月替りの「お題」からメンバーが
自由な連想でエッセーをつづります。

ものの見方・感じ方に、
それぞれの経験や個性があらわれます。

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今月のお題:「春」
隅 恵子 春になって戦争が始まった
床井 順子 セサミがやって来た。
藤木 俊明 春より初夏」
中保 裕子 「“春”を満喫!?」
高林 昭浩 「空蝉の世は常なしと知るものを…」NEW



春になって戦争が始まった-----隅 恵子

春の訪れと同時に米英軍のイラク侵攻が始まった。空爆開始のニュースを耳にしてから1週間は、もしイラク市民と同じ目にあったらどんなに不安で苦しいだろうかと、ずっと気持ちが暗かった。イラク侵攻に対して気持ちは大反対だったけれど、仕事が入っていたため、空爆開始前の反戦デモ行進には参加しなかった。当たり前のことだが、デモに参加するには自分の生活の中で時間をつくる努力が必要だった。

 それにしても、米国はどうしてあんなに偏狭になってしまったのだろうか。10年以上、医療の取材をしているが、医師教育でも医療制度でも病院経営でも、比較の対象として米国の事例が引き合いに出されることが実に多かった。米国の話は、権威や世代とは関係なく、質のよいことや正しいものを認めていく実力社会として紹介された。良い医者になりたいと切望する日本の優秀な若いドクターが、こぞって米国留学を望んでいた。

 2002年3月まで東京都にあった国立公衆衛生院は、太平洋戦争以前に米国ロックフェラー財団の寄付で、日本の公衆衛生活動の発展を目指して設立された。当時、日米間には既にきな臭い空気があり、後に開戦に至ったことを考えれば財団の活動は敵国支援に値する。しかし、外交とは切り離して国際支援活動を容認する大らかさが、かつての米国にはあったという。イラク侵攻に反対するフランスが気にくわなくて、米国議会の食堂のフランス語メニューを書き換えた国と、同じ国とはとても思えない。

 9.11の衝撃が米国を変えてしまったのだろうか。もっとも、気持ちの変容という点では、イラク侵攻2週間目で戦争報道に慣れ始めた自分を自覚した時がいちばん唖然とした。本当に薄情だと思うが、私自身については、その地域に友人がいるなどの個人的な思い入れがなければ、漠然とした反戦感情だけではイラクの人々の現状に思いを馳せることすら続けられないのだと思う。

セサミがやって来た。-----床井 順子

深夜、キキー、キキーッというガラスをなにかで引っ掻くような音に気がついた。
庭に面したサッシに強風で折れた小枝でも当たっているような音だ。
カーテンを開けてみると、足元近くのガラスの向こうに先日餌をやったノラ猫の、切羽詰まったような表情があった。よく見ると、前足をガラスに当てた猫の足元になにやら動くものがある。

子猫だ!
急いでサッシを開けると、ノラは子猫をくわえて一目散に部屋の奥へと駆け込んだ。ソファの一角にその子猫をポトリと落とすと、こんどは急いでいま来た道を引き返し、外へと飛び出していった。

「どうしよう・・・置いていかれちゃった!」私と夫は顔を見合わせた。
しばらくすると、もう一匹くわえてやってきた。
「えーっ! いったい何匹いるのかしら?」「ど、どうする?」
幸いもう出ていく様子はない。どうやら子猫は2匹だけのようだ。

猫は普通4匹か5匹の子を産む。
しかし、このノラに以前餌をやったのはあまりにも痩せていたからなのだ。
ミニチュアの馬かと思うほどの細い顔、全身ガリガリで尻尾など針金のようだった。いくらノラでも、ここまで痩せた猫を見たのは初めてだった。

きっと栄養失調で2匹しか産まれなかったのだろう。
猫の恋の季節は、まだ寒い2月の初め頃。
で、4月の初めごろには子猫の誕生となる。
自然の摂理に従って、自身は痩せ細っていても子を産む。
この母猫のけなげさに心打たれた。

私を信じて子猫を連れて来たノラ。
もともと猫好きなことと、この母猫に選ばれた幸せ感もあって、この猫の親子を飼うことにした。
母猫は黒毛だけが点々と目立ち、ぼけた茶色と薄汚れた白毛混じりの三毛猫。名前をセサミと付けた。

まだ目も開かない子猫は手のひらにすっぽりと納まる小ささで、黄トラと白黒ブチだ。
まるでお稲荷さんと田舎饅頭のようだった。
黄菜子と安兵衛と名前が決まった。
セサミは子猫を文字どおりなめまわすように育て、その姿は母子ともに幸せそのもので、見ているこちらも一家団欒の幸福感に満たされた。

1年もしないうちにセサミの毛色は濃くなり、子猫は6キロを超すデブ猫になった。
その後、数年続けて春になるとどこかから猫がやって来て、わが家に住み着くという不思議なことかが起こった。
猫の世界に連絡網でもあるのだろうか。

あれから20数年の春が過ぎ、その猫たちもそれぞれに天寿を全うしていまは1匹もいない。
菜の花が咲き、桜が散るころになると去っていった猫たちの姿が思い出される。
「春より初夏」-----藤木 俊明

「春」ってあんまり好きじゃないんですよね。
会社やってると、いろんな契約更改とかあってヒヤヒヤしっぱなしだし。
なんか人との別れは多いし。
木の芽時でクレイジーだし。
好きなのは「初夏」ですね。
新緑のむせ返る香りが好きです。
でもこの「初」って、あんまり初夏以外の他の季節にはつけない気がしませんか?「晩夏」って言いますよね。
でも、これは日常使うより小説に使うぽいですよね。
じゃ「晩春」って使いますか?それって「春の終わり」だとしたら「夏の初め」ですよね。そうすると、「初夏」とどう違うの?

気になったわたしは(単に不勉強)、辞書で調べてみました。
そしたら、「仲春」「仲冬」なんてのもある。
夏だけがなんとなく特別扱いで、みんな真中は「仲」なのに、「盛夏」となっています。もはや、手紙の書き出し分にしか見かけない言葉ですが、やっぱり夏のあの暑さは、「仲」なんかで表わせないと考えたんでしょうかね。
これ見ると、ぼくが「初夏」だと思っていたころは、むしろ「晩春」みたいですね…。
昔の暦はすべての月をカバーしていたのです (下記参照)。
字数とってごめんなさい。ていうか、埋め草?

■しょしゅん【初春】
春の初め。はつはる。〔陰暦では正月を指す〕
■ちゅうしゅん【仲春】
〔古〕 春の半ば。〔陰暦では二月を指す〕
■ばんしゅん【晩春】
春の終りごろ。〔陰暦では三月を指す〕
■しょか【初夏】
夏の初め。はつなつ。〔陰暦では四月を指す〕
■せいか【盛夏】
夏の最中。暑さの盛り。盛暑。〔陰暦では五月、陽暦では七、八月の交〕
■ばんか【晩夏】
夏の終りごろ。〔陰暦では六月を指す〕
■しょしゅう【初秋】
秋の初め。はつあき。〔陰暦では七月を指す〕
■ちゅうしゅう【中秋】
(一)陰暦の八月十五夜。「―の名月」
(二)〔古〕秋の半ば。〔陰暦では八月を指す〕
■ばんしゅう【晩秋】
秋の終りごろ。〔陰暦では九月を指す〕
■しょとう 【初冬】
冬の初め。はつふゆ。〔陰暦では十月を指す〕
■ちゅうとう【仲冬】
〔古〕 冬の半ば。〔陰暦では十一月を指す〕
■ばんとう【晩冬】
冬の終りごろ。〔陰暦では十二月を指す〕
※新明解国語辞典より

「“春”を満喫!?」-----中保 裕子

3月末から怒涛のごとく仕事三昧の日々となり、花見にいけずじまい。
翌週、日本医学会総会が開かれる博多に4泊で出かけるので、なんとしても仕事を片付けなければならなかったのだ。

博多で花見ができるかも??と淡い期待を抱いていったのだが、甘かった。
春は満喫できなかったが、代わりに餃子は満喫した。
餃子は私の好きな三大食べ物のなかに間違いなく入る。
特に博多の餃子は大阪とともに、一口サイズのパリパリ系で非常においしい。

「鉄鍋」「テムジン」「天手粉舞」・・・と店によって個性があるが、私のイチオシは中州の宝雲亭である。
博多だけでもこれだけバラエティ豊かな餃子があるのに、東京にはなぜ無い!東京はなんて貧困なんだ!と、餃子を思うたびに立腹している。
しまいには、池袋に「餃子スタジアム」なんてものまで出来てしまった。
東京餃子がつくれないから、よそのご当地品の受け売りである。

このままだとこの原稿が餃子だけで終わってしまいそうだ。
肝心の医学会総会に話をもどす。
それなりに充実した3日間だったが、学会のシンポジウムってどうしてこう下手なのか?の連続だった。
今回に限ったことではないが、たいていはそれぞれの基調講演だけでディスカッションが無いままに終わる。
「シンポジウム」の語源はギリシャ語の「共に飲む」。
酒をのみながら、一つの話題についてとことん語り合うのが本来の姿なのだ。
しかし、不思議なことに学会のステージの上の出席者同士は、互いに突っ込みも突っ込まれもしない。
学問上の争いを最初から避けるようにもっていく。

最終日のシンポジウムは、これまた恐ろしくパネリストが多かった。
こちらを立てればあちらが立たず、と各方面に気を遣ったあげくの大量パネリストになってしまった感がありありとしているうえ、なんと、4時間の長丁場。
当然、場内は睡眠モードが蔓延していたが、あるパネリストの「日本の医療費を下げるために、保険適用の範囲を見直した方がいい。厚底ヒールを履いてコケた女子高生のけがの治療費を保険でもつ必要はないのではないか」
という発言は大ウケだった。

でもねえ、病気やけがに価値判断を持ち込んだら、どこかの国で“春”を買ったり、援助交際にうつつを抜かしてビョーキをもらった君たちオッサンがいちばん困るんでないの??と反論したい気持ちをおさえつつ、あくび一つして会場を出た。
春は、ねむい。

「空蝉の世は常なしと知るものを…」-----高林 昭浩
春はスプリング。スプリングといえば発条。発条といえば発情ということで、ひところサカリのついた猫の鳴き声が会社の周囲にサラウンドで響き、うるさくてしかたなかった。これもホルモン分泌のなせるわざ、ああ、畜生の悲しさよと笑うことはできない。人間さまもこの季節になるとオツム関係にいろいろな変調をきたすことが多くなるからだ。

かくいう私がそうだ。春は空しい。なにやらわけもなく空しい。あまりにも空しいので、そんな人間を何人か集めてルナシーならぬ“ムナシー”というバンドでもつくろうかと思うほど空しい(オヤジギャグで申し訳ない)。

空しいといえば、田口ランディ氏はエッセイの中で「むなしい感じってのを抱えてると、激しい怒りとか憎しみとかは、あんまり感じない」などと言っている。

それは実感としてわかる。この2種類の感情はどちらもネガティブなものだが、じつは対極にある。つまり空しさや切なさは消極的な感情で、怒りや憎しみは積極的な感情なのだ。怒りにはエネルギーが必要だが、そのエネルギーがない状態が「空しい」のだ。

恐らく、対イラク戦争真っ最中のブッシュやラムズフェルドは、空しさを味わうことなどなかったに違いない。逆に日本は現在「空しいモード」に入っているように思える。そんな国は社会全体が熱狂的な愛国心情で包まれることはないだろう。せいぜい動物を愛玩するくらいで。それはそれでいいことかもしれないが、どうだろうなあ。社会としてみれば老衰寸前といったところだもんなあ。

いっそのこと日本は世界に対して「隠居宣言」を出してしまうのもいいかもしれない。あとは若いもんに任せた、とか何とか言って。どうせこの国がやることはほとんど無責任なんだから、むしろ隠居宣言は潔いのではないかしら。



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