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―――泣いているの?
泣いてないよ。
泣けない。
泣けないんだよ。
ごめんね。
差し込んでくる日差しが暑かった。
まだ5月なのに、春らしさはとっくに消えて次の季節へと移り変わっている。
備え付けてあるカーテンを面倒くさがらずにかけていればこの暑さにわずらわしさを感じることもなかっただろう。
ゆっくりと起き上がって窓を開けた。
風はさわやかに顔に吹き付けてそのまま部屋に新鮮な空気をもたらす。
「はぁ…」
ため息を一つだけついて歩き出す。
顔を洗って、着替えて、今日は約束がある。
人と会わなければならない。
清潔に整えられたタオルを顔に当てて、一瞬だけ鏡に映った自分の顔を見た。
情けない顔をしている。
笑えるくらい。
ばかみたいだ。
今から家を出れば間に合うだろう。
時間通りに行かなければと分かっていた。
今日会う人は、自分がたとえどんなに遅れても待っている。
そういう人だ。
キッチンテーブルの上においてある時計をとって、左手につけた。
そのままけだるそうに部屋にいき、床に袋のままほってある新しい服を身に着ける。
窓を閉めて、それから昨日は横着したカーテンを閉めた。
今日はきっと暑くなる。
そう思った。
雰囲気の良い、いかにも彼らしい店の指定の仕方で約束した人物は窓側の席に
静かに座っていた。
小さくりん、と店に入った時になった音に気づいて、その人物は顔をあげた。
軽く目礼をして窓側の席に歩いていき、どうも、とだけ言った。
「久しぶりだね」
「確かに。失礼します」
向かいの席に音を立てずに座って、オーダーを取るために席に来たウェイターに向かって
コーヒー、と言った。
「珍しいね、俺の記憶にある限りでは水沢はこんなにきちんと時間通りに来る人物だったかな」
やわらかく言った。
―――変わらない、優しさで。
「いや、やっぱり先輩を待たせてはいかんだろうと。わざわざ京都から来たお方を待たせるのは
さすがの水沢でもできんので」
「東京から来た希沙良はいいのかな」
「はは。聞きました?」
信じらんねぇあいつもうつきあいきれねぇお前絶対いくんじゃねぇぞと電話で言っていた従兄弟の顔を思い出しながら
里見十九郎はうなずいた。
その代償としてこの水沢諒があの従兄弟に何を払ったのは定かではないが、経験から言って
食事だけで済めば軽傷だろう。
「大学はどうですか」
頼んだコーヒーにミルクを注ぎながら聴く。
「それはむしろ俺のセリフじゃないかな」
諒ははあ、と言ってコーヒーを飲んでいる。
「まだ始まったばかりなんで、なんとも。里見さんは学会とかはもういいんですか」
「昨日、少し顔合わせをしたからもういいんだ。本来学会は教授が研究発表を行う場所だからね、
それ以上いても浮くだけだよ」
この人物ならば、たとえ教授が相手でも対等に渡り歩いていけるような気が諒にはするのだが。
「まだ専攻とか自分のしたいこととかも決めてないので、里見さんはまぶしく見えますよ」
「水沢は…教師とかいいんじゃないかと母君が言っていたよ」
「そうですねー…、そのうち考えますわ」
「いやでも考えないといけない時期が来るよ、こういうのは」
やんわりと十九郎が言った。
それから焦らせているわけじゃないんだよ、と言い加えて。
「里見さんは決めましたか」
「自分に正直に後悔を感じない、と思うような仕事を探すのはなかなか難しいことだとは
思っているけどね」
「東京に戻ったりはするんですか」
「どうかな。水沢は?東京へはあれから」
「落ち着いたら、とは思ってますが」
「心配してるよ、みんなね」
「確か去年、里見さんも同じような状況でしたっけね」
みんなして電話だのメールだの一日中そればっかりで、結局4月はほとんど東京にいたようなものだ、と
十九郎は諒に言ったことがあった。
違うのは十九郎に対して諒が不義理なことくらいだった。
帰ってこないメールや電話はまるで彼が全てを拒絶しているかのようだった。
そういうのが得意なタイプの人間では決してなかったから、言い訳は簡単だったのだが。
「水沢に一つだけ聞いていいかな」
「はい」
「水沢はどうして広島に戻ろうと思ったんだ」
2月に入ってすぐだった。
出張に行っていたと思われた水沢諒が急に、広島へ戻る、と言い出した。
予想できたことではあった。
広島には彼の家族がいる。
彼の妹である水沢彩がいるのだ。
周りの意見を聴く事もなく、彼はすぐに広島に帰っていった。
その間にある存在も今までにあった場所も築いてきた優しい時もすべて捨てて。
いなくなってしまった。
十九郎がそれを知ったのはすでに諒が広島へ戻ったあとだったのだが。
あの希沙良でさえ躊躇するような出来事だったらしい。
いつも自分が正しいと思っている、というのが神原亜衣の意見だったがそれははたしてそうだろうか、と
十九郎は思う。
そんな自信があったのなら東京を離れたりしないだろう。
「逃げ帰ったわけじゃないだろう」
「そうですね…自分でも良く分からんのですよ」
だけどこのまま東京に居続けてはいけないと思った、と言って顔を伏せて小さく笑った。
「そういう気持ちは分からないでもないけどね。俺も東京から離れた身分だからね」
だが、諒が離れることと十九郎が離れることは意味が違っている。
この人物が大学にいく、と言った時点で少なからず――悪いとは思ったのだが――驚いた。
それは十九郎だけではなかっただろう。
それに関してあまり話題には出さないがきっと崎谷亮介もあの七瀬冴子ですら驚いただろう。
自ら進んで他人と交流図るってのは悪いことじゃないわね、と冴子は評価した。
「大学には別に行かんでも良かったんですよ」
「広島にいることに意義があるのかな」
「そうですね、多分」
―――迷いがある。
そういう顔をしている。
最初、この店に入って見た時に一瞬、わからなかった。
精彩をおびなくなった理由も、あいかわらずのかわした答え方も全て今の彼を脅かしているかのような
気さえする。
終わったことに安堵を得ることもなかった。
悲しい事実しか残らなかった。
―――彼にとって。
「じゃあ、水沢。元気で」
「はい、里見さんもお元気で」
諒はぺこりと礼をして、静かにその場に立ち止まっていた。
京都行きの列車に乗って、指定席に座って、ありがとう、と十九郎が言った。
変わらない真摯さも今はもう飾りにしか過ぎなかったのかもしれない。
だけど、堕ちないでくれと切に願った。
強く前を向いて、まっすぐに生きてくれと思った。
自分がこんなことを思うのは相手にとっては不本意だろう。
でも。
そう願うことが今の自分の真実なのだから、願うしかないのだと分かっていた。
願うためにかなえるために人は生きているんだと。
そう言ったのは、あなたなのだから。
―――切に。
諒は京都行きの列車が発車して、しばらくその場にいたがそのうちゆっくりと帰り道に戻っていった。
(変わってない)
東京にいたかのような錯覚を起こした。
居心地の良い二度と戻らないであろう大切な日々。
取り戻せたかのような気がした。
太陽はほんの少し疲れたように沈み始め、だけどまだ熱の残っている空気に身をゆだねて、悲しみを忘れるように一日を
また終わらせようとしている。
その循環は毎日同じだけれど決して同じ日はない。
同じ時が流れることがあるとすればそれは奇跡なのかもしれない。
(まだ帰れないんですよ)
直視できるほど時はたっておらず、忘れるほど簡単な場所でもなく、つなぎとめるものは何一つ変わらずにそこに
あるのだから。
今はただ、幸せに。と願うことだけしかできない。
自分に与えられた自由の権利は願うためにあるのだ。
今だけはそう思うことにしている。
また、会おうね。
それだけでいい。
軽く足を止めて階段を上り、鍵を開けて部屋に入った。
日差しが少し残っている部屋はほんのりと優しい香りがした。
今日はカーテンを締めて寝よう。
明日の朝はゆっくり寝て、それから考えよう、と思った。
夢を見てもまたここに戻ってくるから。
そう思うと少しきれいな気持ちになれた気がした。
end