
| 其の一 | 序章 (この頁) |
| 其の二 | 1994年 |
| 其の三 | 1995年 |
| 其の四 | 1996年 |
| 其の五 | 1997年 |
| 其の六 | 1998年 |
| 其の七 | 1999年 |
| 其の八 | 2000年 |
| 其の九 | 2001年 |
| 其の十 | 2002年 |
『 み神を慕いて 』は,2002年8月に文芸社から出版されました。
『 み神を慕いて 』 その一
仲嶋正一・啓子 日本アッセンブリーオブゴッド教団
港南シオンキリスト教会会員
はじめに
本当に、信仰のない人が見ると不思議だと思われるかも知れません。これは神様がおられ、しかも本当に生きておられるという、神様の御臨在を証しした、現在進行中の日記なのですから。前著『主イエスとともに』(福音出版社、二五八頁)では、「日記がこんなに面白いなんて!」と、感嘆して一気に読んで下さった方がいましたが、人が神にあれば、神ご自身がその人の行く道を相応しく彩って下さるのです(偶然などはあり得ない!)。この日記は神様との交わりの記録であって、期日、登場人物等、すべて真実の記録です。著者は、「み神を慕いつつ」日記を書いている内に、驚くべき事に、神様が積極的に日を進め導いて下さって、著者の生活が進行しつつある事に気づき、驚き、“神様が私に関与しておられる!”ことに圧倒され、かつ感謝しました。深く心に刻まれたのは、強く迫られる神の愛であって、私は感動に溢れ、この事を忘れない様にと、必死の悦びで綴った日記、それがこの『み神を慕いて』なのです。
時間にはクロノスの時間とカイロスの時間と呼ばれるものがあります。科学的な時間を言えば、それはクロノスの時間であって、変わりなく刻まれて行く事でしょう。然しもう一つの時間があって、それが私達の関心を引くのです。それは、カイロスの時間と呼ばれます。土砂降りの雨の中で、人を待つならば時間は長いが、愛する人と楽しく話し合う時間は、瞬く間に過ぎて短いと言われます。これが、去っては惜しまれるカイロスの時間というものです。――人の一生はその出会いによって支配されると言われます。私は私の人生で、魅力ある一人のお方と出会いました。――だから私は、私が愛するこの永遠のお方とともにより多くの時間を過ごしたいと願っています。可能ならば、歩かないで走ってその方のもとに行って。そうして、瞬く間に過ぎて惜しまれる程の尊い時間、カイロス、それをその、心から愛する尊い方とともに過ごしたいと思います。――『イエス』―― 芳しい香りは、光や愛の様に、目で見、手で触る事は出来ないけれど、身近におられる御臨在として感じられ、心は満たされて、満たされて、絶えず、み神を慕って止や"まないのです。かつて私に属していた小さな愛は、神の愛に比べられて形を失い、ただ、『生きるにも死ぬにも、わたしの身によって神(キリスト)があがめられる事』(聖書ピリピ書一・二〇)を求めて止まないのです。
第一部
一九八九年三月のある日に(前著『主イエスとともに』より抜粋)
この五年間にわたる信仰の日記は、神様が示して下さった深い愛と恵みを記録する魂の記録です。今、私はこれを静かに読み返す時、言い様のないおののき、幸せに満たされます。
聖書によれば、人間は天地のすべてのものとともに、造り主である神様によって造られたものだから、たとえどの様に科学が進歩しようとも、それに関わりなく、私の心が、私自身を造って下さった神を、限りなくお慕いするのは、当然の事です。それにしても、この様に、神を慕う人の思いに応えて、その心を満たされる、篤い人格的な神、その様な神が果たしておられるだろうかと、無信仰の人が迷われるのは、まことに残念な事である。人々の迷いは(聖書にある様に)、神様が目に見えないからであろうが、その様な人格的な愛の神がおられるという事を、知ると知らないとでは、大変大きな違いが出て来る。それは、満たされた人生と、中途半端にしか思いが満たされない人生、生きる素晴らしさを知って生きる人生と、生き甲斐を絶えず求め続けなければならない人生との差である。――私がこの日記を開くのは、私自身に、今雨あられと降り注がれるもの、それを私が限りなく愛する人々に伝えたいからに他ならない。自分で意識しているか、また意識していないかはあるにしても、神様から離れ、隔てられているままに、求める心が烈はげ"しければ、悩みもまた烈しい。まこと罪とは、神から離れ、隔てられているその状態の事に他ならない
「灯会」と言う青年の交わりに入り、心底尊敬する先輩達の中で、幸せな青年時代を送り、二十歳の時に洗礼を受けた。このクリスチャン青年会の交わりは、若い私の心に限りない影響を残しながら、やがて、それぞれの会員の、卒業就職とともに離散してしまった。主","しゅ"の交わりとは、クリスチャン同士の交わりを通して、各自がイエス・キリストの愛の臨在を知る事であると思われるが、当時信仰の浅かった私は、この交わりが解散してしまった時、教会から離れ、心に神様を無くして、そうしていつの間にか、三十年余の長い歳月が経ってしまった。東京の日本キリスト教団上富坂教会にクリスチャンとしての私の籍があるにはあったけれども、私はこの世の生活に泥なず"んでしまって、最終的な救いについて思いを致す有様であった。教会に戻る事が、可能ならまた戻って、再びクリスチャンとなれるだろうか?(でもそれは絶望的の様である。)あるいはこのまま、無神的な人となって果ててしまうか? それはもう、最終的な問題となった。私は、聖書にある、「財産を使い果たした放蕩息子」の姿であった。
そんな私が、教会に戻りたいと強く思い出したのは、一九八四年一月に父が亡くなった時の事であった。葬儀場で、父の遺骨が、私の箸の中に挟まれてしまった時、この現実の、父のあまりの変わり果て様に驚き、絶句して、私は生まれて始めて、「お父さーん」と大声に声を挙げて泣いていた。涙がこみ上げ、こみ上げ、泣いて、泣いて、泣いて涙が枯れる様になってしまった時、――雪が降って来た。不思議にこの年は正月の明るい空に、毎日、毎日、天から雪が降り続いて来た。私はそれを見上げながら、父が毎日、天の上へ上へと登って行く様な気がしていた。明るい天に雪が降り続いて、そうして、雪が降り止んだ時私は、「父は一体何処に行ったのだろう?」と、真剣に考え始めたのです。
それから色々な本を読みました。あの世を訪問したという有名なエマヌエル・スウェデンボルグの著作は勿論の事、アウト・オン・ア・リムとか、更にはまた、あの世と交信すると称する、おかしげな自動書記にも興味を持つ程でした。――中途半端ではなくて、本当に具体的に、本当に神様とあの世を見せて欲しいと思っていたのですから(それは、難しい要求でした)。色々な宗教書を読み始めました(きっとその状態は、お腹の空いた熊が餌を求めて歩き回る様な哀れな姿だったと思います)。その時読んだ本は、キリスト教だけは抜いて(この事は、大変良い結果に導かれたと感謝しています)すでに二〇〇冊を越えていました。自己満足ではない、明確な、救いと真理を求めて。法然の一枚起請文、親鸞の『歎異抄』から、禅をめぐる書物、更に、色即是空を説く般若心経の幾つかの講解書、観音経の二つの講解、『生命の実相』四十数巻と谷口雅春のその他、沢山の書物、今で言う幸福の科学の数十冊の書物、高橋信次(GLA)のすべての著作を読み、更に書店の店頭では神智学、天理教や創価学会の本まで、すべて宗教と名の付くものなら何でも立ち読みしていったのです。この頃「空海」という映画がありました。他の人々の様に娯楽が目的ではなくて、私の場合、魂の救いのために見に行きました。それが仏に通じる言葉だと書いてあるので、梵語の真言も唱えてみました。幾つか宗教の祝詞","のりと"の様なものも唱えてみました。でも、何という事でしょう。そうして真剣にのめりこんで行けば行く程、私にとって心は益々苦しみに満たされて行くばかり。何故か、どんどん、どんどん惨めになって行くのです。最後に行ったある宗教では、病の存在すら否定し、自己自身をまるで神様に取ってかわる程の高みまで上げ様とする様で、もし本当の神様がおられたら、取り返しのつかない冒涜になるかも知れないと、私の良心は警鐘を鳴らしていました。――そのうちそんな私に止めを刺す様に、私が最後に頼りにしていた妻が大腸ガンになってしまったのです。もはや、ピンチでした。妻に、もしもの事があれば、今は生きる希望の無い自分である事が、ハッキリと判ってしまったのです。妻のそばにいたいと思って、仕事を止める準備をしました。「お父さん、そんな顔でママの所にいたら、ママがガンだという事が判ってしまうよ」そう娘に注意されましたが、私は、すべてについて絶望し、心の底まで青ざめていたのです。――その時でした。そんな私を哀れに思って下さったのでしょうか、あの懐かしい神様が、私を救い上げに来て下さった――「オイコドメオー(教会を建てよう!)」という一通の書簡が、思い掛けなくも、昔の松本頼仁牧師から舞い込んで来たのです。――それは何と三十数年振りでした(意識下では片時も忘れた事がなかったけれど)、それが、突如としてこみあげ、「ああ帰りたい、帰りたい!」の思いが胸一杯に溢れてしまった。この機会を逃がしたらもう帰れないと感じていました。そんな私の気持ちを知る事が出来るのか、その時、放送大学で女人仏教の歴史を学び、仏像を見るため日本の各地を歩いていたはずの妻啓子が、不思議に、私にキリスト教会に行くようにと、しきりに薦めてくれたのでした。――そうして、日本基督教団鶴川教会落成式の、一番はじっこの席に座って、あの背にポケットのある懐かしい席にかけて、今は昔の、懐かしい賛美歌を歌った時、私の心は、心の底からこみ上げてくる涙を止められなくなってしまったのです。魂の奥底から、流れて、流れて、突き上げて流れて、止められなくなったのでしたが、何とそれは幸せな一時、神様との再会の、一時だった事でしょう! ――「神様は変わらなかった。悪いのは私だった」――そうして立ち上がった時、あれ程深かった昨日までの悩みは、不思議に、跡形もなく消えて無くなっていたのです。三十年もの長い間広がった間隙でした。それなのに、神様は、瞬時にそれを赦され、満たされ、愛して下さった。私はもう、他に何もいらなくなりました。(以下、一九九四年までの日記は前著『主イエスとともに』福音出版社から)
注がれる神の恵みは連続して(一九九三年十月からの一年間)
「神様が私を導いて下さっている」、そうハッキリと判る程、神様のみ業が鮮やかに見えて来たのは、私が慶応病院に入院した頃からであったろうか?
この二年の間に私の体重は十一キロも減少した。身体の何処かにガンがあるといけないからと騒がれて、当時慶応のインターンの医者(この四月三十八歳で同大学医学部教授を命じられましたが、これも一つの奇蹟かも知れません)であった我が子の意見によって、精密検査をする事になって、信濃町の慶応病院に入院を申し込んだのは、一九九三年九月三十日の事である。僅か四日後の十月三日、たまたま空いたベッドがあって、早くも許可が下りて入院する事が出来た。忙しすぎる日常生活の中に、思いがけず与えられたこのゆとりの時間に喜んで、私はいそいそとベッドの傍らを整理し、賛美のテープレコーダーと、アンドリュー・マーレーの祈りの本と、それに、平素読む事が出来なかった、牧師からお礼として頂いた分厚いシーセンの『組織神学』の本を置いた。そして横になって読み始めた。
この神学の本を見て、看護婦の中村さんが、「あなたはクリスチャンですか?」と、語りかけて来た。彼女は、「以前ガン病棟に勤務して、多くの人が死んで行く姿を見ましたが、そういう時の、クリスチャンの様子は、余りにも他と違うので、感動しました」とそう言われた。このお話で私は嬉しくなったので、前日お茶の水まで外出して、妻のためにと買った本、田中信生牧師の『魅力ある生き方ガイド』(いのちのことば社)を彼女にプレゼントした。その時彼女がこの本に、一筆書いて下さいと繰り返し言われるので、背表紙に私の心境を書き込んだ。
「検査される私の横に、イエス様がおられます。燦々と注がれる、恵みを加えられる日々。夏の海、ひたひたと押し寄せるその波が、いっぱいに私を包む様に、その愛を与える方が、主であると知るのです。満員電車を降りて、お茶の水駅前の、人混みの横断道路を渡る時、そのざわめきの中に、心豊かにせられる時、ふと気が付くと、其処に、主がおられます。――限りなきキリストの愛を語って、この口を開き、この心を開き、その幸せを告げずにはおれない――一九九三年十月 S.NAKAJIMA」
敬愛するエミー・カーマイケルの心情に倣ったものでした。
退院して間もない或日、早速中村さんからお便りが来ました。「街の木々もすっかり色づいて、慶応病院八S病棟から見える神宮外苑の景色も、秋らしくなりました。入院中は気のきいた事もあまり出来ずにいましたが、ただあなたのご様子に、看護婦という仕事を離れて、心和む時間となりました。全ての状況を肯定的に受けとめ、プラスにしておられる姿が感動的でした。頂いた『魅力ある生き方ガイド』は、友人看護婦に回し読みしており、この本に書かれている「魅力ある人」に共感しましたが、今私は、あなたこそ魅力ある人であったと気づきました。私が看護婦という仕事を選んだ理由は、相手を通して自分を知り、学び、向上して行けると思ったからです。それなのに、いつしか、何かをしてあげたのに、こんなに一生懸命してやったのに、と患者さんに求める気持ちが強くなり、傲り高ぶっている自分の姿に気づく事があります。あなたの姿を見て、振り返って自分が恥ずかしく、初心に返りました。感謝します。――」
あまり誉められた事ではありませんが、入院中私は、ある人(マスコミ関係、自称大学教授、実は講師)が、高飛車に看護婦を叱りつけ、婦長を呼べと言っているのでこの人と喧嘩して、病室を変えられてしまったのです(その時中村さんが変えてくれました)。 退院して間もなく十一月になりました。私の職場(星薬科大学)で、学生の石川さんと語り合って、金沢キリスト教会の船津牧師にお願いして作った小さな聖書研究会が開かれました。その日特に、アメリカで著名なデイル・クレール先生(米国・カルバリー・キャンパス教会牧師)をお迎えして、大学の一室で集会を開く予定でした。この日、私は心に汚れを感じていたので、かえってキリストのもとで一生懸命働こうと考えておりました。多くの人に語りかけて出席を誘いました。その結果、かなりの人が来ると言っていたのに、当日になってから、思惑は悉くはずれた事が判りました。出席すると言ってくれた教職員は、何れも、仕事中だからと言うし、来る筈だった学生は用が出来たと言うのです。もうあと三十分で始まるというのに、私の助手の水野さんの他には誰も来ないのです。この集会は、通訳を含めて牧師が三人も来て下さるというのに、それを聴く聴衆が、私と石川さんと水野さんのたった三人になってしまいそうです。私はこの有様に責任を感じ、誰もいない図書館に行って祈りました。そうして心落ち着いて、再び仕事を始めた時、石川さんが来て、「先生方が到着してお待ちしています」と言われるのです(とうとう、その時が来てしまった!)。それで直ぐに私は、その部屋に行きました。
驚いた事にゼロではなくて八人もの人が丸くなって円座に座っていました。私はすぐに理解しました。この人達が、深い信仰の人達である事を。ただ黙っているだけなのに、表現しようもない、聖なる(そして懐かしい)聖霊が部屋一杯に充満していたのです。三人の牧師さんと五人程の他大学の学生さんが黙祷しておられました。私は聖霊に力づけられて元気になり、研究室に戻って、大学院学生に声をかけてみたら、今度は不思議な事に、皆が直ぐ行きましょうと快諾してくれたのです。更に二年生が集まって来た。一年生も来た。そして私自身が入ると、その部屋は二十人を数えて、あっと言う間に、一杯になってしまった。この間、ほんの数分の事でした。こうして、デイル・クレール師のメッセージが行われ、無事に終わりました。その後、師はこう言われたのです、「この中に、罪を持っている人がいます。その方は手を挙げて下さい。イエス・キリストにお願いして、赦しを与えられましょう!」と。
全く驚いた事に、その声は、真っ直ぐに、まるで私を指して言っている様に聞こえて来るではありませんか! そんな筈はない、だって、デイル・クレール師は私の正面ではなく、真横に座っておられます。しかしそれなのに、確かに真っ直ぐに私の方に向かって聞こえて来るのです。おかしいと思いました。確かに私は罪人です。然し、私は教員なのです。殊に、今日の学生は、私が大学院の教師として教えている学生ばかりでしたから、手を挙げる訳に行かないのです。そのうち、二回目の言葉、お勧めがありました。私は手を挙げたい気持ちは山々なのです。でも、今回は、私は牧師の隣に座っている、いわば主催者ですからと、勝手な理屈を考えていました。然し一方で、手を挙げないままこの会が終わってしまっては困るという気持ちが起こって来ました。そして次の瞬間、俯いていた私の心に、向かいの二人の学生が手を挙げるのが見えてしまったのです。そうして三回目のお勧めがあった時、私はとうとう手を挙げてしまったのです。――この瞬間私は、心の奥底からこみ上げて来る怒濤の様な流れに、打ち勝てなくなってしまいました。立ってデイル・クレール師が祈って下さるうちに、涙が一杯頬を伝わって来ました。学生の前ですから、心はどんなにぼろぼろでも、姿だけでも毅然としていたかったのですが、ハンケチを使って泣いていたのです。私は鼻が悪いので、涙が出ると鼻水が出るのです。
すべてが終わって私達が廊下に出た時、私は知りました。一人の黒人を含む五、六人の外国の人が、中でなされる説教者とそれを聴く人々のために、二時間もの長い間、外で立って祈っていてくれたのです! それらの人達は、終わるとともに、さっと合流して、薄暗い夕暮れの道を、まとまって帰って行きました。その後ろ姿を見送りながら、私は、強い感動に打たれていました。イエス様が来られた! はるばると。しかも大勢の天使の軍団を連れて(人間の罪の汚れを消すために)。こんな事って、本当にあったのですね。星薬科大学聖書研究会は、この日、神の軍団に守られていたのです。私は、次の日も、またその次の日も、またその次の日も、一日中、ジーンとした御霊の恵みに満たされていました。イエス様が天使を連れて来て下さって、そうして去って行かれた。御霊の賜物を残して。この時イエス様が言われたのです、これは二千年前の事ではない。私は今、信じるあなたとともにいるし、必要ならば天使を連れて、いつでもやって来るのであると。
遠藤周作(カトリック信者)の有名な小説『影法師』に、掟を犯して糾弾され、日陰者の生活をするカトリック神父さんの悲しいうらぶれた物語があります。信仰者であるが故に、犯した罪の大きさが、より強く感じられるのでしょう。然し、そんな時、イエス・キリストは果たして、そのクリスチャンを救いに来られないでしょうか? いや、必ず来られると思うのです。その様な、キリストの出現は、時として、ダイナミックで奇跡に満ちた恵みとして、与えられます。
年明けて正月(一九九四年一月四日)、デイル・クレール先生から私のもとに、お手紙が届きました。その中に、「――私は、あなたがあなたの学校で、教師の立場によって、伝道につとめ、また一方クリスチャンとして、証しをされる様に祈っています。私は、神様の愛があなたの中にある事を認めます。そうして、あなたの学生が、あなたを大いに信頼し、かつ尊敬する事を知っています。この一九九四年に、あなたを、新しい素晴らしいダイナミックな方法で、主が用い続けられる様にと祈っています。神は賛美すべきかな!『イエス・キリストにあって、なし得ない事はない』(マタイ一七・二〇)」と書かれてありました。
デイル・クレール先生のこの文面を見た時、私は内心大変驚きました。先生がその書簡の中で、「信頼と尊敬」という二つの言葉を用いられていた、「何という事だ! これは数日前(つまり、デイル・クレール師がこの手紙を書かれたその時)に、実現していた!」のです。
最近新聞報道されている様に、大学教員再評価といって、文部省主導で、教員が学生からアンケートの形で評価される事になっていました。私はこの問題についての大学の実行委員でしたから、さっそく先ず自分自身について、学生による評価アンケートを取り終えた所でした。アンケートの項目は多くありましたが、その中で、「この先生の人柄(平等、正義、信頼)について尊敬と好意を持ちますか?」という項目について、九五パーセントの学生が、五段階評価で最高の評価五を記入してくれていたのでした。
この事のあった約一週間後(一月十三日)、世界五千万人の人に説教して数百万人の人を回心させたと言われるアメリカの大伝道者ビリー・グラハムの大会が後楽園ドームを四日間借り切って開かれました。私はこの大会では希望して、カウンセラーとなっていましたが、感冒で体調を崩していました。しかし、当日の私に「頑張りなさい」と限りなく力づけてくれたのは、直前に学生が私にくれたこのアンケートであったかも知れません。
不思議な事に、この「ビリー・グラハム大会」は、私の母と姉が、神様に触れる特別な機会となりました。私の母は子供達にとても優しい母でした。教会に戻った私と、洗礼を受けて新しくクリスチャンとなった妻の二人で、毎日欠かさず祈った事は「母の病床に、キリストが御臨在して守って下さる様に」であって、すでに祈り続けて四年が経っていました。そのせいか、母は明るい平安な心で、病床を過ごしていてくれましたから、それだけでも私達には満足な事でしたが、神様は、遥かに素晴らしい事を、この目に見せて下さった。
献身的に病床に仕えていたが信仰は無い姉が、母の死が近い事を感じたのでしょう。心に慰めを求めて、このビリー・グラハム大会に来て、しかも、イエスを救い主として信じますか、と聴くグラハム師の招きに応じて、祈られるため、後楽園の広いグランドに出て行きました。そしてそれから二週間後に母が召されました。こうしてその二週間は、姉が初めて教会に行き始めた二週間であったのです。だから姉は、私の考えを入れて、仏教ではなくキリスト教によって母の葬儀を行いましょうと言ってくれました。父の葬儀は仏教でしたから、他の兄弟達が強く反対しましたが、母に献身的にかしずいた姉の言葉によって、葬儀はキリスト教で行われると決まったのです。
母の死の数日前、母が最期らしいと姉から伝えられて、私達は母の病床を訪ねました。この時、正直に打ちあければ、「神様は母をこれまで安らかに見守って下さった。が然し、この最期の時には、苦しむ姿を見なければならないのであろうか?」と心は不安でした。
ところが、私が母の寝室に入って母を見た時、何と驚いた事でしょうか! ――母は恵みに満たされて昏睡していました。そうして、部屋全体は聖霊に満たされ、昏睡する母のベッドの枕元に、(ああ何と表現したら良いでしょうか!)あの神々しくて、然も限りなく、ジンとしてあたたかい、金色の霧の様なイエス・キリストの御臨在の姿形を見る事が出来たのです! それがイエス様だという事は直ぐに判りましたから、静かな深い驚異の悦びとともに、聖なる畏れ多い気持ちに満たされ、暫しの後、限りなく去り難くも、そっと部屋を出て、黙って妻に代わりました。代わって入った妻も同じ事を見たのです! 帰り道、その不思議さについて、互いに語り合いました、「こんな不思議な事を見る事が出来ただけでも、生きていて良かったね」と。――四年に及ぶ私達の祈りは、まざまざと叶えられて、尊いメシヤが、母の病床にともにおられたと、神様は私達に語って下さったのです。
デイル・クレール先生が下さった預言は、更にもう一つありました。それは「今年は、あなたに主がダイナミックな福音の進展をお見せになるでしょう」と、言われた事です。私はこの事が何を意味するのだろうか、初めは期待して待っていましたが、今になってみれば、それが何を意味するか、もう明らかではありませんか!
それは私と妻による共著、日記と証し集『主イエスとともに』が出版されたことです。その事を通して主が用いられる事を示されたダイナミックな御業でした。始めはただ、私の定年に当たって、友のために学生のために日記を公開して、彼らにとって困難な闘いが正しく導かれるために必要な唯一の方が、キリストである事を語りたいと願ったのです。だから内輪に印刷して学内に配る予定でした。ところが、私の港南シオンキリスト教会の野川牧師が推薦状を巻頭につけて下さり、続いて杉田キリスト教会の久保田牧師のお力添えがあって、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出版局(福音出版社)から立派な表紙を付けて出される事になって、これも母の葬儀の場合と同じく、あっと言う間に、同じお二人の牧師先生のチームワークによって、迅速に局面が前向きに変わってしまったのです。――こうして、一介の信者の単なる日記が、二五〇頁の立派な本になって書店の店頭に出る事になりました。出版は予定から大きく遅れましたが、そのため、思いがけず私達の結婚記念日(十一月二十日)に出版される事になりました。出版されると直ぐに馬越玲子さん(この『主イエスとともに』の表紙の三位一体を示す三本のバラの絵、それを、妻の受洗祝いにと、描いて下さり、今は天に召されてしまったカトリック信者、馬越轄吾先生の奥様)がお手紙を下さいました。それには、「本当に不思議な事でございます。この御本の出版された日は、夫が天に召された日でございます。この不思議な一致を思い、娘とともに感動して神様を頌","たた"えております」と。
日記と証し集、『主イエスとともに』の執筆、出版をするについては、定年前の一年(多少ゆとりを下さる?)であるとは言っても、理科系大学院、博士及び修士課程研究指導という仕事から言って、無理が無かった訳ではないと思います。それでもそれが可能になった理由の一つに、母の葬儀があったのかも知れません。――葬儀がキリスト教で、たまたま星薬科大学から近い桐ヶ谷葬場で、前記の二牧師の司式によって、立派に行われたので、参列してくれた人(殆ど全大学教職員)に、静かではあるが平安であり、むしろ楽しいキリスト教の葬儀に、理解ある感情が芽生えた。キリスト教の葬儀は良いですねえ、と人々が言ってくれた。その二に、「ビリー・グラハム大会」に出席してくれたK学長が、この本の出版について期待を表してくれた事が支えになりました。その三に、デイル・クレール師の聖書研究会をきっかけにして、私の研究室直属の水野助手が私と同じ教会に出席する様になり、間もなく受洗して、心の支えとなってくれました。こうして、『主イエスとともに』の本が出版される必要な準備は、神様が着々と整えて下さった。出来上がった本は、水野姉と私とで、教授会、事務局、学生寮、クラブの学生、授業の学生へと配布されて行きました。――そうしてそれが広がるにつれて、かえって私の心は畏れ多い思いで満たされ、妻と二人で、「この証し集は、イエス様あなたのものです、私のものではありません」と祈りました。――ところがどうでしょう。イエス様は、全く思いがけない所から、これを、広げようとなさっておられました。
医学薬学書籍出版の広川書店社長の広川さんが、化学、薬学生のための専門誌『化学と薬学の教室』にこの本の紹介を出して欲しいと言って来られました。――この雑誌は純然たる学術系雑誌であるから全然違うのです、こんな事ってあるでしょうか、こんな前代未聞の事を、第一、編集長が賛成する筈はないでしょうが! とそう思いましたが、それでも四月号に出る事になったのです。広川節男氏がこの本を読み、聖書研究会に学んだご自身の青春時代を思い出し、是非薬学の人々に紹介したいと言うのです。――私は襟を正しました。今やこの証し集を、運ばれているのは私ではなく、イエス様ご自身ではありませんか。
間もなく、『化学と薬学の教室』(一九九五年四月号)の一頁全面に亘って新刊紹介が掲載されました。「最近、星薬科大学聖書研究会のN教授が書いた本は興味深い。序文の推薦によると、『一途な愛をもってイエス・キリストを愛し、砂漠に水が注がれる様に聖霊を慕い、――神様に迫る愛で満ちた証しを読む時に、神をまだ知らない方は其処に何かを感じられるでしょうし、神を知る者はキリストの愛に圧倒されて、主をほめたたえずにはおられない事でしょう(野川牧師)』とある」と書かれていました。
アメリカのクリスチャン林姉からは、「感動に包まれて、読む事が勿体ない気持ちになっていきます。少しずつ、少しずつ、と涙の出る思いで読み続け、一頁一頁が、心の宝となっていきました。あなたは口下手で、上手に語られる訳でないのに、お心の中にあるものを、文字に表すと、それは神様の聖言を寄せ集められた様な、感動を与えられるのですね。この数ヶ月、職場の行き帰り、私はこの証し集を手離した事はありません。職場で心痛んで疲れた時、この本を読んでは平安に満たされました。そうして幾度勇気づけられた事でしょう! この頃の私の楽しみは、あなたが、こんなにまで影響を受けたという、アンドリュー・マーレイの本を書店で探し歩く事になりました」との手紙が届きました。
この一年、こんなにまでして、キリストが、次から次へと、この貧しい取るに足らない私に、不思議な御","み"業","わざ"を起こされて、用いられて行く道をととのえて下さる(しかもそれは、次から次へと関連して続いているのです)、御恵みの大きさに驚き感謝して、「神様、どうかこの恵みをいつまでも継続して下さい。このひれ伏す貧しい我が身の上に、あなたの大御心が顕わされますように」と祈るばかりでした。
学生に語る最終講義(一九九五年二月)
「私は一九五三年に大学を卒業しました。日本が負ける事の無い神の国と教え込まれ、軍国主義一色で、皆、お国のためにと戦って、敗れ、今まで日本の神様であると教えられた天皇が、新聞紙上で人間宣言をし、今度は反対に民主主義が選挙運動の街頭で大声で叫ばれていました。心うらぶれたこの混乱の時代に、ひっそり通った田園調布の小さな教会。その中で私は青春時代を過ごす事が出来ました。――(以下専門の学術講演につき略します)――もしも教壇から語る事を教育と言い、それが人を教えると言う事ならば、私は一体何を教える事が出来るでしょう? ただ私は、自分が心から仕える、遥かにずっと偉いお方、その方によってこれをする、と思うから、何でも出来るのです。――問題は自分ではなくて神様なのです、情熱を持って語らざるを得ないではないですか。私が思うには、人生は、自分がどう生きるかという事ではなくて、どの様に、神様に用いられるか、という事だと思うのです。
薬学(科学)を学ぶ真面目な人に陥りやすい罠があります。それは科学万能という錯覚と、囚えられた進化論の考え方です。前者に心が捉えられると、科学を恵みとして下さる恩寵の神を見失って彷徨い、後者に囚われると、自分や他人を大切にするかわりに、競争自体を重んじて、強食弱肉とか自然淘汰という言葉さえ出て来ます。先祖がお猿さんという考えに支配されると、人間は神様が下さった尊厳を失い、競争社会の観念に囚われて、運命と諦めの動物に変わります(そうしてお猿さんの様な競争世界を来たすかも?)。――この大学にも動物慰霊祭というのがあります。これは、実験動物の霊を慰めるためですが、私はよく、『動物に霊があるんでしょうかね?』と聞いて回ります。何しろ此処は大学ですから、霊の無い動物のために慰霊祭を行ったら、恥ずかしい事ですから。
神を信じる人、北大のクラーク先生が学園を去る時言いました。『少年よ大志を抱け』。それは、神を写して限りなく尊い人間の価値、その事の上に立つ人(それは皆さんの事です)、その可能性を頌えたものです。
卒論の学生さんには語りました。『注ぎ出す香油のように』と言われる事は、心は良いもので満たされているのに、蓋をしたままで終わる事の無いようにということです。愛という言葉を素直に口に出せない世の中ですが、キリストは言っています。『自分を大切にしてくれる人を愛する事は誰だって出来るのです。自分の敵を愛しなさい』と。人は一回しか死ぬ事は出来ない、とこれも聖書に書かれている事です。どうか皆さん、神を愛し、己と他人を愛し、自信を持って世界を生きて下さい。たった一人の、たった一回のこの地上の人生に、皆それぞれの思いが遂げられますように! ――私はいつも皆様のために、祈っています。」
神様の満たしと伝道命令(天城山荘、一九九五年八月)
聖霊の満たしの体験は幾たびか神の訪れによって与えられます。今日お証しするのは、その様な満たしの体験をある日、そして次の日、また次の日と、三日も続けて神様が体験させて下さったという事です。――聖会の二日目の朝早く、私は天城山荘の中に、一人で、浄めを求めて祈る場所を探していました。この山荘に来た目的は二つありました。一つは浄められる事、徹底的に浄められる事、そうしてもう一つ、それは、あの熱い神様の召命、献身の思いを今一度戴きたいという事です。
朝早く起きて、昨年、教会の兄姉と来て歩いた事のある天城山荘の裏道を、一人で歩いて下って行きました。――その下り坂の途中にあった岩に腰掛けて暫く祈りました。でも其処は途中のため傾いていて安定しないので、立ち上がって更に下へと降りて行きました。平らな所に木が横に置いてあったので、それに腰掛けて祈りましたが、今度は余り低すぎて、周囲から余りにも見下ろされる環境なので、落ち着かないのです。其処で、再び坂を上って、前の傾いた岩に戻って座って、この度は長く祈りました。でもなお、心半ばで満たされませんでした。「やはり駄目でしようか? 神様!」痛烈なそんな思いで、重い腰を上げて、もとの坂道を上って行きました。(この時ある人と出会いました)そして山荘を後ろに回って、玄関前の明るい綺麗な芝生の上のベンチに腰掛けました(其処は、昨年祈った事のある場所でした)。
ところが、ベンチに腰掛けたその瞬間でした。イエス様が来られたのです! 突如として、驚くばかり、止めどなく魂の奥底から迸り出る生命を止められず、涙が溢れ溢れて、私は心の底から嗚咽していたのです。
翌日早朝に、塚原兄と語りながら、同じ道を行ってみました。その同じベンチはすでに他の人が掛けていたので、その向かいの大きな岩の上に腰掛けて、短時間二人で、祈りについて話し合い、二人で祈りましたが、其処で私は、再び主の篤い御臨在に触れられて、泣いていたのです。
朝早く起きたからでしょうか。その夜の聖会で、私は疲れて眠く、講師の松見先生のお話について行けず、ただ眠さと烈しく戦っていました。足を自分で幾度も踏んづけ、手をつねったりして、とてもメッセージを聴く所ではなく、早く終わって失礼の無いようにと願っていました。ところが然し、メッセージが終わって先生が、「あなたは、一千万の人の救霊のために献身しますか?」と招かれ、更に二度目に招かれた時、私は殆ど本能的に、ふらふらしながら、やおら立ち上がって前に出て行ったのです。もはや私自身の意思ではないように。
こうして、気が付いてみたら、私の二つの切なる願い(浄めと召命)はすべて神様が満たして下さったのでした(イエス様が来られると、全く罪は消える事を、此の時知りました)。
山荘から家に帰って翌日(八月三十日)、ポストに一通の手紙が入っていたので、それを取って近くの娘の家に行く自動車を運転しながら、止まって片手で開き、斜めに読んだだけなのに、再び私は、不思議な恵みに圧倒されて、こみ上げる幸せに圧倒されました。不思議に珍しいお手紙でした。-----------------------
此処で書いておかなければいけない大切な事が有ります。天城山荘での事、早朝祈っても神の解答を与えられず、諦めかけて山荘の坂を上って来た時、ふとすれ違った人の背に、深い祈りを感じました。通過して行ったその方の後ろ姿を見た時、何と昨年天に召された(私に洗礼を下さった)人、松本牧師にそっくりではありませんか。
山荘から帰って私は、二十一日目にして、これまで放っておいた、青春時代の青年会「灯会」の再開に向けて動き始めました。松本牧師を中心として、私の若い頃に与えられた青年会「灯会」の交わりが、私を含めてすべての会員の、若き時代に心を残した、大切な思い出である事を私は知っています。然し、六年前までの私自身の様に、かつては受洗し、一生涯忘れられない様な交わりを与えられたと思いながらも、教会から離れてしまった人達が何人もいます。それらの人達はすべて、今七十歳に近くなっています。その事を気遣っておられたのでしょう、松本牧師が、「仲嶋君、灯会を開こうよ、一年に一度は」「仲嶋君、灯会を開こうよ、年に一度ではなく、半年に一度でも良いよ」そう繰り返して呼びかけをされたのに、私は定年前の忙しさで、もう一寸、もう一寸待って、と思っているうちに、松本牧師は昨年五月天に召されてしまった。
天城山荘から帰り、往年の青年会「灯会」のリーダー(私の先輩方)にお電話しました。そして、開催のための準備会を新宿の喫茶店で開く事が出来たのは十月三日の事でした。集まって下さった六人の方は、皆かつて洗礼を受けた方ばかりなのに、今、信仰を保っているのは私の他に二人でした。話が、いざこの「青年会」を再開したい課題に入ると、すぐに意見が分かれました。
かつて「青年会」で私を導いて下さった私が最も尊敬する先輩から、「キリスト教を前面に出すと、人が集まらなくなるかも知れない」と心配され、また他の方は「会場は教会でない方が良いと思います」、悲しい事に更に「主の交わり、あれは青春時代の夢だったのか」とそうも言われます。かつてとは異なり、やはり三十六年の主に交わらざる歳月が長すぎたのでしょうか。大坪姉と次に訪ねた往時副牧師である笠利先生の家、チャペルのある幼稚園でのお話し合いの結果、二部はビールの出る親睦会だが、一部は礼拝と決まり、大変幸せな事に、礼拝の司会進行の役を与えられました。
一九九五年十一月二十五日、待ちに待った灯会でした。松本牧師が心に残された意志によって、主のために、今働く、「ああ今、私は神様に用いられる! 主よ、導き賜え」。
「それでは時間になりましたので灯会を開きます。――私達は若い時、海に山にイエス・キリストとともに、修養会に行きました。思い出します。あの時、行く所、何処においても、キリストを中心にして、ひたむきに心合わせて賛美をした事を。だから今、あれから四十五年経ってこの青年会『灯会』を開く時、神様への賛美と祈りが無ければ、今も私達に、あの神様から注がれる祝福がやって来ないと思うのです。――言わせて戴けるならば、私達は皆様に導かれて、あの時こう理解しました。神が示される深い愛にも拘わらず、私達は、罪にまみれ世の思いで一杯です。このままで私達は、救われる筈はないけれど、イエス・キリストが来て十字架につかれた、それは、私達が罪を犯したからです。そして、主がそのままで良いから来なさいと言われますから、私達はみもとに参ります。三十五年もの長い間、つい先頃まで私は教会から離れていました。あの時皆様と抱いた気持ち、神様との事、然し今の姿。それは何時か解決しなければならないが、でも然し、どうして今更、私は帰る事が出来るでしようか。父は死んで何処かに行き、妻はガンとなり、私は絶望し、遂に生きるか死ぬかの最後の時に、私達の共通の師、この青年会『灯会』のリーダー松本牧師を通して、懐かしい神様から、一通の手紙が入って来ました、『オイコドメオー(教会を建てよう)』と」
お証しを終え、笠利牧師のメッセージがあり、その後、往年の青年会「灯会」は、声を合わせて賛美しました、――『主にありてぞ、われは生くる、われ主に、主われに、ありてやすし』(賛美歌三六一番)――と。
『み神を慕いて』 其の二 へ続く