。『光明によりて暗黒を駆逐す』――夜の女神よ、暗闇はもう明けた。暁がやってきたんだ」




 


 いつしか、季節は変わっていた。
 出会ったときの凍るような風はもうなく、代わりに、どこか春を感じさせる再生の空気が体に満ちる。
 
 少女が見た夜明けの光は、かつて凍りつくような孤独の中で見た光とはまるで別物だった。
 夜が明け、光に満ちるのと同時に、彼女の中の止まったときが動き出す。
 夜の女神が暁の女神に変わるように、ラートリーは自分が温かい光の中にいるのを知った。


 馬の背に乗った二人は、長い影を揺らしながら、目の前にある道を進む。
 探すものは無限にあって、生きていることを膿む暇もないだろう。
 
 
 …まずは、これから行くべき処を。それから、生きていく場所を。
 
 ――それは少女にとって、初めて見る、懐かしい場所になる。





end.






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あとがき




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