「彼女の気持ちを早く終らせたかった。でも、違ったんだ。本当は、始めさせるきっかけを作ってあげるべきだった。」

「琳は?」
「琳は、あのドアの向こうにいるよ」

 僕は、彼と電話で話したとき、「彼か」と思った。彼は確かに琳の想い続ける人だった。僕達の想い描いていた人物とは少し違っていたけど、確かに琳の想い続ける人だった。
 「琳に聞こえているんですか」
 「聞こえていませんよ。琳の部屋は防音だから」
 僕は彼と話していると、琳が求めていたものの輪郭をなぞっているような気がした。琳が求め続けていた、琳の言うひどく簡単なこと。彼にとっては何でもない日常生活の一部なのかもしれないと、ふと、思ってしまう。
 「本当にありがとう。」
 「いえ」
 「君にとても会いたがっていた。と、思う」
 僕は、彼に、彼の知らない琳の過ごした日々を話し始めた。でも、不思議なことに彼は琳の暮らしを全て知っているか、時々、琳に聞いて知っているように思えた。
 
 琳は、始めは普通に仕事をしてた。誰が見ても普通だった。でも、家で何をしているかは、不明だった。誰でも、家で何をしているかは分からないが、彼女が家で生活に必要なこと以外をしているイメージは思い描けなかった。思い描いても、そんなことはしていないとしか思えなかった。
 実際、琳の家に行ってみてもこの前の日曜日と何も変わっていなかった。捨て忘れた生ゴミが増えていたり、たたんでいない洗濯物がある以外は、同じ風景だった。いつも、TVがついていて、部屋には何冊もの専門書が転がっていた。
 彼女は、今日何してたの?と聞かれることが一番大嫌いだった。
 「なにもしてないよ」「なんでもいいじゃない」「関係ないじゃん」の3択で答えていた。でも、なぜか、何もしていないとは思えなかった。だから、なんとなく、何をしているか聞いてみたくなる。
 彼女には、ずっと洗濯したり、TVを見ているようには思えないところがあった。
 僕は、彼女が、「穴を掘ってた」とか、「隣の人の声を聞いてた」とか答えてくれれば満足できたと思う。とんでもないことでも、普通に「本を読んでた」でもよかった。実は、彼女の何もしてないという答えは、恐ろしかった。TVの話しかしない彼女にも不安を覚えた。
 だから、琳に内緒で精神科医を彼女の部屋に連れていったのかもしれない。もう、その頃の彼女は、仕事以外では、僕達とも話さなくなっていた。家で何をしているのかさっぱりわからず、不安にかられた。そんな僕らに、彼女は「理解しようとするからわるいんだよ。存在を認めるだけでいいのに」と思っていたのかもしれない。
 僕は、僕らが選んだ精神科医と一緒に琳の部屋に入っていた。リビングに彼女はいなかった。珍しく、彼女の部屋のドアは開いていた。その部屋から、憎しみと愛と淋しさと焦りとかっらぽの心がリビングにはい出してきていた。救いを求める空気は救世主めいた男を捜していた。僕は、あの開かずの間にどれだけの鬱がたまってしまったのかちっとも予測できなかった。
 琳はトイレから出てくると、積み木のを始めたが、すぐにやめてぬいぐるみを抱いてテーブルについたカップの跡を見ていた。それは、1分位のことだったが精神科医を不愉快にさせるには十分だった。それは、自分の弱さを目の前に突き出される不愉快さだった。
 リビングのTVはつけっぱなしで、宇宙をイメージした音は大音響で彼女の部屋から僕らの鼓膜へ刺激を続けていた。
 琳は、見知らぬ男性に気がつくとひどく動揺して、僕に救いを求めてきた。自分のプライベートの時間を見せてしまったことの恥ずかしさといつから見られていたんだろうという不安。
 「琳。こちらは、神崎さん。」
 「はじめまして。」
 琳の家なのに、僕の家に彼女を招待した感じを3人とも受けた。
 「こんにちは」
 救いを求める空気は、気まずさに変わっていた。
 僕は、2人をソファに案内してお茶を入れた。琳は、自分の格好をひどく恥ずかしがっていた。
 僕らの選んだ精神科医は、不安定な人間を日々見なれているらしく初対面なのにそんな琳の態度にも動じなかった。僕はここに来て始めて彼を選んだことを誇らしく思った。
 「神崎さんは、精神科医なんだよ。」
 琳は黙ってよそ行きの顔を作って彼を見ていた。
 「カウンセリングしてもらおうと思って。」
 「カウンセリング?」
 彼女の部屋のドアはもうとっくに閉っていて部屋はとても静かだった。紅茶のバラの香りだけが部屋の中を流れていた。
 「僕は、駅の近くの病院で働いているんだよ。」
 「ああ、あの大学病院ですか」
 琳は、彼も僕も信じていなくて絶対に何も話さないいう雰囲気をはなっていた。琳は胸元をしきりに気にして、下を向かないようにしていた。その服は、琳が外では絶対に着ないような服だった。白くて、袖がなくて、かわいらしい服だった。僕は、暑いと言ってクーラーをかけた。琳は、すぐに、寒いから服を着てくると言って席を立った。 
 「彼女は僕のことをお気に召さないらしい」
  彼の不安な気持ちがよく分かった。
 琳は、ストライプの長袖のTシャツとジャージをはいて出てきた。
 「カウンセリングってどうやるんですか」
  このときのことを、別人が話しているようだったと彼は部屋を出た時に僕に苦笑しながら言った。
 琳は、自分の部屋でバリアを張りなおしたらしく彼にきちんと接していた。
 「カウンセリングっていっても、ここで少し話すだけだよ」
 琳の顔には驚きが出ていたけれど、彼女は驚きが出ているとはすこしも思っていなかった。
 「話すだけって、暗くとかするんですか」
 「いや、こうやって、話すだけだよ」
 「3人で?」
 「嫌なら、僕は出てくるよ」
 琳は一瞬目を右上にやってから、「何話すんですか」と言った。僕は琳が僕に側にいて欲しいと分かっていたから、無視されても気にならなかった。
 「何でもいいんだよ。今日は何してたの?」
 「何にも」
 琳は、不愉快そうな顔をしたけど、もう彼に集中し始めていた。

「琳は、精神科医に見せるほどだったんですか?」
「いいえ」
 僕は、彼の話し方や思考のし方が僕らに良く似ていると気づき始めた。
「ただ、僕ら以外の存在を琳に会わせたかっただけですよ」
「琳は、今、何しているんですか」
 彼は琳のことを思い出すことがあったんだろうか。琳は、彼と死を同等に考えて生きてきたというのに。そして、僕らは彼と同じように琳に愛されたかったというのに。