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第一章  「帰郷」
「内なる性の叫び」
 実家の狭い木戸を慎重に車を進め、庭先に入ると、外灯が点っており、母親が玄関から顔だけ覗かせて出迎えてくれた。
「遅かったねぇ」
玄関から出て来た母親は車を降りたわたしに昔の心配顔と同じ表情で問い掛けてきた。
電灯の明るさが足りないせいばかりではなく、母の顔には3年前に会った時より更に沢山のそれも深く刻まれた皺が増えたように見えた。
「夕食と明日の分の買出しをして来たから遅くなっちゃった」
姉が母の傍に歩み寄りながら、わたしの返事を待たず答えた。
「ただいま」と声をかけながらトランクを開け、中に積み込んだ買い物袋を姉に渡し、残りの買い物袋と後部座席に放り込んだ旅行鞄を両の手に持ち、勝手口から中に入った。
父は立ち座りが楽なようにと母とお揃いで買い揃えた腰高の座椅子に座ってわたしに笑顔を向けていた。
わたしが居間に上がると同じくして母が奥から居間に上がり、テーブルの前に座った。
正座したままふたりが揃うのを待っていたわたしは母が座るのと同時に深々と頭を下げた。
「ただいま帰りました」
「時間掛かったなぁ」
父は息子の帰郷を心待ちしていたらしく、満面の笑みを浮かべていた。
母もやっと心配しなくて済むといったように表情を和らげ、急須にお湯を注ぎ始めた。
「ご先祖様にお参りして来たら」
台所で買い物袋から品物を取り出していた姉が、わたしの挨拶の終わるのを待っていたかのように顔を覗かせて言った。いつものことだった。ずっと以前に帰省した折、わたしに対して父と母にきちんと挨拶をするようにと注文をつけたのも姉だった。わたしにとって帰省することは仕事から自分の家に帰るようなもので、正座して改まった挨拶をしなくてはならないものではなかったのだが、逆らうほどのことでもなかったし都会で一家を構えて父や母の面倒を見るべき長男の義務を果たしていないのだからもはや自分の家では無いのだ、と思うことで姉の言ったことを受け入れた。そのように受け入れる事でわたしはもうこの家に対して義務を感じないで済むのかも知れないという期待も有ったのだった。

姉の声に急かされるようにして床の間に入った。
8畳の床の間はわたしが学生時代に自分の部屋として使っていたのだが、今は父の寝間になっているらしく布団が敷きっ放しにしてあり、縁側の障子と中間(なかま)との境になっている襖の交差する角に父の物と思しき衣類がきちんと畳んで置いてあった。
一通り辺りを見回して仏壇の正面に立った。仏壇は2年程前に新調したという話を姉から聞いていたが、確かに真新しくて金色に光耀いていた。仏器も新しくなっており、高校時分に見慣れていた錆びて黒くくすんでいた火立やりんは無くなって、金色に光っている真新しいものが置かれていた。新しくなった仏飯にはきちんとご飯が盛られ、湯呑にもお茶が汲まれており、何よりも花立には今日供えたと思しき活き活きとした生花が飾られていた。
わたしが高校の時、毎朝の日課としてご飯とお茶をお供えしていたのは母であったが、今は姉の日課となっているのだろうか。そんな事を思いながら火立の蝋燭にマッチで火をつけ、一本の線香を二つ折りしてから蝋燭の火を移し香炉に載せ、りんを一回打ち鳴らして手を合わせた。
仏壇の奥に覗いている仏像を一瞥し、目を閉じると肖像画でしか見たことの無い祖父母のことを思ったが、その顔をはっきりと思い浮かべることは出来なかった。暫く目を閉じ手を合わせたまま、誰とはなしに「無事に帰って来たことと両親や姉が無事でいたことを感謝します」と心の中で呟いた。別段、神や仏を信じているわけでは無いし、死者の霊も信じてはいないのだが、そうでもしないと何やら悪い事が起こりそうな気分になってしまうのは人間に共通な心理なのだろうか。こんな人間の不安感を元に宗教は成り立っているのだろうという考えがわたしには有って、宗教そのもがそんなに好きにはなれなかった。それでもキリストや釈迦の考えには引かれるものを感じていたし、宗教は彼らの思いとは全くかけ離れたところで成り立っているものだと考えていた。
目を開け、手を膝につきながら猛一度仏壇の奥の仏像を見やった。
「阿弥陀如来・・・・」阿弥陀経に書かれた阿弥陀如来の出現に三千世界が散華しその散華された花弁が積もって何百ヨージャナの厚さになったという下りが浮かんだ。
火立の蝋燭の火を手で扇ぐようにして消し、居間に向かった。

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