| 月替りの「お題」からメンバーが 自由な連想でエッセーをつづります。 ものの見方・感じ方に、 それぞれの経験や個性があらわれます。 ひとつのテーマがどう花ひらくか? クリックしてみてください。 |
| 今月のお題:「日本人」 |
| 隅 恵子 | 「メガネをかけていない日本人」 | |
| 坂下 泰子 | 「台湾に行ってきました。」 | |
| 藤木 俊明 | 「『日本人』はどこからきたの?」 | |
| 床井 順子 | 「私はなに人でしょう?」 | |
| 高林 昭浩 | 「RとLを区別するための(画期的な?)提案」 | |
| 中保 裕子 | 「耳ざわり」 |
| メガネをかけていない日本人-----隅 恵子 |
|
こんなくだらない疑問が、あなたの頭から離れなくなったことはないだろうか? |
| 台湾に行ってきました。ラグビーワールドカップのアジア地区最終予選観戦が目的です。 サッカーだけでなく、ラグビーワールドカップも4年に1回行なわれ、来年2003年はラグビー王国、オーストラリアで開催されます。 その予選が、サッカーW杯開催中の6月から、アジア地区たった1つの枠を争って、日本、韓国、それに予選を勝ち抜いてきた中華台北の3か国によってホーム&アウェイで、密かに(?)始まっていたのです。 日本は長年の好敵手韓国に90-24、中華台北に155-3と圧倒的な強さでホームゲームに勝利し、アウェイの韓国戦も「テーハミング」コールの中、55-7で圧倒、この時点でワールドカップチケットをゲット、最終戦は消化試合?。 でも、赤白横縞ジャージを着て、桜のマークの日本代表応援旗を持ち、サインペンを持って(ん?)、台南まで行ってきました。 せっかくなので、台北からは列車・自強号で。同席になった台北の家族はホリディで台湾最南端まで行くところでした。向かい合わせにしてしまった座席に、テレ笑いの素敵なおとうさんと、漢字と稚拙な英語でお話。漢字で書いて確認すると「はい」と大喜び。同じ言葉、ということがとても新鮮な体験でした。ラグビーというスポーツ自体は全く知らなかったけど、サッカーW杯は良かった、と誉められ、「そうか、ここ台湾でも同じ沸き立つ“とき”を過ごしてたんだ」と、開催国を代表して感動。こんな心の通う、なごやかな4時間でした。 そして、台南。国際マッチが行なわれる台南橄覧場は、人気の棒球場(野球場)のそばにあるのですが、地元の人は知らず、最後はパトカーを止め、護送されて到着。スタジアムというよりは原っぱで、観客席はメイン中央に20段ぐらい、選手もスタッフも観客も放送席も記者もカメラマンも、日本も台湾もいっしょくた。怪我人が出ると、救急車がタッチライン際に横づけされ、試合も120-3と大差がついて、ときどき気合を入れないと、つい応援を忘れてしまいそうな、のどかなテストマッチでした。 「日本」「日本人」を意識する、テーマに格好の旅行、と出かけたのですが、幸せなことに「日本人」を意識することはなく、「アジア」の友人を意識する旅行でした。 サッカーW杯で、韓国の人々が「日本も一緒に決勝リーグへ」という声をテレビたくさん見て、身近な一番の敵と思っていた私は目が覚める思いでしたが、今回の旅行でも身近な隣国に心を開く、良い機会になって、「日本人」はお預けになってしまいました。 アジア2位の韓国はこのあとオセアニア地区2位とW杯へのチケットを争います。強敵の多いオセアニアですが、勝って一緒にオーストラリアへ、と思います。 私も来年オーストラリアへ行けたら、そのときこそ「日本人」を意識できるのでは、と思います。 |
| 「日本人」はどこからきたの?-----藤木 俊明 |
|
いつかも書いた話だが、藤木家(とくに父親)は「人類はどこから来たのか」的な話が大好きで、当然のごとく「日本人はどこから来たのか」「藤木家はどこから来たのか」といった話題も紛糾したものだ。 |
| 私はなに人でしょう?-----床井 順子 |
|
30年ほど前、スペインの田舎で「アメリカ人か?」と聞かれたことがある。 |
| RとLを区別するための(画期的な?)提案-----高林 昭浩 |
|
唐突ですが、“リリカル”(抒情詩風の、という意味の英語)のスペルがすぐに書けますか?
|
| 「耳ざわり」----- 中保 裕子 |
| 昭和1ケタ生まれの母は、妙に新しもの好きだ。 ことばも妙に若者ずれしていて、時々こちらがびっくりさせられてしまう。 食事の約束をしていたのが、急用が出来て、「ゴメン、今日ドタキャンになっちゃったのー。」などと電話してくる。 けれど、よく考えるとこれってことばの使い方がちょっとヘンでないかい? 「ドタキャン」というのは、土壇場になってキャンセル=失礼千万、という批判的なニュアンスが含まれている。 だから、 「ちっ、ドタキャンされちゃったぜ。」 とか、 「あいつはいっつもドタキャンだからなぁ。」 などと怒り含みの時に使う。 何もわざわざ自分からドタキャンとは言わないものだ、と思っていたのだが、これは私の思い過ごしか。 時代は一挙にさかのぼって、明治時代にもこれと似た話がある。 かの民俗学者、柳田國男はどこかの農村部を廻った際、農民が 「今日はとても寒い」 というのを聞いて腰をぬかさんばかりに驚いた、という。 当時、「とても」は 「とても出来そうにない」 とか 「とても無理だ」 とか、否定的なフレーズにのみ使われる語だったそうだ。 たまに近代の小説を読むと、こうした現代の日本語の変遷の姿にお目にかかれることがあり、ものすごく新鮮だ。 幸田文の小説「父・こんなこと」の中にある、 「(父の放つおはじきは)せせこましく込んだところもやつあたりをしないし、・・・(略)」 というフレーズに、「やつあたり」のルーツを見て感心した。小林多喜二の「蟹工船」には「ベラベラ笑う」という不思議なフレーズが出てくるらしい。 さて、最近よく国語審議会や何かで問題にされている「ラ抜き言葉」。 私は好きか、嫌いかと聞かれたら、「嫌い」である。 「食べれる」も「見れる」も音としてちっとも美しくなく、耳障りなこと。 しかし、アゴが細くなり、舌足らずでひどく滑舌のわるい今どきのコたちにとって、「ラ抜き」は発音しやすいのかもしれない。 ともかく、これだけ多くの人に使われ定着してしまったのだから、良し悪しの問題ではなく、またひとつことばの新陳代謝が起こったと見るべきだろう。 そうそう、「耳障り」もいい例で、最近は「耳触りがよくない」という言い方もよしとされているのだそうだ。 本来は正しくないそうだが、なしくずし的に認められるようになったのだそうだ。 日本語はいつの時代もナマモノ。日本人自身がつくり変えているのだから、文句言えませんなぁ。 |