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第一章  「帰郷」
「内なる性の叫び」
 今晩の夕食と明日から数日分の食品と、帰省中の間わたしだけが主に飲むであろうビールを買い物籠に入れレジで清算した。姉が良い、良いというのを押しとどめ代金はわたしが支払った。
何となく支払わないと悪い気がしていた。両親への仕送りも年に2回のボーナスが入った時だけだったし、田舎の常識的な考えで言えば、戸籍上の長男として本来なら田舎に帰って両親の面倒を見るのが当たり前なんだろうけど、それをせずにほって置いたという後ろめたさが買い物の支払いをすることで少しは解消されそうな気がしていた。
永年近所付き合いのない都会暮らしをしながらもこんな考えをする事自体、わたし自身が田舎人そのものである証拠なのかもしれない。いくら年月を重ねようとも若い自分に沁みついた考えは消そうにも消す事の出来ないもののような気がしていた。
「わるいわね。有難うね」と何度も繰り返す姉に向かって「帰って来た時ぐらいは少し親孝行しないとね」と、少しだけ楽になったような気分の中で言った。

 実家に向かう道は市街地を離れ暫くすると山中に入った。上り坂とカーブが多くなってきた道の両側は点灯したライトの光も届かない、今にも黒々と沈み込もうとする色合いの山肌が続いていた。
「あの辺りがあなたが良く登っていた山よ」
姉の指し示す方向を握ったハンドルに顔を着けるように屈み込み、見上げるようにして見た左斜め前方に、まだ明るさが残った群青色の空を背景に通信用の鉄塔らしきものが林立した一際盛り上がった山がその稜線を影絵のように浮かび上がらせていた。
「随分、鉄塔がならんでいるなぁ。変わってしまったんだろうね」
「そうね、あなたが登っていた頃の頂上は知らないけど、今は頂上まで車で行けるのよ。テレビやら何やらの鉄塔が一杯立っていて、ちょっとした見物よ」
「登ったの?」
「ええ、長姉さんが帰って来たとき、父さんや母さんも連れて登ったわよ」
「父さんや母さんは初めてじゃなかったの」
わたしが中学から高校時分にあの山に登ってもそのことを話題にすることもなかったのだから、父も母もきっと登ったことなどないのだろうと勝手に思い込んでいた。
「父さんは昔、若い頃登ったことがあるって言っていたけど、母さんは初めてだったみたい。感激してたわ。長年遠くから眺めて来ていつかは登ってみたいって、思ってたって。それにあなたが良く登っていたことを不思議がっていたわよ。何であんなに度々登ってたんだって。どうして?山登りが好きなの?」
「ま、そんなとこかな」
父が若い頃登ったことが有るという話しは聞いたことがなかった。もっともわたしも父との会話が少なかったことから聞きもしなかったのだか。
「東京に行ってからも山登りをしていたの?」
「いや、一回福島の安達太良山に登っただけ」
「ふうん」姉は変だというように首を傾げながら言った。
山は好きだけど、東京に住んでて日帰りで登れる山はそんなに多くなかったし、働きながら大学に通っていたわたしには仕事を休んでまで山に行くほどの金銭的な余裕も無く、また金銭を度外視して山に登るほど登山というものが好きなわけではなかった。

 中学、高校時分、田舎のあの山に登っていたのにはわたしの個人的な深い理由があったのだが、今そのことを姉に話すつもりはなかった。出来れば生涯話したくないことだった。しかし、いつかは話さなければならないだろうとも考えていた。
40年間以上も自分の心に秘めて来たことを「実は・・・」と話したら姉は一体どんな反応をするのだろう。わたしの推測かも知れないが、姉の記憶にはわたしからそのことを聞いて思い当たることが沢山有るはずだった。
しかし、たとえ思い当たることが沢山有ったとしても、それゆえに理解出来るということとは違うものだとわたしには思えた。
今回の帰郷で話すつもりは無くても、話して解って欲しいという気持ちが無いわけではなかった。むしろ、結果はどうであれ早く話してすっきりしたい気持ちも一方では強いものだった。

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