dairy

つれづれにね

 

 

 

 

 

 

 

2003/6/25

 つまんない誤解やら曲解ってのは、それが「何なのか」とかいうシチめんどくさいことは別として、相手のことをおく知らないこと、もっとカンタンに言やぁ信頼してないことから起こることで、同じ誤解だってそこに信頼がありゃあ「そうくるかぁ?」とけっこうオモシロイもんだよ。俺は大歓迎だね。
 ところでこの信頼ってのは、まるで相手の問題みたいな気がしちまったりするわけだが、俺はときとして自分の側の問題なんじゃないかって思うわけだ。つまり相手を信頼する強さが、この俺にあるかどうかが問題なんじゃないかってね。
 ハナから信頼うんぬんいう話は問題外、というような場合もあるだろう。しかしそこにはそもそも誤解すら生まれようがない。そういう意味で、俺が言ってるのは誰でも信頼しましょうみたいな道徳的な話とは別もんだ。

 

2003/6/15

 なんていうんだろね、「オリジナル崇拝」みたいなもんがあるけど、「自分にしかできない生き方」やら「独自の世界観」やら「オリジナリティ」やら、なんかのキャッチコピーにしか聞こえないこうしたもん、これを軽くいなしながら逆手にとってうまく活かしてる人たちには正直頭が下がるけど、マジで踊らされてるやから、特にひとのまねするなみたいな、おまえ小学生か? みたいな反応するやからを見ると、もうほとほと脱力しちまうね。ま、ひとつには自分見てるみたいな気がするからだろうけど。
 たとえば笑い話みたいなホントの話だけど、「あなたにしかできない個性的ファッション」とかいって、大量に同じ服売ってたりするのをよく見るだろ。でもああいったてあいにマジでぶち切れるやつぁいない。当たり前だ。そこでいう「個性的」ってのはたんなるウリで、みんなに「個性的」とわかるって時点で個性的なんかじゃない。つまり新しいスタイルやらうまい名前が浮かばないもんだからただそう呼んでるだけのもので、別の例で言えば「100%ジュース」という名前の無果汁ジュースみたいなもんだ。
 じゃあ「独自の世界観」をもって世界を変えた人やアイデアを否定するのか? みたいなこと言われるかな。しかし俺にはそれはゼンッゼン、「独自」には思えない。みんなに受け入れられたんなら(そしてそうなることになってたんならさかのぼって)、もうそりゃあ俺たち共通のもんだろう。
 つまり俺が言いたいのは、もしホントに「自分にしかできない生き方」とか「独自の世界観」とかいうものがあったとしたら、もう他人には何がなんだかわからんってことだ。そして俺はそれを否定するわけじゃない。5/21の日記にも書いたが、共有できないものってのは確かにある。だがそれは「自分にしかできない生き方」やら「独自の世界」やら「オリジナリティ」やらといったままごとみたいなもんじゃない。もうほとんど狂人の住む世界だよ。そんなことに耐えられるかね。

 

 

2003/6/12

 この前の日曜、「コーヒー豆を三粒浮べると幸せになれる」とかいううたい文句に、ガラにもなくころっときちまって、買ってきた「サンブーカ」。むろんうちのやつには何も言わずに三粒コーヒー豆浮べて「飲んでみろ」と言ったんだが、「うへ、何このにおい」とそっこう拒否。かく言う俺もその甘さにへきえきした。
 しかしなにごとも慣れだな。今じゃけっこううまいと思える。食後にスイーツのかわりに飲んでみると、なんとも幸せな気分になれる。
 しかし飲んでるうちにコ
ップのふちにはりついちまうコーヒー豆が、まるで虫か何かに見えるらしく、うちのはいまだに試そうとしない。

 

 

 

2003/5/25

 今日はちょいと趣向を変えて、ジンでせめてみることにした。ゲットしたのは”ボンベイ・サファイア”。澄んだブルーに魅せられちまった(ビンの色なんだけどね)。とりあえずはトニック・ウォーターで割ってジン・トニックとシャレこむ。何かとても懐かしい味だ。そういや学生の頃、学園祭でバーテンやって、バーボンやらカクテルやら出したのを思い出す。その後その手の道に進まなかったのは幸いだ。
 しかし俺が学生の頃っていやぁ、バブルのまっただ中。大学5年間がすっぽりバブルにおさまってやがる。ずいぶんとOBやら何やらにうまい酒をおごってもらったもんよ。ホント、夢みたいな数年間だったことよ。

 

2003/5/21

 一昨日、たのんどいたその本が俺のもとに届いたんだが――その「本」ってのは、つきのきまい著『廊下』(文芸社2003)のことだけど――、今日はちょいマジにその本について書いてみたい。とりあえず俺が玉砕したのは序文にあたる「僕の書くのは哀しみです」だ。今日はマジで書くから文体はちょっとすまして(ちなみにこの本を注文したい人は右をクリック)。

 ここで彼女は誰しもがもつ「大切なもの」について語っている。それは「見せられ」ず、「たびたび誤解を受けたり」するもので、「はっきりと言い当てることはできないけれど確かにある」ものだという。
 これはおそらく彼女の言う「共有できないもの」( にっきちょう5/18参照)のことであり、それは、共同体の最大公約数的な中ではその芽をつまれ、時として「確かにある」かどうかすらさえ忘却を強いられているもので、いわばそうした「お約束」を超えてしまう外部的な存在、すなわち倫理的なものだ。そしてそれは共同体をかたちづくる上では私的なもの、瑣末で個人的なものとされ、みながそう信じ込んでいるので、それを断固として優先することは共同体の利益に反すること、「道徳」に反する非人間的なこととされる。だとすればそれをもちつづけること、すなわち覚醒しつづけることはどうしても「哀しみ」をひきおこさずにはいられない。そして彼女はこれを「どうしようもないこと」として受けとめている。すなわち、「善いも悪いも 幸せも不幸せも 生も死も そのまま吸い込んで 進まなければならない」。
 しかしこの「哀しみ」をともなう他者性の手前に踏みとどまることこそが、「生」を取り戻す唯一の方法であること、「世界の根源」であることを、彼女は確かに知っている。
 われわれは、住みよい世界、あなたの利益が私の利益でもあるような世界、つまりあなたが私であるような世界の中で「生かされて」いる。私の幸せがあなたの不幸せ、私の善があなたの悪であるような世界にはとても耐えられない。いや、耐えられないなどというよりもまずそれ以前に、そんな世界をかいま見ることすら許されない。そんな世界は「野蛮」やら何やらの名のもとに、とうの昔に闇の中に塗り込められてしまい、まるで世界は明るい光に満ちているかのようだ。
 しかし彼女はそれがいつわりであることを知っている。夢を見ているのが自分ではなく、共同体の内部で生きる「われわれ」の方であることに気づいて「しまった」。しかしこの世界に便利な「超越」はない。 その「哀しみ」。「忌み嫌いながらも観察」し、「涙を流して許さなければならない」光に満ちあふれたこの世界。そのことについて、彼女は語ろうとしている。

つきのきまい著
『廊下』  文芸社 2003

 

 

 

 

 

 

 

 

 

dairy 1-5/2003

dairy 12/2002

home