本の内容

 家の近くの本屋で出版図書目録・解説目録等を20冊もらってきました。この中で『岩波 講座 現代思想(全16巻)』と『岩波講座 東洋思想(全16巻)』が観たいと思った。


タイトルを見ると1、思想としての20世紀 11、精密科学の思想 12、生命とシステム の思想 13、テクノロジーの思想 等。

もう一つの東洋の思想で、ユダヤ思想が2冊・イスラ ーム思想が2冊・インド思想が3冊とインド仏教3冊・チベット仏教1冊・東アジアの仏 教1冊 ・中国宗教思想2冊日本思想2冊未刊となっていました。

 司馬さんからの手紙『この国のかたち』(文藝春秋)に < この場合の思想とは、他 の文化圏に入りこみうる・・・

つまり普遍的な思想をさす。古くは仏教や儒教、あるいは カトリシズム、回教、新しくはマルキシズムや実在主義などを念頭においていい。

 むろ ん、かつての日本がそういうものを生み出さなかったというのは、べつにはずかし いこと ではない。普遍的な思想がうまれるには、文明上の地理的もしくは歴史的条件が要 る。

た とえば、多様な文化をもつグループ群が一つの地域でひしめきあい、ときに殺しあうと いう条件のもとで歴史が熟する(あいまいなことばだが)と,・・・

ともかくも日本の場合 、たとえばヨーロッパや中近東、インド、あるいは中国のように、ひとびとのすべてが思 想化されてしまったというような歴史をついにもたなかった。これは幸運といえるのでは あるまいか。

そのくせ、思想へのあこがれがある。 >。

1年位前に『この国のかたち 』を読み、司馬さんからの手紙をよまさせてもらい思う事が ありました。

目録に日本の思 想1.2未刊となっているからです。でも本当に日本に思想が 今も日本独自のものがないの でしょうか。

日本の思想(丸山真男著)によると、日本思想史の包括的な研究がなぜ貧弱なのか(まえ がき)外国人の日本研究者から、日本の『インテレクチュアル・ヒストリィ』を通観した 書物はないかとよくきかれた。・・・

ところが日本では、たとえば儒学史とか仏教史だと かいう研究の伝統はあるが、時代の 知性的構造や世界観の発展あるいは史的関連をたどる ような研究は甚だまずしく、少なく も伝統化してはいない。・・・

日本精神史へと変容し 、おそらく独断的で狂信的な方向をたどったことは周知のとおりで ある。

私達の多くがた とえばフリートリヒ・ヘールの『ヨーロッパ精神史』とかチャールス・ビ アードの『アメ リカ精神の歴史』という表題に、ごく普通な学問的関心で接しうるのに対 し、「日本精神 の歴史」という表現には何かおさまりが悪いというか、尋常でないものを 感ずるのは彼我 なんという大きなちがいであろう。

こういう感じをたんに戦時の風潮への反動とみて、「 あつものに懲りてなますを吹く」私 達の過敏症のせいにするのは、いまだ問題の核心に触 れたものではない。

日本思想論や日 本精神論が江戸時代の国学から今日まであらゆるバァ リエーションで現われたにもかかわ らず、日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文 化史の研究にくらべてさえ、いちじ るしく貧弱であるという、まさにそのことに日本の「 思想」が歴史的に占めてきた地位と あり方が象徴されているように思われる。

まえがきが6ページ位続く、日本における思想的座標軸の欠如・自己認識の意味・いわゆ る「伝統」思想と「外来」思想・開国の意味したもの、となっていました。

わたしの過去 に見たり聞いたりした事柄が次々と思い浮び上がり(主に映画・テレビ・新聞・人から聞 いた話・両親が言っていたこと・祖母が言っていたこと・伯父さんが言っていたこと・司 馬さんの本・いろんな本)一行読んでは頭の中で渦を舞うように思い出すがどのような関 連なのか整理つかない。

 日本の思想のおわりにから 私達の伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデ オロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果 たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性 がいよいよ甚だしくなった。

日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的「基軸 」としてこの事態に対処しよ うとしたが、国体が雑居性の「伝統」自体を自らの実体とし たために、それは私達の思想 を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な 同質化(異端の排除)作用の 面でだけ強力に働き、人格的主体・・・

自由な認識主体の意 味でも、倫理的な責任主体の 意味でも、また秩序形成の主体の意味でも・・・の確立にと って決定的な足かせとなる運 命をはじめから内包していた。戦後の変革はこのエセ「精神 的機軸」を一挙に転落させた。

ここに日本人の精神状況に本来内在していた雑居的無秩序 性は、第二の「開国」によって ほとんど極限にまであらわになったように見える。

思想界 の混迷という言葉は明治以来、支配層や道学的保守主義者の合言葉であった。

しかし思想 が現実との自由な往復交通をする条件は戦前には著しく阻まれていたことを思 えば、今に して私達ははじめて本当の思想的混迷を迎えたわけである。

そこから何がでて 来るかは何 とも分からない。

ただ確実にいえるのはもはやこの地点から引き返すことはできないし、 また引き返す必要 もないということである。

加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西洋的に純 粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的 な意味を引き出すよう提言されている。

傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は賛成である が、こと思想に関しては若干の補いを要 するようである。

第一に、雑種性を悪い意味で「 積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論の 「伝統」もあり、それはもう沢 山だということ、第二に、私がこの文でしばしば精神的雑 居という表現を用いたように、 問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空 間的に同時存在している点にあ る。

多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれ るこ とも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述 した 不毛な論争が繰り返されるだけだろう。

私はさきごろ「タコ壷文化」と「ササラ文化」という比喩でもって、基底に共通した伝 統的カルチャアのある社会と、そうでなく、最初から専門的に分化した知識集団あるいは イデオロギー集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壷」をなし、仲間言葉をしゃべって「共通の 広場」が容易に形成されない社会とを類型的に区別し、日本を後者の典型に見立てたこと がある。

(むろんこういう類型化は一つの特徴をきわ立たせるためのもので、何も普遍的 な社会形 態論として言ったつもりはない。)

戦前ではともかく「機軸」としての天皇制が 一種の公用語となって、「タコ壷」間をつな いでいたが、戦後はそれも通用しなくなり、 しかも国際的交流が激増したので、国内の各 集団やグループ相互よりも、むしろそれぞれ のルートでの国際的コミニュケーションの方 が話が通ずるといった奇現象がうまれている 。

むろんその反面、戦後の社会的流動性の増大とジャーナリズムの発展は異なったグルー プ間の接触機会を著しく増大したこともたしかである。

例の昭和史論争なども、歴史学 者の中ではああいう方向での大平洋戦争史の研究はかな り前から行われ著書も出ていたの であるが、たまたま新書というような形で出て普及した ことがきっかけになったわけであ る。

あの論争は社会科学者の歴史観と文学者のそれとのギャップがいかに甚だしいかをは しな くも露呈したが、それは逆にいえば両者のコミニュケーションがこれまでいかになか った かを物語っている。

その意味で従来全く異なった価値基準でものを考えていた知的サ ークルが交通し会話する ことは・・・ジャーナリズムの悪い側面に毒されなければ・・・ 、多様な経験からの抽象 化がそれぞれの領域で錬磨される一つの条件にはなりうるであろ う。

さらにより大衆的規模で考えるならば、多様な争点をもった、多様な次元(階級別、 性別 、世代別、地域別等など)での組織化が縦横に交錯することも、価値関心の単純な集 中に よる思惟の懶惰(らんだ、ものうくなって、なまける。怠慢)また、(福沢諭吉のい わゆ る惑溺)を防ぎ、自主的思考を高めうるうえに役立つかもしれない。

けれどもそうし た社会的条件は、他面において同時にますます認識の整序を困難にするば かりか断片的「 実感」に固着し、あるいはそれを新たな思想形態と錯覚する傾向を甚だし くする条件でも ある。

雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靱な自己 制御力 を具した主体なしには生まれない。

その主体を私達がうみだすことが、とりもなお さず私達の「革命」の課題である。

思うことが沢山あり簡単に一つ言うと「タコ壷文化」です。分からんことを言う人に『こ のタコ』と言い合いをしているのを見た事がある。適切かどうか疑問であります。

身じかなことに思いを寄せるのが人の常でありまして、わたしも漸く郷土の歴史に目覚 めました。

郷土史、読めませんでしたねー書いてある漢字が読めないし字の奥にある意味するところ 知らないですね。

今もわかったような分からないような知ったかぶりで書き込みをばして いますが、如何せ ん思い込み、先入観、固定観念でもって生きてきました。

ならば今は郷土史が読めるかとなると少しつらい、二年前くらいに途中まで読んでいたわ が町の郷土史をがまんして読破した経 緯があり今おもうにおもしろくなかった。

なぜおも しろくないのか自分の思考するための過去・現在・未来それぞれの時代背景 が思 いうかば ないため連綿しうるしていた諸々の文化・思想 がわからなかった。

多少分か るようになっ たと思い込んでいます。

本の内要となると中身ですが、著者はなにをいいたかったのかとなると一言で終わること をくどくどと例え話や実話・創作して読者に伝えたい訳だが・・・(例え話しのほうに感 心を持ち本筋から逸脱しかつ最後まで読まないため著者の意図する事柄とかけ離れる)

わ たしのような無精者には一言で終わることの日本語が(難しい言葉)理解してないために 起きる勘違いが多だある。

ようするに自分の頭に記憶した言葉の意味を理解(もともと記憶していた事柄と連関させ れたものだけ)した日本語が非常に少ないだけである。

このようなことから関連づける為に言葉の来歴なるものを探るようになった。

郷土史の中で気になることは、寺院の改宗があったことです。

北陸は浄土真宗と曹洞宗が 多いと言う事はこの以前の宗派ということになる。

真言宗と天台 宗・浄土宗・・・このこ とから奈良平安のころ既に京都から人々が移り住んでいたことになる。

墾田(こんでん)のため土地を求めて、朝廷が公民を使役して開墾した公墾田と、有力社 寺や貴族・地方豪族が開墾した私墾田がある。

また、『墾田永世私財法』天平15年743) に発布された土地法。三世一身の法を改めて一定 の条件つきで墾田の永世私有を認めたも の。

荘園の始まりで新聞等に良く木簡や水田あとが見つかっている。 また、仏教の宗派が 多くある 事を知る。仏教以上になになに神社が多いのにおどろいた。



 カプラとカプロ、同一人にあらずとようやく思うようになった?。フリッチョフ・カプ ラ(Fritjof Capra)さんは、1939年ウイーン生まれ75年刊行の『タオ自然学』第二作『 ターニング・ポイント』の著者である。

フイリップ・カプロさんは、鈴木大拙の原風景(西村恵信著)200ページ16行に出てい る。

4行まえから記する(さて、大拙には敗戦とともに再び復活の日が到来していた。

日 本に進駐した連合軍の軍人の中には、早くから大拙の著作に親しんでいた知識人たちがい て、彼らは入れ替わり立ち替わりして、余生を著作三昧に送る大拙を鎌倉松ヶ岡に訪問し た。

後にテンプル大学の哲学教授となったリチャード・デマチノ氏や、原田祖岳の曹洞禅 をアメリカに伝えたフイリップ・カプロ氏などその頃の人である。)

1945年終戦1951年4月マッカーサー解任・・・。

タオ自然学は、日本語翻訳79年11月15日初版となっている。西村さんの著書は93年9月 10日初版とうぜんカプラ氏の著作はご存知のはず。

 

なぜなら、『タオ自然学』40p2行

(仏教の認識論では、観ることがもっとも重要な役 割をはたす。というのは、観ることが 識ることの基礎になっているからです。


観ることが なければ識ることは不可能であり、知識のもとは観ることにあります。


識ることと観るこ とは、ブッタの教えでは直結しており、仏教哲学は究極的には、現実を あるがままに観る ことをめざしております。


観ることこそが、悟りの体験なのです。            鈴木大拙 )

 

また、53p2行目

(言語を本源から超越する内的な体験を伝達するためには、言葉を使 わざるをえないので 、ここに理解しがたい矛盾が生じるのです。 鈴木大拙 )

 

それから、114P1行目

(華厳経は仏教思想、仏教感情、仏教体験の極致です。世界のどの 宗教書にもこのスート ラの着想の偉大さ、感情の深さ、そして構成の荘大なスケールに匹 敵するものはないと思 います。これは永遠の生命の泉であります。 宗教心のある人でそこ から満たされぬまま戻 る者はい ないでしょう。 鈴木大拙)

 

194p6行目

(心と身体、主体と客体などの区別がな い完全な融合状態を体験しないかぎり、華厳宗と その哲学の意味を理解できるものではな い。


客体ひとつひとつが、空間的にも時間的にも他の客体ひとつひとつ関連していること に気 づく・・・。


純粋な体験事実として言うなら、時間を考えない空間も、空間を考えな い時間も存在しな い。

このふたつは相互に浸透しあっている。                鈴木大拙)

 

 

201p13行目

(この精神世界には過去、現在、未来といった時間の区別はない。

それらは 現在という単 一の瞬間に収縮している。

  過去も未来も輝けるこの現在の瞬間に巻きあげ られる。この現在の瞬間は、その中味と ともに静止しているようなものではない。 それは 絶えず動いていく。

                                  鈴木大拙)

 

 

211p11行目

(華厳宗の中心となる考え方は、天地万物を動的にとらえることである。万 物はつねに前 進し、永久に動き続けようとする。それが生命である。 鈴木大拙)

 

228p1行目

(仏教では、物体を出来事としてとらえてきており、物とか物質とかいったと らえ方はし ない。・・・仏教では『物』をサンスカーラ(またはサンカーラ)、つまり『 行為』もし くは『出来事』として考える。


このことをみても、仏教が日常の体験を、時間 や動きとの観点から理解していることは明 らかだ。 鈴木大拙)

 

324p6行目

(ー雑華厳飾(ガンダヴューハ)のー ブッダはもはや時空間でとらえられる 世界には住 んでいない。

かれの意識は、感覚と論理に統制された普通人のそれではない・ ・・雑華厳 飾のブッダは、それ自体のルールをもつ、ひとつの精神世界に住んでいるのだ 。 鈴木大拙)

 

325p1行目

(ひとつのものが、他のすべてと相対しておかれると、それは、他のすべてに 浸透し、また、 同時にそれらすべてを包含しているように見える。 鈴木大拙)

これで引用は終わっている。

カプラ氏が意図する事柄が見えないのでこの文章のあとをち ょっと長くなるが記しておく。

 

 

( 個々の粒子が他のすべてを含むという考えは、東洋の神秘思想だけではなく西洋の神 秘思想のなかにもみられる。

たとえば、ウイリアム・ブレイクのつぎの一節にそれは明ら かである。


 一粒の砂に世界を
 一輪の野花に天界を見る
 一掌の中に無限を
 一時の中に永劫を握る W・ブレイク


 ここでもまた、神秘的ヴィジョンのなかにブーツストラップのイメージが見出せる。


詩 人は一粒の砂に、現代物理学者は、一個のハドロンに世界を見るのである。


 同様のイメージがライプ二ッツの哲学にもある。かれは、それぞれが全宇宙を反映する 『単子(モナド)』とよばれる基本的物質から世界ができていると考えた。


そして、大乗 仏教とハドロン・ブーツストラップと相似する物質観をもつにいたったので ある。

『単子 論(モナドロージー)』の中で、かれはつぎのように語る。


 物質の個々の部分を植物の茂った庭園、また、魚の豊富な池と考えることができる 。


だが、一本の枝、一尾の魚、さらにその体液のひとしずくにも、そのような庭や池が 存在 するのである。    G・W・ライプニッツ

この一節が『華厳経』をほうふつとさせるのは、ライプニッツに仏教の影響があったから かもしれない。


ジョセフ・ニーダムは、イエズス会の宣教師から手に入れた翻訳をとおし てライプニッツ が中国の思想と文化に詳しかったところから、その哲学は、朱子学に啓発 されたものでは ないかと論じている。

朱子学のルーツのひとつは大乗仏教、なかでもとく に華厳宗にある。事実、ニーダムは ライプニッツのモナドに関連して、インドラの真珠の 網の比喩をもちだしている。


 ライプニッツのモナド同士の『境像関係』と大乗仏教の無碍という考えを詳しく比較し てみると、そのふたつがむしろ異なったものであることがわかる。

仏教の物質観は、ライ プニッツのそれよりもはるかに現代物理学の精神に近い。

単子論 (モナドロジー)と仏教 のおもな違いは、ライプニッツのモナドが、根源的物質、物質の 究極的構成要素と見られ ている点である。

ライプニッツは『単子論』の冒頭を「われわれがここで語るモナドは複 合体に参加する 単純な物質にすぎない。

単純 、つまり、部分をもたないのである」という 言葉で飾っている。

そして、さらに「こ れらのモナドは、自然の真の原子、いわば、すべ ての物の元素である」と語る。

このような「基本主義」的見方はブーツストラップ哲学と はきわめて対照的であり、あら ゆる根源的物質を否定する大乗仏教の見方ともまったく異 なるものである。

ライプニッツの根本主義的な考え方は、かれの力に対する見方にも反映 されている。

かれ は力を「神命によってしるされた」法則、つまり、本質的に物質とはべ つなものと考え、「力と活動は物質のような静的(パッシヴ)なものの状態ではありえな い」と語る。

ここでもまた現代物理学と東洋の神秘思想とは対照的である。


 モナド間の相互関係に関するかぎり、ブーツストラップとのおもな違いは、モナドがた がいに相互作用をしない点である。

「モナドに窓はない。単に、たがいを反映するのみで ある」とライプニッツは語る。

とこ ろが、ハドロン・ブーツストラップでは、大乗仏教と 同様にすべての粒子の相互作用とか 「相互浸透」が強調される。そのうえ、ブーツストラ ップと大乗仏教の物質観は双方とも 「時空」的で、物質を出来事ととらえる。

空間も時間 もまた相互に浸透しあっていることに気づかないかぎり、その相互浸透は理解 できないと みるのである。


          織る者は言わず・・・・・・・・・・


 ハドロンに関するブーツストラップ仮説はいまだ完成にはほど遠いものであり、その公 式化には多大な問題が残されている。

にもかかわらず、物理学者はすでにこの自己調和的 アプローチを、強い相互作用をする粒子の記述以外にも拡大し始めている。

そのような拡 大は、いずれ現存するS行列理論の脈絡を越えることになるであろう。S行列 の枠組は、強 い相互作用を記述するために発展してきたものだからだ。

まず、より一般的 な枠組を見出 す必要がある。そして、この新たな枠組のなかでは、現在説明されていない 概念のいくつ かが「ブーツストラップ」されなければならない。

それらは全体的自己調和から生じてこ なければならないのだ。ジェフリー・チューによれば、 そこにはわれわれのマクロな時空 概念、さらには人間の意識さえ含まれるかもしれない。

      論理的につきつめていけばブーツストラップ仮説は
、      意識の存在が自然の他のすべての側面とともに、
      全体の自己調和に必要なものであるということを示唆する。
                                  G・チュー

 この見解もまた、意識を宇宙の不可欠な部分ととらえる東洋の神秘思想の伝統と完全に 一致している。

東洋の見方では、人間は他のあらゆる生命形態と同様に、有機体全体の不 可分な部分である。 そのため、人間の知性は全体もまた知的であることを示唆している。


人は宇宙の知性の生きた証拠とみられているのだ。世界はわれわれのなかで繰り返しその 形態を生む能力を使い、それをとおして自らを自覚する。


 現代物理学では、原子的現象の観測に関連して意識の問題が生じてきた。量子論は、原 子的現象が過程(プロセス)の鎖の環としてしか理解できないことを明らかにしてきた。


その一端に、観測者の意識がある。ユージン・ウイグナーの言葉によると「意識に言及せ ずしては、完全なかたちで<量子論>の法則を公式化することは不可能」であった。


科学者が実際に使う量子論の公式では、意識は言及されていない。

しかし、ウイグナーな どの物理学者は、物質に関するきたるべき理論のおもな特徴は、人間の意識を含むことで あろうと語る。


 そのような発展は、物理学と東洋の神秘思想が直接に相互作用する可能性を開くもので ある。

自分の意識、さらに宇宙の他の部分との関係を理解することが、あらゆる神秘体験 の出発点である。

何世紀にもわたって、東洋の神秘家は意識のさまざまな形態(モード) を探究してきた。 そしてかれらが達した結論は、西洋の考え方とは大きく異なるものであ った。

もし物理学者が、その研究範囲に人間の意識の性質を本当に含みたいのであれば、 東洋思 想の研究が新たな視点をもたらしてくれるかもしれない。


 このように、きたるべきブーツストラップの拡大には時空のブーツストラップと人間の 意識のブーツストラップが必要となり、前例のない可能性をきり開くことになるのである。 いわゆる科学の枠組を越えてしまうかもしれないのだ。

  そのようなきたるべき進展は、ハドロン・ブーツストラップを構成するいかなるもの   よりも、はるかに深遠であるはずだ。

  とらえにくい観測という概念、さらに意識とい う概念と直面しなければならなくなる  かもしれない。

  最近のわれわれのハドロン・ブ ーツストラップとの葛藤は、人間の知的働きの新たな  形態の前ぶれにすぎないのかも しれない。

  物理学の領域を越えるだけではなく、「科学的」とさえ言えないものの先 がけかもし  れない。

                                G・チュー

 

 ブーツストラップという考えは、いったいわれわれをどこへ導いていくのだろうか? それは誰にもわからない。

だがその最終的運命を考えてみるのは興味深い。

きたるべき 理論のネットワークは、ますます広い領域の自然現象を網羅し、いよいよ正確 になってい く。

部分間相互の調和からその構造の多くを導きだし、説明されない側面をほとんど含ま なく なる。

そして、いつの日か唯一の説明されない側面は、科学的枠組の要素だけという 時点 に到達するであろう。

そこから先へいくと、もはやその結果を言葉とか論理的概念で は表現できなくなるにちが いない。科学を越えてしまうのだ。

ブーツストラップ理論では なく、ブーツストラップ・ヴィジョンになるのである。思考も 言語の領域も越え、科学を 出て、アチントゥヤー、つまり、無念無想 の世界へとはいるの である。

そのようなヴィジ ョンに含まれる知慧は、完璧なものであるが、言葉で伝えることはできない。 それは二千 年以上前に、老子が考えていた知慧である。

      織る者は言わず

      言う者は織らず        『老子』

 

カプロー氏とカプラー氏の関係は『タオ自然学』参考文献359P1行目 (カプローKapleau,P. 『Thee pillars of Zen, Boston: Beacon Press, 1967』) の著者であることがわかった。

華厳経とブーツストラップの関係は『タオ自然学』318p10行目にあり、前後しますがこ れを記さないとなんのことやらになってしまうのでは。


 「それぞれの中にすべてがあり、すべての中にそれぞれがある」という概念は、大乗 仏教思想の集大成ともいわれる華厳宗で、もっとも詳細な展開をみせる。

その中心とな る教典は『華厳経』で、悟りを開いた後の深い瞑想状態でブッタが語った と言い伝えら れている。

この膨大な教典には、「固体の明解な輪郭が消え去り、有限の感覚にもはや 圧迫されな い」悟りの状態で、世界がどのように知覚されるかが、詳しく描かれている。


雑華厳飾とよばれる最後の章は、若き修行者スーダナの物語で、かれの神秘体験がいき いきと描写されている。

宇宙は、相互に関連しあった完璧なネットワークとなり、あら ゆるものごとがたがいに 作用しあい、それぞれが他のすべてを含みあう。

つぎの一節で は、スーダナの体験が壮麗な楼閣のイメージを使って語られている。

 

その大楼閣は空のように広大である。地面にはあらゆる種類の宝石が無数に敷きつめられ、大楼閣の内部には無数の宮殿、門、窓、階段、欄干、通路があり、そのすべてが、七種類の高貴な宝石で作られている。

そして、この広大で精巧に飾られた大楼閣 の中には、何千何万の楼閣があり、それぞれ が、大楼閣と同じように精巧に飾られ、 空のように広大である。

さらに、これら無数の楼閣は、たがいに侵害しあわない。

そ れぞれが他のすべてと調和 して個としての存在を保っている。ここには、ひとつの楼 閣が他のすべてと個的また集 合的に融合するのを妨害するものはない。

完全なる混合 状態にありながら、しかも、完全なる秩序を保っているのだ。若き修行者 スーダナは 自分をすべての楼閣の中にも、また個々の楼閣の中にも見出す。

そこでは、すべてが ひとつの中に含まれ、それぞれがすべてを含んでいるのだ。

                                  『華厳経』

 

もちろん、この一節の中の大楼閣は、宇宙そのものの比喩である。このような、部分の 完全なる相互浸透を大乗仏教では「無碍むげ」とよぶ。

華厳経は無碍が空間的にも時間 的にも本質にダイナミックな相互関係であることを明ら かにしている。

空間と時間もま たたがいに浸透しあっていると見られているのだ。


 悟りの状態における無碍の体験は、宇宙の全現象が調和を保って相互に関連する完璧 な「ブーツストラップ」状態の神秘的ヴィジョンである。

そのような意識状態では、知 の領域は超越され、因果関係の説明は不要となる。あらゆ るものごとの相互依存性を直 接に体験するのである。

このように、仏教の無碍という概 念は、科学的なあらゆるブー ツストラップ理論をはる かに越えたものである。

だが、現 代物理学には、大乗仏教の見 方と驚くほどの類似を示 すブーツストラップ仮説にもとづ いた素粒子モデルがある。