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第一章  「帰郷」
「内なる性の叫び」
 居間のテーブルには手際よく食事の用意が整っており、わたしが座るのを待っていたらしく姉が台所から缶ビールを持って現れた。
「さあ、食べましょう」と言いながらわたしに向かってビールの缶を差し出した。わたしはコップを差し出し姉が注いでくれるビールの量に合わせて傾けていたコップを真っ直ぐに起こして行った。
コップが一杯になると姉から缶ビールを受け取り父に向かって差し出した。
父はコップを持つと照れくささを隠すような笑顔を浮かべ、わたしの前に差し出した。わたしは差し出されたコップにビールを注いで行った。
「ほらっ、真っ直ぐしないと溢れちゃうよ」
父は傾けたコップを起こそうとしないためビールが溢れそうになってしまった。わたしはもう一方の手で父のコップを起こしながら言った。
「ああ、そうだな」父はばつが悪そうな表情をしながらそう独りごちた。
父のコップを一杯にすると、わたしは母に缶ビールを向けた。
「少しで良いからね」といいながら母はコップを差し出した。姉はわたしが両親にビールを注ぐのを嬉しそうな表情で眺めていた。母親が「あっ、もう良いよ」と言いながらコップを持ち上げた。缶の中には母のコップの半分足らずの量しか残っていなかった。新しい缶を開け、母に差し出すと、「もう良いよ。あんまり飲むと心臓に悪いから」と言って手のひらで蓋をするような仕草をしながら手に持ったコップを脇に引っ込めた。
「久し振りなんだから少しぐらいだったら返って体に良いのよ」
姉はそう言いながらわたしの番と言うように自分のコップをわたしの方に差し出した。わたしが注ぎ終わるのを待って「ハイ、お疲れ様でした」と言いながらコップを掲げわたしのコップの縁に軽く合わせた。
「ご無沙汰してました」と言いながら、わたしは父と母のコップに順に合わせた。「チン」というガラスの触れ合う音が部屋に響いた。一気に飲み干した冷たい苦味のあるビールが、喉を心地よく冷やしながら胃の中流れ込んで行くのが感じられた。

 用意された食事はわたしが久し振りに帰って来たこともあって、普段より良いものが並んでいるよう見えたがとりわけご馳走と言えるほどのものでは無かった。姉の性格を考えると納得の行くものだった。姉にとってわたしの3年ぶりの帰郷も珍しいものではなく、日常のちょっとした出来事と同じ感覚だった。それは遠く離れた地で一家を成し生活していると言ってもここの家族の一員には変わり無いのだからこの家に帰って来るのは当たり前という考えに立っており、どれだけ時間が空いていたとしても日常の連続する出来事の一つに過ぎない、というもののように捉えているかのようだった。
久し振りに帰ったからと言ってテーブルを埋め尽くすような贅沢な品々で歓待されるより、わたしにもその方が気が楽だった。
しかし父と母は姉とは違った感情を抱いているようだった。わたしが帰って来たことで父親の食がいつになく進んでいると母と姉が半分父親を冷やかすような口調で言った。父親は照れたような笑いを浮かべながら箸を進めていた。同じ様に母親も何処と無く華やい感じの表情だった。やはり遠く離れて暮している息子が一時にせよ帰って来たことは嬉しいことなんだろう。そう思うと何年も放って置いたという負い目と共に何となく自分の義務の一端を果たしたような思いにもなっていた。

 箸を進めながら姉が中心となって母と進める会話の中身はもっぱら近所の出来事であった。その話の内容の殆どはわたしの知り得ない出来事であったし、余り興味をそそるようなものでもなかったので黙って聞いているだけだったが、わたしの同級生や先輩、後輩の知った名前が出て来ると割り込んでその名前の主の近況を聞いた。もっとも聞いても翌日は殆ど忘れてしまっているのだったが、やはり遠く離れ殆ど同級生との交流もなく過ごしていると名前を聞いただけでその動向が気になってしまうのは、自ら友達との交流を避けて来たとは言え、心の何処かで友を求めているということなのだろう。
ひとしきり近所の噂話で盛り上がった母と姉は、いつものように次第に私達の小さい頃の思い出話へと話を移していった。そんな時わたしはいつも苦笑いを浮かべながら聞いているのだったが、聞くたびに初めて聞くようなこともあり、全く記憶に無いものもあった。今のわたしを考えると決して有りえないと思える話のときは半信半疑な気持ちで聞いていた。母と姉はそんな昔話を何か優しいものに触れたような、いとおしむような目で中空を見つめて話していた。
恐らくその頭の中にはその時々の映像が若干の脚色を加えたものとして浮かび上がっているのだろう。その場面に登場するわたしや姉たちはまだ幼く母親の制御が利く子供なのであろうし、恐らく母は今よりその時代を良いものとして思い浮かべているのかもしれない。姉もまた良き時代の思い出に浸り昔に回帰しているのだろう。人は本当は思い出の中から生きる糧を得ているのかもしれない。懐かしい思い出の中に浸ることで心を新たにして生きて行けるのかもしれない。しかしわたしには回帰する良い思い出などこの田舎には無かった。思い出すことは嫌なこと、人に言えないことばかりだった。

 「もう、12時回っているよ」
食事を終え後片付けをした後もテレビを見ながらわたしや姉達の思い出話を続けていたのだった。
わたしは話しに区切りを付けたくて水をさした。わたしは休暇を取っての帰郷だし、姉も両親も別段の仕事を持っているわけではないから、何時になろうと明日の朝が困るわけではなかったのだが、何となくこれ以上思い出話を続けるのが億劫に感じられたからだった。
「そうそう、○○町に温泉が出来たの知ってる?」
姉が思い出したように聞いてきた。
「知ってるわけないでしょ、なにそれ?」
唐突な質問にちょっとぶっきらぼうに応答した。
「出来たのよ、故郷創生資金かなんかの1億円で温泉を掘り当てたのよ」
姉は隣町の温泉の話を自分達の町の事業と比較しながら誉める一方で自分達の町の1億円を使った事業の無意味さを入場者数を比較しながら批判した。
「何処に温泉が出たの」
批判めいた話は聞きたくなかったので割り込むように場所を聞いた。
姉が説明する場所はJRの線路の近くでとても温泉の出そうな場所ではなかった。
「へえ、温泉があんなところに出るんだ」
「明日皆で行ってみない?朝一番で電話して家族風呂が空いているかどうか確認するから」
「そうだね。この間帰って来た時もこっちの温泉に行ったからね。良いじゃない」
家族風呂を申し込む意図をもっともらしい理由をつけて説明する姉の話を制して同意した。
「そうと決まったら、もう寝ましょう」と言って姉が立ち上がった。
「お父さん、寝るわよ」と座椅子の上でうとうととしていた父をせかすようにして立ち上がらせると部屋まで付き添って行った。母は「空いているかねぇ」と言いながら立ち上がり、「早く寝るんだよ」とわたしに向かって子供を諭すような口調で言いながら自分の部屋へと消えて行った。
わたしはテレビを見るとも無くぼんやりと映像を眺めながら曖昧な返事を返した。

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