水の中は好きだ。
水という優しい器は僕を受け入れて、僕を形作ってくれるから。
僕が、僕を確かめる事が出来るから。
回遊魚
「そろそろあがったらどうなんだ?」
太い声がかけられて、僕は顔を上げる。
ビクトールが岸辺から笑って、僕を見下ろしていた。
「なんだ、ビクトールか・・・」
僕はそれだけ言って、またトラン湖の波間を漂い始める。
トラン湖は一年を通して穏やかだ。
風が吹けば水面は揺れるが、その程度。
だが夏にもなりきってないこの季節、湖で泳ごうとする酔狂なものは僕ぐらいだろう。
しかも太陽がとっくに沈んでしまった、この時間に。
緩やかな風が吹いて、ゆったりと水面が揺れる。
僕は抵抗することなく、その柔らかな揺れに身を任せる。
手を天に向かってあげると、指先から雫が零れた。
頭上でのんきな声が聞こえる。
「おいおい。あんまり浸かってるとふやけるぞ?」
そのあまりにのんきな物言いに、僕は水の中で笑った。
「大丈夫だよ。それにそれほど長時間浸かってもないし」
そうは言ったものの、水を吸った服が重くなってきたように感じたのも事実で。
僕は岸に近づく。
「やっとあがる気になったか」
ビクトールが差し出した手を掴むと、馬鹿力で引き揚げられた。
そして用意の良いこの男は、僕の頭の上にまっさらの布を落とす。
滴る水滴を適当にそれで拭うと、ビクトールの声が頭上でした。
「あんまり心配かけるなよ」
僕はきょとんと顔を上げた。
「心配、したのか?」
なんとなく意外な言葉だったので僕が訊ねかえすと、今度はビクトールがきょとんとした。
そして一拍おいて大笑いする。
「そりゃ、誰だってするだろう。あんな事があった後なんだからな。俺は最初トラン湖に浮かんでるお前を見た時、身投げでもしたのかと思ったぜ」
どこまでが本気か分らない言葉だった。
最初、というのは・・・グレミオがいなくなった夜の事だった。
仲間を、僕を庇ってグレミオが命を落とした夜。
僕は気が付いたら、トラン湖に浸かっていた。
そしてその時も僕の傍にいたのは、ビクトールだった。
いつもと変わらない太い笑顔で僕を引きあげ・・・。それ以来僕たちは毎晩ここにいるような気がする。
「グレミオがあんな事になってしまったからな。大事な人間を失ってまいらねぇ奴なんていないからな」
そう言って、父が昔よくしたように僕の頭をぽんと叩く。
この男だけが僕の前でも、誰もが避けようとする名前を出してくる。
その名を忘れさせまいとするかのように。
僕が唇を噛むと、もう一度大きなてのひらが僕の濡れた頭を叩く。
「お前が不安になる気持ちもわかるがな。自分の周りにいた、それこそ自分を形作っていた人間が消えて、自分が分らなくなっちまったんだろ?」
聞きなれた太い声が、心臓を締め上げた。
「どういう意味だ・・・?」
今にも震えだしそうなのは、濡れた体が冷えたからだろうか。
そんな僕には気付かず、ビクトールが言葉を続ける。
「違うのか?お前水の中にいると、水が自分の形を作ってくれるから安心するって前に言っただろ。それは陸の上でお前を形作るものがなくなって不安だったからなんじゃないのか?」
鼓動がよりいっそう早くなったような気がする。
この男は・・・。
どうして余計なところでこんなに目聡いのだろうか。
誰にも、それこそ自分でも気が付かないような心のひびを見つけるのだろうか。
怒りに近い衝動がこみあがって来るような気がした。
だが僕を遮るように、ビクトールが口を開いた。
「だけどな・・・お前の周りにはまだこれだけたくさんの人間がいるじゃねえか。クレオもパーンも俺もマッシュも・・・お前を信じてこの城に集まった全員が、陸でお前を形作るものなんだよ」
ビクトールの黒い瞳の中に僕が映っていた。
体温がわずかに上昇したような感じがした。
「陸の上で自分を見失ってしまうというのなら、このトラン湖がお前に答えをくれる。いつでも好きなだけここに戻って来い。そして自分を確認できたら、また歩き出せ。人間は地に足をつけて生きなきゃならんからな」
いつになく真剣な響きのビクトールの言葉。
僕は、その言葉に小さく頷く。
ビクトールの温かい手のひらが、僕の頭を軽く叩く。
その言葉を自分にかけてくれた存在が、悲しいほど嬉しかった。
■ あとがき
おかしい。
どうしていつも完成予想図(?)よりも75度ほど斜め上にずれたものになってしまうのか・・・。
最初この話は夏らしく、坊ちゃんトラン湖で泳ぐの巻、という話のはずだったのに。影も形もないとはこの事です(泣)。
06/23/01 written by Youko.K.